検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行――
Inspection VII: The letters to Wojciechowski & the journals of Berline's travel -
4.ベルリン紀行・第2便、メンデルスゾーンとのニアミス?――
4. The journals of Berline's
travel No.2-
※ 「歌曲・消え失せよ…」のミツキェヴィチの詩には、実は続きがあった。
今回紹介する手紙は、ショパンがベルリンに到着してから2番目に書いたものである。
まずは以下の書簡資料を読んで頂きたい。これは、カラソフスキーが彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』において初めて世に公表したものである。
■ベルリンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(ベルリン紀行・第2便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語で、一部「イタリア語」と「ドイツ語」と「フランス語」が混在) |
「1828年9月20日、ベルリンにて 僕は元気で、幸福に過ごしています、親愛なるご両親と姉妹達。まるで僕に敬意を示そうとするかのように、毎日新しい作品が上演されています。僕は最初、ジングアカデミーでオラトリオを聴きました;それから歌劇場では、《フェンルナンド・コルテッツ》、《秘密の結婚》(※イタリア語)、それとオンスローの《行商人》(※ドイツ語)を聴きました。これらの演奏はみな大いに楽しめましたが、しかしヘンデルの《聖セシリアの祝日のための頌歌(しょうか)》には、すっかり心を奪われたと認めなければなりません。これは、崇高な音楽に対する僕の理想に最も近いものです。 ティバルディ婦人(※イタリア語)(アルト歌手)と、ジングアカデミーと《行商人》で聴いたフォン・シェッツェル嬢(※ドイツ語)を除いて、最も優れた歌手達は皆不在でした。シェッツェル嬢は、オラトリオで最も僕を喜ばせてくれました。ただしこの晩は、音楽を聴くのにいつもより良いムードでいたからかもしれません。ただしそのオラトリオは、「しかし」と言えない事もなくて、おそらくその「しかし」は、パリでなら取り除かれる事でしょう。 僕はあれ以来リヒテンシュタイン氏をお訪ねしていません。彼はヤロツキ教授でさえなかなか話ができないほど、会議の準備で忙しいからです。でも、親切にも入場券を手配してくれました。それで僕は最上の席に陣取り、すべてを見て聴く事ができました、それも皇太子のごく近くです。また、スポンティーニ、ツェルター、それからフェリックス・メンデルスゾーン・パルトルディもそこにいました。でも僕は、自己紹介するのが妥当だとも思わなかったので、彼らの誰とも話しませんでした。ラジヴィウ公爵が今日来るだろうと言われていますが、それが事実なら朝食後に分るでしょう。 ジングアカデミーでは、美しいフォン・リーグニッツ公妃を見かけまして、彼女は、一種の制服を着た人と話していたのですが、その人の顔はよく見えませんでした。僕は隣の人に、あの人は国王の侍従ですかと尋ねましたら、「なに、ほら、あれはフォン・フンボルト閣下ですよ」(※ドイツ語)という返事が返ってきました。親愛なる皆さん、あなた方には、僕が小声で質問しただけだった事をどんなに感謝したか想像できるでしょう;僕はあなた方に断言しますが、侍従の制服は顔つきまで変えてしまうもので、さもなければ、僕はあの広大なチンボラソを踏破した大旅行家に気付く事ができませんでした。昨日彼は、《行商人》、これはフランス語で《聖書呼売人》と呼ばれている作品ですが、その演奏を聴きに来ていたのです。貴賓席にはカール王子がいらしてました。 一昨日、僕達は王立図書館を訪問しました。非常に大きなものですが、音楽関係はそれほど多く収められていませんでした。僕は、コチシウシュコの直筆の手紙が非常に興味深かったです。彼の伝記作家であるファルケンシュタインが、一つ一つじかに写しを取っていました。彼は、我々がポーランド人で、したがって造作なくその手紙が読めるので、ヤロツキ教授に頼んでその手紙をドイツ語に訳してもらい、手帳に書き留めていました。ファルケンシュタインは気持ちの良い青年で、ドレスデン図書館の秘書をしています。僕は他に、『ベルリン音楽新報』の編集者に会いました。僕達は紹介されると、2、3言葉を交わしました。明日は、僕の最も熱心な望みが叶えられる事でしょう。《魔弾の射手》が上演されるのです。それで我々の歌手とここの歌手とを比較できる事でしょう。僕は今日、講堂で催される大晩饗会に招待されました。漫画の数がまた増えます。 愛情を込めて、敬具 フレデリック」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
前回も書いた通り、この「ベルリン紀行」の手紙は、カラソフスキーが、当時唯一存命中だったショパンの直接の遺族であるイザベラから借り受けた書簡資料に含まれていたもので、彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で初めて世に公表され、その後手紙の原物は、1863年に勃発したワルシャワ蜂起の戦火に紛れて焼失してしまった。
したがって、これらの手紙の記述は、もはやカラソフスキーの著書の中に残されたドイツ語訳のもののみが唯一の拠り所となっていた。
このうち、前回紹介した「ベルリン紀行・第1便」には、ショパンの友人フェリックス・ヴォジンスキによる写し(?)と目されるポーランド語の別バージョンが存在したが、この第2便と次の第3便にはそれがない。
ところが、である。
このカラソフスキー版と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを比べると、その内容には若干の違いがある。そして、オピエンスキー版やシドウ版は、それぞれそのポーランド語版を翻訳しており、カラソフスキーのドイツ語版は用いていない。
これはどう言う事なのだろうか?
しかし例によって、この違いについて説明してくれている著作物は見当たらない。
なので、これはあくまでも私の憶測なのだが、実は、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料は、カラソフスキーが自著の第4版をポーランド語で改定した際のものなのではないだろうか?と言う事ぐらいしか考え付かないのである。
しかしながら、私は未だにそのポーランド語によるカラソフスキーの第4版を入手できずにいるので、現時点ではちょっと確認はできない。
カラソフスキーは、イザベラから手紙を借り受け、その写しを取ってから彼女に返却したはずである。ワルシャワ蜂起のせいで全ての手紙を写す事なく返却したそうだが、少なくとも彼が自著で紹介している手紙に関しては、ポーランド語の原文の写しが彼の手元に残されていたはずなのだ。
ただし、カラソフスキーは最初に手紙をドイツ語に訳して発表した際、その内容をかなり省略したり改ざんしたりしていたため、ポーランド語版を出す際にも、その改ざんがバレないようポーランド語の写しをそのまま掲載してなどいないはずである。
ちなみにカラソフスキーは、この手紙を引用する際、前回紹介した「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」の直後に続けて掲載しているだけで、一切何の説明も施していない。なので、手紙を省略したのかどうかについても何も触れていない。
それでは、手紙の内容を、ポーランド語版と比較しながら順に検証していこう。前回の比較検証とはまた違った側面から、カラソフスキーの捏造が見えてくるのである。
※
ポーランド語版の引用については、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料と、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』(Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC))とを照らし合わせながらその再現に努めた。
※
カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。これも「ヴォイチェホフスキ書簡」同様ショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかねるからである。
ベルリン紀行・第2便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「1828年9月20日、ベルリンにて 僕は元気で、幸福に過ごしています、親愛なるご両親と姉妹達。まるで僕に敬意を示そうとするかのように、毎日新しい作品が上演されています。」 |
「1828年9月20日、ベルリンにて 僕は元気で過ごしています。火曜日以来、まるで僕に敬意を示そうとするかのように、毎日新しい作品が上演されています。」 |
※
ちなみにアーサー・へドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、前回の第1便同様、この「火曜日」も「木曜日」と誤植されいる。原著の英訳版でも、その原本である仏訳版でもきちんと「火曜日」となっている。
ポーランド語版にある「火曜日以来」と言うのは、つまり「前回の手紙を書いた日以来」と言う事で、その第1便には、「今日は、僕にとってベルリン音楽の初体験となります」とあった(※下図参照)。
1828年 9月(ショパンのベルリン旅行スケジュール) |
||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 出発 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 到着 |
15 |
16 第1便 |
17 |
18 |
19 |
20 第2便 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 第3便 |
28 出発 |
29 |
30 |
10/1 |
2 |
3 |
4 |
また、ポーランド語版には、「親愛なるご両親と姉妹達」と言う、ショパンが家族宛に書く時の常套句がない。
ベルリン紀行・第2便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「僕は最初、ジングアカデミーでオラトリオを聴きました;それから歌劇場では、《フェンルナンド・コルテッツ》、《秘密の結婚》(※イタリア語)、それとオンスローの《行商人》(※ドイツ語)を聴きました。」 |
「さらに良い事に、ジングアカデミーでオラトリオを1曲聴き、《コルテッツ》、チマローザの《秘密の結婚》、そしてオンスローの《聖書呼売人》を聴いて楽しみました。」 |
※
「ジングアカデミー」は歌唱学校。
※
「オラトリオ」は、声楽とオーケストラによる多楽章形式の物語風宗教曲。オペラとは違い、演技や舞台演出等は用いない。
※
《フェルナンド・コルテッツ(Fernand Cortez)》はスポンティーニ(G.L.Spontini 1774−1851)のオペラで、初演は1809年。
※
ドメニコ・チマローザ(Domenico Cimarosa 1749−1801)はイタリアの作曲家で、《秘密の結婚(Il Matrimonio Segreto)》は1792年に初演された彼の代表作となったオペラ。
※
アンドレ・ジョルジュ・オンスロー、あるいはオンスロウ(Andre
George Louis Onslow 1784−1853)はフランスの作曲家で、《行商人(Der Hausirer)、あるいは聖書呼売人(Le Colporteur)》は1827年に初演された彼のオペラ。
ここでは、プログラムの内容自体は同じだが、その曲名の表記の仕方が違っている。
それにしても、このプログラムは本当なのだろうか?
私には、当時のベルリンの音楽事情を知るための資料がないので確認できないが、オペラのような大掛かりな出し物が、毎日違う演目でこんなに連続して行なわれ得るものなのだろうか?(※下図参照)
1828年 9月(ショパンのベルリン音楽鑑賞スケジュール) |
||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 オラトリ |
17 コルテツ |
18 秘密婚 |
19 行商人 |
20 第2便 |
21 魔弾射 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 奉納式 |
27 第3便 |
28 |
29 |
30 |
|
|
|
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ベルリン紀行・第2便#3. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「これらの演奏はみな大いに楽しめましたが、しかしヘンデルの《聖セシリアの祝日のための頌歌(しょうか)》には、すっかり心を奪われたと認めなければなりません。これは、崇高な音楽に対する僕の理想に最も近いものです。」 |
※ ここも内容はほぼ同じだが、曲名の表記の仕方が違っており、こちらでは単に《聖セシリア》となっている。 |
※
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg
Friedrich Händel 1685−1759)は、ドイツ出身でイギリスに帰化した作曲家。《聖セシリアの祝日のための頌歌(しょうか)》は1739年の作で、J.ドライデンの詞による全12曲からなるオラトリオ。
ベルリン紀行・第2便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「ティバルディ婦人(アルト歌手)(※彼女の名はイタリア語で表記)と、ジングアカデミーと《行商人》(※ドイツ語)で聴いたフォン・シェッツェル嬢(※こちらはドイツ語で表記)を除いて、最も優れた歌手達は皆不在でした。シェッツェル嬢は、オラトリオで最も僕を喜ばせてくれました。ただしこの晩は、音楽を聴くのにいつもより良いムードでいたからかもしれません。ただしそのオラトリオは、「しかし」と言えない事もなくて、おそらくその「しかし」は、パリでなら取り除かれる事でしょう。」 |
※ ここも内容はほぼ同じだが、こちらでは、「ティバルディ婦人」と「シェッツェル嬢」をイタリア語とドイツ語で書き分けてはいない。また、こちらでは「シェッツェル嬢」が「17歳」であると書かれている。 |
※
シドウ版の註釈では、「ポーリーン・フォン・シェッツェル(Pauline
von Schätzel)は、当時非常に有名だったベルリンのソプラノ歌手」とある。
ベルリン紀行・第2便#5. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「僕はあれ以来リヒテンシュタイン氏をお訪ねしていません。彼はヤロツキ教授でさえなかなか話ができないほど、会議の準備で忙しいからです。でも、親切にも入場券を手配してくれました。それで僕は最上の席に陣取り、すべてを見て聴く事ができました、それも皇太子のごく近くです。」 |
※ ここはほぼ同じ。 |
ショパンがベルリンへ行く直前に書いた「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」には、こうあった。
「ヤロツキの友人であり、また先生でもあるリヒテンシュタインが会議の秘書を勤める:彼はジングアカデミーの会員であり、ディレクターのツェルター氏とは親しく付き合っている。僕が確かな筋から聞いたところでは、僕はリヒテンシュタインを通じて、プロシアの首都にいるあらゆる立派な音楽家と知り合いになる機会を持つだろうと、ただ、スポンティーニは、氏とは仲が良くないので除くそうだ。」
ところが実際は、肝心のリヒテンシュタインは忙しくてろくに会えず、その代わり「入場券」だけは手配してくれているのだが、結局、ショパンはたった一人で劇場巡りをしている…。
…となると、これに続く以下の記述は、どう考えてもおかしいのではないだろうか?
ベルリン紀行・第2便#6. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「また、スポンティーニ、ツェルター、それからフェリックス・メンデルスゾーン・パルトルディもそこにいました。でも僕は、自己紹介するのが妥当だとも思わなかったので、彼らの誰とも話しませんでした。」 |
「スポンティーニ、ツェルター、メンデルスゾーンを見ました、でも僕は自己紹介する勇気がなかったので、彼らの誰とも話しませんでした。」 |
さて、今回の手紙で最も注目したいのはこの箇所である。
言うまでもなく、当時と言うのは、テレビはおろか写真すらもないのだから、たとえそれがどんな有名人だろうと、本人同士が以前に直接会った事がなければ、初対面でその人が誰であるかなど分かりようがない。つまり、この時ショパンは彼らとは初邂逅だったのだから、誰かが教えてくれるか紹介してくれるかしない限り、それが彼らだと分かるはずがないと言う事なのである。
それなのに、ショパンはなぜ、たった一人で訪れた外国の劇場内で、何の説明もなしに、いきなり彼らが「そこにいました」、あるいは「見ました」などとあっさり書いてしまえるのか?
この手紙の記述から、ショパンが一人で劇場に出掛けていた事は明らかである。仮にヤロツキ教授が同行していたのだとしても、彼は単なる動物学者なのだから外国の音楽関係者達と面識があるはずもなく、逆にもしもあるのなら最初からリヒテンシュタインのコネなど要らない事になる。
そして、ここベルリンでは、誰もショパンの事など知らない。
つまり、誰かがショパンに、「ショパンさん、あれが有名な音楽家達ですよ」と、親切にも耳打ちしてくれる人など一人もいないという事だ。
それなのになぜショパンは、顔を知らないはずの彼らが「そこにいました」、あるいは「見ました」などと書けるのか? 名札でも下げていたとでも言うのだろうか? それとも、彼らそっくりに描かれた肖像画をどこかで見ていたとでも言うのだろうか? 3人とも? どれもありえない話で、もしもありえるのなら手紙でそう説明するはずである。
要するに、この箇所はおそらくカラソフスキーによる捏造で、彼は、ショパンの内向性と謙虚さとをこれで演出して見せているつもりなのだろう。
要するに、この箇所はおそらくカラソフスキーによる捏造である可能性が考えられ、彼は、ショパンの内向性と謙虚さとをこれで演出して見せているつもりなのではないだろうか?と言う事なのである。
それに、この時点でこのような歴史的ニアミスがあったと書けば、ドイツ語圏の読者の興味も引き、同時に「我が作曲家」に対する親近感も増してくれるだろうと言う計算も働く。
だが私の考えでは、実際にはこのようなニアミスなどなく、したがって、実際には手紙にこんな事は書かれていなかったはずである。
たとえば現在の我々は、テレビや新聞雑誌、インターネットの画像などによって、実際に会った事がなくても有名人の顔は知っている。だからどこかでその人を見かければ、たとえそれが初対面でもその人だと分かる。それで、その事を電話やメールで、「誰某がそこにいました。でも僕は、自己紹介するのが妥当だとも思わなかったので…」と家族に報告したとしても、別に不自然な事は何もないだろう。
だが、まだ写真すらなかった1828年当時のショパンがそんな風に書いていたら、やっぱり変だろう。
要するに、この箇所は明らかに、そういった後世の人間が、後世の時代の感覚で書いてしまっている文章であり、つまり、時代考証を怠った贋作者の文章と言う事なのだ。したがって、これはショパン本人の文章ではない可能性が窮めて高いと、私はそのように考えている。
※
「写真」と言うものについてちょっと触れておくと、カメラ及び写真の発明自体は1839年で、つまり若きショパンがベルリンを旅していたのはそれよりもまだ11年も前の事である。一方、カラソフスキーがショパン伝の執筆を始めたのが1862年で、その頃には写真というものが一般的になりつつあった。それはショパンが没してから13年後であり、かつてショパンも晩年に2枚ほど撮影していた。したがって、「有名人」と言うものに対する予備知識的な感覚が、カラソフスキーが伝記を執筆していた1862年頃と、ショパンがベルリンを旅していた1828年頃とでは、それこそ雲泥の差があると言う事だ。
つまり、カラソフスキーは、自分の時代の感覚で、当時のショパンにものを言わせてしまっていると、そう言う事なのである。
カラソフスキーはこのようにして、近い将来ショパンが、カラソフスキーによって「捏造された初恋の相手」に対しても、同じように内向的な態度を取るよう、ここで下ごしらえしてもいる事にもなる。
ベルリン紀行・第2便#7. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「ラジヴィウ公爵が今日来るだろうと言われていますが、それが事実なら朝食後に分るでしょう。」 |
「ラジヴィウ公爵は今日到着する予定で、僕は朝食後に捜しに行くつもりです。」 |
多少ニュアンスは違うが、言ってる事は同じである。
この手紙の日付は「20日」で、前回の第1便でも「ラジヴィウ公爵は今月の20日に到着すると予想されています」と書かれていたので、これはその「予想」に従って書かれている事が分かる。しかしながら、その結果については、次回の手紙で一切触れられていないのである。その謎については次回に改めて考察したい。
ベルリン紀行・第2便#8. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「ジングアカデミーでは、美しいフォン・リーグニッツ公妃を見かけまして、彼女は、一種の制服を着た人と話していたのですが、その人の顔はよく見えませんでした。僕は隣の人に、あの人は国王の侍従ですかと尋ねましたら、「なに、ほら、あれはフォン・フンボルト閣下ですよ」(※ドイツ語)という返事が返ってきました。親愛なる皆さん、あなた方には、僕が小声で質問しただけだった事をどんなに感謝したか想像できるでしょう;僕はあなた方に断言しますが、侍従の制服は顔つきまで変えてしまうもので、さもなければ、僕はあの広大なチンボラソを踏破した大旅行家に気付く事ができませんでした。」 |
※ ここも内容はほぼ同じ |
※
「チンボラソ(Chimborazo)」は、エクアドル中部アンデス山脈の火山。標高6267m。
この箇所を、先の「メンデルスゾーン」達のくだりと比べてみよう。
ここでショパンが「美しいフォン・リーグニッツ公妃を見かけまして」と書いているのは、彼女が明らかに一般人とは違う階級の人物だからで、それは着ている衣装からも一目瞭然だし、周りにいる取り巻きの態度や接し方を見ても、初対面とか関係なしにそれが何者かぐらい誰にでも分かる。
さらにショパンは、「隣の人」に話しかけて「フンボルト男爵閣下」をも確認している。
前回の第1便には、「僕達が到着したその日に、ヤロツキ教授は僕をリヒテンシュタインさんの所へ連れて行き、そこでフンボルト氏に会いました」とあったので、すでに両者は面識がある。ところが、この時は「制服」を着ていたせいで誰だか分からなかったので、ショパンは「隣の人」に尋ねたのである。
しかし、一方の「メンデルスゾーン」達に関してはどうだろうか? そのような人物確認のプロセスが一切書かれていないのである。彼らは単なる芸術家なので、「リーグニッツ公妃」や「フンボルト男爵閣下」らとは違い、見た目だけでその素性が分かるなどと言う事はない。したがって、ショパンがなぜ、それが彼らだと知るに至ったのか、その理由は必ず説明されなければならず、あのように、あっさり「そこにいました」とか「見ました」だけで済まされる話では当然ありえない。
ベルリン紀行・第2便#9. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「昨日彼は、《行商人》(※ドイツ語《Der Hausirer》)、これはフランス語で《聖書呼売人(le Colporter)》と呼ばれている作品ですが、その演奏を聴きに来ていたのです。」 |
「昨日彼は、《聖書呼売人》(※フランス語《Colporter》のポーランド語表記で《Kolporter》)、これはこちらでは《行商人》(※ドイツ語《Hausirer》)、我々の言葉では《Kramarz》と呼ぶべき作品ですが、その演奏を聴きに来ていたのです。」 |
ややこしい変更だが、ここも変だ。
ポーランド語版には、「我々の言葉では《Kramarz》と呼ぶべき」とあるが、ドイツ語版にはそれがない。
もしもショパン直筆のポーランド語原文にそう書いてあったのなら、あの国粋主義者のカラソフスキーが、ドイツ語版に翻訳する際にそれを削除するだろうか?
ベルリン紀行・第2便#10. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「貴賓席にはカール王子がいらしてました。」 |
※ 同じ。 |
これも説明不要で、「リーグニッツ公妃」同様、いやそれ以上に、見ただけでそれと分かる人物である。
ベルリン紀行・第2便#11. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「一昨日、僕達は王立図書館を訪問しました。非常に大きなものですが、音楽関係はそれほど多く収められていませんでした。僕は、コチシウシュコの直筆の手紙が非常に興味深かったです。彼の伝記作家であるファルケンシュタインが、一つ一つじかに写しを取っていました。彼は、我々がポーランド人で、したがって造作なくその手紙が読めるので、ヤロツキ教授に頼んでその手紙をドイツ語に訳してもらい、手帳に書き留めていました。ファルケンシュタインは気持ちの良い青年で、ドレスデン図書館の秘書をしています。」 |
※ ここも内容はほぼ同じだが、こちらでは、「コチシウシュコ」の事を「我々の英雄」と形容している。 |
※
コンスタンチン・カール・ファルケンシュタイン(Constantin(Konstantin) Karl Falkenstein 1801−1855)。
·
ジュネーブとウィーンで学び、ゾロトゥルン・イエズス会の大学で教育を受けた。
·
1821年、若きフランツ・フォン・ルビエンスキ伯爵の家庭教師としてワルシャワに渡る。
·
1824年、サクソンのデトレフ・フォン・アインジーデル内大臣の子供たちの家庭教師になる。
·
1825年にドレスデン王立図書館、1835年に評議員図書館長の秘書を勤める。
·
1839年にライプツィヒ大学で哲学の博士号を授かる。
·
1852年、彼は精神を患って退職させられ、1855年1月18日にピルナで亡くなった。
※
歴史関連の著作をいくつも残しており、『タデウシュ・コシチウシュコ(Thaddäus Kosciuszko)』はその2作目で、1827年にライプツィヒから初版が、1834年に第2版が出版されている。いずれもドイツ語である。
この箇所も何か変だ。
ファルケンシュタインの経歴を見ると、彼は1821〜1824年の3年間、ワルシャワで家庭教師をしていたのである。したがって、その時点でファルケンシュタインは、当然ポーランド語に堪能だったはずなのだ。そうでなければ、ポーランド語で書かれたコシチウシュコ関連の資料を読み解いて伝記など書けるはずがない。つまり、こんな所でヤロツキ教授に頼まなくとも、彼は自分で「コシチウシュコの直筆の手紙」をドイツ語に訳す事など造作ないのである。
その証拠に、実際、私はこのファルケンシュタインの著した『タデウシュ・コシチウシュコ(Thaddaus Kosciuszko)』を入手して確認してみたが、そこにはコシチウシュコが書いた書簡資料が多数収録されており、ポーランド語で書かれたものはもちろん全てドイツ語に訳されていた(ちなみに、フランス語で書かれたものはそのままフランス語で掲載されている)。私が入手したのは初版本の復刻版で、つまり、著者が1828年にヤロツキ教授らと会う前年に出版されたものであり、これは、ファルケンシュタインがその時すでにポーランド語に堪能であった事を証明するものである。
となると、この箇所は例によってカラソフスキーの捏造なのだろうか?
逆に、仮にこれが事実だとしても、それはそれではやり変なのである。
と言うのも、ショパンとファルケンシュタインの邂逅があまりにもあっさりし過ぎているからだ。
なぜなら、カラソフスキーの歴史観によれば、かつてショパンの父ニコラは、「コシチウシュコの反乱」で大尉として戦った事になっているからだ。
そしてファルケンシュタインは、1821〜1824年の3年間ワルシャワにいたのだから、神童と名高いフレデリック・ショパンの事はこの時すでに知っていたはずである。
つまり、その両者が偶然にもベルリンの地で会ったのであれば、その邂逅はもっと違うニュアンスを帯びていなければならないのではないだろうか?
かたやコシチウシュコの伝記作家と、かたや「コシチウシュコの反乱」を戦った男の息子なのである。
これについても、私はファルケンシュタインの『タデウシュ・コシチウシュコ(Thaddäus Kosciuszko)』で確認してみたが、やはり、そこに「ニコラ・ショパン大尉」の事など書かれてはいなかった。その本では、1794年に起きた「コシチウシュコの反乱」にもっとも多くのページが割かれており、その時期の書簡資料等も一番多く収録されている。
私は、本稿でニコラ・ショパンについて検証した際、彼が「コシチウシュコの反乱」に参加したと言う歴史的事実を証明する資料が存在しないため、学術的なポーランドの歴史書では、その戦争においてニコラ大尉の名前などどこにも列挙されていないと書いた。しかし、その当事者達がまだ存命中に書かれたファルケンシュタインの伝記ですら、それは同じ事だったのである。
つまり、仮に今回の手紙に書かれている記述が事実なら、やはりニコラの「コシチウシュコの反乱」参加は、カラソフスキーの捏造だった事を裏付けているとも言い得るのではないだろうか。
いずれにせよ、この箇所の記述を全てありのまま受け入れるには、あまりにも奇妙な点が多過ぎるのである。
それはさて置き、「ショパンの手紙」と言うのは、ポーランド語版の方がドイツ語版よりも後から出て来た訳なのだが、見て分かるように、そのポーランド語版では、先ほど《聖書呼売人》を「我々の言葉では《Kramarz》と呼ぶべき」と書いていたり、ここでもコシチウシュコを「我々の英雄」と書いていたり、やたらとショパンの愛国心が強調されている。
ショパンの愛国心を強調するためなら、原文にないものでさえ捏造して付け加えるのがカラソフスキーと言う人物なのだ。そんな彼が、「我々の英雄」などと言う、こんなにありがたいショパンのお言葉を省く訳がないだろう。
つまりこれらは、ポーランド語版が公表される際に、誰かが、あるいはカラソフスキーがその第4版で、ポーランドの読者向けに後から書き加えた可能性が非常に高いと思われるのである。
ベルリン紀行・第2便#12. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「僕は他に、『ベルリン音楽新報』の編集者に会いました。僕達は紹介されると、2、3言葉を交わしました。」 |
※ ここはほぼ同じ。 |
ここの記述を見れば、前出の「メンデルスゾーン」達のくだりがいかに不自然かがよく分かるだろう。
ここでは、ショパンは「ヤロツキ教授」と一緒にいて、その上できちんと、「僕達は」その「編集者」に「紹介され」ており、そして「2、3言葉を交わし」ているのである。
初対面同士が邂逅する時、たとえそれが一方通行で会話を交わさずに終わろうとも、必ずこのような「流れ」なり「手順」なりがなくてはおかしいのだ。それもなしに、一方がもう一方を識別する事など、あの時代においては絶対にありえない。
ベルリン紀行・第2便#13. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「明日は、僕の最も熱心な望みが叶えられる事でしょう。《魔弾の射手》が上演されるのです。それで我々の歌手とここの歌手とを比較できる事でしょう。」 |
※ ここはほぼ同じ。 |
さて、《魔弾の射手》と言えば、[1826年6月]付の「ビアウォブウォツキ書簡・第10便」で、
「2、3週間後に《魔弾の射手》が上演されると言う話題でざわめき立っている。想像する限りでは、《魔弾の射手》はワルシャワで騒ぎを起こすだろう。何度も上演されるのは間違いないし、当然そうなるだろう。とにかく、我々の歌劇団がかの有名なウェーバーの作品をうまく演じられるかにかかっている。」
と書かれていた。
そしてそれから約2年後、「1828年9月9日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」で、
「ズィリニスキはオペラを指揮している;昨日の《魔弾の射手》はひどい出来だったと言われている。コーラス隊はリズムがずれていた。パパが言うには、外国では、僕はうぬぼれた意見を失くすだろうと;僕は1ヶ月のうちには、それについて君に話そう;今月の終わりには、僕はベルリンを発つだろう。」
つまり、「我々の歌劇団」は、ワルシャワでの初演から2年以上が過ぎても「かの有名なウェーバーの作品をうまく演じられ」ていなかった訳だが、ニコラは、ショパンがそのように高い見識を持つ一方で、その意識の中に息子の「うぬぼれ」を敏感に感じ取り、外国で本場の演奏を聴けばそのような態度も改まるだろうと、それゆえ今回、「ヤロツキ」に頼んでショパンをベルリンへ行かせた。
そして、その外国の《魔弾の射手》を、ついに「明日」観る事になる訳だが、ショパンがそれを観てどのような感想を抱いたかについては、残念ながら現在のところ何の文献も残されていない。普通なら、次回紹介する「ベルリン紀行・第3便」の中で報告されていてしかるべきなのだが、それについては何故か一言も触れられていないのである。
この謎についても、次回改めて考察したいと思う。
ベルリン紀行・第2便#14. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ポーランド語版 |
「僕は今日、講堂で催される大晩饗会に招待されました。漫画の数がまた増えます。 愛情を込めて、敬具 フレデリック」 |
※ ここはほぼ同じ。 |
前回も書いたが、この第2便でも、どちらの版にも、例の追伸の挨拶がない。
一般の読者にとっては全く意味のないものだし、掲載紙の紙面上の制約もあっただろうから、おそらくカラソフスキーによって削除されたのは間違いないだろう。
[2011年6月15日初稿 トモロー]
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