検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行――

Inspection VII: The letters to Wojciechowski & the journals of Berline's travel -

 


6.ヴォイチェホフスキ書簡・第2便の真実―

  6. The letter to Wojciechowski No.2-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ロンド ハ長調 作品73(2台ピアノ版)▼≫
 

今回紹介する手紙は、ショパンがベルリンからワルシャワへ帰国後、約3ヵ月経った後に、ティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てて書いたものである。

まずは、カラソフスキーによる「ヴォイチェホフスキ書簡・第2便」を読んで頂きたい。これは、彼のドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表された「ヴォイチェホフスキ書簡」の通算2通目になる。文中の[註釈]も全てカラソフスキーによるものである。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第2便/カラソフスキー・ドイツ語版)■

(※原文はポーランド語)

18281227日、土曜日、ワルシャワにて

僕の最も親愛なる友よ、

これまで僕は君に手紙を書くのが遅れてしまっていた、しかし今は友情が怠惰に打ち勝った、それで、僕は眠いのだが、君が1月の1日から4日までの間にこれを受け取れるよう、ペンを取り上げた訳だ。僕は、僕の手紙を、お世辞や、希望の言葉や、あるいは陳腐な冗談で満たしたいとは思わない、だって僕らは互いに完全に理解し合っているからね、だから僕が沈黙していたのも、この書簡体の文学作品が簡素なのも、必然なのだ。

僕のロンド・クラコヴィアクの楽譜は出来上がったよ。序奏は、僕が大きな上着[それを着ると非常に滑稽な格好になると友人が言った、非常に長い冬のオーヴァーコート]を着ているのとほとんど同じくらい変わっている。それと、三重奏曲はまだ完成していない。僕の両親は、僕のために小さな部屋をあてがってくれて、それは入り口から直接階段(※あるいは梯子)で上がれるようになっていて、中には古い書き物机があり、なので、そこを僕の仕事部屋(※書斎、隠れ家、巣、秘密の遊び場などの意味もある単語)にするつもりだ。

あの孤児、2台のクラヴィーア(※ピアノ)のためのロンドは、継父にフォンタナと言う人を見つけたよ(君もたぶんここで会う事になるだろう、大学へ通う事になったのだ);彼は一ヶ月以上かけて練習し、習得した。そして我々は、どんな具合に響くだろうかと見るために、ついこの間、ブッフホルツの所で幾度も弾いてみた。僕が「だろうか」と言ったのは、各楽器が一様に調律されていなかった上に、我々の指がこわ張っていたため、この作品の効果が十分な印象を得られなかったからだ。先週の間、僕は価値あるものを一つも作曲しなかった。僕はアナニヤからカイアファまで走った。今夕はウィンチェンゲロード夫人の所にいて、そこからキッカ嬢の音楽夜会へ行った。君は疲れている時に、即興演奏をせがまれることが、どんなに愉快だかよく知っている。僕は今、君と一緒にいた頃のような幸福な考えを持つ事は滅多にない。それから、至る所で悲惨な楽器に出くわす。メカニックといい音といい、僕のもの、あるいは君の姉妹のものに近いのは一つも見当らなかった。

ポーランド劇場は昨日開幕して、《プレチオーザ》を上演した。フランス劇場は、今日は《ラタプラン》、フレドロの《ゲルダーブ》を、明日はオーベールの《粉屋と錠前屋》を上演する事になっている。誰だったか、先日君から手紙をもらったと僕に言っていたよ。君がこんなに長い間手紙をくれないのを、僕が怒っているとは思わないでくれたまえ。僕は君をよく知っている、だから紙切れの事なんか何とも思っていないのだ。今日はこんなナンセンスな事を落書きするつもりじゃなかったんだけど、でも僕がいつでも同じフリッツで、君が僕のハートと同じ場所を占めている事を思い出してもらうために書いたのだ。君はキスされるのが好きではないが、今日は我慢しなければならない。僕らはみんな、君のお母さんが全快するよう祈っている。ジヴニーが君にくれぐれもよろしくと。

君のフレデリックより」                                                  

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

 

この手紙も、これだけを読む分には何の問題もないように感じられる。しかし細かく検証していくと、かなり辻褄の合わない所がある。

ここでもカラソフスキーは、この手紙を引用する際に、省略を施したのかどうかについての説明を一切していない。しかし、のちに公表されたオピエンスキーのポーランド語版と比べると、「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」同様、カラソフスキーは自分に都合の悪い箇所をバッサリ切り落としていた事が分かる。

 

それでは、手紙の内容を、オピエンスキーのポーランド語版と比較しながら順に検証していこう。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表した資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限り、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのを控えた。「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはショパンの直筆による資料ではないため(※直筆の手紙を確認した者は誰もいない)、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかねるからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

18281227日、土曜日、ワルシャワ」

       同じ。

       ちなみにアーサー・へドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、この「土曜日」「日曜日」と誤植されいる。原著の英訳版でも、その原本である仏訳版でもきちんと「土曜日」となっている。  

 

この日付についてだが、これが本当だとすると、この手紙が書かれたのは、いわゆる冬のクリスマス休暇の時期だと言う事になる。

夏の休暇とは違い、クリスマス休暇はさほど長くはない。まず、その辺の事を念頭に置いておいていただきたい。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕の最も親愛なる友よ、」

「最も親愛なるティトゥス。」

 

冒頭の呼びかけの文句が違う。

オピエンスキー版の方は、ショパンがいつも友人宛に書く時と同じような調子だが、カラソフスキー版の方は、もっと親密な感じを演出する言い方に置き換えられている。ショパンが手紙の冒頭で、このように名前を使わずに相手を「友」と呼びかける例は今までほとんどなかった。

「ビアウォブウォツキ書簡」においては、常に「ヤシ」等の愛称で呼びかけていたが、唯一最初の「第1便」でのみ、「僕の親友」という言い方で呼びかけており、それだけが例外である。ただしその時は、そこだけフランス語を使っていたのである。ショパンがフランス語を混在させる時、そこにはジョークの意味合いが含まれていた。なぜなら当時のポーランドの上流階級では、フランス語で手紙を書くのがお洒落な習慣とされていたからである。

だがカラソフスキーのドイツ語版では、この箇所にフランス語は用いられていない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「これまで僕は君に手紙を書くのが遅れてしまっていた、しかし今は友情が怠惰に打ち勝った、それで、僕は眠いのだが、君が1月の1日から4日までの間にこれを受け取れるよう、ペンを取り上げた訳だ。」

       ここはほぼ同じ。

       この1月の1日から4日までの間」と言う日付については、カラソフスキー版にもオピエンスキー版にもシドウ版にも何ら註釈は施されていない。が、シドウ版を英訳撰集したヘドレイ版では[ティトゥスの命名日にあたる]と註釈されている。しかしながら、ヴォイチェホフスキの誕生日については、どういう訳か公的資料が確認されておらず、いまだ明らかになっていない。誕生日が特定できない限り命名日も割り出せないため、ヘドレイが何を根拠にそう書いているのかは不明である。いずれにせよ、「ビアウォブウォツキ書簡」の時もそうだったが、この時期に書かれる手紙と言うのは、基本的に年賀状の役割を果たしているものなのである。  

 

ショパンは冒頭で「手紙を書くのが遅れてしまって」と書いているが、一体これは何を基準に「遅れて」と書いているのか? 

時期的に考えれば、本来クリスマスに届くように書かねばならなかったと言う意味になるのだろうか? おそらくショパンはそのつもりで書いていたはずである。

ところが、これを編集したカラソフスキーは、実はそうは考えていなかったのだ。

なぜなら、この手紙の最後の方で、「君がこんなに長い間手紙をくれないのを、僕が怒っている」とあるからだ。この「長い間」と言うのはポーランド語版にはない。つまりカラソフスキーがドイツ語に翻訳する際に付け加えたものだ。要するにカラソフスキーの著書中での設定では、ショパンとヴォイチェホフスキはすでにもう「長い間」音信不通で、つまりこの二人は、ワルシャワとポトゥジンとで離れ離れに暮らしている事になっているのである。

しかしそれは完全に事実とは違う。

 

それでは、ここで今一度、ティトゥス・ヴォイチェホフスキなる人物の学生時代の経歴についておさらいしておこう。

 

「ティトゥス・シルヴェステル・ヴォイチェホスキ(Tytus Sylwester Wojciechowski)は、(※中略)、フリデリック・ショパンの友人で、ショパン家の寄宿学校の生徒だった。ティトゥスはワルシャワ高等中学校に通った後、18261829年の間ワルシャワ大学の法律・行政学部で学んだ1829年には、ポトゥジン村にある母方の地所を受け継ぎ、そこに住み着いた。

(※中略)

ティトゥスは学校に通っていた頃、ショパン家に寄宿し、フレデリックより1年上の学級に通っていた。18307月、ショパンはティトゥスが住むポテゥジン村へ駅馬車を利用して訪問した事があるが、それ以降はフレデリックとは文通をするだけの関係を保った。」

ハンナ・ヴルブレフスカ、ストラウスとカタジナ・マルキェフィッチによる

『フレデリック・ショパンとコルベルク兄弟の時代―友情、仕事、ファッション、作品』(ワルシャワ 2005

Hanna Wróblewska-Straus i Katarzyna Markiewicz,

Fryderyk Chopin i bracia Kolbergowie na tle epoki. Przyjaźń. Praca. Fascynacje, oprac.』(Warszawa 2005)より

 

これを見ても分かるように、ヴォイチェホフスキは1829年」まで大学生だったのである。

と言う事は、言うまでもなく、彼はこの「第2便」が書かれた18281227日」現在もまだ学生なのだ。

最初に「第1便」が書かれた夏休みの頃には、彼は母親が病気になったために急遽サンニキのプルシャック家からポトゥジンの実家へ帰ったが、休み明けにはワルシャワへ戻って来ており、そしていつものようにショパン家の寄宿舎から大学に通うと言う生活を過ごしていたのである。

だからその間は、ヴォイチェホフスキとショパンは毎日顔を合わせていた訳だから、当然、この両者には手紙を書く機会もなければその必要もなかった。

そして、今回のクリスマス休暇を向かえるに当たって、ようやく手紙を書く機会なり必要なりが巡って来たのである。つまりそれがこの「第2便」だ。だからここには、先のベルリン旅行についての話題が全く触れられていないだろう。それはすでに、両者が日々の生活で直接会話を交わす事によって、とっくの昔に消費され尽くしていたからなのである。

 

たとえば、これが翌年の「第1回ウィーン旅行」の場合だと、そういった状況背景が一変しているので全く話が違ってくる。

ショパンは翌1829年にワルシャワ音楽院を卒業し、その夏、4人の友人達と共にウィーン旅行に出掛け、今年の「ベルリン旅行」と同様、旅先からワルシャワの家族宛に手紙を数通書き送っている。そして、ショパンはウィーンから戻るとすぐに、ヴォイチェホフスキ宛に、ウィーン旅行についての話題で埋め尽くされた手紙を送っているのである。

なぜ今年のベルリンと翌年のウィーンとでは話が違うのか?

それは、ヴォイチェホフスキもまた、ショパン同様ワルシャワ大学を出ていたので(※卒業か中退かはちょっと不明)、もうワルシャワにはいなかったからだ。さらに彼は、実家のポトゥジンの所領を相続して当地に落ち着いてしまったので、夏休みが終わってももうワルシャワへは戻って来なくなっていた。だからショパンは、ウィーンから戻って来ても、もはやその土産話を直接の会話でヴォイチェホフスキに伝える事ができなくなっていたのである。だから手紙でその話を書かねばならなかったのだ。

つまり、カラソフスキーはその辺の時代考証を完全にないがしろにして、自分の都合だけで勝手に物語の設定を作ってしまっている事がここからもはっきりと分るのである。

となれば、以下に続く文章も明らかに不自然である事が分かる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は、僕の手紙を、お世辞や、希望の言葉や、あるいは陳腐な冗談で満たしたいとは思わない、だって僕らは互いに完全に理解し合っているからね、だから僕が沈黙していたのも、この書簡体の文学作品が簡素なのも、必然なのだ。」

「僕はこのカード(※はがき)を、仰々しくて陳腐な挨拶や祝辞で満たしたいとは思わない、僕は君を知っているし、君も僕を知っている;それが僕の沈黙の唯一の理由だ。」

 

この手紙は比較的短いものだが、実は、これの原文は「手紙」ではなくて「カード」に書かれていたのである。

ポーランド語の原文では、ここは「手紙」ではなく、kartka(=カード、はがき)」と書かれているからだ。そうであれば、これはいかにもクリスマス休暇中に書かれたに相応しいものだと言えるだろう。

ところが、カラソフスキーはこれをドイツ語に翻訳する際、ポーランド語のkartka(=カード、はがき)」とドイツ語のkarte(=カード、はがき)」はほとんど同じなのにも関わらず、わざとそれをbriefe(=手紙)」に変えてしまっているのだ。

ほんの短いクリスマス休暇の間離れ離れになるだけだと言うのに、この書き方はどう考えても大袈裟すぎるだろう。

つまりこの箇所には、必要以上にこの2人の友情物語を誇張しようとしている第3者の思惑が介在していると、そのように考えられる可能性が非常に高いと言えるだろう。

そして問題は次の箇所で、カラソフスキーは「第1便」でもそうしていたように、これに続く文章をごっそり削除してしまっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「マックスが、君と君のママの健康についてのニュースをもたらしてくれたよ、彼がワルシャワに着いた翌朝にね。彼は大学に行く途中で、僕に会うために駆け込んで来て、フルビェショフ(※ウクライナとの国境近くに位置する)について非常に熱心に話していた。彼の説明のうちいくつかは称賛に値したな、たとえば、パリから戻って来た君の隣人についてとかね。僕が彼について尋ねた時、彼は厳かに、そして簡潔に答えたものさ、“(彼は)自分で床屋してる”とね。――プルシャック夫人のところで再び喜劇をやる事になったんだが、デュヴァルの『結婚の計画』で、僕にはペドロ役が与えられた。新年が明けたら、彼らは2つの結婚式に行く事になっていて、1つはクラクフから来たスカルヂンスカ嬢とルシュチェフスキ、もう1つはストゥジェニエツから来たスカルヂンスカ嬢。注意、相手は誰だか分からない最年長の人。分かってるよ、君は首を振って言う事だろう、フリッツ(※ショパンの愛称)のやつ、戯言を書きやがってとね。僕は書きとめて置いたんだが、どこかへ行ってしまって、それを手紙に書き写している時間がない。他の村から我々にもたらされたニュースは、イエンドジェイェヴィツがパリでいくつかの協会の会員になった事で、たぶん地理学関係のだ。しかし君にとって最も興味をそそるのは、哀れな僕が、レッスンをしなければならなくなった事だろう。その原因はこう言う事なんだ。(※以下、「イタリア語とポーランド語が混在し、いくつか綴りや文法に誤りがある」) マルシャルコフスカ通りにある家の女家庭教師N.が不運に見舞われた。その女家庭教師はお腹に赤ん坊を身ごもり、伯爵夫人やその家の女性は、これ以上女たらしには会いたくないと望んでいる。この話で最高なのは、最初その女たらしが僕だと思われていた事で、なぜなら僕は、サンニキに1ヵ月以上もいて、その女家庭教師といつも庭へ散歩に出かけていたからだ。しかし散歩してただけで、それ以上の事は何もない。彼女は魅惑的ではない。哀れな僕は、食欲がわかなかった。プルシャック夫人が、僕がレッスンする事についてパパとママを説得した。(※以下、「ラテン語」) 僕は僕だけの時間を失った。しかし彼らの好きなようにさせるさ。」

 

なぜカラソフスキーがこの箇所を丸々削除したのか、例によって順に見ていこう。

 

まず、「マックス」なる人物のくだりだが、この人物は初登場で、しかもここにしか出て来ないため、彼のプロフィールその他については一切不明である。ただし「大学」に通っていると言う事は、彼は主にヴォイチェホフスキ側の友人であり、書かれている内容からもそれはよく分かる。

そして、この中に出てくる「フルビェショフ(あるいはフルベシェフ)」と言う場所は、非常にヴォイチェホフスキとは縁がある。

 

「ティトゥスは、ヴォイスウァヴィツェ村で、ティシヴダル伯爵家のアロイジア・ポレティウオ(1815頃生まれ、1903年没)と結婚。彼女は、ヴォイスウァヴィツェの土地財産相続人で、ヘウム郡仲裁裁判所の裁判官で、アロイジ伯爵とステゥシェミア伯爵家のテレサ・テゥシェチェルスカとの娘であった。ティトゥスは、義父が持っていたフルビェショフ郡ポデゥホルツェ村とゴズデゥフ村の土地財産を相続した。」

ハンナ・ヴルブレフスカ、ストラウスとカタジナ・マルキェフィッチによる

『フレデリック・ショパンとコルベルク兄弟の時代―友情、仕事、ファッション、作品』(ワルシャワ 2005

Hanna Wróblewska-Straus i Katarzyna Markiewicz,

Fryderyk Chopin i bracia Kolbergowie na tle epoki. Przyjaźń. Praca. Fascynacje, oprac.』(Warszawa 2005)より

 

つまり、ヴォイチェホフスキが「未来の妻の父親」から相続する事になる土地な訳で、しかもそこはポトゥジンのすぐ近くにある。したがって、おそらくこの時すでに、ヴォイチェホフスキ家と相手方の家は、かなり懇意にしていたはずである

つまり、「マックス」と言うヴォイチェホフスキの学友は、このクリスマス休暇にそこを訪れていて、かの地でヴォイチェホフスキと会っていたと言う事であり、そしてその話をワルシャワに戻ってからショパンに「熱心」に伝えた…とそう言う事になる訳だ。

つまり、今回ショパンがヴォイチェホフスキに手紙を書こうと思い立った「真の動機」とは、実はそこにあったのである。

ショパンは、本来であれば「君と君のママの健康についてのニュース」を、「マックス」から間接的にではなく、ヴォイチェホフスキ本人から直接手紙で知らせて欲しかったのだ。それなのに、当のヴォイチェホフスキはそれをしてくれない…、その事に対してショパンは拗ねていたのである。だからショパンにしてみれば、「マックス」「フルビェショフ」でヴォイチェホフスキと会っていたと言う話が、あたかもショパンの嫉妬心を煽る自慢話のように聞こえていた…とそう言う事なのである。

つまりこの手紙は、その事に対する抗議の意味で書かれたのであり、それが言外からにじみ出ているのが如実に分かるだろう。

そして、それが分る事によって、ショパンのヴォイチェホフスキへの愛情が「ショパンの片思い」であると言う事実をも浮き彫りになってしまいかねず、読者にそのように勘ぐられると都合が悪いので、カラソフスキーはここを削除したのである。

 

次は、「プルシャック夫人」のくだり。

カラソフスキーがこの箇所を削除した理由は、すでに「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」の時に説明した通りで、ここには、その「第1便」のオピエンスキー版にも書かれていたように、ショパンがこの年の夏休みを「サンニキ」「プルシャック」のところで過ごした事について再び言及されているからだ。つまり、ここに書かれているN.」と言う「女家庭教師」「女たらし」に妊娠させられたその夏頃、ショパンは正に「サンニキに1ヵ月以上もいて、その女家庭教師といつも庭へ散歩に出かけていた」と言う話がそれである。

 

カラソフスキーは、ショパンとヴォイチェホフスキの関係が特別なものである事を強調したいがために、こういった共通の友人達の存在を極力抹消し、あくまでもショパンとヴォイチェホフスキの2人だけに友情のスポットが当たるよう、読者に対して印象操作している。だから「第1便」の時もわざわざ「サンニキ」「ストゥシジェヴォ」に改ざんし、「プルシャック」の存在を消してしまっていたのだ。なので、ここでこの箇所を残してしまうと、明らかに「第1便」と辻褄が合わなくなってしまう訳で、したがって、当然カラソフスキーはここも削除しなければならないのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕のロンド・クラコヴィアクの楽譜は出来上がったよ。序奏は、僕が大きな上着[それを着ると非常に滑稽な格好になると友人が言った、非常に長い冬のオーヴァーコート]を着ているのとほとんど同じくらい変わっている。それと、三重奏曲はまだ完成していない。」

「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアクの楽譜は出来上がったよ。序奏は独創的だ、御伽噺にでも出てきそうな滑稽極まりないコートを着た僕よりずっとね。しかし、三重奏曲はまだ完成していない。」

 

「三重奏曲」については、「第1便」でも以下のように報告されていた。

「新しい作曲については、君が出発した後に始めた未完成の三重奏曲[ト短調]以外には何もない。あの最初のアレグロは、サンニキに行く前に伴奏付きでやってみた;今度(※ベルリンから)帰ったら、残りの部分もやってみようと思っている。この三重奏曲は、ソナタや変奏曲と同じ成り行きになるように思われる。」

ところが、ベルリンから帰って約3ヶ月が過ぎ去った現在に至っても「まだ完成していない」と言う事である。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕の両親は、僕のために小さな部屋をあてがってくれて、それは入り口から直接階段(※あるいは梯子)で上がれるようになっていて、中には古い書き物机があり、なので、そこを僕の仕事部屋(※書斎、隠れ家、巣、秘密の遊び場などの意味もある単語)にするつもりだ。」

「階上に僕専用の部屋が出来て、それは納戸から階段(※あるいは梯子)で上がれるようになっている。僕はそこに古いフォルテピアノと古い書き物机を置き、僕の避難場所(※隠れ家などの意味もある単語)にする。」

 

カラソフスキー版には、「ピアノ」が置いてあるとは書かれていない。

カラソフスキーがそれを削除するとは考えにくいので、書き落としでないとすれば、これに関してはオピエンスキー版の方に加筆の疑いを感じなくもない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「あの孤児、2台のクラヴィーア(※ピアノ)のためのロンドは、継父にフォンタナと言う人を見つけたよ(君もたぶんここで会う事になるだろう、大学へ通う事になったのだ);彼は一ヶ月以上かけて練習し、習得した。」

「あの孤児、2台のパンタリオン(※ピアノ)のためのロンドは、継父にフォンタナと言う人を見つけたよ(君もたぶんここで会う事になるだろう、大学へ通う事になったのだ);彼は一ヶ月以上かけて練習し、習得した。」

 

ショパンはここで、なぜフォンタナの事を「継父」と表現しているのだろうか? それについては、私の作品解説ブログの方で説明しているので、興味のある方はそちらをご一読して頂けたら幸いにございます⇒『ロンド ハ長調 作品732台ピアノ版)▼』

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「そして我々は、どんな具合に響くだろうかと見るために、ついこの間、ブッフホルツの所で幾度も弾いてみた。僕が「だろうか」と言ったのは、各楽器が一様に調律されていなかった上に、我々の指がこわ張っていたため、この作品の効果が十分な印象を得られなかったからだ。」

「そして我々は、どんな具合に響くだろうかと見るために、ついこの間、ブッフホルツの所で幾度も弾いてみた。僕が「だろうか」と言ったのは、パンタリオンの調律がよく整っていなかったので、感情がいつも通り現れなかったからで、それら全てのディテールがいかに一つの事に重要な影響を及ぼすか、君には分かるだろう。」

 

ここは、最後の箇所が少し違う。

カラソフスキー版の方では、ピアノが調律されていなかったのと、おそらく冬で寒かったため指がかじかんでいたらしく、それでフォンタナとの二重奏がうまくいかなかったと書いてあるが、オピエンスキー版では「指」の事までは書かれていない。その代わり、あたかもヴォイチェホフスキが音楽的感性に優れているかのごときニュアンスがある。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「先週の間、僕は価値あるものを一つも作曲しなかった。」

「先週の間、僕は神のためにも人間のためにも、何も書かなかった。」

 

カラソフスキーは、分かりやすい表現で意訳している。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕はアナニヤからカイアファまで走った。今夕はウィンチェンゲロード夫人の所にいて、そこからキッカ嬢の音楽夜会へ行った。君は、君が疲れている時に即興演奏をせがまれるのがどんなに愉快だか知っている。」

「僕はアナニヤからカイアファまで飛んだ。今日はウィンチェンゲロード夫人のイヴニング・パーティに行き、そこからもう一箇所キッカ嬢の所へ行った。君は、君が眠い時に即興演奏を求められるのがどんなに快適だか知っている。ただみんなを喜ばすために!」

       「アナニヤ(Ananias ポーランド語原文ではAnasz)」は、新約聖書(使徒言行録)に出てくるイエスの弟子で、「主は恵み深い」という意味がある。嘘をついた事で神罰を受けて死んだ。

       「カイアファ、またはカヤパ(Caiaphas ポーランド語原文ではKaifasz)」は、イエス時代のユダヤの大祭司で、キリストの死刑を判決した最高法院の議長。

       「アナニヤからカイアファまで」と言うのは、オピエンスキーの註釈によるとPeter to Paulとあり、要するに「甲から乙へ」のような意味になるらしい。

ここでショパンは「愉快」とか「快適」とか言っているが、もちろんそれは皮肉である。

 

ちなみにカラソフスキーは、この手紙を紹介するに当たって、以下のような短い前置きをしている。

 

「旅行から帰るや否や、ショパンは勿論もう一度招聘の渦中に巻き込まれた。親友ティツス・ウォイシエヒョフスキイに宛てた次の手紙にあらわれるように。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

つまり、カラソフスキーの言う「招聘の渦中」とは、具体的にはこの箇所を指している訳だが、この手紙自体はショパンがベルリン旅行から帰って3ヶ月も経った後の話で、しかもこれらはみな、たかだたクリスマス休暇中の数日にあった出来事に過ぎない。

つまり、カラソフスキーの解説は完全に的外れなのだ。

ショパンもヴォイチェホフスキも、夏休みが明けてからは互いにワルシャワ音楽院とワルシャワ大学の生徒としてそれぞれが学校に通い、それ以外の時間を共に分かち合う生活をしていたのである。

しかしカラソフスキーは、ヴォイチェホフスキが夏休み中に母親の病気を見舞うためポトゥジンへ帰って以来、全くワルシャワへは戻って来ていないと言う設定の下に話しを進めてしまっている。

だから話の辻褄が合わないのである。

ショパンはこの3ヶ月間、ヴォイチェホフスキに対して沈黙し、その結果として手紙を書かなかったのではない。あくまでも、単に両者がワルシャワのショパン家の寄宿舎で共に生活していたから手紙を書く必要がなかっただけの事なのだ。

つまり、この手紙の中で強調されているショパンのヴォイチェホフスキへの友情意識は、完全に捏造されたものである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は今、君と一緒にいた頃のような幸福な考えを持つ事は滅多にない。それから、至る所で悲惨な楽器に出くわす。メカニックといい音といい、僕のもの、あるいは君の姉妹のものに近いのは一つも見当らなかった。」

「ある朝みたいに、君のパンタリオン(※ピアノ)の前に座っていた時に僕の指先に出てきたような楽想は滅多に浮ばない。どこに出かけても、たいていレシチンスキ(所にあるのと同じ)悲惨な楽器だ。君の姉妹のパンタリオンや、僕らのに近い音質のものは見た事もない。」

 

ここでもそうである。

オピエンスキー版では、ショパンは単にピアノの良し悪しについて話しているのに、カラソフスキーはそれを、ヴォイチェホフスキに対する愛情の話に摩り替えてしまっている。

 

それはそうと、ヴォイチェホフスキには「姉妹」1人いるようなのだが、しかしそれが姉なのか妹なのか、あるいは義理の姉妹なのか、その辺の情報も今日まで全く伝えられていない。おそらく、のちの戦争によって彼らの地元の役所の資料が焼失してしまったせいだと思われるが、そういう意味でも、ヴォイチェホフスキ個人やその周辺情報についてはまだまだ謎が多い。

       西洋の言葉には、日本語の「姉」、「妹」のように、一言でそれを表す単語がなく、ポーランド語もまた例外ではない。ここに出てくるヴォイチェホフスキの「姉妹」は、英語で言うところのsister(単数形)であり、著書によってはそれを「姉」と訳していたり「妹」と訳していたりしてまちまちだが、原文にはそのどちらかを特定できるような情報は一切含まれていない。

そしてどうやら、その「姉妹」は、ショパン家の姉妹達とは特に交際もしていなかったようである。ショパンの手紙からは、それをうかがわせるような記述が一つも見られないからだ。

たとえば、かつてビアウォブウォツキの姉はルドヴィカと文通していて、その事はショパンの手紙から幾度となく確認されていた。それを思うと、やはり、ショパン以外のショパン家の人々は、ヴォイチェホフスキ家の子供達とはあまり親しい関係にはなかったらしい様子が浮かび上がってくる。

しかしながら、ここで少し興味深いのは、そのヴォイチェホフスキの「姉妹」がピアノを弾いたらしいと言う事である。

ショパン家の寄宿学校は男子専用なので、もちろん女子は入れない。ショパン家の寄宿学校に入った男子生徒は、みな等しくジヴニー先生にピアノを教わる。

仮にヴォイチェホフスキの「姉妹」が姉で、彼女が家で誰かからピアノのレッスンを受けていたとすると、そのピアノ教師は幼い頃のヴォイチェホフスキにもピアノを教えていた事になるだろう。そうすると、彼はショパン家の世話になる前に、すでにピアノの腕前がそれなりだった可能性が高い事になる。

ヴォイチェホフスキ家は、子供達にかなり質の良いピアノを買い与えていたようなので、おそらく音楽に対して相当な理解があったようだ。

その点では、かつてのビアウォブウォツキの家庭環境とよく似ている言う事ができる。したがって、ビアウォブウォツキ亡き後のショパンの関心を引くに十分なものがあったと言う事にもなるだろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ポーランド劇場は昨日開幕して、《プレチオーザ》を上演した。フランス劇場は、今日は《ラタプラン》、フレドロの《ゲルダーブ》を、明日はオーベールの《粉屋と錠前屋》を上演する事になっている。」

       ほぼ同じだが、こちらには「オーベール」の名前は書かれていない。

       以下、オピエンスキーの註釈による。

1.       《プレチオーザ(プレシオーサ)》 セルバンテス(※ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(15471616)。スペインの作家で、『ドン・キホーテ』の著者)の短編を基にヴォルフ(※PA.ヴォルフ。ゲーテの弟子)が台本を書き、ウェーバーが音楽を付けた歌劇。初演は1821年。

2.       《ラタプラン》 おそらく、Pillurtzによる1831年のオペラ《der Kleine Tambour.

3.       《ゲルターブ》 アレクサンドル・フレドロ(17931876)によるポーランドの喜劇で、彼はコメディー作家としても、ゲーテのポーランド語の翻訳家としても、ワルシャワではかなり人気があった。

4.       《粉屋と錠前屋》 オーベール(※フランソワ・オベール(François Auber, 17821871)。フランスの作曲家)のオペラ《粉屋と錠前屋》(原題は《Le maçonル・メーコン=煉瓦積み職人》)。初演は1825年。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「明日は、先週の日曜日と同じように、プルシャック夫人の所で晩餐会だ。」

 

この一文も、カラソフスキー版では当然のごとく削除されている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

誰だったか、先日君から手紙をもらったと言っていたよ。」

コステュスが、君から手紙をもらったと言っていたよ。」

 

これもだ。

カラソフスキーは「第1便」同様、ショパンの同級生でヴォイチェホフスキと共通の友人である「コステュス」の名を完全に闇に葬り去り、それを「誰だったか」などと、いけしゃあしゃあと書き換えている。この箇所を先の「プルシャック夫人」のように完全に削除してしまうと、次に続く文章を導けず、話がつながらなくなってしまうからだ。

つまり、ショパンがこの時期にヴォイチェホフスキ宛に手紙を書いた真の動機とは、先ほどの「マックス」同様、ショパンがこの「コステュス」にも嫉妬したからに他ならないのである。

それは、続く以下の文章からも言外ににじみ出ている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#16.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「君がこんなに長い間手紙をくれないのを、僕が怒っているとは思わないでくれたまえ。」

「君が僕には書いてくれないので、僕が怒っているとは思わないでくれたまえ。」

 

ここでカラソフスキーは、間違いなく原文にはなかったはずの「長い間」と言う言葉を付け加えている。

これは、先述したように、カラソフスキーの設定では、ヴォイチェホフスキは夏休みが終わってもワルシャワに戻って来ておらず、あれ以来ずっとポトゥジンに帰ったままと言う事にしてしまっているためである。

しかし実際は、ヴォイチェホフスキは夏休み明けにはワルシャワに戻って来ており、そしていつものようにショパン家の寄宿舎から大学に通う生活を送っていた。だから両者は毎日顔を合わせていたのだから、手紙を書く必要などなかった。それこそがこの3ヶ月間の沈黙の正体なのだ。

だからここはオピエンスキー版の通りで、ショパンは言葉とは裏腹に、ほんの短いクリスマス休暇中だと言うのに、それでも「コステュス」には手紙を書いたのになぜ自分には書いてくれないのかと、片思いの相手に向かってそう拗ねている訳なのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#17.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は君をよく知っている、だから紙切れの事なんか何とも思っていないのだ。今日はこんなナンセンスな事を落書きするつもりじゃなかったんだけど、でも僕がいつでも同じフリッツで、君が僕のハートと同じ場所を占めている事を思い出してもらうために書いたのだ。」

「僕は君の魂を知っている、だから紙切れの事なんか重要ではないのだ。もしも僕がこのようなナンセンスな事をたくさんに書いたとしたら、それは、僕が以前と同じフリッツで、君が今まで以上に僕のハートにある事を君に思い出してもらうために過ぎないのだ。

F.ショパン」

 

オピエンスキー版では、ここで一旦手紙を書き終えて署名している。

これらの回りくどくて恩着せがましい文章も、「マックス」「コステュス」の存在が消されていると気付く事ができないが、すべて逆の心理が書かせているのである。

要するに、ヴォイチェホフスキなる人物は、このクリスマス休暇中、嫉妬深くて鬱陶しいショパンの事などすっかり忘れて「マックス」と共にフルビェショフで時を過ごし、その傍らで「コステュス」とも手紙のやり取りをしていたと、そう言う事なのだ。そしてそれこそが、「ショパンの唯一無二の親友」と言い伝えられている男の実態なのである。

ショパンからすれば、そのようなヴォイチェホフスキのキャラクターは、ショパンが彼に献呈した《お手をどうぞによる変奏曲》のオペラの主人公である“女たらしの貴族ドン・ジョヴァンニ”と、さぞかし重なって見えていた事だろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#18.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「君はキスされるのが好きではないが、今日は我慢しなければならない。」

「君はキスされるのが好きではない。今日は僕にさせてくれたまえ。」

 

この一文は、何やらショパンとヴォイチェホフスキの関係性を象徴しているかのようだ。

つまり、後の伝記作家達が一様に、ショパンの同性愛的傾向に対してヴォイチェホフスキが一歩距離を置いているかのように印象付けられているのは、こういったところに起因しているのである。

しかしだ、そういった解釈が仮に正しかったとしてもだ、そんな「唯一無二の親友」って一体どんなだと言うのだろうか? あらゆるショパン関連の作家達が、その辺の矛盾に対して少しも変だと思わないのは何故なのだろうか? 安易にカラソフスキーの虚言などに惑わされず、たとえショパンの側がヴォイチェホフスキの事をどう思っていようと、ヴォイチェホフスキの側ではショパンの事など「唯一無二の親友」とは思っていなかったのだ、とそう考えれば、全ての矛盾に一本筋が通るのではないだろうか?

ショパンは彼にキスしたい、しかし彼はショパンからキスされたくない、そんな2人がこの2年後に、たった2人きりで1ヶ月もの間外国へ旅する事になる?…それは考えただけでもゾッとする事態ではないのか?…それなのに、本当にそんな事が現実として起こり得ると言うのだろうか?

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#19.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕らはみんな、君のお母さんが全快するよう祈っている。ジヴニーが君にくれぐれもよろしくと。

君のフレデリックより」

「家の者はみんな、君のママの健康が全快するよう祈っている。兄弟、抱きしめてくれたまえ。ジヴニーが君によろしくと。」

 

 

オピエンスキー版では追伸部分になっているが、カラソフスキー版では最後まで書き終えてから署名されている。

ここでちょっと見逃してはならないのは、ショパンとジヴニー以外のショパンの家族が、ヴォイチェホフスキの母親には挨拶を送っているものの、当のヴォイチェホフスキ本人には挨拶を送っていないと言う点だ。これは、実は「第1便」の時もそうだったのである。

たとえば、ビアウォブウォツキ宛の手紙を思い出していただきたい。そこでは、ショパンの家族はたいてい「ビアウォブウォツキとその家族」に挨拶を送っていただろう。

実は、ショパン家の人々は、ヴォイチェホフスキが大学を卒業してワルシャワを離れ、ポトゥジンの所領を相続して田舎に落ち着いて以降になると、ショパンの手紙の追伸で彼に挨拶を送るようになるのだが、要するに、この頃のショパンの両親や姉妹達は、かつて彼らがビアウォブウォツキを愛していたようには、ヴォイチェホフスキの事を愛してはいなかったらしい様子が、こう言う些細な所からも読み取れるのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第2便#20.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

99日に、サンニキのプルシャックのところで、ハ長調のロンドを2台ピアノ用で試してみた(まだ出版していない)。ト短調の三重奏曲はまだ完成していない。」

 

カラソフスキー版にはないが、ポーランド語版はこれで手紙が終わっている。

さて、これは一体何だろうか?

実はこれは、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料にあった記述なのだが、奇妙な事に、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))では、この部分が以下のようになっている。

(※ここで改行)99日に、プルシャックのところで、ハ長調のロンドを2台ピアノ用に書き直した。ト短調の三重奏曲はまだ完全に仕上がっていない。

(※ここで改行)1227日。ロンド・ア・ラ・クラコヴィアクの楽譜が仕上がった。三重奏曲はまだ仕上がっていない。」

この、いかにも取って付けたようにメモ書きしたような記述は一体何なのか?

 

まず、ここにある99日」と言う日付は、「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」が書かれた日付であり、ショパンがサンニキのプルシャックのところにいた日付ではない。その第1便では、以下のように書かれていた。

「サンニキでは、ハ長調のロンドを書き直した。最後の曲だ。君は覚えているかな、2台のピアノ用の曲だよ。今日ブッフホルツの家でエルネマンと一緒にやってみたところ、かなりうまく行った。」

つまり、こうならまだ分る。

「サンニキのプルシャックのところで2台ピアノ用に書き直したハ長調のロンドを、99日に試してみた。」

これならまだ話はつながる。しかし仮にそうだとしても、なぜ、すでに3ヶ月も前に手紙で書いた事を、わざわざその詳細な日付まで覚えていて、それを再びここで繰り返さなければならないのか? 全くもって不自然である。

「三重奏曲」についてもそうだ。これは第1便では以下のように書かれていた。

「新しい作曲については、君が出発した後に始めた未完成の三重奏曲[ト短調]以外には何もない。あの最初のアレグロは、サンニキに行く前に伴奏付きでやってみた;今度(※ベルリンから)帰ったら、残りの部分もやってみようと思っている。」

そして今回の第2便で、ついさっきその「三重奏曲はまだ完成していない」と書いたばかりなのに、なぜ追伸の最後の最後にまたそれを繰り返し書き加えているのか? 「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」についても全く同様である。

これらは、本当にショパンの手紙に書かれていたものなのか?

ひょっとすると、この手紙の編集者(あるいは写しを取ったヴォイチェホフスキ)による改ざんの覚え書きがそのまま消し忘れて残っていたものなのではないのか? そう勘ぐりたくなるような、きわめて不自然な記述の羅列である。

 

 

 

さて、次に「ヴォイチェホフスキ書簡」が書かれるのは翌年の9月で、つまり、何と約9ヶ月ものブランクがある。

これは、「ビアウォブウォツキ書簡」では決してありえなかった長い空白である。

もちろん、ビアウォブウォツキの場合は離れ離れに暮らしていたからなのだが、しかし先述したように、ヴォイチェホフスキは依然大学生としてショパン家の寄宿舎にいたのだから、そんなブランクはむしろあって当然なのだ。

そして、そんな生活環境が変わるのは翌年の夏以降で、ヴォイチェホフスキが大学を出てワルシャワを去り、それで両者が離れ離れに暮らすようになってからだ。その結果、この2人の本当の意味での「文通」が始まるのである。

したがって今までの手紙は、すべてが学校の休み期間に書かれていただけであって、要するに、「第1便」が著中見舞いだったとすれば、「第2便」は年賀状であり、単にそれだけなら、かつてショパンがコルベルクやマトゥシンスキに書いていたのと大して変わりないのである。

ショパンの手紙自体が、翌年の夏休みにウィーンへ旅行してそこから家族宛に書くまで、誰に対しても1通も書かれていない。

なので、次回からは、その「第1回・ウィーン紀行」を検証していく事になる。

 

 [2011年7月6日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証8:第1回ウィーン紀行

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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