検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行――

Inspection VII: The letters to Wojciechowski & the journals of Berline's travel -

 


2.ヴォイチェホフスキ書簡・第1便の真実―

  2. The truth of the letter to Wojciechowski No.1-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 コントルダンス 変ト長調 遺作▼≫
 

本稿の主な目的は、「知られざるショパンの贋作書簡」を暴く事にある。

私の解釈では、一連の「ヴォイチェホフスキ書簡」と言うのは、

1.       ワルシャワ時代からパリ時代初期にかけての20通に関しては、元々存在していたショパン直筆の原物を基にして、その資料提供者であるヴォイチェホフスキと、それを編集したカラソフスキーとの結託によって改ざんされたものであり、

2.       最晩年の2通に関しては、最初からそのようなショパンの手紙など存在せず、一字一句が全てカラソフスキーによる捏造である。

カラソフスキーは、最初の20通については、その改ざんされた「写し」に対して、省略、要約、意訳を加えつつドイツ語に翻訳して雑誌に連載し、一方、オピエンスキーは、その「写し」を省略なしにポーランド語のまま雑誌で公表した。ただし、その際にオピエンスキーもまた、独自にさらなる加筆改ざんを施しているのである。

 

したがって、これから紹介していく一連の「ヴォイチェホフスキ書簡」は、基本的にカラソフスキー版の文章を検証していく形で議論を進めて行きたいと思う。もちろん、のちに公表されたオピエンスキー版との違いについても、その都度指摘していくつもりである。

まずは、カラソフスキー版による「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」を読んで頂きたい。これは、彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で一番初めに紹介されている手紙でもある。文中の[註釈]も全てカラソフスキーによるものである。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第1便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

「ワルシャワ 182899

親愛なるティトゥス!

君と君のママの消息を、どんなに僕が待ち焦がれていたか、君には信じられないだろう、また、君の手紙を受け取った時、どんなに僕が嬉しかったかも想像できないだろう。僕はあれからストゥシジェヴォ村でこの夏をずっと過ごしていたんだけど、ワルシャワに帰る仕度で忙しかったから、すぐに返事が書けなかったんだ。今は狂ったようになって書いている。と言うのも、実際どうなっているのか自分でもよく分からないからだ。僕はいよいよ、今日ベルリンへ出発しようとしているのだ! 国王が、ヨーロッパの最も著名な博物学者を招待するよう大学に要請したので、ベルリンで学術上の会議――スイスやバヴァリアで行なわれた例に倣って――が開催される事になった。ヤロツキ教授が動物学者として、またベルリン大学卒の博士として招待されたんだ。議長は有名なアレクサンダー・フォン・フンボルトだ。何か素晴らしい事が予想され、スポンティーニが《コルテッツ》をやる事が報告されている。

ヤロツキの友人であり、また先生でもあるリヒテンシュタインが会議の秘書を勤める:彼はジング・アカデミーの会員であり、ディレクターのツェルター氏とは親しく付き合っている。僕が確かな筋から聞いたところでは、僕はリヒテンシュタインを通じて、プロシアの首都にいるあらゆる立派な音楽家と知り合いになる機会を持つだろうと、ただ、スポンティーニは、氏とは仲が良くないので除くそうだ。

僕は、プロシア人のラジヴィウ公にお会いするのをとても楽しみにしている。公はスポンティーニの友人だ。ヤロツキと一緒に2週間だけ滞在する予定だが、これが僕に、素晴らしいオペラを完璧な演奏で聴く機会を与えてくれる事だろう、それなら骨を折って行く価値もあると言うものだ。

ストゥシジェヴォでは、ハ長調のロンド[フォンタナがまとめた遺作集で、作品73として出版された](君も覚えているだろうが、僕の最近の作だ)を2台のピアノ用に作り直した。今日ブッフホルツ[ワルシャワの楽器製造者]の家でエルネマン[音楽の名手]と一緒にやってみたところ、かなりうまく行った。僕らはいつか“リソース”で演奏する事を考えている。新しい作曲については、君が出発した後に始めた未完成の三重奏曲[ト短調]以外には何もない。あの最初のアレグロはすでに伴奏付きでやってみた。

この三重奏曲は、ソナタや変奏曲と同じ成り行きになるように思われる。両方ともすでにウィーンに送ってある;僕は前者をエルスネルに捧げた、弟子としてね;後者については――たぶん少し差し出がましいかもしれないが――君の名前を書き添えておいた。僕の愛情から衝動に駆られてした事だから、君は僕の動機を誤解しないだろうと確信している。スカルベクはまだ戻って来ない。イエンドジェイェヴィツ[ユゼフ・カラサンティ・イエンドジェイェヴィツ。ショパンの将来の義兄。1803年に生れ、1853年にワルシャワで亡くなった]はもうしばらくパリに滞在するだろう。彼は当地でピアニストのソヴィンスキー[パリに住んでいた作曲家で、ピアニストで、文士だった]に紹介され、その人はワルシャワに来る前に、僕と文通で交際したいと言って寄こした。フェティスの『音楽評論(レヴュー・ミュジカル)』の編集助手をしている人なので、ポーランドの音楽事情について報告したり、ポーランドの一流の作曲家や芸術家の伝記を送ってあげれば喜ぶだろう――でも僕は、そう言うのに関わり合いになるのは少しも本意ではない、それで僕は、彼の求めている事は僕の不得手とする事なので、有能で分別ある批評を必要とするパリの雑誌に寄稿するには僕は適任とは思えないと、ベルリンからそう返事を出すつもりでいる。

僕はこの月の終りには、5日間の馬車の旅を経て、ベルリンに到着するだろう。

ここでは何もかも以前のままだ;素晴らしきジヴニーは、僕らの仲間全体のハートであり、ソウルだ。

僕はこの辺で終わりにしなければならない。と言うのは、荷物がとうに荷造りされていて、乗合馬車に送られているからだ。

僕は君のママの手と足にキスする。僕の両親と姉妹達は、彼女の健康の回復を誠心誠意願っていると、そうよろしく伝えてくれたまえ。

僕を不欄に思って、すぐに手紙をくれたまえ、簡素でもいいから。一行でも尊重するよ。

君のフレデリック。                                       」                                                  

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

 

カラソフスキーは、この手紙を紹介するに当たって、「我々はいまこの旅行に関係ある次の手紙にて、彼自身に語らせよう」と前置きしているだけで、手紙の引用に関する凡例については一切言及していない。

1.       たとえばカラソフスキーは、182981日」付の「家族書簡」を紹介する時には、「次の手紙は、ショパンがその都から出した手紙の文字通り写しである――」と書いて、ここでは手紙を省略なしに引用しているらしき事を前置きしている。

2.       また、182988日」付の「家族書簡」の時にも、「我々は彼の家族に送った次の手紙を、省略なしに転載して置く――」と、ここでははっきりとそう前置きしている。

3.       しかし、それ以外で前置きしている例は、18281227日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡」の時の、「旅行から帰るや否や、ショパンは勿論もう一度招聘の渦中に巻き込まれた。親友ティツス・ウォイシエヒョフスキイに宛てた次の手紙にあらわれるように」と、1829912日」付および1829103日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡」の時の、「私は彼のウィーン経験談を完結するために、彼のわけても大切な友人だったティツス・ウォイシエヒョフスキイに宛てた二通の手紙を掲げよう」だけである。このような書き方では、手紙を省略したのかしていないのかが全く分からない。

4.       そして、18291020日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡」の時になって、ようやく、「友人ティツス・ウォイシエヒョフスキイに送った手紙――氏は極めて親切にもその写しを自分に提供してくれた――を通して、我々は彼が次の数年をどんな風に送ったかを、ショパン自身より聞くのである。最も親しい友人がこの天稟の芸術家の手紙の一宇一句を、神聖な記念物のように大切に保存して置いたことは、我々にとって非常な仕合せである」と言う典拠説明をし、ここでは手紙を省略なしに引用しているらしき事を書いている。

以上、モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

上記に列挙した以外の手紙では、カラソフスキーは一切前置きなしに手紙を掲載しているだけである。必然的に、カラソフスキーが特に断りを入れていない手紙に関しては、おそらく省略が施されていると考えて差し支えなさそうだと、そのように察せられてしまう事になる。実際、今回の手紙もかなり省略されていて、その事は、後に公表されたオピエンスキー版との比較によって確認されている。

カラソフスキーの編集が信用できないのは、このように、彼がその事をきちんと説明していないと言う事なのだ。

そもそもカラソフスキーは、原文がポーランド語であったものをわざわざドイツ語に翻訳して雑誌に連載しているのだが、仮にそのような作業工程上の大義名分がなかったとしても、連載する雑誌の紙面の都合上、意訳はもとより、多少の省略や要約は仕方なかったのかもしれない。しかしそれならそれで、逐一その省略箇所にはきちんと註釈を入れるべきだろう。しかも、一方では、「省略なし」の手紙についてはその由を説明しているのに、なぜ「省略した」方については何も説明しないのか?

       たとえば、ヘドレイがシドウの仏訳版から英訳選集を編集した時、彼は手紙に省略を施す際には、その箇所に逐一註釈を入れていた。しかし、その癖ヘドレイは、自分の意に沿わない箇所に関しては、平気でその註釈を放棄し、省略の事実を読者に知らせずに手紙を掲載しているのである。

       その点、ヘドレイが原本に用いたシドウ版は、一応手紙を一切の省略なしに全文掲載している。ただしシドウの場合、自分の意に沿わないと、その手紙そのものを収録リストから外すと言うやり方で検閲を行なっている。いずれの場合も、これではカラソフスキーの編集態度を批判できないのではないだろうか。

 

こうして見ると、ソウタンの編集した『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』が、いかに信用できる仕事をしていたかと言う事かがよく分かる。これは、単に扱った手紙の量が違うからと言う次元の話ではないだろう。

 

 

それでは、手紙の内容を、オピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#1.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「ワルシャワ 182899

親愛なるティトゥス!

君と君のママの消息を、どんなに僕が待ち焦がれていたか、君には信じられないだろう、また、君の手紙を受け取った時、どんなに僕が嬉しかったかも想像できないだろう。僕はあれからストゥシジェヴォ村でこの夏をずっと過ごしていたんだけど、ワルシャワに帰る仕度で忙しかったから、すぐに返事が書けなかったんだ。」

「ワルシャワ 182899

親愛なるティトゥス!

君と君のママの消息を、どんなに僕が待ち焦がれていたか、君には信じられないだろう、また、君の手紙を受け取った時、どんなに僕が嬉しかったかも想像できないだろう。僕はサンニキ村のプルシャックの所で受け取った;この夏をずっとそこで過ごしたんだ。僕の滞在については書かないよ、君自身もあそこにいたんだからね。僕らは毎日家に出発するのを期待していたから、すぐに返事が書けなかったんだ。」

 

冒頭の「また、君の手紙を受け取った時、どんなに僕が嬉しかったかも想像できないだろう」と言う記述から、ショパンがヴォイチェホフスキから手紙をもらうのが、これが初めての事だったと言うニュアンスがうかがえる。

この箇所における、オピエンスキー版との大きな違いは、カラソフスキー版で「ストゥシジェヴォ村」となっているのが、オピエンスキー版では「サンニキ村のプルシャックの所」となっている点だ。

この「ストゥシジェヴォ(Strzyżewo)」と言うのは、モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)で「ストジィゼウォ」と表記されていた地名で、1826年のライネルツ訪問の帰り道に立ち寄った場所の一つとして、以下のように書かれていた。

 

「演奏会後数日を経て、フレデリックと家族の者はライネルツを去った。彼の名づけ親のスカルベック伯の妹に当る、フォン・ウィエシオロフスカ夫人の領地の一部であったストジィゼウォ村で、夏の残りを送った。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

オピエンスキー版の全文を見渡すと、どうも「サンニキ村」の方が正しいらしい雰囲気がある。すると、なぜカラソフスキーは、それをわざわざ「ストゥシジェヴォ村」に変えたのだろうか?

しかしその意図は明らかである。言うまでもなく、「ショパンとヴォイチェホフスキの関係が特別なものである」と言う事を強調するためだ。

さて、それでは、どうしてそのために「サンニキ」「ストゥシジェヴォ」に変える必要があったののだろうか?

ここで重要なのは、この「第1便」が書かれるに至った経緯である。

オピエンスキー版から分かる事は、

1.       この夏の最初の頃は、ヴォイチェホフスキもショパンと一緒にプルシャックの家にいたらしいと言う事で、

2.       そしてそこへ、ヴォイチェホフスキの実家から彼の母親の病気を知らせる連絡が届き、

3.       急遽ヴォイチェホフスキはポトゥジンへ帰り、

4.       そこから折り返し、心配するショパンのために「ママの消息」を知らせる手紙を送って来た…、ただしその手紙は、ショパンがもうワルシャワに帰っているだろうと思ってワルシャワに出されていたが、ショパンがまだ休暇先にいたのでそちらへ転送され、ショパンは当地で手紙を受け取った。

…と言う流れで、ショパンは帰宅後に、その手紙の返事として今回の「第1便」を書いた…と言う事が容易に推測される。

 

しかしながら、一方のカラソフスキー版では、カラソフスキーによって施された省略と要約のために、そのような経緯が一切分からなくなってしまっている。

 

要は、カラソフスキーはここで、「プルシャック」の存在を消したかったのである。

       このプルシャックとは、本稿の『検証651828年春、そしてビアウォブウォツキもいなくなった』で紹介した、昨年1827年夏のコヴァレヴォからの家族書簡の中で初登場した人物である。その際、オピエンスキーの註釈には[コンスタンチン・プルシャック、ショパンの同級生]と書かれていた。

なぜなら、サンニキはプルシャック家の所領で、プルシャックはショパンの同級生なのだから、その彼の家にショパンとヴォイチェホフスキが一緒にいたところで、それは単に三者が共通の学友として一緒に休暇を過ごしていたに過ぎず、それでは、ショパンとヴォイチェホフスキの特別な関係性と言うものが浮かび上がってこないからだ。カラソフスキーは、あくまでもヴォイチェホフスキをその他大勢の友人達とは切り離したかったのである。

プルシャックだけではない。オピエンスキー版にはこのあと、彼以外にもコストゥスその他、ショパンとヴォイチェホフスキにとっての共通の友人達が、それこそもううんざりするほどたくさん出てくる。しかしカラソフスキーは、それらの名前を一切合財根こそぎ抹殺してしまっている。そうする事によって、カラソフスキーは、ショパンとヴォイチェホフスキの2人だけにスポットが当たるよう、読者に対して印象操作しているのである。

 

そこで問題なのは、なぜカラソフスキーがわざわざそんな印象操作をしたかだ。

 

たとえば、ショパンにとって本当にヴォイチェホフスキが唯一無二の存在なら、カラソフスキーがわざわざそんな回りくどい事をする必要などどこにもないはずである。たとえば「ビアウォブウォツキ書簡」がそうだったように、手紙をありのまま引用すれば、それは読んだ誰の目にも明らかな事実として映るのだから、それで済む話であるはずだ。

しかし、そうでなかったとしたら? 実際にショパンが書いた直筆の「ヴォイチェホフスキ書簡」の内容が、もっと「コルベルク書簡」や「本物のマトゥシンスキ書簡」に近いものだったとしたら? 当然カラソフスキーは不満を覚えるだろう。なぜなら、そもそも「本物のショパンの手紙」と言うのは、ただでさえ一般の読者の興味の対象となる内容に乏しいからである。

この先カラソフスキーがショパンの手紙を改ざんしつつ様々なエピソードをでっち上げるためには、ショパンにとってヴォイチェホフスキが、そのようなエピソードを打ち明けるに相応しい相手でなければならなかったからである。

すなわち、この「第1便」において、このような印象操作が必要な時点で、その友情には、明らかに何らかの疑問符が付いていたのではないかと想像せざるを得ないのである。

そしてそれは、ショパンの側にではなく、むしろヴォイチェホフスキの側にこそ、隠された嘘があったはずで、だからカラソフスキーとヴォイチェホフスキは、互いの利害関係を補完するために、結託して書簡資料の改ざんを図らなければならなかったのではないだろうか。

互いの利害とは何か? カラソフスキーの側では、自分のショパン伝をもっとスキャンダラスで劇的なものにするために、そしてヴォイチェホフスキの側では、自分こそがショパンにとって唯一無二の存在であると吹聴する事で、政治家としてのキャリアを有利に運ぶためである。そのために、ショパンとヴォイチェホフスキとの友情物語は、もっと誇張される必要があったのだ。

また、それだけではない。その一方で、この2人が同性愛者だと誤解されないよう工夫する必要もあったのではないだろうか。カラソフスキーのショパン伝が純粋にポーランド語によるポーランド人向けのものだったら、おそらくそのような危惧はなかったのかもしれないが、しかしカラソフスキーは基本的にドイツ語圏の読者を対象にしていたのだから、一部の東欧的な風習や文化はそう言った読者にはなかなか理解されないだろう。実際、カラソフスキーがそのためにわざわざショパンにノーマルな初恋の相手まででっち上げてやったと言うのに、案の定、それでもショパンの同性愛疑惑は持ち上がってしまった。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#2.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「今は狂ったようになって書いている。と言うのも、実際どうなっているのか自分でもよく分からないからだ。僕はいよいよ、今日ベルリンへ出発しようとしているのだ!」

「今は狂ったようになって書いている。と言うのも、実際どうなっているのか自分でもよく分からないからだ。僕はいよいよ、今日ベルリンへ出発しようとしているのだ;スポンティーニのオペラを聴くためだよ;僕は、僕の体力を試すために、駅馬車(乗合馬車)で行くつもりだ。」

 

カラソフスキーがこの箇所で行なった省略も明らかに意図的なもので、実はこれは、リストが著した世界初のショパン伝への対抗意識のなせる業なのである。

カラソフスキーは、リストの記述に対して、以下のように反論していた。

 

「ショパンの虚弱な、疲れ切った健康を述べ立てるのが大抵の著作家の常習となった。最も甚だしい誇張が、この点で流布されている。そして殆どいつもそうであるように、事実よりは誇張の方が信用されている。ゲーテは「真理は簡単であればそれだけ信じられない」と云っているが真実である。

ショパンに就ては、彼が極く若い時から、いつなんどき死の原因となるか分らぬような不治の疾患に悩んでいたと云われている。リストがほんの十五か十六歳の少年の頃既に非常な病身だったと書いた理由はここにあるかも知れない。ショパンに関する記事の中で、彼はこう云っている。

「…………ショパンはむしろ中世紀の詩歌がキリストの殿堂を飾ったあの観念の創造物の一つで、ある、オリンパスの若き神のように清浄なまたたわやかた身体と婦人のような顔と、その上に柔和なまた厳格な気品の高い、それに人を感激させる表情とを兼ね備えた美しい天使に似ていた。

「彼は毎日死が近づくという考えに自己を慣らせ、またこうした気持があるがために、或る友人の行き届いた注意を聴き容れた。けれどもこの友人に彼が地上に生き長らえるのも束の間に過ぎないことを隠していた。彼は偉大な肉体上の勇気をもっていた。仮に青年の雄々しい無関心をもって、終焉に近づいて行くとの観念を承認しなかったとしても、少なくとも一種の苦い快楽を以てその予期を育てていたに違いない。」

こうした説はこの時代のショパンには適用されない。何故かとなら、事実と一致しないからである。ショパンは「美しい天使」のようにも、「婦人」らしくも、「オリンパスから降りて来た若い神様」らしくも見えなかった。同様に毎日「死の時が近づく」とも思っていなかった。反対に青年の歓喜が溶み亙っている彼の快活な手紙は、フレデリックが他の同年輩の者と同様な健康をもっていたことを表明している。旅に出れば見る価値のあるものはことごとく見た一週間内に二度の演奏会を催した。幾度か人を訪問した。劇場の長い演奏にも出席した。その上に長い手紙を沢山に認めた。ショパンが虚弱な体質をもっていたのは否定し得ない。けれども達者で、馬車に乗って旅行をする疲労に堪えられるだけ強壮であった。

彼がパリ生活の刺激がもたらした病患に脅かされたのは、その後一〇年を経てからのことであった。もしフレデリックが病身であったなら、両親はたった一人の、可愛い息子が外国へ旅行するのを許したであろうか。この若い芸術家が危険な疾病に冒されていたなら、両親は二年間の留守を承諾したであろうか。早死の原因となった病が進んだために、往に彼の体力が非常に疲労するようになったのは、最後の二年間に過ぎなかった。

ショパンの遊び仲間でまた学友だったウィルヘル・フォン・コルベルクはショパンが成人になるまでにたった一度病気になっただけだと断言した。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社 1952年)より

 

 

これを見ても分かるように、この議論に関してはリストの方が正しい。確かに「不治の疾患に悩んでいた」と言うのは言い過ぎにしても、ショパンは妹のエミリアを同じ病気で亡くしているのだから、自分もまた「いつなんどき」死ぬか分からぬくらいの漠然とした不安が心のどこかにあったとしても不思議ではないだろう。それに、リストも書いているように、ショパンが「ほんの十五か十六歳の少年の頃既に非常な病身だった」のは事実だからである。つまり、「事実と一致しない」のはカラソフスキーの方なのだ。

実際ショパンは、1824年の夏にシャファルニャから家族へ宛てた手紙で、「肝臓の痛みはもうすっかり回復しました」と書いており、「錠剤が27日でなくなります」とも報告している。この手紙の内容から、当時「十五」歳だったショパンが「肝臓」を患って「痩せ」、その転地療養のためにシャファルニャを訪れていた事が明らかとなっている。

カラソフスキーはイザベラからこの「家族書簡」を資料提供されていなかった。だからその事実を知らない。その上彼はイザベラに対してろくに取材もしていないため、このようなプライベートな話を、肉親でもない「コルベルク」を持ち出してきて、「ショパンが成人になるまでにたった一度病気になっただけだ」などと言う誤った情報で「断言」してしまえるのである。

 

カラソフスキーが彼のショパン伝を発表する以前においては、リストの書いたショパン伝が世界中でベストセラーになっていた。つまり、当時の世間の一般の人々は、その本によって得られる知識や情報から、ショパンの人物像と言うものをイメージしていたのである。

カラソフスキーは、そのリストのショパン伝がとにかく気に入らないらしく、これ以外の箇所でもリストの記述を執拗に否定している。確かに、今見るとリストのショパン伝には誤述が多い。また、逆に正しい場合でも、ポーランドの国粋主義者から見れば許しがたいだろうと思われる記述も散見される。

この箇所におけるカラソフスキーの省略は、彼がリストに反論するために、ショパンの病弱を極力隠蔽したいと考えていた事を如実に物語っているものだと言えよう。

 

さて、それでは、なぜ「駅馬車(乗合馬車)」だと「僕の体力を試す」事になるのか?

たとえば、ショパンが今までしてきた旅行と言うのは、ほとんど、いずれも友人知人である貴族や士族などの金持ちから招待されて、彼らの用意した自家用馬車に乗って優雅に移動していたのである。それは言うなれば、「ファーストクラスの旅」だった訳だ。ところが、「駅馬車(乗合馬車)」と言うのは、一般の不特定多数の乗客のために用意された馬車なので、言わば「エコノミークラスの旅」と言う事になり、その快適さには雲泥の差がある。

つまり、短い区間ならまだしも、それで外国まで旅行するとなると、それだけでかなりの「体力」を消耗する事になるのである。

したがって、当時のショパンは、「馬車に乗って旅行をする疲労に堪えられるだけ強壮であった」かどうか「僕の体力を試す」必要があるほどに虚弱だったのだ。だからショパンはこのあとも、オピエンスキー版では「もしも病気になったら、特別便で家に帰るつもりだ」と書いているのに、カラソフスキーはそれも削除してしまっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#3.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「国王が、ヨーロッパの最も著名な博物学者を招待するよう大学に要請したので、ベルリンで学術上の会議――スイスやバヴァリアで行なわれた例に倣って――が開催される事になった。ヤロツキ教授が動物学者として、またベルリン大学卒の博士として招待されたんだ。議長は有名なアレクサンダー・フォン・フンボルトだ。何か素晴らしい事が予想され、スポンティーニが《コルテッツ》をやる事が報告されている。」

「この旅行の原因は、ヨーロッパ中の大学の猿共にある。スイスの諸州やミュンヘン会議を真似て、プロシア王が、彼の大学の地位向上を図るために、有名なフンボルトを総裁にして、ヨーロッパの代表的な学者達を自然科学の学会に招待するよう大学に命じたのだ。ベルリン大学の出身で、ベルリン大学の学位を持つヤロツキが動物学者として招待された。ベルリンでは、博物学者達のために一時的な滞在場所として200室が取られている;会食とか色々するのだろう、もちろんドイツ風にアレンジしてね;同様に、招待状も上質のベラム紙(※子羊の皮から作る)に印刷されていて、非常に重要だ;そして、スポンティー二は《コルテッツ》か《オリンピア》をやってくれる事になっている。」

        スポンティーニ(GLSpontini 17741851)。彼のオペラは当時大流行しており、《フェルナンド・コルテッツ(Fernand Cortez)》の初演は1809年;《オリンピア(Olimpia)》は1819年。

       「フンボルト」は、シドウ版の註釈によると、「アレキサンドル・ドゥ・フンボルト(Alexandre de Humboldt 17691859)。ドイツの偉大な博物学者(動物学者、植物学者、自然主義者)。」とある。

       「ヤロツキ」は、シドウ版の註釈によると、「フェリックス=パウル・ヤロツキ(Félix-Paul Jarocki 17901864)。ワルシャワ大学の動物学教授。」とある。

 

この箇所は、カラソフスキー版では約半分の量に要約されている。

おまけにスポンティーニの演目まで半分に減らされているが、しかしこれについては、単純にカラソフスキーが《オリンピア》を省略したと言い切れるだろうか? なぜなら、オペラのような大掛かりなプログラムが二者択一なんて事が、普通考えられるだろうか?と思うからだ。

それに、実際にショパンがベルリンで観るのは《コルテッツ》の方で、その事は、この後のベルリンからの「家族書簡」で報告されているが、もう一方の《オリンピア》については一切言及されていないのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#4.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「ヤロツキの友人であり、また先生でもあるリヒテンシュタインが会議の秘書を勤める:彼はジング・アカデミーの会員であり、ディレクターのツェルター氏とは親しく付き合っている。僕が確かな筋から聞いたところでは、僕はリヒテンシュタインを通じて、プロシアの首都にいるあらゆる立派な音楽家と知り合いになる機会を持つだろうと、ただ、スポンティーニは、氏とは仲が良くないので除くそうだ。」

「ヤロツキの友人であり、また先生でもあるリヒテンシュタインと言う人が会議の秘書を勤める。彼はウェーバーの親友で、ジング・アカデミーの会員であり、エルネマンによると、ディレクターのツェルターとは親しく付き合っているらしい。僕がベルリンの良き友人から聞いたところでは、僕はリヒテンシュタインを通じて、ベルリンにいる最も重要な音楽家達と知り合いになる機会を持つだろうと、ただ、スポンティーニは、氏とは仲が良くないので除くそうだ。」

       カール・フリードリヒ・ツェルター(Carl Friedrich Zelter 17581832)。ドイツの作曲家、指揮者で、音楽教師でもあった。メンデルスゾーンは彼に作曲を師事した。「ジング・アカデミー(Singakademie)」とは「歌唱学校」の事。

 

ここでは、こまごました事が微妙に異なっている。

一番の相違点は、「ウェーバーの親友で」と言う情報の有無であるが、ただ、どうも私がオピエンスキー版の記述を素直に信じる気になれないのは、どう言う訳かショパンが、いちいち他国の他人の情報について、あまりにも詳し過ぎるような気がするからだ。つまり、オピエンスキーによる「入れ知恵的な加筆改ざん」とでも言うべきニュアンスが感じられなくもなく、それは、オピエンスキー版の全20通について言える事なのである。

一見、ショパンが外国の音楽事情にも精通しているかのように見えるが、しかしそのような事をいちいちヴォイチェホフスキ宛に書き連ねるほど、彼自身は他国の芸術家に対して関心を抱いていたのだろうか?

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#5.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「僕は、プロシア人のラジヴィウ公にお会いするのをとても楽しみにしている。公はスポンティーニの友人だ。ヤロツキと一緒に2週間だけ滞在する予定だが、これが僕に、素晴らしいオペラを完璧な演奏で聴く機会を与えてくれる事だろう、それなら骨を折って行く価値もあると言うものだ。」

「僕は、ポズナニでラジヴィウに会うのを楽しみにしている(疑いなくそうなるように思う);彼はスポンティー二の友人だ。ヤロツキと一緒に2週間だけ滞在する予定だ;しかし、たとえ1回でも第1級のオペラを聴くのは良い事だ;素晴らしいテクニックから着想を得られる。」

       「ラジヴィウ」は、シドウ版の註釈によると、「アントン・ラジヴィウ公は、ポズナニ地方の領主。偉大なアマチュアの作曲家兼チェロ奏者でもある。ゲーテの『ファウスト』に誘発され、最初にミュージカル化した。ラジヴィウがショパンの教育費を援助したと言うのは事実ではない。幾人かの伝記作家が間違って主張している。」とある。

 

カラソフスキーは最初の方で、「僕は、僕の体力を試すために、駅馬車(乗合馬車)で行くつもりだ」を削除したが、それをここで、「骨を折って行く」と言う表現に変更してはめ込んでいる。

それにしても、オピエンスキー版では、ほとんどの場合で敬称が使われていないのが少し気になる。「ビアウォブウォツキ書簡」ではあまりそのような事はなかったので、仮にこれがショパンの原文通りなのだとしたら、ショパンをこのようにさせているのはヴォイチェホフスキだと言う事になり、つまり、ヴォイチェホフスキと言う人物は、友人同士の間では、ひょっとすると多少口が悪いタイプである可能性があり、ショパンがそんな彼に迎合していると言うか、影響されている可能性が示唆され得るからだ。

 

 

次の箇所は、そっくりそのままカラソフスキー版にはない。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#6.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

 

「アルノルト、メンデルソン(Mendelson[原文のまま]※正しくは「メンデルスゾーン=Mendelssohn)、そしてハンケは当地のピアニストだ;最後のはフンメルの弟子だ。僕が戻ったら、僕が何を見たか君に話そう;しかし今は、君の要望に従い、ワルシャワのニュースを書こう。最初に:コリイ氏とトゥーサン夫人が23週間前に《理髪師》に出演した。たまたま、僕がサンニキからワルシャワに来て23日した頃で、ちょうどコステュスと一緒だった。僕は、それがイタリア語で演じられるのを見るのを、非常に切望していたんだ(第1幕しかやらなかったが);僕は一日中喜びで手をこすっていたよ。しかしその夜、もしもそれがトゥーサ(ン夫人)のためのものでなかったら、僕はコリイを殺してやりたいところだった。彼はそれほどアルレチノ(Arlechino[原文のまま]=Arlecchino、イタリア語で道化師」)のイタリア野郎で、調子っぱずれで非常に不愉快だった。退場する時、彼がでんぐり返しをやっと言えばそれで十分だろう。想像してみてくれ、コリイが短いズボンをはいて、ギターを抱え、丸い白い帽子を被って床の上にいる姿を、おお、恐ろしい! 《理髪師》は悪評を招く出来だった。この誹謗の中にあって、ズダノヴィツの歌は最高だった。新しいオペラのテレマコス(Telemachus)があったのか、あるいはやる事になっていたのか。僕はそれを見なかった;リハーサルをやったと言うのは知っているが、僕はそれを見なかったので、君に話す事はできない。君はまだオセロを見ていなかったと思う;そして君はポルコフスキを称賛していたが、あのオペラでは彼が最高だよ。マイヤー夫人はいつも通りに歌っていた。ツィムメルマン夫人はすでに演じていて、明らかに勉強し始めと言った風だった。しかし芝居の話はこれくらいにしよう;今度は大学についてだ。オボルスキは、君が出発した後、僕をびっくりさせた:――彼は、僕らみんながコルプス・ドミニの合唱曲のリハーサルのために集められた部屋に飛び込んで来て、そしてどちらかと言うと乱暴な態度で僕に言うんだ、君が夜に出発しなければならなかったのなら、君が僕にしたように、君は彼にさよならを言いたかったはずだと;――オボルスキはバーデンにいるらしい。それで、ゴンシエが僕に言うには;僕は昨日、彼と一緒に、ヴォラの景色を見るために教会のルーテル塔の上にいた。ゴンシエはクラカウ(クラクフ)にいて、その事について色々話していた;彼は旅行中に盗賊に遭った;彼はその冒険談を悲しそうに話すよ。今日、僕はオブニスキに会った;彼は元気そうで、君がどこにいて、いつ戻って来るのかと色々訊ねていた;君にメッセージを送ってくれと頼まれた。プルシャックは、木曜日に僕を連れて帰って、日曜日にグダンスク[ダンツィヒ]に出発するために、土曜日に再び家に帰って行った。プルシャックさんはその前日に出発した。コステュスと僕は君の宿舎にいたんだが、ピアノは試さなかったよ。鍵がどこにあるのか、コステュスが知らなかったからだ;外見上は、ピアノは別に違いがあるようには思えかった;全く健康そうだったよ。君の物については、それらが移動したかどうかとか、その他、コステュスから聞くだろう、彼は間違いなく君に手紙を書くから。」

 

なぜカラソフスキーはこの箇所をごっそり削除してしまったのか?

順に考えていこう。

 

まずは、以下の記述。

「アルノルト、メンデルソン(Mendelson[原文のまま]※正しくは「メンデルスゾーン=Mendelssohn)、そしてハンケは当地のピアニストだ;最後のはフンメルの弟子だ。」

これについては2つの可能性を考えたい。それは、

1.       この記述が、本当にショパンの原文にあったと仮定した場合

2.       この記述は、本当はショパンの原文にはなかったと仮定した場合

この記述が本当にショパンの原文にあったのなら、カラソフスキーはこれを削除した事になる。となると、その意図は何なのだろうか?

考えられるのは、ドイツ語圏の読者に不快感を与えないための配慮である。つまり、ショパンがメンデルスゾーンの名前を正しく知らなかったのを公にしたくなかったと言う配慮だ。ところが、ショパンはこのあと、ベルリンに到着してから家族宛に書いた手紙では、メンデルスゾーンの名前とその綴りを正しく書いているのである(※この事はカラソフスキーのドイツ語版原文で確認できる)。これについても、実際のショパンの原文がそうなっていたのか、それともカラソフスキーが直したのか、それは永遠に分からない。仮にカラソフスキーが直したのなら、この「ヴォイチェホフスキ書簡」でも同様に直してしまえばそれで済むのだから、それならわざわざ削除する必要もない事になる。

とどのつまり、この記述が本当にショパンの原文にあったのなら、なぜカラソフスキーがこれを削除したのか、その意図が分からない。

 

そうすると、もう一つの可能性に目を向けたくなる。

つまり、この記述が本当はショパンの原文になかったと言う可能性である。

さて、そうすると今度は、この記述が本当はショパンの原文になかったのなら、オピエンスキーがこれを加筆した事になる。となると、その意図は何なのだろうか?

オピエンスキーの場合は、ポーランドの読者のためにポーランド語原文で公表しているため、ドイツ語圏の読者に配慮する必要はない。

私が感じるのは、これも先ほどの「ウェーバーの親友で」云々と同様、どう言う訳か、ショパンがいちいち他国の他人の情報についてあまりにも詳し過ぎる気がするのである。つまり、オピエンスキーによる「入れ知恵的な加筆改ざん」とでも言うべきニュアンスが感じられなくもないという事なのだ。

たとえば、メンデルスゾーンの正しい綴りを知らないと言うのは、のちにショパンがシューマンの綴りを間違えて書いたと言う「実際のエピソード」を連想させる。

       ショパンはシューマンから《クライスレリアーナ》を献呈されたお返しに、《バラード 第2番》をシューマンに献呈したのだが、その際ショパンは、「Schumann」の綴りを「Schuhmannと言う風に書いていたのである。もちろんシューマンは、自分がショパンに贈った楽譜にはきちんと「Schumann」と書いていたにも関わらずである。

こう言った事が、一部の心無いポーランドの国粋主義者達に、ショパンが同時代の他国の芸術家達を認めていなかったかのごとく吹聴する格好のネタを与えてしまっていた訳である。その結果、チェルニツカのような人間が「ポトツカ贋作書簡」を捏造し、ショパンを装ってリスト、シューマン、メンデルスゾーンらをこき下ろし、それをシドウやウィエルジンスキらのような連中が有難がって無批判に飛びつくのである。

       ちなみにシドウ版の書簡集では、「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」の「メンデルソン」は正しい名前に直され、それについて何の註釈も施されていない。

もしもオピエンスキーが英訳版の書簡集を編纂した時に「ポトツカ贋作書簡」が世に出ていたら、おそらく彼はそれを収録していた可能性は極めて高いと思われる。なぜなら、オピエンスキーが、彼の書簡集の序文で「シュトゥットガルトの手記」の真偽について本物だと擁護していた時の発言が、あまりにも子供じみていたからだ。しかしそれについては、またその時に論じよう。

いずれにせよ、この「メンデルソン」云々の記述については、あくまでも仮定の話でしか論じる事ができない。

 

次は、

「コリイ氏とトゥーサン夫人が23週間前に《理髪師》に出演した」

と言うくだり。

《理髪師》と言えば、18251030日」付の「ビアウォブウォツキ書簡・第5便」で、

《セビリヤの理髪師》が土曜日に劇場で上演された。これはドゥムシェフスキクドゥリ、ズダノウィッの監督の下に指導されている。僕の見たところ、良い出し物だった。ズダノウィッシュチュロフスキポルコフスキは上手く演じていた。アシュペルゲロヴァ夫人や他の二人の声楽家達もよかった:その内の一人は絶え間なく鼻をかんでいて、咳をしていた。:もう一人は泣いていて、やせていて、スリッパを履いていて、室内ガウンを着ていて、絶えずあくびをしていた。」

と書かれていた。これは、もうすでに3年前の話になる。

この時ショパンは、ポーランド人が演じる《理髪師》を観ていた訳だが、その際には、その者達のグダグダ振りも含めて「良い出し物だった」と、本音とも皮肉とも取れるようなユーモアある報告をしていたものだった。ところがここでは、単に演者の力量不足や醜態を見て、それをそのまま何のひねりもなく批判しているだけなのだ。

仮にこれを本当にショパンが書いていたのだとしたら、カラソフスキーならずとも、そんなショパンの文章を人目にさらさぬよう省きたくなる気持も分かる。

あるいは、別の見方もできる。

仮にこれを本当にショパンが書いたのだとしたら、それはショパン自身が書いたと言うより、むしろ読み手であるヴォイチェホフスキがショパンにそれを書かせたと言う解釈だ。

つまりヴォイチェホフスキと言う人物は、ビアウォブウォツキとは違って、ショパンのひねりのあるユーモア感覚に付いていけるだけの感性を持ち合わせていなかったと言う事で、要するに俗っぽいのである。そしてショパンがそんなヴォイチェホフスキに合わせるためには、ショパンが、ヴォイチェホフスキにはこのような感じの話が喜ぶと感じていたのではないかと言う解釈だ。

たとえばイワシュキェフィッチは、以下のような事を書いている。

 

「さて、私たちはティトゥスについてもまた何もわからない。私たちの手元には、ショパン宛の彼の手紙も、彼自身が書いた何か個人的な覚書もない。彼の後年の運命もまた同様十分にわかっていない。たとえそれがわかったとしても、そのことがらはショパンと付き合っていたころのティトゥスがどんな人物であったかということは何も伝えてくれないだろう。ティトゥスのような恰幅の好い、惹しい精力的な体質の持主が、『物への関心』の影響を受けて俗物になるのは、まことに当然なことである。姉ルドウィカは人間の心を比較して、『人間の性質を台なしにするもの、それは富です。金が豊富になるにつれて、心は堅くなって行きます。心はだんだんに鉱物に変わって行くか、石になってしまうのです』(一八三二年六月二八月付、ショパン宛)と言っているが、これはティトゥスのことを考えていたのかも知れない。ショパンが自作の《ドン・ジュアンのテーマによる変奏曲》を捧げたころのティトゥスは、後の製糖工場主ティトゥスのような感じ方はまだ持っていなかったということは認められてもよいことである。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社 1968年)より

 

 

パリ時代にショパンの家族がショパンに送った手紙の中には、しばしばヴォイチェホフスキに関する情報がもたらされている箇所がある。しかし、そのどれを見ても、ヴォイチェホフスキの人となりを想像させるものはない。たとえばマトゥシンスキについては、ニコラは彼の人間性を褒めた上で、「私はいつも彼が好きだった」と書いたりしているのである。

私がショパンとヴォイチェホフスキの「友情物語」に疑問を抱くのは、こう言ったところにあり、かつてショパンとビアウォブウォツキが相思相愛だったのに対し、ショパンとヴォイチェホフスキがショパンの片思いにしか見えないと言うのは、他ならぬヴォイチェホフスキと言う人物の人間性に疑問を感じるからなのだ。

 

次は、

「しかし芝居の話はこれくらいにしよう;今度は大学についてだ」

に続く一連の内輪話。

この長い箇所には、ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人達、あるいはヴォイチェホフスキ側の友人達がたくさん出てくる。

1.       「オボルスキ」

2.       「ゴンシエ」

3.       「オブニスキ」

4.       「プルシャック」と、

5.       その父「プルシャックさん」

6.       「コステュス」(※これはコンスタンチン・プルシャックの愛称なので、「プルシャック」と同一人物だと思われる。

 

このうち最初の3「オボルスキ」「ゴンシエ」「オブニスキ」が今回初登場で、彼らはおそらくヴォイチェホフスキのワルシャワ大学における友人達で、ショパンとはそれほど個人的に親しい訳ではないようだ。

あとの「プルシャックさん」「コステュス」2人は既出で、「コステュス」はショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である。

カラソフスキーがこれらの友人達の存在を消した理由についてはすでに説明した通りだが、この手紙には、このあとも友人知人の名前がたくさん出てくるので、どうもヴォイチェホフスキと言う人物は、将来「政治家」になるだけあって、かなり顔が広かったらしいニュアンスが浮かび上がってくる。

ビアウォブウォツキ亡き後は、ヴォイチェホフスキがワルシャワ一の「ハンサム」に昇格した可能性は高いし、彼は体格にも恵まれ、成績も優秀だったので、それなりに人気があったらしい事は、容易に想像できるのではないだろうか。

       ちなみに、この箇所の記述は、いずれも当事者にしか分からないような個人名や、意味不明なエピソード等が延々と書き連ねられているため、それがドイツ語であれ何であれ、他の言語に翻訳するのが非常に困難である。そう言う意味では、カラソフスキーならずとも省いてしまいたくなる気持は分かる。と言うのも、この箇所のエピソードについては、ヘドレイも英訳する際に所々註釈なしに省いているし、オピエンスキー版の英訳書簡集の邦訳選集である原田光子訳『天才ショパンの心』(第一書房 1942年)でも、やはり註釈なしに所々省かれている。これに続く箇所にもそれが多々ある。したがって、「ビアウォブウォツキ書簡」同様、日本の一般の読者がこの手紙の完全な邦訳版を目にするのは、本稿においてが初めてとなり、今まで既存の書簡集等で知っていた「ヴォイチェホフスキ書簡」の印象とは、かなり違ったものに感じられているはずである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#7.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

ストゥシジェヴォでは、ハ長調のロンド[フォンタナがまとめた遺作集で、作品73として出版された](君も覚えているだろうが、僕の最近の作だ)を2台のピアノ用に作り直した。今日ブッフホルツ[ワルシャワの楽器製造者]の家でエルネマン[音楽の名手]と一緒にやってみたところ、かなりうまく行った。僕らはいつか“リソース”で演奏する事を考えている。新しい作曲については、君が出発した後に始めた未完成の三重奏曲[ト短調]以外には何もない。あの最初のアレグロはすでに伴奏付きでやってみた。」

サンニキでは、ハ長調のロンド[フォンタナがまとめた遺作集で、作品73として出版された]を書き直した。最後の曲だ。君は覚えているかな、2台のピアノ用の曲だよ。今日ブッフホルツの家でエルネマンと一緒にやってみたところ、かなりうまく行った。僕らはいつか“リソース[あるコンサート・ホール]”で演奏する事を考えている。新しい作曲については、君が出発した後に始めた未完成の三重奏曲[ト短調]以外には何もない。あの最初のアレグロは、サンニキに行く前に伴奏付きでやってみた;今度(※ベルリンから)帰ったら、残りの部分もやってみようと思っている。

 

ここでもカラソフスキーは、もちろん「サンニキ」「ストゥシジェヴォ」に変えている。あくまでも、ショパンと同級生である友人「プルシャック」の存在を消したいからだ。

       ちなみに、ここに出てくる“リソース(Resource)”と言うのは、「資源、才略、安息、暇つぶし」等々の意味のある言葉だが、オピエンスキーはこれを[あるコンサート・ホール]と註釈しているので、おそらく通称としてそのように呼ばれていた場所のようだ。ヘドレイの英訳版では、“クラブ(the Club)”と言う訳が当てられており、意訳としてはそれが一番分かりやすいのかもしれない。

       また、アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)では、「商工会館」と訳されている。 

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#8.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「この三重奏曲は、ソナタや変奏曲と同じ成り行きになるように思われる。両方ともすでにウィーンに送ってある;僕は前者をエルスネルに捧げた、弟子としてね;後者については――たぶん少し差し出がましいかもしれないが――君の名前を書き添えておいた。僕の愛情から衝動に駆られてした事だから、君は僕の動機を誤解しないだろうと確信している。」

「この三重奏曲は、ソナタや変奏曲と同じ成り行きになるように思われる。両方ともすでにライプチヒに送ってある;僕は前者をエルスネルに捧げた、弟子としてね;後者については――たぶん少し差し出がましいかもしれないが――君の名前を書き添えておいた。僕の愛情から衝動に駆られてした事だから、君は僕の動機を誤解しないだろうと確信している。」

 

ここでは、「ウィーン」「ライプチヒ」とが異なっているだけである。

これに関しては、ショパンは実際に、これらの作品をウィーンの楽譜出版者であるハスリンガーに送っていたので、単純に考えればカラソフスキー版の方が正しいようにも思えるのだが…。それはさて置き、ここでショパンが言及している「三重奏曲」は、幸か不幸か、実際には「ソナタや変奏曲と同じ成り行き」にはならなかった。

ショパンは、いつどこでそう言う話になったのかは分からないが、《モーツァルトオペラドンジョヴァンニどう主題による変奏曲 作品2《ピアノ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品4(※当初は《作品3だったらしい)をウィーンのハスリンガーに送っていたのだが、ハスリンガーはこれをなかなか出版してくれなかった。それでも《変奏曲》の方は、ショパンが翌1829年にウィーンを訪れた際に実演し、そこで好評を得た事もあって1830年にようやく出版の運びとなったが、《ソナタ》の方はずっと飼い殺し状態にされ、そう言った事もあってショパンはかなりハスリンガーの事を批判していた。だから《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8が完成しても、ショパンはもうハスリンガーへは楽譜を送らなかったのである。

さて、ショパンが今までに出版してきた作品で公式献呈されたものは、《ポロネーズ ト短調 作品番号なし》と、《ロンド ハ短調 作品1》2つだけだった(※2つのマズルカ《変ロ長調》《ト長調》は献呈なし)。前者はヴィクトリア・スカルベク伯爵令嬢に、後者はルドヴィカ・リンデ夫人にそれぞれ献呈されている。この2人は、言うまでもなく、ショパン並びにショパン家にとってとても重要な恩人の家族である。そして、今回《ソナタ》を献呈されたエルスネルもそうだ。だが、その一方で、《変奏曲》のヴォイチェホフスキはどうだろうか? 彼は、他の3人に比べれば単に一人の友人に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなく、ショパンやショパン家にとって恩人と呼べるような要素は何もないはずだ。それにも関わらず、当時のショパンにとって、ヴォイチェホフスキの存在をここまで特別にさせていたものとは一体何だったのだろうか? ここには「君は僕の動機を誤解しないだろうと確信している」と書かれているが、一体何をどう「誤解」すると言うのだろうか? これを読んで、このように奇異な感じがするのはなぜなのだろうか? あるいはこれは、ショパンが、ヴォイチェホフスキの事を女たらしの貴族《ドン・ジョヴァンニ》になぞらえているかのように「誤解」しないで欲しいと言う意味だろうか?

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#9.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「スカルベクはまだ戻って来ない。イエンドジェイェヴィツ[ユゼフ・カラサンティ・イエンドジェイェヴィツ。ショパンの将来の義兄。1803年に生れ、1853年にワルシャワで亡くなった]もうしばらくパリに滞在するだろう。彼は当地でピアニストのソヴィンスキー[パリに住んでいた作曲家で、ピアニストで、文士だった]に紹介され、その人はワルシャワに来る前に、僕と文通で交際したいと言って寄こした。フェティスの『音楽評論(レヴュー・ミュジカル)』の編集助手をしている人なので、ポーランドの音楽事情について報告したり、ポーランドの一流の作曲家や芸術家の伝記を送ってあげれば喜ぶだろう――でも僕は、そう言うのに関わり合いになるのは少しも本意ではない、それで僕は、彼の求めている事は僕の不得手とする事なので、有能で分別ある批評を必要とするパリの雑誌に寄稿するには僕は適任とは思えないと、ベルリンからそう返事を出すつもりでいる。」

「スカルベクはまだ戻って来ない。イエンドジェイェヴィツは1年間パリに滞在するだろう。彼はソヴィンスキーと知り合いになった;そのピアニストはワルシャワに来る前に、僕と文通で交際したいと言って寄こした:彼はパリの雑誌の編集スタッフをしていたからだ;それはフェティス氏によって出版されている『音楽評論(レヴュー・ミュジカル)』で、彼は、ポーランドの音楽事情について報告したり、ポーランドの一流の音楽家の生活振りやら何やらを送ってあげれば喜ぶだろう。僕は、そう言うのに関わり合いになるつもりはない。僕は、そのような事は引き受けないと、ベルリンから返事を出すつもりだ、特に、クルピンスキがある程度その手の事に従事し始めているからね。それに僕は、真実だけを発表しなければならないような、主要なパリの新聞のために、十分な分別も持ってないない;僕が聴いたオペラは、良かったでもなきゃ悪かったでもない。僕はたくさんの人の気持を傷つけてしまうよ!

       「フェティス」は、ヘドレイ版の註釈によると、FJFétis17841871)、有名な音楽学者で、『音楽評論(Revue Musicale)』の創設者、また、『世界的な音楽家達の伝記(Biographie universelle des musiciens)』の編集者。」とある。

       「クルピンスキ」は、ヘドレイ版の註釈によると、「カルロ・クルピンスキ(Karol Kurpiński 17851857)は、ショパンのワルシャワ時代におけるポーランドのオペラ作曲家のリーダーで、指揮者。」とある。

 

この箇所も、色々な点でかなりニュアンスが異なっている。

一番気になるのは、『音楽評論』に関するくだりだ。カラソフスキー版のショパンはひたすら謙虚な好青年になっているが、オピエンスキー版のショパンにはそのような印象はなく、もしも自分がそんな事を引き受けたら、クルピンスキの領分を犯してしまうばかりか、ポーランドの音楽事情のレベルの低さをありのまま書いて、多くの人々を傷つけてしまうと言っている。

ここでカラソフスキーが気に入らなかった点とは、ショパンが、そのように自国の音楽家達や演者達のレベルを低く認識していたと言う事実である。いかにも国粋主義者らしい反応と言えるだろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#10.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「僕はこの月の終りには、5日間の駅馬車(乗合馬車)の旅を経て、ベルリンに到着するだろう。」

「クルピンスキは今クラカウ(クラクフ)にいる;ズィリニスキはオペラを指揮している;昨日の《魔弾の射手》はひどい出来だったと言われている。コーラス隊はリズムがずれていた。パパが言うには、外国では、僕はうぬぼれた意見を失くすだろうと;僕は1ヶ月のうちには、それについて君に話そう;今月の終わりには、僕はベルリンを発つだろう。駅馬車(乗合馬車)で5日間だ! もしも病気になったら、特別便で家に帰るつもりだ。そしたら君に知らせるよ。僕は大事なニュースを忘れていた;アルブレヒトが亡くなった。」

 

ここも同様で、ショパンはやはり自国の音楽事情のレベルの低さを具体的に書いており、カラソフスキーはそれが気に食わないので削除している。

《魔弾の射手》と言えば、18266月]付の「ビアウォブウォツキ書簡・第10便」で、

23週間後に《魔弾の射手》が上演されると言う話題でざわめき立っている。想像する限りでは、《魔弾の射手》はワルシャワで騒ぎを起こすだろう。何度も上演されるのは間違いないし、当然そうなるだろう。とにかく、我々の歌劇団がかの有名なウェーバーの作品をうまく演じられるかにかかっている。」

と書かれていた。これは、もうすでに2年前の話になる。

つまり、あれから2年以上が過ぎても、残念ながら「我々の歌劇団がかの有名なウェーバーの作品をうまく演じられ」ていなかった訳である。

ニコラは、ショパンがそのように高い見識を持つ一方で、その意識の中に息子の「うぬぼれ」を敏感に感じ取り、外国で本場の演奏を聴けばそのような態度も改まるだろうと諭している。これはいかにもニコラらしい、教育者的かつ父親的な態度である。息子は、すでにワルシャワでは天才の名をほしいままにしていたが、しかし父はそんな我が子をまだまだ「井の中の蛙」と考え、だからこそ今回、「ヤロツキ」に頼んでショパンをベルリンへ行かせる事にしたのだろう。

また、先述した通り、ここでもカラソフスキーは、ショパンの病弱を証明するような記述も削除している。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第1便#11.

カラソフスキー版

オピエンスキー版

「ここでは何もかも以前のままだ;素晴らしきジヴニーは、僕らの仲間全体のハートであり、ソウルだ。

僕はこの辺で終わりにしなければならない。と言うのは、荷物がとうに荷造りされていて、駅馬車(乗合馬車)に送られているからだ。

僕は君のママの手と足にキスする。僕の両親と姉妹達は、彼女の健康の回復を誠心誠意願っていると、そうよろしく伝えてくれたまえ。

僕を不欄に思って、すぐに手紙をくれたまえ、簡素でもいいから。一行でも尊重するよ。

君のフレデリック。」

「ここでは何もかも以前のままだ;良きジヴニーは、みんなの生命だ。今年僕は、パパと一緒に駅馬車(乗合馬車)でウィーンに行く事になっていた;そして、おそらくそうなるだろうが、しかしあの小さなニザビトコフスキの母親が、彼女のために僕らに待つよう頼んで、そしてその後来なかった。パパはずっと家で休暇を過ごしていた。昔、と言っても23ヶ月前だが、僕はレズレルの石造りの家を通るのが嫌いだった;しかし昨日、ブルゼジイナ(ブジェジナ)に行って、僕は正面の入り口の代わりに、ラフォルのドアで入った。僕はつい昨日、カステルスに会った。僕には、彼女が彼に似ているように思え、そして、ワルシャワ中が同じ印象だ。君が君のママと過ごす時間が、去年ほど自由に取れない事を残念に思う。僕らはみんな、君の愛するママの病気を悲しく思っているし、みんなで彼女の回復を願っている。僕らが君について話さない日はなかったから、君の耳はしばしば燃えたに違いない[ポーランドの慣用句。“(※噂をしたから)しばしばシャックリ(※日本ではクシャミ)をしたに違いない”]

僕は終わりにしなければならない、ハルトマンが僕の荷造り仕事を終えて、僕はゲイスメルとラウベルの坐っている郵便局へ行かなければならない。君がお望みなら、彼らに君からよろしくと伝えよう。さあ、僕にキスしてくれたまえ。

君の献身的な        

F.ショパン  

 

僕に代わって、君のママの手と足にキスしてくれたまえ。僕の両親と家族は、彼らからの敬意と、回復への最高の祈りを送り、友人達みんなも同様だ:ジヴニー、ゾフ、グルスキ、その他、僕らの家に残っている君以外の僅かな名前。僕はもう一度、もう一度君にキスする。しかし、寛大になって、時には一言、いや一言の半分でも、また手紙一通でもいいから書いてくれたまえ。それですら嬉しいよ。

つまらない事を書いていたら許してくれたまえ。読み返す時間がないのだ。もう一度、アデュー(さようなら)。」

 

ここでも、当事者達にしか分からないような個人名や意味不明なエピソードが雑然と綴られており、カラソフスキーはそれらをことごとく省いている。ヘドレイ版でも所々註釈なしに省かれている。

 

ちなみに、ショパンがビアウォブウォツキ宛に手紙を出していた時は、プウォツクを経由するため、その便は毎週「月曜日」「木曜日」に決まっていた。

しかし、「ヴォイチェホフスキ書簡」はそれとは違う便になるので、曜日が変わってくるようだ。ちなみに今回の182899日」と言うのは「火曜日」になる(※下図参照)。

 

18289

 

10

11

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18

19

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21

22

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26

27

28

29

30

 

 

 

 

 

 

次回は、ベルリンに到着したショパンがかの地から家族に宛てた一連の手紙の、その第1便を紹介しよう。

 

[2011年2月24日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証7-3.ベルリン紀行・第1便に見る、カラソフスキーの印象操作

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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