検証6:看過された「真実の友情物語」・後編――
Inspection VI: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked (Part
2) -
2. In 1827, the New Year's card which
disappeared in the space between the lines -
今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡・第12便」である。
まずは註釈なしに読んでいただきたい。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第12便)■ (※原文はポーランド語) |
「ワルシャワ、8日[月曜日、1827年1月] 尊敬するヤシ殿! 君は尊敬に値しない、ならず者だよ! 許してくれたまえ、僕は怒りに任せてこのような敬称を使わずにはいられない、まさしく君にはそれが相応しい、君は、僕がペンを持って手を差し伸べるに値しないやつだよ!――これが、僕がミツキェヴィチや、それらのチケットを買う間に耐え忍んだ疲労と苦労に対する、額に血の滲む汗を流した功績に対する、君の感謝の意なのかい? これが、僕の新年のお祝いの挨拶への君の返事なのかい? そうだ、考えてもみてくれ;そして認めてくれたまえ、僕が君に言っている事が正しくて、君は僕が手を差し伸べるに値しないのだと言う事を! 今日、僕に、君への手紙を書かせるに至った唯一の動機は、僕自身の疑惑を晴らすためだ、それで、僕に残されたお金のために僕の身に降りかかるだろう事に対して審判を下してくれたまえ。たぶん君は、僕がカーニバルでの友人達とのちょっとした舞踏会にお金を使ったと思うかもしれない、あるいは、アポローンの息子としてバックスの式典のために換金したと思うかもしれない! 間違った結論だ! 忌まわしい考えだ! イチジクだ! そのお金で、君のために《魔弾の射手》のアリアを2つ買ったんだから、喜んでもらって然るべきだ。それらは、実際はクピンスカやアシュペルゲロヴァが歌っている女声用なんだけど、でも、僕が知っている限りでは、あるいは、少なくとも想像する限りでは、君の足が痛む時には(それについて僕は何も知らされてないけど)、どうしたって歌声も細くなるだろうから、僕の大切な生命よ、君には打って付けだろう。――歌を1オクターヴ下げれば、ちょうど君の声(これもそのうち忘れてしまうかも)と同じくらいのテノールになる。――これらは2曲で2ズローチだ、て事は、僕の手元にはいくら残ってる?――計算しなければならない。たとえば(タルチンスキ先生の第1学級の試験問題だと思ってくれたまえ)。たとえば;誰かが3ズローチ持っていました。そこから2ズローチ使いました。さて、彼には何ズローチ残っているでしょうか?――え?――3から2を引いたら1、だから残りは1ズローチ、あるいは30グロシェ、または90シェロングですね。――この残りで、僕は君のために何か面白いものを買ってきたいと思っている。たぶん、イタリアンからのものになるだろう、君も何か流行のものを持つのもいいだろうからね;今のところ、まだ印刷されたものは販売されていなかったが、僕は4日間ブルゼジイナに行っていないので、明日には何か手に入れてくるつもりでいる、そうしたら、ジェヴァノフスキさんに持って行ってもらえるよう頼んでみるつもりだ。素晴らしきもくろみだよ! その結果は、君が楽譜を開いた時に分かるだろう;君にも興味津々だろう、その頃にはすでに過去の話だが、今日の僕にはまだ未来の話だから、どんなものになるか興味津々だよ。――その他に、僕のマズレクを送る、それについては君も知っているだろう、二つ目は後で送るよ、じゃないと一度に幸福が多すぎてしまうからね。――それらはすでに出版されている;一方、僕のロンドは、これを石版印刷にまわすつもりなんだが、まだ僕の草稿の中に埋もれたままだ、こっちの方が早かったんだから、旅に出る権利は大いにあるのにね。――そいつは、僕と同じような運命を持っているんだろうよ! ワルシャワでは、雪ソリでかなり楽しめるようになって、もう4日前から鈴を鳴らして走っている。このような時期にはよくある事だが、すでに何回か事故が起きている;たとえば、馬車のかじ棒が女性の頭に当たり、彼女は亡くなった;――馬が暴れ回り、ソリが折れて、それで何やかやと。大晦日の夜の仮面舞踏会は、参加者がかなり多かったらしい。僕は今まで、このような遊びに参加した事がない。だから行きたいと思っているし、今年はバルジンスキ氏と一緒に行ける事を期待している。――シマノフスカ夫人が今週コンサートを開催する予定だ。その日は金曜日で、値段が上げられている。階下で半ドゥカット、肘掛椅子で1ドゥカットとか言われている。――僕は間違いなく行くつもりだし、彼女のレセプションと演奏については後で君に教えるよ。 僕に手紙を書いてくれたまえ! ――僕にキスしてくれたまえ、僕の愛する生命よ。 F.F.ショパン ママの調子が悪い;4日間寝込んでいる。リューマチに非常に悩んでいる。今は少し良くなっている。神様が完全に元気にしてくれる事を願って止まない。 君のパパに僕達から宜しくと伝えてくれたまえ。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue
Musicale)、
及び、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana
Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży
Akademickiej)より
※
ソウタン版の註釈には、「使用された用紙は、暗い青色、2枚、各用紙のサイズ:22.5 x 19.5cm。透かし模様:縦線と文字 J.O.」とある。
まずは日付について。
ソウタン版では、この手紙の冒頭の日付は「ワルシャワ、8日[月曜日、1827年1月]」としてあり、それについて次のように説明している。
「(手紙の原文では数字8があるのみであるが)、この手紙の日付特定には下記の内容の文節を基盤にした: a
オペラ《魔弾の射手》、衆知の通り、初めてワルシャワで公演されたのは1826年7月3日: b
「イタリアン」“アルジェのイタリア女(ロッシー二のオペラ)”が初めて公演されたのは1826年12月7日: c
「シマノフスカ」、外国から帰国後、最初にワルシャワでコンサートを開いたのは月曜日、1827年1月15日。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan
/Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku
Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
この「日付特定」については、何の問題もないようである(※下図参照)。
1826年12月 |
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1827年1月 |
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アルジェのイタリア女 |
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第12便、シマノフスカ |
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それでは、手紙の内容の方を順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#1. |
「ワルシャワ、8日[月曜日、1827年1月] 尊敬するヤシ殿! 君は尊敬に値しない、ならず者だよ! 許してくれたまえ、僕は怒りに任せてこのような敬称を使わずにはいられない、まさしく君にはそれが相応しい、君は、僕がペンを持って手を差し伸べるに値しないやつだよ!――これが、僕がミツキェヴィチ(の詩集)や、それらのチケット(※何のチケットかは不明)を買う間に耐え忍んだ疲労と苦労に対する、額に血の滲む汗を流した功績に対する、君の感謝の意なのかい? これが、僕の新年のお祝いの挨拶への君の返事なのかい? 」 |
※
「ミツキェヴィチ」 アダム・ベルナルト・ミツキェヴィチ(Adam Bernard Mickiewicz 1798 - 1855)。ショパンと同じ時代に生きた、ポーランドを代表する愛国詩人で、政治活動家。
この書き出しは非常に興味深い。
ショパンは前回の「第11便」の書き出しでも怒っていたが、その時はこうだった。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便. |
「ワルシャワ 11月2日 大切なヤシ! この3ヶ月が飛ぶように過ぎ去ってしまった。君に手紙を送ったのがつい最近のようにも思えるし、その間、まるでおとぎ話の中にいるみたいだった;自分で自分の過ちを告白するが、あれから早くも四半期分の歳を取った事は認めよう。そんな僕を許してくれるとは、神よ、なんと慈悲深い事だろう;彼の寛大さは、雲にまで達するだろう!...しかし、僕自身の方はどうだと言うのか、警告するが、僕は怒っている、その怒りは、僕がまるでバカみたいに今日まで待ち呆けていた1枚の紙切れ以外の何も和げる事は出来ない。ソコウォーヴォからの20日付の手紙を受け取った事については、神を称えよう、しかし今日は2日なのに、それ以降はもらっていない。」 |
この時は、ショパンはビアウォブウォツキが手紙をくれない事に対して「怒って」いた。
しかし今回は違う。
ショパンは、ビアウォブウォツキが寄こした手紙の内容に対して怒っているのである。つまり、ショパンはこの手紙を書く前に、一度ビアウォブウォツキと手紙のやり取りをしている。それがここに書いてある「僕の新年のお祝いの挨拶」であり、そしてそれに対する「君の返事」なのである。
つまり、前回の「第11便」と今回の「第12便」の間に、「新年のお祝いの挨拶」が書かれた「失われたショパンの手紙」が存在していると言う事であり、ビアウォブウォツキはその手紙に対して「返事」を寄こしていて、ショパンはその内容に対して「怒って」いるのである。
まず、ビアウォブウォツキから手紙が来ていたと言う事実は、次回の「第13便」でもはっきりとそう書かれている。その「第13便」は「3月14日」付なのだが、その時点で「君からの音沙汰がなくなって3か月以上が経過した」と書かれている。なので、つまり12月の上旬から中頃に、ショパンがビアウォブウォツキから手紙を受け取っていた事が分かる(※下図参照。■がビアウォブウォツキからの手紙、■がショパンの手紙)。
1826年 |
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1827年 |
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12月(クリスマス) |
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1月(第12便) |
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2月 |
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3月(第13便) |
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仮にそれをちょうど3ヶ月前の12月14日と仮定しても、それでもクリスマスの10日前ぐらいにはなるので、おそらくビアウォブウォツキは、それに合わせてショパンに、「ミツキェヴィチ(の詩集)や、それらのチケット(※何のチケットかは不明)を買う」のを頼んでいた事が分かる。
ところが、ショパンはクリスマスまでにそれらを手配する事ができず、その由をビアウォブウォツキに伝えると共に、それを「新年のお祝いの挨拶」として返事を送っていたらしい。つまり、それが「失われたショパンの手紙」と言う事になり、それはおそらくクリスマス・イヴに書かれていたはずである(※と言うのも、1825年のクリスマス・イヴの時も、ショパンはジェラゾヴァ・ヴォラからビアウォブウォツキに手紙を書いており、そしてそれは同時に、「新年のお祝いの挨拶」を含む内容だったからだ)。
なので、今度はその「僕の新年のお祝いの挨拶」に対して、ビアウォブウォツキが年明けに、おそらく彼自身が手紙を書いたのではなく、コンスタンチア嬢からルドヴィカへの手紙の追伸か何かにメッセージを寄せ、そこでショパンの浪費癖をからかうような冗談でも飛ばしながら、「そのせいで頼み事が遅れたのかい?」みたいな事を言って来たのではないかと思われる。
それを見てショパンは怒り、そして、それが今回の「第12便」となった訳なのである。
ちなみにこの件に関連して、ちょっと参考までに、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳『決定版ショパンの生涯』(音楽之友社)で、今回のこの「第12便」がどのように紹介されているか、それをここで紹介させていただきたいと思う。この本は、ポーランド人作家による、最新の研究によるポーランド語のショパン伝を、日本のポーランド語の第一人者が直接和訳したと言う点で特筆されるべき本である。
以下がその手紙の全文だが、文中の(……)は原著者によるもので、[ ]が訳者による註釈である。
「何たる恩知らずかね、のらくら君! (……)ペンを握って手を差し伸べる甲斐もない恩知らずだよ、君は!――余が額に血の滲む汗して思いやっておるというのに、こういう仕返しとはね[ヤンが返事をくれないこと](……)。《魔弾の射手》のアリアを二曲、君のために買った。きっと満足してくれるはずだ。本当は女声用だけど(……)脚が痛むときには(このことに関して僕は何ひとつ知らされてないけどね)さぞかし歌声も細るはずだから――少なくともそう想像するんだけど――そんな君にはちょうどぴったりだ。――歌だけオクターヴ低くしてやれば、ちょうど君の声と同じくらいの(これもそのうち忘れるかもな)テノールになる。[ポーランド語では窮状に喘ぐことを"歌声が細る"というので、これを利用した言葉遊びが含まれている]」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
ご覧のように、原著者が手紙を虫食いで部分的に引用しているため、手紙の原文に含まれている「これが、僕の新年のお祝いの挨拶への君の返事なのかい?」が抜け落ちている。そのせいで、それを知らない訳者は、ショパンの怒りの原因を[ヤンが返事をくれないこと]と註釈してしまっているのである。
これは言うまでもなく、原著者の引用の仕方にこそ問題がある。この原著者の抜粋の仕方では、ショパンが何に対して怒っているのかが読者には全く分からない。訳者はそれを、原著者の解説文「相手が自分ほど筆まめでなかったり、自分のように何でも打ち明けてくれないということで怒ったりもした」から解釈して補ったに過ぎず、この訳者は「訳者あとがき」で、「ショパンを専門に研究しているわけでもない私が」云々と書いているので、いちいち手紙の原文にまで当たって確認しながら翻訳をしている訳ではないようだ。
私がここで、わざわざこのような例を挙げて何を言いたいのかと言うと、「部分的な引用」には、常にこのような危険が付きまとうと言う事なのである。
特にショパンの「本物の手紙」は、文章の一つ一つの意味を解釈するのが困難を極める。だから抜粋されたものだけでは、それこそ「木を見て森を見ず」になって見落としも多くなり、ヘドレイ版の「ビアウォブウォツキ書簡」や「ライネルツ伝説」のように、内容の本質そのものを見誤ってしまうような事にもなる。
もちろん、1通の手紙を全文読むだけでも足りない。それが「文通の手紙」である以上、その前後の手紙を含め、双方でやり取りされている全ての手紙の内容が、何かしらの関連性でつながっているからだ。その事は、これまで検証してきた例でも十分にお分かりいただけている事と思う。
ことに伝記の類では、手紙の全文がそのまま掲載される事はほとんどない。必ず大なり小なりの省略や抜粋が施される。であれば、読者に誤解や偏見を与えないように注意深く抜粋箇所を吟味するのも、著者の当然の務めなのではないだろうか。
話を戻そう。
ビアウォブウォツキからの「返事」についてはそれで問題ない。今度は「失われたショパンの手紙」について考えたい。
ちなみに、ソウタンは序文で、その件について以下のように書いている。
「果たして、ビアウォブウォツキ宛に書かれた手紙は全て保存されていたのだろうか、それとも、下記の13通以外にも紛失した手紙があったのだろうか? 第5便の手紙、及び、第12便の手紙の一部内容から憶測すれば、“新年のお祝いの挨拶”、これはこの収蔵物の中にはないが、ショパンとビアウォブウォツキとの間に頻繁に文通がなされていた事から見て、まだ他にも手紙があったと思われる。また、ソコウォーヴォで紛失したものもあるだろう。上記したように、数回に渡る文書の長い旅の間に紛失したものもあるだろう。殊に、第87号の文書の外装が破損しており、その一部は別のノートとして使用にされた紙切れであったとして見つかっている。これらの紙切れに番号が記載されていないので、この文書が全体として残ったのかどうかは確信できない。これらの紙切れは順序たてて縫い纏まれていない。仮に、文書の一部なりとも、つまりショパンの手紙の一部でも紛失しておれば、そのような事はワルシャワから慌てて持ち出した際に起こり得る事であり、モスクワで杜撰な方法で保管されていたであろう事も考えられる。ワルシャワに向けて帰って来る道で紛失された事もあろう。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław
Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』より |
しかしながら、私の考えはソウタンとは違う。
私の考えでは、現在知られている「ビアウォブウォツキ書簡」の13通は、それで「全て」である。
今まで検証してきた通り、個々の手紙の内容は、どんなに数ヶ月の空白期間が開こうとも、その前後関係が全てきちんとつながっている。だから、各手紙の間に辻褄の合わない記述は一切なかった。その事実からも明らかなように、「13通以外にも紛失した手紙があったのだろうか?」と言う質問に対する答えは、完全に「否」である。
ただし、それはあくまでも「手紙」に関してであって、厳密な意味で「手紙」ではないもの、つまり「グリーティング・カード」の類に関しては、また話が別なのだ。
たとえばショパンは、一昨年1825年のクリスマスの時は、姉のルドヴィカと共に、自分達の生まれ故郷であるジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク家を訪れ、そこからビアウォブウォツキ宛に手紙を書いていた。これには「新年のお祝いの挨拶」も含まれており、年賀状的な意味合いのある手紙だった。おそらく、例年ならグリーティング・カードで済ませていたのだろうが、この時のショパンは、場所が場所だけに少々興奮気味で、いつもと違って書きたい事がたくさんあったため手紙にしたのだろう。そのお陰で、その内容がこうして後世に残された訳なのだが、一方、この両者の間で多数交わされていたはずのグリーティング・カードに関しては、ただの一つもその内容が残されていないのである。
本稿でも、ショパンの幼年期のグリーティング・カードを検証したが、あれを見ても分かるように、ポーランドでは主に命名日などの祝日には、互いにグリーティング・カードを贈り合って祝う習慣があり、それは遠く離れて暮らす友人であろうが同居する家族であろうが関係ない。
であれば、当然ショパンは、ビアウォブウォツキにも多数のグリーティング・カードを贈っているはずなのだ。ところが、それらは現在一つも確認されていない。
ただの一つも、であり、実はこの点が重要なのだ。
しかし、これはよくよく考えると当たり前の話なのである。なぜなら、そもそもなぜ、こうして「ビアウォブウォツキ書簡」が現在我々の知るところとなったのかと言えば、ビアウォブウォツキの継父ヴィブラニェツキ氏がロシア当局から政治犯として疑われ、逮捕されたからなのだ。
つまり「ビアウォブウォツキ書簡」と言うのは、その際にロシア当局がヴィブラニェツキ邸を家宅捜索して押収した書類の中に紛れ込んでいたために、一時的に戦火で焼失する事から免れたと言う、非常に皮肉な巡り会わせで生き残っていた手紙の束だった。
だからその押収物の中には、ヴィブラニェツキ氏の義理の息子が友人から受け取ったグリーティング・カードなど、最初から含まれている訳がない。
手紙と違って、そのようなカード(=はがき)の類は、基本的に祝祭時の常套句が羅列されているだけなので、それは一目見れば一目瞭然であり、そんなものはわざわざ押収して確認するまでもなく、容疑者の政治犯罪を立証するのに役立つとはとうてい考えられなかったはずである。当局の人間は別にショパン愛好家でもなければ、ショパンの遺品が目当てでやって来た訳でもないのだから、そんな事は当然だろう。
要するに、「グリーティング・カード」に関しては「手紙」とは全く別で、ソウタンの言うように「紛失された」のではなく、最初からロシア当局に押収されていなかったのだ。
だから、現在失われているショパンの「新年のお祝いの挨拶」は、そもそも「手紙」として書かれていたのではなく、「グリーティング・カード」として書かれ、そしてビアウォブウォツキに贈られていた。だからこそ、それら「グリーティング・カード」に関しては、その内容がただの一つも現存していないのである。
仮に、ロシア当局の押収物の中に一つでもグリーティング・カードが含まれていたのであれば、ソウタンの仮説にも一理あると言えるのだろうが、一つも含まれていないのであれば、時期がちょうどクリスマスと重なっている事から、そう考える方が自然なのではないかと思われる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#2. |
「そうだ、考えてもみてくれ;そして認めてくれたまえ、僕が君に言っている事が正しくて、君は僕が手を差し伸べるに値しないのだと言う事を! 今日、僕に、君への手紙を書かせるに至った唯一の動機は、僕自身の疑惑を晴らすためだ、それで、僕に残されたお金のために僕の身に降りかかるだろう事に対して審判を下してくれたまえ。」 |
この箇所を見れば明らかなように、ビアウォブウォツキはショパンに対して、何か「お金」に関する事で、ショパンをからかうような内容を言って来たらしい事が分かる。
ショパンの浪費癖については以前にも触れたが、さすがに唯一無二の親友だけあって、ビアウォブウォツキもそれを見逃してはいないようだ。
しかし今回ばかりは、ショパンはそれを言われるのがことのほか心外だったようで、それは続く以下の文章からもよく分かる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#3. |
「たぶん君は、僕がカーニバルでの友人達とのちょっとした舞踏会にお金を使ったと思うかもしれない、あるいは、アポローンの息子としてバックスの式典のために換金したと思うかもしれない! 間違った結論だ! 忌まわしい考えだ! イチジクだ! そのお金で、君のために《魔弾の射手》のアリアを2つ買ったんだから、喜んでもらって然るべきだ。」 |
※
「アポローン」は、ギリシャ神話における光明・医術・音楽・予言をつかさどる若く美しい神。アポロンと表記される事もある。ローマ神話のアポロに当たる。
※
「バックス」は、ローマ神話における酒の神。バッコス、バッカスと表記される事もある。ギリシャ神話のディオニュソスに当たる。ただし、ショパンのポーランド語原文では「Bachu」と綴られているため、オピエンスキー版では、「おそらく、バッハ(Bach)とバックス(Bacchus)をかけた駄洒落かもしれない」と註釈されている。いずれにせよ、ここでショパンが神話の神々を持ち出してきて何を言っているのか、私にはちょっと意味不明である。
※
「イチジク」は、ショパンのポーランド語原文では「Figa」となっており、これは『ポーランド語辞典』(白水社)によると、本来の意味である「いちじく」の他に、「親指を人さし指と中指の間にはさむ軽べつのしぐさ」とあり、いわゆる罵り言葉として使われると言う事である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#4. |
「それらは、実際はクピンスカやアシュペルゲロヴァが歌っている女声用なんだけど、でも、僕が知っている限りでは、あるいは、少なくとも想像する限りでは、君の足が痛む時には(それについて僕は何も知らされてないけど)、どうしたって歌声も細くなるだろうから、僕の大切な生命よ、君には打って付けだろう。――歌を1オクターヴ下げれば、ちょうど君の声(これもそのうち忘れてしまうかも)と同じくらいのテノールになる。」 |
ここに出てくる「クピンスカ」と「アシュペルゲロヴァ」のうち、後者は第5便で以下のように言及されていた。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便. |
「〈セビリヤの理髪師〉が土曜日に劇場で上演された。これはドゥムシェフスキ、クドゥリッチ、ズダノウィッチの監督の下に指導されている。僕の見たところ、良い出し物だった。ズダノウィッチ、シュチュロフスキ、ポルコフスキは上手く演じていた。アシュペルゲロヴァ夫人や他の二人の声楽家達もよかった:その内の一人は絶え間なく鼻をかんでいて、咳をしていた。:もう一人は泣いていて、やせていて、スリッパを履いていて、室内ガウンを着ていて、絶えずあくびをしていた。」 |
※
彼女については、ソウタン版で「カタジナ・アシュペルゲロヴァ(Katarzyna Aszpergerowa)。才能ある演劇女優であり、声楽家であった。ファンから愛された。1835年死去。」と註釈されていたが、一方の「クピンスカ」についての註釈はどの書簡集にもない。もしかすると、第5便で触れられていた「二人の声楽家達」のうちの一人だったのだろうか?
ここで注目すべきは、ショパンがこの時点で、ビアウォブウォツキの足の状態について「僕は何も知らされてないけど」とコメントしている点だ。
ショパンとビアウォブウォツキが手紙のやり取りをし始めた初期の頃は、ビアウォブウォツキは自分の足の状態について、それこそありのままに「良くない」と知らせてきていた。それなのに、「第4便」を境に、それに関して本人の口からショパンに語られる事はなくなってしまい、その情報がショパンにもたらされるのは、もっぱらコンスタンチア嬢やジヴニーを通して間接的に知らされるのみになっていた。そしてそのような状況は、この時点でもやはり相変わらずであった事が分かる。
だが、そんな病人の気持ちを、他でもないショパン自身が一番よく分かっているので、彼はその事でビアウォブウォツキを責めるような事はしない。
ショパン自身だって、夏休みの療養先から友人達に手紙を書く時、自分の病状を詳しく説明したりなどしていないだろう。それと同じ事なのである。たとえば、彼はシャファルニャやライネルツでは、基本的に転地療養が目的で出向いているのだから、決して夏休みを楽しく過ごすために訪れていた訳ではない。それなのに、彼が当地から家族や友人達に書いた手紙には、自身の容態に関する記述はほとんどなく、単に「良くなった」ぐらいの事を簡単に報告するだけで、それ以外は、相手を楽しませようとするような筆致に終始しているだろう。
ショパンは、ビアウォブウォツキに手紙を書く時も、たとえ書き出しでは彼に対して怒っているように振舞って見せたとしても、結局はすぐに、そんな病人の彼を楽しませようとして話題も口調も切り替え、最後は必ず、愛情たっぷりに結んでペンを置くと言うパターンに落ち着く。
このような流れは、正にショパンの音楽作品にも通ずるものがある。
ただ、今回のショパンは、さすがにもうずっとビアウォブウォツキと会う事ができないでいるため、「君の声」を(これもそのうち忘れてしまうかも)と、寂しい本音を、冗談交じりにちらっと漏らしているのも見逃せない。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#5. |
「――これらは2曲で2ズローチだ、て事は、僕の手元にはいくら残ってる?――計算しなければならない。たとえば(タルチンスキ先生の第1学級の試験問題だと思ってくれたまえ)。たとえば;誰かが3ズローチ持っていました。そこから2ズローチ使いました。さて、彼には何ズローチ残っているでしょうか?――え?――3から2を引いたら1、だから残りは1ズローチ、あるいは30グロシェ、または90シェロングですね。」 |
※
ソウタンの註釈によると、「タルチンスキ先生」は、「タデウシュ・タルチンスキ(Tadeusz Tarczyński)、高等中学校の教師。」とある。
まるで人を小バカにしたような簡単な算数の「試験問題」だが、こう言う落差のあるユーモア感覚が、書き出しの「怒り」が本気ではない事を強調してもいるのである。
普段から、こう言う時ショパンは、得意のモノマネで「タルチンスキ先生」になりきり、「高等中学校の教師」なのに小学生レベルの「試験問題」を出して見せながら、みんなを笑わせている、と言う事なのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#6. |
「――この残りで、僕は君のために何か面白いものを買ってきたいと思っている。たぶん、イタリアンからのものになるだろう、君も何か流行のものを持つのもいいだろうからね;今のところ、まだ印刷されたものは販売されていなかったが、僕は4日間ブルゼジイナに行っていないので、明日には何か手に入れてくるつもりでいる、そうしたら、ジェヴァノフスキさんに持って行ってもらえるよう頼んでみるつもりだ。素晴らしきもくろみだよ! その結果は、君が楽譜を開いた時に分かるだろう;君にも興味津々だろう、その頃にはすでに過去の話だが、今日の僕にはまだ未来の話だから、どんなものになるか興味津々だよ。」 |
※
ソウタンの註釈によると、「イタリアン」は、「《アルジェのイタリア女》。ロッシーニのオペラで、ワルシャワにおける初めての公演は1826年12月7日。大好評を博した。」とある。ショパンが「イタリアン」と書くだけでその意味がビアウォブウォツキに通じていると言う事は、ショパンがクリスマスのグリーティング・カードで、すでにそれについて触れていた事を示唆している。
※
また、「ブルゼジイナ」(あるいは「ブジェジナ」)は、「ブジェジナA. Brzezinaの音楽楽譜の商店はミオドーヴァ通りにあった。店主と友好関係にあったショパンは頻繁に訪れて、音楽関係の新しい書籍を読み、弾いた。」とある。「第9便」では「グルックスベルグ(グリュクスベルグ)」と言う本屋で楽譜を調達しようとしていたが、ここはかなり要領を得ない様子だったので、「ブルゼジイナ」の方が馴染みになっていたようである。
※
また、「ジェヴァノフスキさん」は、「多分、ユリウシュ・ジェヴァノフスキ。ソコウォーヴォ村と隣接するシャファルニア村の持ち地所の地主。」とある。前回も書いたが、ジェヴァノフスキ氏の名が「ビアウォブウォツキ書簡」の本文中に登場するのはこれが初めてである。どうやら彼は、この時ワルシャワに来ていたようである。
この箇所が、要するに、ショパンが最初に「僕に残されたお金のために僕の身に降りかかるだろう事」と前置きしていた事に呼応しているのである。
つまり、ビアウォブウォツキがショパンの浪費癖をからかうような事を言って来たので、それを見て怒ったショパンは、「これが、僕がミツキェヴィチや、それらのチケットを買う間に耐え忍んだ疲労と苦労に対する、額に血の滲む汗を流した功績に対する、君の感謝の意なのかい?」とやり返し、挙句の果てに、算数ジョークを交えながら、「僕自身の疑惑を晴らすため」、これでもかとばかりに、「残り」の有り金も全部「君のために」つぎ込むつもりだとまで書いて見せ、それに対して「審判を下してくれたまえ」と言っているのである。
これがこの手紙の醍醐味と言うか、面白いところであり、ショパンのちょっとひねくれた独特のユーモア感覚であり、また、愛情表現の仕方でもあるのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#7. |
「――その他に、僕のマズレク(※マズルカ)を送る、それについては君も知っているだろう、二つ目は後で送るよ、じゃないと一度に幸福が多すぎてしまうからね。――それらはすでに出版されている;一方、僕のロンドは、これを石版印刷にまわすつもりなんだが、まだ僕の草稿の中に埋もれたままだ、こっちの方が早かったんだから、旅に出る権利は大いにあるのにね。――そいつは、僕と同じような運命を持っているんだろうよ!」 |
ここで言及されている「僕のマズレク(※マズルカ)」と言うのは、最初、「第9便」で以下のように書かれていたものである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便[1826年5月15日 月曜日] |
「また、君の要望に従い、僕自身のつまらないもの(小品)も添えておく。これは全部、間違いなく今週中にはヴィソツキの許にあるだろう。」 |
「僕自身のつまらないもの(小品)」と言うのは、言うまでもなくショパン自身が作曲した作品の楽譜の事だが、しかしこの時点ではまだ、それが具体的にどんな曲なのかは、この記述からでは全く分からなかった。
ちなみに、ショパンがこの1826年に作曲したとされている作品には、以下のものがあった。
1.
《マズルカ 第52番(※版によっては51番) 変ロ長調》(※1826年出版)
2.
《マズルカ 第53番(※版によっては50番) ト長調》(※1826年出版)
3.
《ポロネーズ 第15番 変ロ短調 遺作 「別れ」 ウィルヘルム・コルベルクに献呈》
4.
《マズルカ風ロンド ヘ長調 作品5 アレクサンドリーヌ・ドゥ・モリオール伯爵令嬢に献呈》(※1828年出版)
5.
《ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲 ホ長調 遺作 カタジナ・ソヴィンスカ夫人に献呈》
6.
《3つのエコセーズ 作品72-3、4、5 》(※このうち、ト長調と変ニ長調は師エルスネルの娘エミリアのアルバムに書かれていた)
私はこの中から、《マズルカ 変ロ長調》と《マズルカ ト長調》に違いないと推定した。
これらはさらに、続く「第10便」でも以下のように言及されていた。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便[1826年6月] |
「僕からの楽譜を受け取ったかどうか、詳しく教えてくれたまえ。僕のつまらないもの(小品)を君に送らなかったが、その代わりに、アレクサンデル・レムビエリンスキのワルツは君を喜ばせるはずだ。 …(中略)… もしも僕の馬鹿げたクラヴィチェンバロを君に送らなかったとしても、不思議に思わないでくれたまえ、それが僕なんだから。」 |
つまり、「第9便」で送ると書いていた曲を、ショパンは送っていなかったのである。
おそらく、この時点でこれらが出版される運びになり、ショパンは急遽改訂を施す必要を感じたため、ビアウォブウォツキに送るのも一旦保留したのだろう。実際、《マズルカ 変ロ長調》と《マズルカ ト長調》は、どちらも、ショパン自身による改訂稿が存在するからだ。
そして、この度、これらが無事出版されたのを受けて、その完成品をようやくビアウォブウォツキに送る事ができたと言う訳なのである。
これらのマズルカは、ワルシャワでたった30部しか印刷されなかったので、ショパンがビアウォブウォツキに送ったのがその出版物だったのか、それともショパンの自筆譜だったのか、それは分からない。いずれにせよ、最初に送ると書いたのが去年の5月であるから、それからゆうに半年以上が過ぎ去っていた訳だ。
また、ショパンはここで「ロンド」についても言及しているが、こちらは翌1828年2月、つまり、約1年後に出版される事になる《マズルカ風ロンド ヘ長調 作品5 アレクサンドリーヌ・ドゥ・モリオール伯爵令嬢に献呈》の事である。
ショパンはこの曲について、「そいつは、僕と同じような運命を持っているんだろうよ!」とコメントしているが、要するにこれは、すぐに世に出るべきなのにいつまで経ってもグズグズと紙に埋もれている、と言うような意味で、ショパンが手紙や楽譜を書くのが遅いと言う事を意味していると共に、彼自身の音楽家としての足取りについても自嘲しているのかもしれない。
と言うのも、たとえば、外国に目を向ければ、ちょうどショパンと同い年のメンデルスゾーンやフランツ・リストと言った若き音楽家達が、すでに世界的な名声を獲得しつつあったからだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#8. |
「雪ソリでかなり楽しめるようになって、ワルシャワではもう4日前から鈴を鳴らして走っている。このような時期にはよくある事だが、すでに何回か事故が起きている;たとえば、馬車のかじ棒が女性の頭に当たり、彼女は亡くなった;――馬が暴れ回り、ソリが折れて、それで何やかやと。」 |
この書き方からすると、ショパン自身は「雪ソリ」では遊んでいない様子である。
ショパンは病弱と言うイメージがあるし、「第9便」でも、「ビリヤード」が勝てないので興味も持てず、道具を友人にあげてしまったみたいな事が書かれていたので、とにかく彼には、運動やスポーツの類をすると言うイメージが全くわかない。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#9. |
「大晦日の夜の仮面舞踏会は、参加者がかなり多かったらしい。僕は今まで、このような遊びに参加した事がない。だから行きたいと思っているし、今年はバルジンスキ氏と一緒に行ける事を期待している。」 |
この「バルジンスキ氏」は、いつも「ビアウォブウォツキ書簡」の追伸に登場するバルチンスキの事で、すなわち将来イザベラの夫となるアントニ・バルチンスキの事である。ソウタン版でも、ここはそのように註釈が当てられている。
しかしながら、彼は前回の第11便で、「バルチンスキは今年(※1826年)中にも出国するよ」と書かれていた。
そして、ソウタンの註釈によれば、実際は1826年ではなく、「バルチンスキは、1827年10月に、国外へ留学するための政府費用で派遣された」と書かれていた。いずれにせよ、そうすると、バルチンスキは、今年1827年の「大晦日」にはパリにいてワルシャワにはいない事になり、ショパンがここで書いているような事にはならないはずである。
当時の馬車の旅での「パリ⇔ワルシャワ間」の往復にかかる日数を考えると、バルチンスキが短いクリスマス休暇のために一時帰国するのはとうてい不可能であり、彼が「大晦日」をワルシャワで過ごせるはずはない。なので、この箇所の記述はちょっとよく分からない。ショパンが何か思い違いをしているのか、それとも、この時点ではまだバルチンスキのパリ行きがどうなるかはっきりしていなかったのか、あるいは、ひょっとすると、前回の「第11便」でも、ショパンはバルチンスキのパリ行きに自分の将来を重ねるような事を書いていたので、逆にショパンの方がパリ在住のバルチンスキに合流したいと、そう「期待している」と言う事なのかもしれない。
それにしても、バルチンスキと言う人物は、ショパンの手紙の中でも「まじめ」と書かれているし、彼が後年パリのショパンに宛てた手紙を読んでも、いい意味で、いかにも平凡で堅いと言ったイメージがあるだけに、そんなバルチンスキに、ショパンが「仮面舞踏会」への参加を当て込んでいると言うのも何だか冗談めいて聞こえる。なので、あるいは、これはそう言うジョークと受け取ってもいいのかもしれない。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#10. |
「――シマノフスカ夫人が今週コンサートを開催する予定だ。その日は金曜日で、値段が上げられている。階下で半ドゥカット、肘掛椅子で1ドゥカットとか言われている。――僕は間違いなく行くつもりだし、彼女のレセプションと演奏については後で君に教えるよ。」 |
※
ソウタンの註釈によると、「シマノフスカ夫人」は、「マリア・シマノフスカ(Maria Szymanowska、1795−1832)。アダム・ミッツケヴィッツの妻となったツェリナ・シマノフスカ(Celina Szymanowska)の母親。当時、ヨーロッパで最高のピアノ演奏家として認めれら、作曲家としても名を馳せた。」とある。
先述したように、シマノフスカ夫人のコンサートは、ショパンは「金曜日」と書いているが、実際はそれより3日後の「月曜日、1827年1月15日」だった。
したがって、ショパンの勘違いでないとすれば、何らかの事情で「予定」が変更されていたようである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便#11. |
「僕に手紙を書いてくれたまえ! ――僕にキスしてくれたまえ、僕の愛する生命よ。 F.F.ショパン ママの調子が悪い;4日間寝込んでいる。リューマチに非常に悩んでいる。今は少し良くなっている。神様が完全に元気にしてくれる事を願って止まない。 君のパパに僕達から宜しくと伝えてくれたまえ。」 |
ショパンは「僕に手紙を書いてくれたまえ!」と書いているが、しかし実を言えば、ビアウォブウォツキがショパンに手紙を書くのは、今回の手紙の中で言及されていた「君の返事」が、結果的に最後のものだったのである。
そして、ショパン自身がビアウォブウォツキに手紙を書くのも、結果的に、次回の「第13便」が最後となる。
[2011年1月8日初稿 トモロー]
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