検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II -

 


16.18301011日、ワルシャワ告別公演―

  16. The farewell concert by Chopin, 11th October 1830.-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ピアノ協奏曲 第1番(2台ピアノ版)▼≫
 

今回紹介するのは「ヴォイチェホフスキ書簡・第18便」で、これは現在知られている限りにおいて、ショパンが祖国の地で書いた最後の手紙でもある。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第18便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語、一部イタリア語が混在)

18301012日、ワルシャワにて

最も親愛なる者よ、

昨日の演奏会は申し分のない成功だった;僕は取り急ぎそれを君に報告する。僕は少しも心配する事なく、まるで自宅にいる時のように弾いた。会場は超満員だった。ゲルネルの交響曲で幕を開けた;それから僕がホ短調・協奏曲の最初のアレグロ(※第1楽章)を弾いた;シュトライヒャー・ピアノの上を、音符が独りでに転ろがって行くかのように思われた。続いて拍手の轟きが起こった。ソリヴァは非常に満足していた;彼は自作の合唱付きのアリアを指揮し、それをヴォウクフ嬢がとても上手に歌った。彼女はライト・ブルーのドレスを着て、妖精のように見えた。このアリアの後、僕のアダージョ(※第2楽章)とロンド(※第3楽章)が来て、それからいつもの休憩時間になった。鑑賞家と音楽愛好家たちが舞台に上って来て、僕の演奏について、最もご機嫌取りな言い方で僕にお世辞を言った。

2部は《テル》(※ウィリアム・テル。ロッシーニ作曲のオペラ、初演は1829年)の序曲で始まった。ソリヴァは見事に指揮したので、その与えた印達は深くてずっと残るものだった。このイタリア人は、僕が永遠に感謝する義務を負うほど僕に親切だった。彼はその後で、《湖上の美人》(※ロッシーニ作曲のオペラ、初演は1819年)の中のカヴァティーナを指揮し、それをグワトコフスカ嬢が歌った。彼女は白いドレスを着て、髪にバラを付け、チャーミングで美しかった。彼女は、《アグネス》のアリアの時を除けば、昨夜ほど立派に歌った事はなかった。“おお、私はあなたのためにどれほど涙を流したか、” (※イタリア語)と、“私は全てを憎む” (※イタリア語)では、低いB音まで申し分なく聞こえた。ジェリンスキは、このB音だけで一千ダカットの価値があると断言した。

僕は、婦人達をリードして舞台からおろし、国民的アリアによる僕のファンタジアを弾いた。今回は、僕は僕自身を理解していたし、オーケストラも僕を理解していて、そして聴衆は我々の両方を理解していた。マゾピア地方のアリアが終わると、大きなセンセーションが巻き起こった。僕はそれほど熱狂的に喝采されたので、感謝のお辞儀をするために4度舞台に現われねばならなかったくらいだった。それで、僕は自信に満ちて、とても優雅にお辞儀をしたよ、と言うのも、ブラントがやり方をよく教えてくれたからね。もしソリヴァが僕の楽譜を家へ持ち帰って修正し、指揮者として、僕が逃げ出したい時に僕を制止しなかったら、どんな事になっていたか分らない。彼は、僕がかつてこれほど気持ち良くオーケストラと演奏した事がなかったほど見事に我々全体を制してくれた。シュトライヒャー・ピアノは非常に好かれたが、しかしヴォウクフ嬢はもっと好かれた。

僕は荷造りの事以外には何も考えていない。土曜日か日曜日には、僕は広い世界に出て行く。

いつも君の、本当に情愛の深い

フレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、「ビアウォブウォツキ書簡」等と同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

18301012日、ワルシャワにて」

18301012日、火曜日 [ワルシャワにて]

 

まず日付についてだが、前回の「第17便」からちょうど1週間後である(※下図参照)。

 

183010

 

 

 

 

 

1

2

 

3

 

4

 

5

17便

6

7

8

9

10

 

11

演奏会

12

18便

13

14

 

15

 

16

 

17

 

18

19

 

20

 

21

22

23

24

 

25

26

27

28

29

30

31

 

 

 

 

 

 

 

 

ショパンがワルシャワからポトゥジンのヴォイチェホフスキ宛に手紙を書く場合、それは当時の郵便局の都合から必ず「火曜日」「土曜日」になると言う話は何度もしてきた。例外は、誰か人伝に手渡しで手紙を運んでもらう場合だけである。

そして今回もやはり「火曜日」になっている訳だが、これが演奏会の翌日になっているのは偶然だろうか?

前回のプロ・デビュー公演の時は317日(水曜日)と22日(月曜日)だった。しかしあの時は、いずれもその翌日には手紙を書いておらず、気持が落ち着くまで少し日を置いていだが、今回は演奏会の翌日に早速ペンを執っている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「最も親愛なる者よ、」

「我が最も親愛なる生命よ!」

 

大した問題ではないが、冒頭の挨拶が微妙に違う。

ショパンは前回の手紙で、

「これが君宛に書く最後の手紙になるだろう。」

と書いていたが、実際はこの手紙がそれに該当するものとなった。ただし、あくまでも「ワルシャワから送る」と言う意味においてであるが。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「昨日の演奏会は申し分のない成功だった;僕は取り急ぎそれを君に報告する。」

 「昨日の演奏会は成功だった――僕は取り急ぎそれを君に知らせる。」

 

細かい事だが、オピエンスキー版では「申し分のない」とは書かれていない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は少しも心配する事なく、まるで自宅にいる時のように弾いた。会場は超満員だった。ゲルネルの交響曲で幕を開けた;それから僕がホ短調・協奏曲の最初のアレグロ(※第1楽章)を弾いた;シュトライヒャー・ピアノの上を、音符が独りでに転ろがって行くかのように思われた。続いて拍手の轟きが起こった。」

「私は閣下殿にお知らせ致します、私は少しもナーバスになる事なく、まるで1人で弾いている時のままに弾き、そしてうまく行きました。会場は満員。最初はゲルネルの交響曲。それから我が高貴なる自身のホ短調アレグロで、それは正にスラスラと(弾けました);シュトライヒャー・ピアノなら、人はそうする事が出来るのです。凄まじい拍手。」

 

これも特に問題ではないが、ややニュアンスが違う。

オピエンスキー版でのショパンは、ちょっとふざけた調子で慇懃に書いている。

 

ちなみに前回の手紙に、

「僕は、ベルヴィルが以前僕に弾かせなかったあの楽器で弾くつもりだ。」

とあったが、ここに「シュトライヒャー・ピアノ」とあるのが、どうやらそれのようである。

このピアノについては第14便でも以下のように触れられていた。

ブッフホルツは彼自身の楽器 “ア・ラ・シュトライヒャー”を完成させ、彼はそれを上手に弾いており、彼のウィーンの楽器より良く出来ているのだが、そのウィーンのウィーン製のものからは程遠い。

ちなみに、「ブッフホルツ」は今までも度々書かれているワルシャワの楽器製造者だが、ここに出てくる“シュトライヒャー”とは、ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー(Johann Andreas Streicher 17611833)の事で、この人物は、ドイツ−オーストリアのピアニスト兼作曲家で、ピアノ製造者でもあった。

なので、おそらくブッフホルツが、このシュトライヒャーのピアノを真似て新しい楽器を作ったと言う話なのではないかと思われる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ソリヴァは非常に満足していた;彼は自作の合唱付きのアリアを指揮し、それをヴォウクフ嬢がとても上手に歌った。彼女はライト・ブルーのドレスを着て、妖精のように見えた。」

「ソリヴァは大喜びだった;彼は、彼の合唱付きのアリアを指揮し、それはヴォウクフ嬢によって美しく歌われ、彼女はスカイ・ブルーのドレスを着て天使のようだった。」

 

前回の手紙では、

グワトコフスカが第1部で、そしてヴォウクフが第2部で歌う事になっている。

と書かれていたので、実際の本番では当初の予定とは逆になったようだ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「このアリアの後、僕のアダージョ(※第2楽章)とロンド(※第3楽章)が来て、それからいつもの休憩時間になった。鑑賞家と音楽愛好家たちが舞台に上って来て、僕の演奏について、最もご機嫌取りな言い方で僕にお世辞を言った。

2部は《テル》(※ウィリアム・テル。ロッシーニ作曲のオペラ、初演は1829年)の序曲で始まった。ソリヴァは見事に指揮したので、その与えた印達は深くてずっと残るものだった。このイタリア人は、僕が永遠に感謝する義務を負うほど僕に親切だった。」

「このアリアの後、アダージョとロンドが来た;それから第1部と第2部の間の休憩になった。喫茶から戻って来た時、舞台裏では、僕を褒める、効果的な演奏に関する感想を僕に伝えてくれる人達が集まった。第2部は《ウィリアム・テル》の序曲で始まった。ソリヴァは上手に指揮したので、それは大きな印象を残した。本当に、今回このイタリア人は僕にとても親切にしてくれて、感謝する方法がないくらいだった。」

 

ショパンは、以前の手紙では、ソリヴァの事を人間的にも声楽科教師としてもあまり評価していないような感じだったが、それがここでは一変している。

これを見ると、ソリヴァは、どうやら指揮者としてはそれなりの才能の持ち主だったようだ。

ここでのソリヴァが、ショパンにここまで言わせるほどに「親切」だったのは、おそらく、今回の演奏会で、ショパンがソリヴァの愛弟子2人を共演者に選び、それに伴って指揮をソリヴァに任せた事への感謝の意味もあったのだろう。

 

ちなみに、前回の手紙で

「序曲には、《レシェック》のものも《ロドイスカ》のものも選ばず、《ウィリアム・テル》のものにするつもりだ。」

と書かれていたが、これに関してはその通りになっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「彼はその後で、《湖上の美人》(※ロッシーニ作曲のオペラ、初演は1819年)の中のカヴァティーナを指揮し、それをグワトコフスカ嬢が歌った。彼女は白いドレスを着て、髪にバラを付け、チャーミングで美しかった。彼女は、《アグネス》のアリアの時を除けば、昨夜ほど立派に歌った事はなかった。“おお、私はあなたのためにどれほど涙を流したか、” (※イタリア語)と、“私は全てを憎む” (※イタリア語)では、低いB音まで申し分なく聞こえた。ジェリンスキは、このB音だけで一千ダカットの価値があると断言した。」

「彼はその後で、グワトコフスカ嬢のためのアリアを指揮し、彼女は白いドレスで、頭にバラを載せ、それが彼女を可愛らしく見せた――彼女は《湖上の美人》[*ロッシーニによるオペラ。1819]の中のカヴァティーナをレチタティーヴォ付きで歌い、《アグネス》のアリアの時を除けば、これほど立派に歌った事はなかった。“おお、私はあなたのためにどれほど涙を流したか、” (※イタリア語)と、“私は全てを憎む” (※イタリア語)では、低いB音まで申し分なく聞こえた。ジェリンスキは、このB音だけで一千ダカットの価値があると断言した。」

 

細かい事だが、ここでのグワトコフスカの容姿に対する印象が両者では明らかに違う。

オピエンスキー版では、ショパンは、グワトコフスカの着飾った印象について「それが彼女を可愛らしく見せた」と書いている。つまりこれは、裏を返せば、ショパンが普段のグワトコフスカの事をさほど「可愛らしく」は思っていなかった事を示唆している。

ところがカラソフスキーは、それでは都合が悪いので、それを、あくまでもショパンがグワトコフスカの事を「チャーミングで美しかった」と感じているかのようなニュアンスに書き換えているのである。

そして更にカラソフスキーは、グワトコフスカの歌唱についての感想でも、以下の箇所を削除する事によって、彼女の事をより良く見せようと印象操作している。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「君に伝えておくべきものだが、このアリアはグワトコフスカ嬢の声に合わせて移調したもので、これが有利に働いた。」

 

つまり、グワトコフスカは原曲通りの調性では歌っていなかったのである。

おそらく、彼女の声では高すぎるか低すぎるかしたので、彼女の音域に合わせるように「移調」したのだ。

と言う事は、グワトコフスカはソプラノ歌手なのだが、今回のように客演として抜粋で歌う場合にはこのようなある意味「ごまかし」も利く訳だが、本格的にオペラに主演するとなると、その狭い音域から、自ずとやれる演目が限られてしまうと言う事である。

その証拠に、「第11便」には、グワトコフスカの演奏会に関する感想の中に、以下のような記述があった。

「彼女の音域はそれほど広くはない」

また前回の手紙にも、同様に以下のような記述があった。

「最後の幕では、ロッシーニの《マホメット》から祈祷が加えられたが、と言うよりは、葬送行進曲のあとに挿入されていて、《マグパイ(泥棒かささぎ)》のだと、高くて彼女の声に合わないからだ。」

そしてカラソフスキーは、その両方とも削除していた。

そう言えば、以前に、ドイツの著名な歌手であるゾンターク嬢がワルシャワを訪れた際に、グワトコフスカが彼女からアドバイスを受けた時、叫ぶように歌っているので、それではいずれ喉が潰れてしまうと言うような事を指摘されていた。それはおそらく、グワトコフスカが、高い声を無理に出そうと力んでそのようになっていたのだと言う事が分かる。

この、「グワトコフスカは音域が狭い」と言う事実は、彼女の歌手としての可能性なり将来性なりに、若干の疑問符を投げ掛けかねない問題ではある。

だがカラソフスキーは、ショパンにとっての「理想の人」から、そのような欠点はことごとく闇に葬り去っていたのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は、婦人達をリードして舞台からおろし、国民的アリアによる僕のファンタジアを弾いた。」

「グワトコフスカ嬢が舞台から引き下がった後、僕らは《月は沈みぬ》その他によるポプリ(※メドレー曲)を始めた。」

 

オピエンスキー版では「《月は沈みぬ》その他によるポプリ」、カラソフスキー版では国民的アリアによる僕のファンタジアとなっているが、いずれも同じ曲を指しており、これはポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13▼」の事である。

       この作品についての詳細は、私のBGM付き作品解説ブログポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13▼」で。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「今回は、僕は僕自身を理解していたし、オーケストラも僕を理解していて、そして聴衆は我々の両方を理解していた。マゾピア地方のアリアが終わると、大きなセンセーションが巻き起こった。僕はそれほど熱狂的に喝采されたので、感謝のお辞儀をするために4度舞台に現われねばならなかったくらいだった。それで、僕は自信に満ちて、とても優雅にお辞儀をしたよ、と言うのも、ブラントがやり方をよく教えてくれたからね。もしソリヴァが僕の楽譜を家へ持ち帰って修正し、指揮者として、僕が逃げ出したい時に僕を制止しなかったら、どんな事になっていたか分らない。彼は、僕がかつてこれほど気持ち良くオーケストラと演奏した事がなかったほど見事に我々全体を制してくれた。」

「今回の演奏では、僕は周囲の情況をよく理解できたし、オーケストラも分かってくれ、序奏が始まった。今回は最後のマズールで大喝采を得た。その後(普通の冗談話があって)、僕を演場に呼び出し、何回お辞儀せよとかの指示は無かったが、僕は4回もお辞儀をした。本当の事を言うと、ブラントが僕をそのように教育してくれていたのさ。もしも、ソリヴァが僕の楽譜を家に持ち帰らず、予め見ていなかったら、速度が速くて僕が倒れてしまう程の指揮であったかも知れないが、そうではなかった。昨日は、何故か知らないが、彼(ソリヴァ)が全員を巧く指導して、君に言うが、今までオーケストラとこれほど安心して共演できた事はなかったほどだった。」

 

今回のソリヴァは、なぜこれほどまでに男を上げたのだろうか?

その理由は容易に想像できる。

と言うのも、ショパンが前回行なったワルシャワでのプロ・デビュー公演では、指揮を担当していたのはクルピンスキだった。

ソリヴァはこのクルピンスキをライバル視しており、劇場付の指揮者の座を彼から奪い取ろうと目論んでいた…と以前のショパンの手紙に書かれていた。

また、デビュー公演の際には、今回と同じくポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13▼」がプログラムに選ばれていたのだが、その時は、この曲は聴衆の反応がいま一つだったのである。

であれば、今回のポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13▼」で評判を得られれば、それは、指揮者としてのソリヴァが、クルピンスキとの実力差を世間に認めさせるのに十分な材料と成り得るだろう。

つまり今回のソリヴァは、愛弟子2人が共演する事以上に、彼のそういった野心を満たすためのモチベーションが異常に高かったと言う事なのである。

 

 

ちなみに、この告別公演の評判については、カラソフスキーは伝記で次のように伝えている。

 

「この最後の音楽会は、ショパンの最も有望な、また熱誠の籠った認識を呼び起した。ワルソウの諸新聞はことごとく彼の讃辞で充たされた。ショパンを欧州の主立った名手に比較し、最も華々しい将来を予言して、ポーランドがいつかはこの偉大なピアニスト兼作曲家を当然誇ってよい時が来るだろう云々と書き立てた。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

しかしこれは、事実とは全く違っている。

ワルシャワの各新聞がそのように大々的に報じたのは、あくまでも最初のプロ・デビュー公演の2回についてだけで、今回の告別公演については、実は「ワルシャワ通信」の一紙しか記事にしておらず、しかもその内容も以下のように非常に簡素なものでしかなかった。

 

クリエル・ワルシャフスキ、一八三〇年十月十二日、ワルシャワ

昨日、音楽を愛する者たちにとってこの上なく楽しい夕べが催され、約七百人の音楽愛好家がその恩恵に浴した。ショパンが作曲し、彼自身の演奏で初演された新しい「ピアノ協奏曲 ホ短調」は、あらゆる音楽の頂点を極める作品と評価された。とくにアダージョ2楽章。出版時にラルゲットに変更)とロンド3楽章)はすべての者に歓喜とともに受け入れられた。作曲者であり演奏者であるショパンは嵐のような拍手を受け、演奏が終わるごとに呼び出された。聴衆はまた、若い歌い手のグラドコフスカとヴォルコフが歌ったアリアにも称賛の声をおくった。オーケストラはロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲をみごとに演奏した。この演奏会の幕開きは、オーケストラの一員で、これまでも数々の作品で観客を楽しませているゲルナー作曲の交響曲であった。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より

 

 

たったのこれだけなのである。

この事については、アトウッドは次のように解説している。

 

「クリエル・ワルシャフスキ紙はショパンの新しい協奏曲を「雄大な仕上がり」と評したが、演奏については一言もふれなかった。ほかの新聞も不思議と沈黙を守った。多分これは上からの圧力によるものだったのだろう。政府はショパンを政策に反対する扇動的な若者の仲間と考えていたのである。国中にわき起こる緊張で、ロシアの権力者たちに対する反動が日ごとにあからさまになっていた。ワルシャワは六月に皇帝を暖かく迎えたにもかかわらず、国民の感情は急激に政府に対立する方向に向かい始めていたのである。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社)より

 

 

おそらくそう言う事なのだろうが、しかし私の考えはちょっと違う。

なぜなら、もしも本当に圧力があったのなら、一紙も報道していないはずだからである。

したがって、「上からの圧力」があったのではなく、逆に、ポーランド側の方が敢えて自粛していたと言うのが正しいのではないだろうか? 

と言うのも、5ヶ月前のデビュー公演の時には、ワルシャワ中がショパンを祖国の誇りとして囃したて、激しい論争にまで発展していたが、それはまるで、ショパンと言う天才の出現によって、ポーランドが自国の誇りと自信を取り戻したかのようだった。

つまり、実際はショパン自身が「扇動的な若者の仲間」だったのではなく、ポーランドの国粋主義者達が、ショパンを国威発揚の象徴として祭り上げていたとも言えるのである。

もしもそれと同じ事を今回もしていたら、現在水面下で進めている革命の準備がロシア側に悟られかねないし、本当にショパンが当局のブラックリストに載ってしまい、無事にウィーンへ旅立てなくなってしまう恐れだってあるからだ。

その証拠に、ショパンがウィーンに着いてから家族宛に書いた1830121日付の手紙には、ショパンがウィーンの著名人や大使に会うために、ロシア皇帝の兄でポーランド提督のコンスタンチン大公から紹介状をもらってきていた事が書かれているのである。もしもショパンがロシア当局から目を付けられていたら、そんな事は絶対にありえないはずだ。

要するにこう言った取り計らいは、全てモリオール伯爵家やスカルジンスキ家のお陰なのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「シュトライヒャー・ピアノは非常に好かれたが、しかしヴォウクフ嬢はもっと好かれた。」

「ピアノは非常に気に入られた。ヴォウクフ嬢は更に気に入られた;演場での彼女は素敵に見えた。今後、彼女は《理髪師》(※=《セビリアの理髪師》に出演する。それは木曜日、さもなければ土曜日に予定されている。」

 

ここでは、カラソフスキーは、ショパンが「ヴォウクフ嬢」の事をグワトコフスカ以上に誉めそやしている箇所を省略している。

このように、ヴォウクフの方がグワトコフスカよりも容姿の点で優れている事は、一般の人々の目から見てもショパンの目から見ても明らかで、それに関してはこれまで通り終始一貫しているのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は荷造りの事以外には何も考えていない。土曜日か日曜日には、僕は広い世界に出て行く。」

「一方、僕は荷物作りの事以外は何も考えていない。土曜日か、あるいは水曜日クラクフ経由で出発する。」

 

この「クラクフ経由で」と言う旅程は、第15便で「クラクフの乗合馬車でウィーンへ出発する」と書かれていた頃から一貫しており、第16便でも「クラクフ経由でウィーンへ」と書かれていた。

オピエンスキー版では「水曜日」となっているものがカラソフスキー版ではなぜか「日曜日」になっているが、いずれにせよショパンはここに書いてある通りの日程では出発しておらず、結局実際の出発は112日(火曜日)」なので、これから3週間後になる。これまで何度出発が延期されたか数えていられないほどだが、これが本当に本当の最後の延期である。

 

 

以下、カラソフスキー版では削除が続く。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「昨日、知った事だが、ヴィンツェンティがクラクフまで行くかも知れない;この事をもっと詳しく知る必要がある。出来れば彼と同行したい、もしも(彼にとって)出発が遅くならないなら。」

 

この「ヴィンツェンティ」とは、「ヴィンツェント・スカルジンスキ」の事で、彼は過去に5度登場している。

1.       「第3便」 

「君は、僕に関するニュースについて、ヴィン・スカルジンスキからもたらされたもの以外は少しも聞かされなかっただろう。」

2.       「第4便」 

「そして、ヴィンツェント・スカルジンスキが、君は確かにすぐに戻って来ると僕に話して、訳もなく僕に希望を抱かせていたと言う事を、君は知らなければいけない。」

3.       「第12便」

「ヴァレリーが光輝くブリラントカットのボタンを付けた服を着て、銀行家の顔をして、街の中の通りをかっ歩しており、ヴィンツェントはいつも通り良き人であり、以前通りの良い役人として働いている。」

4.       「第15便」

「ヴァレリーはいつであってもヴァレリーだ。(彼の)隣人、コルバキン嬢(ロシア人名)が亡くなった。ヴィンツェンティは健康で、美男子だ。」

5.       「第16便」

「子供達、両親、ジヴニー氏、スカルジンスキら、いつも君がどうしているかと聞いている。」

これらの記述は全てカラソフスキー版では削除されている。唯一「第3便」だけが例外だが、そこではSkと言うイニシャルに変えられており、素性が分からなくされていた。

この中に出てくる「ヴァレリー」もまたスカルジンスキ家の人であるが、彼については「第8便」で以下のように書かれていた。

「ちょうど今、コツィオ(※コンスタンチン、つまり、ロシア皇帝ニコライ二世の兄でポーランド総督)ヴァレリー・スカルジンスキと一緒に到着していて、それと、愛婿(※フランス語)も彼らと一緒に旅している。自家用四輪馬車の車輪が滑って行き、遠方からの燃えるような色の淑女達の帽子;美しい時間だ。」

つまり、「ヴァレリー・スカルジンスキ」はコンスタンチン大公と通じている人物である。したがって、国粋主義者のカラソフスキーにとっては国賊も同然で、だから彼はスカルジンスキ家の人々をことごとく抹殺しているのである。

だが、当時の政治的な現実問題として考えれば、ショパンにとって、コンスタンチン大公と通じている人物と共に旅をする事ほど安心な事はないのである。

しかもショパンは、この「ヴィンツェンティ」の事を人間的にも高く評価しており、個人的にかなり親しくしているらしいので、尚更だろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

先日、カロルをワルシャワで見た。健康で、楽しくしていた。そして、君達がいつルブリンに集まるのかを詳しく聞き知った。そして、君達が家に帰って来てから、君からの手紙を受け取れるものと期待している。。」

 

この「カロル」とは、ヴォイチェホフスキの継兄弟であるカロル・ヴェルツの事で、今までもしばしば登場している。

ここで重要なのは、この時彼からもたらされたヴォイチェホフスキ家の動向である。

どうやら彼らは、このあと「ルブリンに集まる」予定になっているらしい。

この「ルブリン」と言うのは、ヴォイチェホフスキが所有しているポトゥジンの隣町であるが、方向的にはワルシャワ方面に位置している。したがって、ポーランドの辺境にあるポトゥジンに比べたら遥かにワルシャワに近い位置にある訳だが、そこまで来ておきながら、やはりヴォイチェホフスキは更に足を延ばしてワルシャワまで出向くもりはなく、そのままポトゥジンへ戻る予定でいるらしいのだ。

 

つまりだ、このような様子を見ても明らかなように、ここに至ってもまだ、ヴォイチェホフスキはショパンのウィーン行きに同行する事になどなっていないのが歴然としているのである。

それでは、一体いつ、彼はそれを決めるに至ったと言うのだろうか?

 

ショパンが実際に旅立つのはここから3週間後だから、まず、ヴォイチェホフスキの「ルブリン」滞在期間をそこから差し引かねばならず、仮にそれを、往復の旅程を含めて1週間だったと仮定した場合、残りはたったの2週間である。

つまりその間に、急遽ヴォイチェホフスキはショパンのウィーン行きに同行するのを決め、そしてそれを決行した事になる。

だが、今まで私が再三に渡って指摘してきた通り、そのような話は現実的に言って非常に考えにくいのである。

 

カラソフスキーの伝記の上では、ショパンとヴォイチェホフスキは「カリシュ」と言う町で落ち合った事になっている。だとすれば、彼らは前もってその手はずを手紙で確認し合っていなければならないはずである。

だが、そのような手紙は存在しない。もしも存在したのなら、ヴォイチェホフスキはなぜそれをカラソフスキーに資料地供しなかったのか?

自分がショパンと一緒にウィーンへ行った事を証明する証拠の一つとなるはずのものなのに、それを部分的にすら公表しない理由は何なのか? 全く説明がつかない。

 

たとえば、ヴォイチェホフスキのウィーン行きが事実だったと仮定した場合、一番間違いがないのは、彼が直接ワルシャワのショパン家ヘ赴き、そこからショパンと一緒に出発する事だ。

それなら、このような差し迫った時期に、いちいち両者が手紙をやり取りして合流場所やその日程を相談し合わねばならないような面倒は起きない。それなのに、なぜそうせず、わざわざ、しかも「カリシュ」などと言う不可解な位置にある町で落ち合わなければならないのか? ショパンは再三に渡って「クラクフ経由でウィーンへ」と書いているのに、ところがこの「カリシュ」は、その道程とは全く違う方向にあるからだ。したがってこれは、全くもって不自然な話なのである。

だが、この事についてはまた次章でを改めて詳述しよう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

コストゥスについて、父が言うところでは、現在セヴェーリンとキンツェレと一緒にブダ(※ブダペシュト?)での戴冠式に参加(※見物?)しているので、まだパリに行っていないが、思いはパリに帰りたい事だろうし、いや、すでに移動中かも知れない。(この手紙をここで)終わる、僕の命である君よ、ラソツキ氏が僕を待っている。すなわち、エルネマン氏のところへ僕が同行する事を希望しているのだ。その目的は、娘にピアノのレッスンをつけてもらう事だ。その後で食事だ。今、君にキスを与える」

 

コストゥス」については、結局カラソフスキー版では最後の最後まで抹殺され続けた。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#16.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「いつも君の、本当に情愛の深い

フレデリックより」

「君の最も親しき

F.ショパン」

 

署名の文句が違っている。

 

 

以下は短い追伸部分で、カラソフスキー版では削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第18便#17.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「子供達、ママ、パパ、それにジヴニー氏、皆が君に宜しくとの挨拶を伝えていて、君の健康を祈っている。」

 

この追伸部分にも「子供達」の表現があるが、やはり「ママ、パパ」が併記されている。

 

 

 

次回は、ショパンがワルシャワでの最後の日々を送っていた時期に、グワトコフスカがショパンのために書いて贈ったと言う、二つの四行詩について検証したい。

 

 [2012年4月30日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証10:そして祖国に別れを告げた

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証9-告別公演告知▲】 【筆者紹介へ▼】

Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.