検証8:第1回ウィーン紀行――

Inspection VIII: The journals of the first Viena's travel -

 


4.4便/追加公演決定の知らせ―

  4. The journals of the first Viena's travel No.4-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 演奏会用大ロンド・クラコヴィアク(2台ピアノ版)▼≫
 

今回紹介するショパンの手紙は、「ウィーン紀行・第4便」で、これは、カラソフスキーのドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表されたものである。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第4便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1829813日、木曜日

もしも皆さんと一緒だったら嬉しかったのにと、今ほどそう思う事はありません。今日、僕はリヒノフスキー伯爵と知り合いになりました。彼は、僕の事をどう褒めたら良いか分らない様子で、それほど僕の演奏を喜んでくれていました。ヴェルフェルが連れて行ってくれたのです。伯爵はべートーヴェンの親友で、あの偉大な巨匠が恩恵を受けた人です。

誰もが、僕は特にここの貴族を喜ばせたと話しています。ディートリヒシュタイン伯爵が僕に会いに舞台に上って来た事でお分り頂けるように、シュワルツェンベルグ家、ウルブナス家その他の人達が、僕の演奏をデリケートでとエレガントだと言ってすっかり心酔していました。今日お茶をご一緒したリヒノフスキー伯爵夫人と令嬢とは、僕が火曜日に2回目の演奏会を開く事になったのでたいへん楽しみにしています。彼女達は、もしも僕がパリヘ行く事になってウィーンを通った際には、必ず訪問するようにと勧めてくれました;それで、リヒノフスキー伯爵の姉妹に当るある伯爵夫人宛の手紙を、僕に渡して欲しいようです。たいへん親切な方達です。チェルニー(※カール・ツェルニー(Carl Czerny 17911857)。オーストリアのピアノ教師で、ピアニスト兼作曲家。ベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、ウィーン音楽院ではリストの師だった)はたくさんの祝辞をくれ、シュパンツィッヒ、およびギロウェッツもまた同様でした。

今日、控えの部屋で、見た事のない人が僕を眺めてから、ツェリンスキ(※マルツェリ・ツェリンスキという青年。同行した4人の友人の1人)に僕がショパンであるかどうか尋ねると、ずかずかと僕のところへ来ました。この人は、僕のようなアーティストと知り合いになるのは非常な喜びだと言い、“あなたは一昨日、私を本当に喜ばせ、魅了しました”と興奮気味に言いました。この人は、マチェヨフスキ(※イグナツィ・マチェヨフスキ。同行した4人の友人の1人で、ワルシャワ大学の西洋古典語の学生)の近くにいて、《シュミール》による僕の即興演奏にすっかり惑わされていたらしかった紳士と同じ人でした。

僕はどんな事情があっても3回目の演奏会はしないつもりです;ただし2回目だけはやります、なぜなら、みんなに強いられているからでもありますが、ワルシャワの人々が以下のように言うかもしれないと思ったからです;“彼はウィーンで演奏会を1回やっただけだ、おそらく、あまり気に入ってもらえなかったのだろう”と。今日僕は新聞の批評家の家にいました。この人は僕に好意を持ってくれているので、きっと好ましい批評をしてくれるでしょう。ヴェルフェルがどんなに親切で愉快であるかはお話し出来ません。僕は、2回目もまた報酬なしで弾くつもりで、それは親切なガレンベルク伯爵のためであり、彼の懐具合があまり芳しくないからです(でもこれは秘密ですよ)。僕はロンドと、それから即興を弾きます。

最後になりますが、僕は健康で、よく食べてよく飲んでいます。ウィーンは非常に僕を喜ばせてくれています。それに僕は、同郷の人々との交友もなかった訳ではありません;バレエ団の中に一人いて、この人は僕のデビューに色々心配してくれて、砂糖水を持って来てくれました。

どうかエルスネルに僕のニュースを全部伝えて下さい、そして、僕が彼に手紙を出さない事を許してくれるようお願いして下さい。なにしろ僕の時間は本当にふさがっていて、時間的余裕がほとんどないのです。僕はスカルベクさんに感謝したいです、あの人は、これは本当に人生におけるアーティストとしての第1歩になるから、演奏会をやるようにと真っ先に勧めくれたのです。

あなた方の、常に愛情に豊める

フレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

 

この手紙は、前回の「ウィーン紀行・第3便」の翌日の晩に書かれている。

つまり、前日に第3便を書いてから直ぐに、「火曜日に2回目の演奏会を開く事になった」ので、取り急ぎその由を知らせるために書かれたのだ。だから内容も短い。

 

ショパンが今回のウィーン旅行で書いた手紙は全部で7通あるが、この「第4便」だけ、宛先が「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているポーランド語版がない。

したがって、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているこの手紙のポーランド語版の出展は、おそらくカラソフスキーの著書がポーランド語に訳された際のものである。それは1882年の事で、ショパン家の直接の遺族として最後の生き証人だったイザベラが亡くなった翌年の事でもある。カラソフスキーは、そのポーランド語による第4版において、大幅な増補改訂や、スカルベクの『回想録』によって否定された作り話の削除などを行なっているのだが、彼がドイツ語版で公表していたショパンの手紙に関しては、その省略箇所や要約箇所を復元する等の処置は一切施していない。

その事実から、カラソフスキーがイザベラからショパンの手紙を借り受けていた時、彼は自分が伝記の中で使おうと考えていた文面しか書き写していなかったらしい事が推察される。

 

今回の「第4便」に関しては、ドイツ語版とポーランド語版とを見比べると、その表現のニュアンスが違う箇所がいくつかある。ただしそれらは、あくまでも意訳の範囲内に収めても差し支えないものばかりなので、特に目くじらを立てて問題視するような類のものでもないのだが、今回は一応指摘するだけはしておきたいと思う。

 

1回ウィーン紀行・第4便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「(リヒノフスキー伯爵はべートーヴェンの親友で、あの偉大な巨匠が恩恵を受けた人です。」

「(リヒノフスキー伯爵はべートーヴェンの最大の友人だった人と同じ人です。」

 

ドイツ語版では「恩恵」について言及されているが、ポーランド語版ではそのような事までは説明されていない。

 

 

1回ウィーン紀行・第4便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「今日、控えの部屋で、見た事のない人が僕を眺めてから、ツェリンスキに僕がショパンであるかどうか尋ねると、ずかずかと僕のところへ来ました。この人は、僕のようなアーティストと知り合いになるのは非常な喜びだと言い、“あなたは一昨日、私を本当に喜ばせ、魅了しました”と興奮気味に言いました。」

「今日、古代博物館(※ドイツ語で)で、あるドイツ人が僕を眺めてから、ツェリンスキに僕がショパンであるかどうか尋ねると、ずかずかと僕のところへ来ました。この人は、僕のようなキュンストラー(※ドイツ語でアーティスト)と知り合いになるのは非常な喜びだと言い、“あなたは一昨日、私を本当に喜ばせ、魅了しました” (※ドイツ語で)と興奮気味に言いました。」

 

カラソフスキーのドイツ語版は、全てがドイツ語に訳されているので、それを見ただけでは原文に混在していた他国の言葉を判別する事ができない。なので、こうしてポーランド語版と見比べた時に始めて、原文にドイツ語が混在していた事が分り、そしてそれに関しては、カラソフスキーは常に原文のままのドイツ語を使っている。

 

 

1回ウィーン紀行・第4便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「あなた方の、常に愛情に富める

フレデリックより」

       こちらにはこの署名がない。

 

 

この箇所だけはちょっと理解に苦しむ。

私は現在、カラソフスキーの著書のポーランド語版を入手する事ができずにいるので、これに関してはあくまでも憶測でしか書けないのだが、もしも今回の手紙のポーランド語版の典拠がカラソフスキーのポーランド語版だとすると、なぜこの箇所が省略されているのか、全く分らない。

「第2便」と「第3便」の時は、ヴォジンスキ版との比較において、「ヴォジンスキのポーランド語版」ではいずれもこのような署名部分が省略されていた。だからそれらに関しては、ヴォジンスキが手紙を書き写した際に省略したものだと判断する事ができた。なぜなら、ショパンが家族宛に書いた手紙で典拠の確かなものに関しては、このような署名がないなどと言う事は例がないし、家族書簡以外のものと照らし合わせて見ても、ショパンの手紙の書き方としては考えられないからだ。

しかし今回の手紙にはヴォジンスキ版と言うものがない。それなのに署名部分がないとなると、それをどう考えたらいいのか皆目見当がつかない。

もしもこれがカラソフスキーのポーランド語版によるものなら、カラソフスキーがその第4版を増補改訂した際に書き落としたとしか考えられない事になるのだが…。

 

 [2011年8月5日初稿 トモロー]


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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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