3.「ライネルツ伝説」、その物語の舞台裏――
3. The Reinertz legend, the backstage of the story-
今回紹介するのは、ライネルツに滞在中のショパンがワルシャワのエルスネルに送った手紙である。
これは、前回紹介した「コルベルク書簡」の11日後に書かれている。
■ライネルツのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワのユゼフ・エルスネルへ■ (※原文はフランス語) |
「ライネルツ 8月29日[1826年] 拝啓、 私達がライネルツに到着して以来、私はあなたに手紙を書く事を楽しみに期待しておりましたが、しかし私の時間はすっかり治療のために取られてしまい、これまでずっと書く事ができずにおりました。ようやく今になって、あなたとのお話しを楽しむ時間を見つけ、あなたに頼まれていた仕事をやり遂げた事をご報告いたします。私の力の及ぶ限りで最善を尽くしました;私はラッツェルさん宛のお手紙はお渡ししました、彼はそれを受け取って喜ばれておりました;シュナーベルさんとベルナーさんに関しましては、私が帰りの途中でブレスラウに立ち寄るまで、あなたのお手紙をお渡しできないでしょう。あなたが示してくださる私への親切と強い関心に対しまして、私の健康状態をお知らせしないとなれば無頓着でございましょう。新鮮な空気とヴェイ(※乳清、あるいは乳漿、英語でホエイ(Whey)。チーズを取った後の水)をしっかりと飲んだお陰で、ワルシャワにいた時とは別人のように良くなりました。風光明媚なシレジア地方が提供してくれる絶景は私を喜ばせ、魅了してくれますが、しかしながら、どんなにライネルツが素晴らしくても、全てが私に報いてはくれず、不足している物があります、それは良い楽器です。 想像してみてください、先生、私が見ましたところ、ここには良いピアノが一台もなく、私に喜びよりも多くの苦しみを与える物ばかりなのです;幸いにも、この受難もそう長くはありません、ライネルツに別れを告げる日が近付いています、私達は来月の11日に出発する予定です。先生にお会いできるのを楽しみにしつつ、完璧なる敬意をもって、 F.F.ショパン 母からもあなたに尊敬の意をお送りいたします。 奥様にくれぐれもよろしくお伝え下さい。 ワルシャワのエルスネル先生へ、心より。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue
Musicale)、
及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』
Krystyna Kobylańska/CHOPIN
IN HIS OWN LAND(Polish Music Publications、Cracow 1955)より
※
この手紙は、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、原物の全文を写真コピーで確認する事ができる。
※
シドウ版の註釈では、「我々がここに複写した手紙は、フランス語で書かれている。我々はこれに全く手を加えずに書き写した事を断っておく。これは、ショパンがフランス語で書いた文書の最初の例である。この自筆は、ベルギーのマリモンの城の博物館(Musée du Château de
Mariemont)にある。」とある。
※
余談ながら、アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、この手紙の日付が「八月二十六日」と誤植されている。その本の大元であるシドウ版も誤植が多いが、この邦訳版もまたそれとは別の誤植が多々見受けられる。正しくは「29日」である。ショパンの書いた原物では、日付が「29日」である事がはっきりと確認できるし、シドウ版でもヘドレイ版原著でもきちんと「29日」になっている。
前々回に紹介した「ジヴニーからショパンへの手紙」には、「君が父上に宛てた11日付の手紙で、君の健康状態と、困窮した孤児のための慈善コンサートについて書かれてあった」云々とあった。その事から、ショパンがライネルツで行なった2回の「慈善コンサート」のうち、少なくとも1つが「11日」以前に行なわれていた事が分かっている(※下図参照)。
―1826年における、ショパンの夏休みのスケジュール― |
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8月 |
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9月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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1 |
2 |
3 |
4 到着? |
5 |
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1 |
2 |
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6 |
7 |
8 |
9 |
10 演奏会? |
11 ニコラ宛 |
12 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
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13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 コルベ宛 |
19 ジヴニー |
10 |
11 出発 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
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20 |
21 |
22 ワル通信 |
23 |
24 |
25 |
26 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
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27 |
28 |
29 エルス宛 |
30 |
31 |
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24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
そして今回の「エルスネル書簡」でも、前回の「コルベルク書簡」同様、ショパンはその事について一切触れていない。
ちなみにヘドレイは、この手紙について以下のような解説を加えている。
「ライネルツにいる間、ショパンは2人の孤児に援助をするために、小さなコンサート・ホールで2回演奏した。しかし、ワルシャワ音楽院の学院長であるユゼフ・エルスネル宛の手紙で、その公開演奏について言及されていないのは注目すべき奇妙な事である。ショパンは彼に師事して今年の秋から本格的に音楽の勉強を始めると言うのに。」 アーサー・ヘドレイ編『フレデリック・ショパンの往復書簡選集』 Arthur Hedley/Selected
Correspondence of Fryderyk Chopin(McGraw-Hill Book Company、Inc. London)より |
これも、前回紹介したウィエルジンスキの解説にあった、「とにかく、二日後に書いたコールベルク宛の手紙には、何もそのことには触れていなかった」と全く同じ疑問である。
ヘドレイの英訳版選集は、シドウの仏訳版を原著にしている。ヘドレイは、そのシドウ版に掲載されていた「19日」付の「ジヴニー書簡」を自著の選からは外した。が、しかしまさか読んでいないなどと言う事はあり得まい。それなのに、どうしてこのような疑問を抱いてしまうのだろうか?
繰り返しになるが、こんなのは「奇妙な事」でも何でもない。
前回も書いたように、ショパンはもうすでに、「父上に宛てた11日付の手紙」を通して、「慈善コンサート」についての話はワルシャワ中の友人知人達に報告済みなのだ。だからいちいち同じ内容を重複させて書く必要がないのである。
「十八世紀は書簡文の全盛期といえるほど、人々は手紙を頻繁にやり取りしていた。しかも手紙自体が長く克明なだけでなく、手紙を出す前にコピーをわざわざ残しておくなど、手紙は後世のための記録として明確に意識されていた。特に旅先からの手紙は、友人たちの間で回し読みされたり、集まった近所の人々の前で読み上げられたりするのが通常だった。旅に出る人が非常に少なかったうえ、情報や娯楽の乏しかった当時としては、こうした旅先からのホット・ニュースは貴重な情報源であり気晴らしの種にほかならない。」 本城靖久著 『馬車の文化史』(講談社現代新書)より |
ショパンの時代は19世紀だが、事情はほとんど変わっていない。
それを裏付ける証拠をここでお見せしよう。以下に抜粋した手紙の記述は、全て、「ショパンがワルシャワの家族に宛てた手紙がエルスネルにもきちんと報告されている」と言う事実を証明する文書の数々である。
ショパンよりヨーゼフ・エルスナー(※ユゼフ・エルスネル)に 「ヴィーン 一八三一年一月二十九日 親愛なるエルスナー先生 …(略)…こんなに長くご無沙汰いたしましたのは、一つには両親よりわたしに関する最も興味あるニュースは逐一先生にお知らせ申し上げておることと思っておりましたことと、一つにはわたしの計画がなにか確定いたしました上でお知らせいたしたく存じておりましたからでございます。…(略)…」 ルドヴィカ・ショパンよりパリのフレデリックに 「ワルシャワ 一八三一年十一月二十七日 ……カルクブレンナーは賛美の念でわたしをいっぱいにしてくれました。ところが次の日わたしたちはエルスナー先生にお目にかかりに参りました。…(略)…どうも上手に現せないのですが、間違っていたらごめんなさい。先生はあなたの手紙をわたしが読むのをおききになるや、たちまちカルクブレンナーさんのご提議にご不満の意をあらわされ、「ああ、まぎれもなく嫉妬だ! 三年とは!」とさけばれました。…(略)…」 ショパンよりヨーゼフ・エルスナーに 「パリ 一八三一年十二月十四日 親愛なるエルスナー先生 …(略)…両親からわたしの演奏会は二十五日に延期されたことは、きっとお知らせいたしておると存じます。それをまとめるにはたいへんな面倒がございました。…(略)…」 ヨーゼフ・エルスナーよりショパンに 「ワルシャワ 一八三二年十一月十三日 親愛なるフレデリック、親愛なる友よ わたしのことを思い出させるために手紙を書くのではない。君が家に出した手紙で君がまだわたしを優しく憶えていてくれることを十分知っているから、そんなことをする必要はない。…(略)…」 アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳 『ショパンの手紙』(白水社)より |
このように、ショパンがワルシャワの家族に宛てた手紙は、恩師エルスネルにもその内容が「逐一」報告されているのである。
したがって、当然ライネルツでの「慈善コンサート」についての話も、「8月19日」付の「ジヴニー書簡」で言及されていた「父上に宛てた11日付の手紙」を通して、すでにエルスネルやワルシャワの友人知人達にも知らされているのだ。もちろんショパン自身もそれを当然の事として分かっている。だから、いちいち同じ事を別の手紙で書く必要がないだけだ。
こう言った当時の実情を、ヘドレイは、こうして自著で紹介しているにも関わらず、それを「奇妙な事」と疑問に思ってしまっている訳である。
かつてヘドレイは、「ポトツカ贋作書簡」が世に出た時、それを偽物と考えて反対派の先頭に立ち、ウィエルジンスキのような擁護派と激しい論争を繰り広げていたものだった。シドウも擁護派の一人だったが、おそらくヘドレイは、そのシドウからシドウ版の英訳版を出版する約束を取り付けた際に、シドウに「ポトツカ贋作書簡」の掲載を思いとどまらせた一人だったはずである。
しかし、そんなヘドレイも、いざ自分が英訳版の選集を編纂する段になると、今度は、新たに出て来た「フィルチ贋作書簡」(※こちらはスキャンダル性が薄かったためほとんど議論の的にならなかったが)にまんまと騙され、それを自分の選集の目玉として独自に掲載してしまった。
このような事が起きてしまうのも、ひとえに、ショパン研究家を名乗る者達の情報処理能力や文章読解能力がことごとく「穴だらけ」であるがゆえだと言う事が、これでよくお分かり頂けたのではないかと思う。
さて、それはそうと、この手紙は、どういう訳かフランス語で書かれている。
と言うのも、実は、ショパンとエルスネルの間で交わされた手紙と言うのは、ショパンが1830年に祖国を旅立った後に数通交わされているのだが、それらはいずれも、両者の手紙は全てポーランド語で書かれており、フランス語で書かれているのはこの最初の1通だけなのである。
たとえば、チェコ出身のジヴニーがドイツ語でしか読み書きが出来なかったと言う話は前々回にしたが、実は、ビアウォブウォツキの継父であるヴィブラニェツキ氏も、ドイツ語でしか読み書きが出来なかった事がソウタンの著書に記されている。
現代の感覚では理解しにくいかもしれないが、当時のヨーロッパ各国の教育事情と言うのは複雑で、たとえば母国と母国語が一致していないとか、あるいは普段会話する言語と読み書きする言語が一致していないとか、そのような事は珍しい事でも何でもなかった。そもそも、それが何語であれ、読み書きができる事自体がむしろ珍しかったくらいなのだ。
本稿でニコラ・ショパンの少年時代を検証した際、当時のフランス人がどれだけ文字の読み書きが出来たかについての統計を紹介したが、その頃のフランスに比べれば、フレデリック・ショパンの少年時代のポーランドの方が、フランス革命の影響もあって遥かに教育に力を入れていた。ただし、ジヴニーやエルスネルと言った年輩の人々は、まだそのような恩恵には浴する事の出来なかった世代なのである。
それでは、当時のエルスネルは、まだフランス語でしか読み書きが出来なかったのだろうか?
ここでちょっと、エルスネルと言う人物について触れておきたい。
「…(略)…一七六九年、シロンスク地方のドイツ人家庭に生まれながら、ポーランド市民となることを選んだ音楽家、ユゼフ・エルスネルがそれにうってつけの人物だったことは疑いない。彼が書いた二七作のオペラはすべてテクストがポーランド語であるだけでなく、《レシェク白王》 《ウォキェテク王、あるいはヴィシリーツァの女たち》 《テンチンのヤギェウォ王》といった、いかにもポーランド的な王朝物を含んでいる。この他、交響曲、ミサ曲、オラトリオ、カンタータ、室内楽、多数のマズルカ、ポロネーズ、クラコヴィアク[クラコヴィアクはクラクフ地方の民族舞踏]などの舞曲を作曲したエルスネルは、疑いもなくポーランド国民音楽の創始者であった。」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
エルスネルはドイツ出身だが、ポーランド語の歌曲をこれだけたくさん書いているのだから、かなり早い時期からポーランド語で読み書きができたと考えるのが自然だろう。
残念ながら、現段階では、なぜこの手紙だけフランス語で書かれたのかと言う謎は、ひとまず棚上げせざるを得ない。
一つだけ考えられるとしたら、当時のポーランドの貴族社会では、手紙はフランス語で書くのが嗜みとされていたから(※ポーランドにおける郵便の宛名書きがフランス語なのも、元々そこから来ている)、この時のショパンが、恩師への手紙をそのような畏まったものとして位置付けて書いたのではないか?と言う可能性である。
この手紙が、ショパンが初めてエルスネルに書いたものである事から、おそらくショパンは、このように畏まった文章を手短に済ませるには、ポーランド語よりもフランス語の方が都合がいいとも考えていたのかもしれない。
と言うのも、この手紙には、前回紹介した「コルベルク書簡」と重複する内容の記述が見られるのであるが、その同じ内容を、コルベルク宛では具体的かつ詳細に腹を割って書いていたのに対して、エルスネル宛では極めてあっさりと済ませているからだ。
たとえばこんな具合にだ。
■ライネルツのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワのヴィルヘルム・コルベルクへ■ (※原文はポーランド語) |
■ライネルツのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワのユゼフ・エルスネルへ■ (※原文はフランス語) |
「ライネルツ 1826年8月18日 親愛なるヴィリス! ボロニィ、ソハチェフ、ウォヴィチ、クトノ、クウォダヴェン、コウォ、トゥレク、カリシュ、オストルフ、ミェンヅィブルズ、オレシニツァ、ヴロツワフ、ニムスフ、フランケンシュタイン、ヴァルテン、グラーツを通過したのち、僕達はライネルツに到着し、そこに落ち着いている。――2週間、」 |
「ライネルツ 8月29日 拝啓、 私達がライネルツに到着して以来、」 |
「僕はヴェイや地元の水を飲んでいる;みんなから少し元気そうだと言われるが、僕は太って今まで以上に怠け者になった、」 |
「新鮮な空気とヴェイをしっかりと飲んだお陰で、ワルシャワにいた時とは別人のように良くなりました。」 |
「僕が長い間ペンを取る気にならなかったのはそのせいだと思ってくれたまえ。しかし信じてくれ、僕が送ってる生活ぶりを知ったら、家でのんびり坐ってるような時間を見つけるのが難しい事を君も認めてくれるだろう。――朝、遅くとも6時までには、病人は全員、鉱水の出る井戸に集まる;そこでは、ゆっくり散歩してる療養温泉の客のために、ひどい吹奏楽隊が演奏していて、これがまるで漫画のキャラクターを1ダースほど集めてきたような連中で、率いるファゴット吹きはやつれてて、鼻がかぎタバコで汚れて斑点みたいになってて、ご婦人方はみんな馬を怖がって飛び退くみたいに驚いている;そこでは、ある種の夜会、と言うか仮面舞踏会があるが、誰もが仮面を着ける訳ではなく、少数だけだ、なぜなら、それらは店が用意しているので、その他は付き合いで首を吊っている。 ――療養所から町を結ぶこの素晴らしい遊歩道には、朝飲まなければならない鉱水のコップの数にもよるが、たいてい8時まで行列が続く、それから(みんな一緒に)朝食に行く。――朝食の後、僕はいつも散歩に出かけ、12時までに戻る、昼食を食べなければならないからで、昼食後、再び鉱水の井戸に行かなければならない。昼食後の仮面舞踏会は、たいてい朝のよりもいくらか盛大になり、みんな朝着ていたのとは違う衣装を見せびらかしている! 再び不愉快な音楽があって、それが夕方まで続く。僕は、昼食後は温泉水を2杯飲めばいいだけなので、割と早く夕食に帰れる。夕食後は眠りに就く、だから、これでいつ僕に手紙が書けると言うのか?...そんな次第で、僕の毎日は、こんな調子で次々と過ぎて行く。あまりにも早く過ぎ去るので、もう長い事ここにいるが、まだ僕はどこも見ていない。 |
「私はあなたに手紙を書く事を楽しみに期待しておりましたが、しかし私の時間はすっかり治療のために取られてしまい、これまでずっと書く事ができずにおりました。ようやく今になって、あなたとのお話しを楽しむ時間を見つけ、あなたに頼まれていた仕事をやり遂げた事をご報告いたします。」 |
「本当は、ライネルツを囲む山の中を歩き、しばしばこの土地の渓谷の眺めにうっとりしているが、しかし降りるのは苦手で、時折四つん這いになっている。ただし誰もが行ってるのに僕が行ってないところがある。僕には禁止されているのだ。ライネルツの近くにホイショイエルと呼ばれている岩山があって、見事な景色なのだが、頂上の空気が健康に良くないとの事で、すべての人が行けると言う訳にはいかず、残念な事に僕もそんな患者の一人だ。 だけど気にしないさ;僕は「隠者の住みか」と呼ばれている山にすでに行って来た、なぜならそこに隠者がいるからだ。ライネルツで一番高い所に上がって、百歩と十いくつかの石段を真っ直ぐ垂直に登らなければならない。そこからライネルツ全体の壮大な景色が見渡せる。僕達はホーエンメンツェと言う所にも行くつもりで、そこは美しい環境にあると言われている;実現するのを期待している。」 |
「風光明媚なシレジア地方が提供してくれる絶景は私を喜ばせ、魅了してくれます」 |
このように、コルベルク宛に比べたら、エルスネル宛の方はどれも単なる「あらすじ」でしかない事が歴然と分かるだろう。
その長さや詳しさの違いはともかくとして、このように両者の内容が重複しているのは、家族宛の場合とは違って、同じワルシャワに住んでいながら、コルベルク宛の手紙をエルスネルが読む可能性がない事を示唆している。
つまり、基本的に一般の学生で音楽は趣味でしかないコルベルクには、専門の音楽教師であるエルスネルとは個人的な付き合いがないと言う事なのである。
だからショパンは、あんなに長い手紙をコルベルクに出しておきながら(※おまけにその翌日には「ジェヴァノフスキ」にも「返事」を書いているはずである)、エルスネルに対して「嘘も方便」みたいな事が平気で書けてしまうのである。
ほとんど同じ内容の手紙を、同世代の友人宛に書くのと、年輩の恩師宛に書くのとでは、誰もがこのように雲泥の差となって表れる事だろう。ショパンもまた例外ではない事を思うと、なんだか微笑ましくなってくる。
このポーランド語とフランス語の違いは、あたかもその事を象徴しているかのようである。
さて、エルスネルについてもう少し見てみよう。
「シレジア生まれのエルスナーはブレスラウで学んだ後、モラヴィアの町ブルノでヴァイオリニストになり、その後、東ポーランドのルボフで指揮者を勤めるようになった。」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社/1991年)より |
これを見ると、今回ショパンが旅して回った土地は、いずれもかつてエルスネルの地元であったり、彼の縁の地だったりしていた事が分かるだろう。
ショパンはエルスネル宛の手紙で「シュナーベルさんとベルナーさんに関しましては、私が帰りの途中でブレスラウに立ち寄るまで、あなたのお手紙をお渡しできないでしょう」と書いている。つまりその「シュナーベルさんとベルナーさん」と言うのは、エルスネルが「ブレスラウで学んだ」時代の同僚か何かで、それで彼はショパンに「仕事」を頼んで手紙を渡してもらう事になっていたのである。
要するに、今回のライネルツの旅は、ショパンにとっては言わば恩師の故郷を訪ねる旅でもあった訳で、だからショパンは、行く先々でエルスネルの教え子として歓待される下地がすでにあったと言う事なのである。これなら旅の途中の宿泊代も浮くので、ショパン家にとっては願ったり適ったりだったはずである。
するとここで、一つの疑問が浮かび上がってくる。
ショパンはコルベルク宛の手紙の冒頭で、ワルシャワからライネルツに行く途中で「ヴロツワフ」を通ったと書いていた。この「ヴロツワフ」と言うのは「ブレスラウ」のポーランド語名なので、つまり同じ土地の事である。と言う事は、ショパンは行きの旅程では「シュナーベルさんとベルナーさん」に会っていなかった事になる。
引っ掛かるのはこの点だ。
なぜショパンは、行きの旅程では「ヴロツワフ(=ブレスラウ)」で「シュナーベルさんとベルナーさん」に会わず、帰りの旅程で会う事になったのか?
ショパンがエルスネルから「頼まれていた仕事」として託されていた手紙は、ショパンがワルシャワを発つ際にすでにエルスネルから手渡されていたはずである。
ただし、もう一つの可能性として、「ライネルツ到着後にエルスネルが郵便でショパンに送ってきた」とも考えられない事はないが、それは少し無理があるだろう。それなら最初から直接本人宛に出せばいいような話になってしまう。
そもそもエルスネルがショパン託した手紙と言うのは、単にエルスネルが旧交を温めるのが目的の手紙ではなく、彼らとショパンを引き合わせるための紹介状を兼ねていたはずなのだ。だからこそ、それは、ショパンが直接彼らに会って手渡さなければ何の意味もないものであり、したがって、エルスネルは最初からそのつもりでショパンをライネルツへ赴かせていたはずで、だから当然手紙はワルシャワを発つ際に手渡してあったはずなのだ。
「一八一八年からユゼフ・エルスネルもしばしばドゥシニキ(※ライネルツ)を訪れているので、おそらく彼がショパンにドゥシニキ行きを勧めたのではないだろうかと推察される。ドゥシニキには毎年、ヨーロッパ各地から多くの知識階級のエリートたちが訪れることを知っていたエルスネルは、当時ピアニスト・作曲家としてまだ世間にはそれほど知られていなかったショパンにとって、影響力のある人々と近づきになる機会が持てるのではないかと思っていたようである。」 アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳 『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より |
つまり、「ラッツェルさん」も「シュナーベルさんとベルナーさん」も、そんな「影響力のある人々」だったと考えられる。
そうすると、最初にショパン一行がライネルツへ向かった際、「ヴロツワフ(=ブレスラウ)」は通ったものの立ち寄りはせず、「シュナーベルさんとベルナーさん」にも会う事なしにそのままそこを素通りしてしまったのは、なおさら腑に落ちないと言う事になるだろう。
要するに、ショパン一行は、行きの旅程では最初から「ヴロツワフ(=ブレスラウ)」には立ち寄るつもりはなく、帰りの旅程で「シュナーベルさんとベルナーさん」に会う予定だったと言う事なのである。
つまり、彼らは一日も早くライネルツに着きたかったのだ。だから恩師の知人を訪ねるのは、時間的にゆとりの持てる帰りの旅程にと、そう予定を組んでいたのである。
ショパンがライネルツに到着したのは、「コルベルク書簡」の記述によれば「8月4日頃」であるが、これについては、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカの著書では以下のように書かれている。
「ウォヴィチ、カリシュ、ヴロツワフを経由しての七日間の旅の末、ユスティナ夫人と子供たちは、一八二六年の八月三日ライネルツ入りし、ジェローナ通り六番地に住むビェルゲルという人物の家に五週間の予定で滞在することになった(建物は存在しない)。」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
この「七日間」と言うのが何を根拠にしているのかは不明だが、たとえば、去年ショパンがシャファルニャを訪問した時、その旅程は「3日間」を要していた事が「ビアウォブウォツキ書簡・第2便」の記述から分かっている。
シャファルニャは、ワルシャワから北西150キロの距離にある。では、ライネルツはどうかと言うと、地図上で確認すると、ライネルツはワルシャワから南西へ約300キロ以上も離れた最果てに位置しており、ほとんどチェコとの国境近くにある。
つまり、単純にシャファルニャの2倍強であるから、「七日間」と言うのが事実なら、それはほぼ、全く寄り道をせずに真っ直ぐ現地へ向かったと考えられるだろう。
それでは、なぜ彼らはそんなに急いでいたのか?
1. それは、まず第一に、これは当然の事だが、エミリアの病状が思わしくなかったからである。
2. そして第二に、これはあくまでも私の憶測だが、ワルシャワを発つ前に、すでにショパンが「慈善コンサート」の出演を打診されていたからだったのではないだろうか?
私がそう考える根拠は、以下の事実に基づいている。
「風景の神秘的な美しさはドゥシニキの住民の誇りであったが、それが彼らに芸術、特に音楽への情熱をも呼び起こした。一五九一年には既に地元の教会の庇護のもとで、聖女ツェツィリア(音楽の守護聖人)の名による組織が音楽会を開催し始めたが、それが十九世紀の初めからでき始めたさまざまな音楽団体の最初になった。 ドゥシニキには、有名な芸術家たちもしばしば訪れていた。一八二三年には当時十四歳のメンデルスゾーンが、ドゥシニキに冶金鋳造工場を持っていた伯父を訪ねてやってきた。彼は、その年で既にドイツで高く評価されていたが、ドゥシニキでも慈善コンサートを開き、当時彼が宿泊し、現在では「ブラボヴニァ」保養所となっているところに、彼の滞在を記念するプレートが掲げられている。」 アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳 『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より |
つまり、当時17歳のショパンがライネルツで「慈善コンサート」を開く3年も前に、「当時十四歳のメンデルスゾーン」がすでに当地で全く同じ事をしていたのだ。
「一八一八年からユゼフ・エルスネルもしばしばドゥシニキを訪れている」と言うからには、エルスネルがそれを知らない訳がない。ショパンと全く同い年でありながら、しかも「既にドイツで高く評価されていた」と言うメンデルスゾーンに対して、エルスネルが自分の愛弟子を良きライバルとして重ね合わせていなかったなどと、どうして考えられるだろうか?
アトウッドは、エルスネルについてこうも書いている。
「このように経歴はりっぱなものであったが、自分は十六世紀から十七世紀にかけてポーランドを治めた王家ヴァサ一族の流れをくむスウェーデン人だなどと吹聴する一面も持っていた。だが、こういうややうぬぼれの強いところを別にすると、文句なしにりっぱな人物だった。」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社/1991年)より |
これは、ややもすると、私が本稿でたびたび触れているところの「悪しきポーランド的風潮」に通じかねないものでもある。
エルスネルがショパンに対して唯一見誤っていた点は、後年、彼がショパンにポーランド・オペラを書く事を強く勧めていた点である。これは、エルスネルの持つ愛国心の強さが優先しすぎたがために、そのせいでショパンの才能の本質を見誤ってしまった事から生じた誤解と言えるだろう。だからエルスネルには、なぜショパンがあれほどまでに標題音楽を嫌っていたのか、その本当の意味が理解できないのである。その意味が理解できていたら、決してショパンにオペラを書けなどとは言わない(※この問題については、その時にまた詳しく説明しよう)。
要するに何が言いたいのかと言うと、ショパンがライネルツで行なった「慈善コンサート」は、かの地で突発的に起きた事件ではなく、予めそれをする目的を持ってワルシャワを出発していたのではないか?と言う事なのだ。つまり、ライネルツにいるエルスネルの知人からその話が持ちかけられていて、それでエルスネルがショパンを当地へ向かわせた可能性が、私にはどうしても捨てきれないのである。
つまり、「あなたに頼まれていた仕事をやり遂げた事をご報告いたします。私の力の及ぶ限りで最善を尽くしました」と言うのは、単に手紙の配達だけを指しているにしてはあまりにも大袈裟すぎる言い方であり、正しくその事を指して言っているのではないだろうか?と…。
私がそう考えるもう一つの根拠は、「慈善コンサート」が行なわれた日程にある。
2回行われたとされているコンサートのうち、少なくとも一つが「11日」以前に行なわれている事だけははっきりしている。そうすると、ライネルツに着いたのが「三日」であれ4日であれ、いずれにせよ到着から1週間足らずのうちにコンサートが行なわれていた事になる。
もう一度言うが、「コンサート」が、である。
仮にこれが「ピアノ・ソロのリサイタル」だと言うのなら、会場とピアノさえ用意できれば、そこにショパンが行き、自分がすぐに弾ける曲だけ数曲弾いてみせればそれで済んでしまうかもしれない。
しかし、これはそうではなく、ショパン以外にも共演者や出し物のある「コンサート」なのである。
要するに、たった1週間足らずの間に、ショパンが同情心を抱くほどの人物が都合よく亡くなり、それを受けて突発的に「慈善コンサート」を企画し、実行できるような、そんな事が現実的に可能だと言い得るような代物だろうか?と言う事なのだ。
前回も書いたように、それが「コンサート」であるからには、それが「慈善」だろうと何だろうと、どう頑張ってもそれなりの準備期間が必要なのである。
それに、ショパンはすでに1818年にワルシャワでも「慈善コンサート」に出演しているが、それはワルシャワの「慈善協会」が主催したものであり、そこに若干9歳のショパンが共演者として招かれ、名を連ねていたものだった。これも、あらかじめ用意周到に企画され準備されていたものであって、決して突発的な事故や事件に誘発されて急遽行なわれたものではない。また、去年1825年のワルシャワでの「慈善コンサート」でショパンが「エオロパンタレオン」と言う楽器のお披露目演奏を請け負った時も同様で、こちらはワルシャワ音楽院の主催だった。要するに、ショパンが今までに出演した公開演奏会は、ライネルツのものも含め、その多くが「慈善コンサート」なのである。これらは、ショパンがまだプロではなく、あくまでもアマチュアであった事とも無関係ではない。
ライネルツでも、「地元の教会の庇護のもとで、聖女ツェツィリア(音楽の守護聖人)の名による組織が音楽会を開催し始めた」と言うからには、そういった「慈善コンサート」を行なう下地がすでにあり、だからこそ若干14歳のメンデルスゾーンにもそれができたはずなのである。
そう考えると、ショパンが行なったとされている「慈善コンサート」も、何か、予めそういった基盤の上に成り立っていたのではないかと言う印象を拭えないのだ。
しかしながら、所詮こう言った仮説も、あくまでも私が個人的に、あらゆる資料を総合して現実的に導き出した「物語」の一つでしかない。
結局のところ、若きショパンの美談として語り継がれている「ライネルツ伝説」の舞台裏は、依然として謎のままであり、「H.G.」の「物語」の方に共感するか、それとも私の「物語」の方により共感するかは、読む人それぞれのものである。果たしてあなたはどう思われたであろうか?
次回からは、再び「真実の友情物語」へと舞い戻る事にしよう。
[2010年12月19日初稿 トモロー]
―次回予告―
次回、ショパンとビアウォブウォツキの「友情物語」のその後を徹底検証する、
をお楽しみに。
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