検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――
Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–
11.行間から読み取れるビアウォブウォツキからの返事(その2)――
11. The answer from Bialoblocki to be able to read from the space between the lines(Part 2)-
今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡・第9便」である。
今回も、前回以上に初登場の人物名が満載だが、敢えて、まずは註釈なしに読んでいただきたい。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第9便)■ (※原文はポーランド語) |
「ワルシャワ 聖霊降臨節2日目[1826年5月15日 月曜日] 大切な、親愛なるヤシ! 本当に恥ずかしい、君からの手紙に対する返事がこんなに遅くなってしまって。しかし、僕の身に常に付き纏っている様々な事情のせいで(君も以前このような事で苦労しただろうから、今年の僕がどんな状態にあるか想像できるだろう)、ずっと書きたいと思っていたのに回答できずにいたんだ。任務は部分的に遂行したよ、君のために楽譜を買った、これは、僕の好みから推測して、君のように家に閉じ篭っている者を気持ち良くさせるためのものだ。グルックスベルグの件に関して言うと、パパが自分から彼を訪ねて行ってくれた。しかし、彼がパパに言うには、彼は月毎にしか販売をせず、まだカタログがないし、一度に多くの作品を供給する事はできないんだそうだ。それはまだいいとしても、1ヶ月あたり1ターレル要求し、最悪なのは、カタログがないからどの作品を選んだらいいのかが分からない事だ。僕は楽譜を買ったものの、まだヴィソツキに渡していない。その中にはたくさんのエウテルパがあり、これはロッシーニのアリアとその他の小品を集めたもので、ウィーンのディアベリによって上手くピアノ用に編曲されている(この作品は歌えばフィロメラになる)。それと、カチコフスキのポロネーズだ、非常に素晴らしく、美しい、一言で言えば、聴いていて楽しめる作品であり(つまり、敢えて言わせてもらえば、君の錆び付いた指をも動かす事だろう)、また、君の要望に従い、僕自身のつまらないもの(小品)もいくつか添えておく。これは全部、間違いなく今週中にはヴィソツキの許にあるだろう。 君がビショフスヴェルダーを発ったと言う知らせが、僕をどれほど喜ばせたか君は信じられないだろう。ただし、嬉しいとは言いながら、もう一方でそれは僕を悲しませた。僕が思うに、敬愛するヤン君、(君は)ドイツ的美徳を習得したと見える。昔なら、君は僕を招待してくれていたのに、今はここを離れるなと勧めなさる! なんて呪われたドケチだ、どうにも言葉で言い表せないよ! 少なくとも、そんな事を勉強するためにビショフスヴェルダーに出向いた訳ではなかろう。僕が考えていた最も素晴らしい計画も予定も、今やすべて水の泡になってしまった。僕が当てにできると思っていた誰かさんは、どうせ金をケチる事でも考え始めたんだろう。僕は、本当のところ、それほど君の気分を害するつもりはない。延期されたとしても、失われた訳じゃない、今回がダメなら、いつかそのうちに、満足させてもらうさ。とは言え、ビリヤードは無しだよ、どうせ君が勝つだろうから。なぜって、僕の(道具)はロゴジンスキにあげちゃったからさ。彼は何か描いているはずだ。ロゴジンスキと言えば、ポドゥビエルスキを思い出す。彼の不幸な出来事について、君に説明しなければならない。それは3ヶ月前の話で、…[手紙の端が破れていて判読不能]…彼は風の吹くまま、何処かを歩き廻って、足が麻痺してしまった。足も手も動かなくなった。最適任者であるザビエウォが治療しているけれど、病気が治ると期待して良いだろう、なぜなら、少し良くなっているからで、電気治療が彼を幾分か助けた。レムビエリンスキについては、以前君に書いた事あるけど、彼の事をよく見かける。彼がいかに綺麗に弾くか、信じてくれないだろう。先日、僕のところに来た。非常に嬉しかった。ワルシャワのニュースに関しては、君は通信を読んでいるだろうから、個人に関する情報としては、グットゥコフスキ大佐が足を打って死んでしまったと言う事のみ教えよう:ズベレヴィッツに娘が生まれた;ヤロッツキがポドレ地方で結婚し、結婚式の後、すぐに奥さんを連れて来た;1週間前の日曜日になるが、僕はザモイスキ家を訪問した。そこでは、夕方、ドゥゴシュの作ったエオリパンタリオンをみんなが賞賛していた。ドゥゴシュはこのエオリパンタリオンを1つ、ムニフスキという人(彼は昔プルスキ伯爵夫人の所にいたが、今じゃ結婚している。すばらしいスルドゥット(長めの上着)を着ていた)に売った。コシンスキが亡くなった。ヴェルケに娘が出来た。ドモヴィッチがこの前ワルシャワに来て、君によろしくと言っていた。今、僕は楽譜を入れる整理棚を持っている。最後に、靴の裏に穴が開いた、だから、スリッパのようなものを履いている。僕がビエラニ地区へ行くと誰かが思うかも知れない、守衛が許可してくれるように交渉をするために…[手紙の端が破れていて判読不能]…そのビエラニ…[判読不能]…今年たくさん。庭園、僕の植物園、つまり例の古い宮殿の裏の別名だが、宮殿管理委員会が命令してそれを綺麗に手入れさせた。そこにはもう、春が近付くとおいしくかじっていたニンジンがない。つまりサンドイッチも、木陰の休息所も、サラダも、キャベツもない。悪臭もないけどね。ただ英国風の花壇があるだけだ。僕は、今頭に浮ぶ事を全部、1時間の4分の1で書き留めた。だからもう何も残っていない。僕が生きている限り、常に君を思っている事を保証する以外は。 ママとパパと僕は、君のパパに敬意を送る。今のところ君は敬意を要求して来ないので、君にはただよろしくと。子供達みんなからは、コンスタンチア嬢のにキスを、僕からは彼女の手に。 デケルト夫人、ジヴニー氏、バルジ氏、その他の人たちからもよろしくと。 君は長い事僕の手紙を読んでいなかったから、きっとこの手紙の意味が理解出来ないだろうが、許してくれたまえ。僕は郵便局へ急がねばならないので、読み返している時間がないのだ。 F.F.ショパン 」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue
Musicale)、
スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej
Młodzieży Akademickiej)、
及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』
Krystyna Kobylańska/CHOPIN
IN HIS OWN LAND(Polish Music Publications、Cracow)より
※
ソウタン版の註釈には、「使用された用紙は白、2枚、各用紙のサイズ:25 x 19cm。透かし模様:縦線とイニシャル。」とある。これは、サイズは微妙に違うが、透かし模様自体は第7便、第8便に使った便箋と同じである。
まずは手紙の日付[1826年5月15日 月曜日]について。ソウタンは次のように説明している。
「手紙の原文では、下記の内容の文節を読み取る事が出来る:“聖霊降臨節2日目” ※ “聖霊降臨節”とは、復活祭の日曜日から数えて50日目(7週後)の日曜日で、聖霊が使徒達の上に降りた事を記念する日。復活祭は春の満月後の最初の日曜日(国によっては翌日の月曜日まで休日)。その名の通りキリストの復活を祝う日で、クリスマスと並ぶ大きな祭日。これらは移動祝祭日なので、毎年違う日付になる。 その他の日付は、紙の端が破損しているため読み取る事ができない。おそらく、疑いなく下記の通りであろう: この手紙は“聖霊降臨節”の翌日に書かれたもので、それが1826年であれば、5月15日の月曜日となる。1826年である事は、下記の状況による: a.
ビアウォブウォツキがビスクピエツ町(ビショフスヴェルダー)へ赴いた事は、1825年の秋に彼が書いた手紙から知る事が出来る。 b.
ポドゥビエルスキの“不幸”については、ショパンが次の第10便でも説明しており、それは1826年6月の事である。“自分にとって偶然とは言え、元気にしている”。これは、この第10便が第9便の後、間もなく書かれた事を証明しており、したがって、少なくともこれと同じ年、すなわち1826年(仮に第10便の日付を1826年とする我々の推測が正しければ)である事は明らかである。 c. 手紙の中に出て来る文節“レムビエリンスキについては、以前君に書いた”、すなわち、ショパンがこの人物の事を書いたのは1825年10月30日付けの第5便であった。 d.
グットコフスキが1826年5月1日に亡くなった事を知らせた文節。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
この推定には、何ら問題はないようである。
それでは、手紙の内容の方を順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#1. |
「ワルシャワ 聖霊降臨節2日目[1826年5月15日 月曜日] 大切な、親愛なるヤシ! 本当に恥ずかしい、君からの手紙に対する返事がこんなに遅くなってしまって。」 |
前回も書いた通り、ショパンはここに至ってようやくビアウォブウォツキから手紙をもらう事ができ、それに対してこうして返事を書いている訳なのだが、この書き出し部分を、前回の第8便の書き出しとちょっと比較してみよう。
(第8便)#1. |
「ワルシャワ、1826年2月12日 [日曜日] 親愛なるヤシ! あまりにも長い事君から知らせが届いていないので、僕はひどく残念に思っている。僕が前に手紙を書いたのは1825年で、もう1826年だというのに、この間、君から手紙を1通ももらっていない!」 |
そしてショパンはこのあと散々文句を書き連ねた挙げ句、こう書いていた。
「これだけ意見したんだから、この手紙に対する返事は確実だろうと期待している」
で、それを受けて、ビアウォブウォツキは今回、いつ頃ショパンに「返事」を寄こして来ていたのだろうか?
それについては、具体的な日付までは特定できないが、ショパンは今回の手紙の中で、「月毎にしか販売をせず、まだカタログがない」と言うトラブルについて書いている事から、最大に見積もっても1ヶ月前後猶予が見込まれるため、だいたい1ヶ月前くらいだったのではないかと思われる。
ショパンにしてみれば、ビアウォブウォツキからもらった手紙に返答するまで1ヶ月も空いてしまえば、冒頭に「本当に恥ずかしい、君からの手紙に対する返事がこんなに遅くなってしまって」と書くのも当然であろう。
そしてこの仮説が正しいとすると、今回のビアウォブウォツキの沈黙期間は、だいたい3ヶ月半〜4ヶ月くらいはあったものと考えられる事になる(※下図参照。■がビアウォブウォツキからの手紙、■がショパンの手紙)。
1825年/12月 |
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この長い沈黙期間に、一体彼の身に何があったのかと言うと、再三に渡って触れてきたように、ビアウォブウォツキは、こたびの「ビスクピエッツ町(ビショフスヴェルダー)に於ける温泉療法」の傍ら、おそらく12月下旬頃に、「外科的な治療」の診察のために外科医の許を訪れていたはずなのである。そしてその診察結果を、彼はジヴニーに「新年の8日後(元旦から8日後まで)」に知らせるよう密約を交わしていた訳である(※下図参照)。
1825年/12月 |
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つまり、その診察結果が、ビアウォブウォツキにとって残酷な現実を突きつけていたために、彼はしばらくの間そのショックから立ち直れずにいた…と言う事なのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#2. |
「しかし、僕の身に常に付き纏っている様々な事情のせいで(君も以前このような事で苦労しただろうから、今年の僕がどんな状態にあるか想像できるだろう)、ずっと書きたいと思っていたのに回答できずにいたんだ。」 |
※
この箇所については、ソウタンの註釈にこうある。
「おそらくショパンは、彼が、高等中学校の終学試験に関して準備している事に言及している。衆知の通り、それは1826年7月にある。ビアウォブウォツキが“苦労しただろう”とは、彼の高等中学校の終学試験が1823年にあった事を指している。」
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#3. |
「任務は部分的に遂行したよ、君のために楽譜を買った、これは、僕の好みから推測して、君のように家に閉じ篭っている者を気持ち良くさせるためのものだ。」 |
ここで、ビアウォブウォツキがショパン宛に何を書いて来たのか、まずその一つが分かる。
今回ビアウォブウォツキは、ショパンに色々と頼み事をして来ていたようで、そのうちの一つが「楽譜」を買ってもらう事だった。それも、何か特定の曲目を指定して来ている訳ではなく、ショパンの「好み」で何か適当に選んで欲しいと言う事だったらしい。おそらくビアウォブウォツキは、「外科的な治療」の診察結果によるショックからようやく立ち直り始め、その救いを音楽に求めていたのかもしれない。
そこでショパンが考えたのが、こう言う時には楽しく軽快な曲ではなく、ゆるやかな癒し系の曲がいいだろう…と言う事のようである。彼自身の経験から言っても、病気で家に閉じ篭っている時には、そういう音楽が聴きたいと思うからで、そしてそれは、おそらく誰もが同じなのではないだろうか。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#4. |
「グルックスベルグの件に関して言うと、パパが自分から彼を訪ねて行ってくれた。しかし、彼がパパに言うには、彼は月毎にしか販売をせず、まだカタログがないし、一度に多くの作品を供給する事はできないんだそうだ。それはまだいいとしても、1ヶ月あたり1ターレル要求し、最悪なのは、カタログがないからどの作品を選んだらいいのかが分からない事だ。」 |
※
「グルックスベルグ(グリュクスベルグ)」は、ソウタンの註釈によると、「ナタン・グルックスベルグ(Natan
Glüksberg)、名声を博した出版者、ミオドヴァ(Miodowa)通り、テッペル広場(Plac Teppera)で本屋を開業していた。」とある。
要するに、この「カタログ」が来るまでは曲が選べず、楽譜も買えない訳だから、それが来るのを待っている間、返事も書けずに遅れてしまっていたと言う訳である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#5. |
「僕は楽譜を買ったものの、まだヴィソツキに渡していない。」 |
この「ヴィソツキ」と言う人物については詳細が不明だが、おそらく、ビアウォブウォツキに近い関係者なのではないだろうか。
ショパンは、手紙は彼が自分で郵便で送るが、それ以外の楽譜はかなりの量のようなので、当然料金もかさむため、おそらくビアウォブウォツキの方で、この「ヴィソツキ」なる人物に頼んで届けてもらうよう手配してあったものと想像される。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#6. |
「その中にはたくさんのエウテルパがあり、これはロッシーニのアリアとその他の小品を集めたもので、ウィーンのディアベリによって上手くピアノ用に編曲されている(この作品は歌えばフィロメラになる)。」 |
※
以下、ソウタンの註釈より。
1.
「エウテルパ(ユテーピ)」⇒「音楽の女神(ギリシャ神話)。」
2.
「ロッシーニ」⇒「ヨアヒム・ロッシーニ(Joachim Rossini、1792−1868)、優秀なイタリアの音楽家。」
3.
「ディアベリ」⇒「アントニ・ディアベリ(Antoni Diabelli、1781−1858)、サロン向け音楽の作曲家で、あの当時のウィーンの有名な音楽本屋(印刷されたもの)を開業していた。」
4.
「フィロメラ(ピロメラ、ピロメーラー)」⇒「フィロメラ(Philomela) ― アテネの伝説の王様、パンディオーンとゼウスの娘。ギリシャ伝説によれば、小鳥ナイチンゲール(美しい声で鳴く)に変えられたと言う。」
ショパンは、自分が素晴らしいと思う作品を、ギリシャ神話の神や登場人物になぞらえて表現している。今後もその手の引用は時々あるが、このような事はショパンに限らず、ヨーロッパの人にとっては極日常的な事である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#7. |
「それと、カチコフスキのポロネーズだ、非常に素晴らしく、美しい、一言で言えば、聴いていて楽しめる作品であり(つまり、敢えて言わせてもらえば、君の錆び付いた指をも動かす事だろう)、」 |
※
「カチコフスキ」は、ソウタンの註釈によると、「ユゼフ・カチコフスキ、もしくはカッチュコフスキ(Józef Kaczkowski)、18世紀の後半の生まれ−19世紀の前半に死去。バイオリン奏者で、ポーランドの作曲家。」とある。
「君の錆び付いた指」と言うのは、ビアウォブウォツキがビショフスヴェルダーで療養生活を過ごし、長い間家を空けていたので、その間ピアノが弾けなかった事を指している(※次回の第10便では、はっきりとそのように書かれている)。また、そのような状況であればそのような事は仕方のない事なので、だからショパンは「敢えて言わせてもらえば」と前置きしている。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#8. |
「また、君の要望に従い、僕自身のつまらないもの(小品)もいくつか添えておく。これは全部、間違いなく今週中にはヴィソツキの許にあるだろう。」 |
「僕自身のつまらないもの(小品)」と言うのは、言うまでもなくショパン自身が作曲した作品の楽譜の事である。
ただし、それが具体的にどんな曲なのかは、この記述からでは全く分からない。
ちなみに、ショパンがこの1826年に作曲したとされている作品には、以下のものがある。
1.
《マズルカ 第52番(※版によっては51番) 変ロ長調》(※1826年出版)
2.
《マズルカ 第53番(※版によっては50番) ト長調》(※1826年出版)
3.
《ポロネーズ 第15番 変ロ短調 遺作 「別れ」 ウィルヘルム・コルベルクに献呈》
4.
《マズルカ風ロンド ヘ長調 作品5 アレクサンドリーヌ・ドゥ・モリオール伯爵令嬢に献呈》(※1828年出版)
5.
《ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲 ホ長調 遺作 カタジナ・ソヴィンスカ夫人に献呈》
6.
《3つのエコセーズ 作品72-3、4、5 》(※このうち、ト長調と変ニ長調は師エルスネルの娘エミリアのアルバムに書かれていた)
仮に、「僕自身のつまらないもの(小品)」がこの中のどれかだと仮定した場合、最も可能性が高いのは、やはりマズルカの《第52番 変ロ長調》と《第53番 ト長調》だろう。
なぜならこの2曲だけ、作品番号も献呈者もなしに、同年の1826年にワルシャワのコルベルク社から30部のみが出版されているからだ。それについての詳しい経緯は分からないが、この出版の「され方」からして、どうもショパンが自ら進んでした事のようには思えない。そう考えると、そのようにして出版された(あるいは出版される事になった)作品を、ビアウォブウォツキの「要望」に従って「僕自身のつまらないもの(小品)」として送ると言うのも、何かショパンらしくてしっくりするような気もする。それ以外の作品はどれも、エコセーズの1曲を除き、全てプライベートで個人献呈されているものなので、少なくともショパン自身が卑下するような出来とは思っていないはずである。
しかも、実はショパンは、ここでこの「僕自身のつまらないもの(小品)もいくつか添えておく」と書いておきながら、実際はこれを送らなかったのである。彼は次回の第10便でその件について触れている。さらにショパンは、翌「1827年1月8日」付の第12便で、「僕のマズルカを届けるよ、それについては君は知っているだろう。後で二つ目を届ける」と書いており、これは明らかに、1826年に出版された2つの《マズルカ》の事を指している。
したがって、今回ここに書かれている「僕自身のつまらないもの(小品)」と言うのは、おそらくこの《マズルカ》の事だろう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#9. |
「君がビショフスヴェルダーを発ったと言う知らせが、僕をどれほど喜ばせたか君は信じられないだろう。」 |
そうなのである。ビアウォブウォツキが今回、ようやく長い沈黙を破るに至ったのは、彼がビショフスヴェルダーでの「温泉療法」を切り上げたために、その事をショパンに知らせない訳にはいかなかったからなのだ。そうしないと、ショパンが受取人のいない「かの地」へ手紙を出す羽目になってしまうからだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#10. |
「ただし、嬉しいとは言いながら、もう一方でそれは僕を悲しませた。僕が思うに、敬愛するヤン君、(君は)ドイツ的美徳を習得したと見える。昔なら、君は僕を招待してくれていたのに、今はここを離れるなと勧めなさる! なんて呪われたドケチだ、どうにも言葉で言い表せないよ! 少なくとも、そんな事を勉強するためにビショフスヴェルダーに出向いた訳ではなかろう。僕が考えていた最も素晴らしい計画も予定も、今やすべて水の泡になってしまった。僕が当てにできると思っていた誰かさんは、どうせ金をケチる事でも考え始めたんだろう。」 |
それはそうと、ショパンの言う「僕が考えていた最も素晴らしい計画」とは一体何だったのだろうか? ひょっとすると彼は、今年の夏休みは、もうシャファルニャへは行く事なしに、最初から直接ソコウォーヴォへ行く事を考えていたのではないだろうか? しかしそこで問題になるのは、今まではジェヴァノフスキ家が旅費を肩代わりしてくれていたところを、その辺をどう工面するかと言う事になる訳だが、仮にシャファルニャを経由せずに直接ソコウォーヴォへ行くのであれば、つまり、言い方を変えると、ビアウォブウォツキが昔みたいに「僕を招待」してくれるのであれば、当然ヴィブラニェツキ氏がどうにでもしてくれるだろうと当て込んでいたのではないだろうか。
ところが、ビアウォブウォツキはそれを見越していたのか、「今はここを離れるな」と釘を刺してきたのである。
おそらく、彼はビショフスヴェルダーでの「温泉療法」が効果なかったので、今後もどこか別の場所へ転地療養に行くかもしれず、必ずしも夏にソコウォーヴォにいるとは限らないとか言ってきたのかもしれないが、本当のところは、彼は病気が治るまでは、誰とも会いたくないと考えていたのかもしれない。
特にショパンに対しては、自分の惨めな姿を見せたくはなかったのではないだろうか。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#11. |
「僕は、本当のところ、それほど君の気分を害するつもりはない。延期されたとしても、失われた訳じゃない、今回がダメなら、いつかそのうちに、満足させてもらうさ。とは言え、ビリヤードは無しだよ、どうせ君が勝つだろうから。なぜって、僕の(道具)はロゴジンスキにあげちゃったからさ。彼は何か描いているはずだ。」 |
※
Polska Wikipediaによると、ポーランドでは、「ビリヤード」の事を「松葉杖のゲーム(grą w kule)」と呼ぶらしい。
※
「ロゴジンスキ」は、ソウタンの註釈によると、「多分アントニ・ロゴジンスキ(Antoni Rogoziński)のこと。ソコウォーヴォに出入りしていたワルシャワ大学・美学部の学生。」とある。これは要するに、ビアウォブウォツキの大学の同窓生と言う事である。
この箇所の記述を見ると、ビアウォブウォツキがショパンに「今はここを離れるな」と言っているのが、あくまでも「今は」と限定していると言う事がはっきりと分かる。それはすなわち、「病気が治るまでは」と言う事を意味しているはずであり、だからショパンも、これ以上彼を罵る事がためらわれる訳なのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#12. |
「ロゴジンスキと言えば、ポドゥビエルスキを思い出す。彼の不幸な出来事について、君に説明しなければならない。それは3ヶ月前の話で、…[手紙の端が破れていて判読不能]…彼は風の吹くまま、何処かを歩き廻って、足が麻痺してしまった。足も手も動かなくなった。最適任者であるザビエウォが治療しているけれど、病気が治ると期待して良いだろう、なぜなら、少し良くなっているからで、電気治療が彼を幾分か助けた。」 |
※
「ポドゥビエルスキ」は、ソウタンの註釈によると、「イェジー・ポドゥビエルスキ(Jerzy Podbielski(?))、ワルシャワ大学・美学部の学生。」とある。彼もまたビアウォブウォツキの同窓生である。
※
また「ザビエウォ」は、「フランチシェック・ザビエウォ(Franciszek Zabiełło(?))、医学博士。ヴィリニウシュ(リトアニアの首都)で、1823年に医学の勉学を終了。」とある。
ここでショパンは、「3ヶ月前の話」にまで遡って言及している。
この手紙は[1826年5月15日]に書かれているので、その「3ヶ月前の話」となれば「2月15日」頃であり、それはちょうど、前回の第8便が「1826年2月12日」なのでその直後となる(※下図参照)。
1826年/2月 |
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つまり、この間ショパンは、ビアウォブウォツキからの手紙をひたすら待ち続けるのみで、ショパンの方からも手紙は書いていなかった事が分かる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#13. |
「レムビエリンスキについては、以前君に書いた事あるけど、彼の事をよく見かける。彼がいかに綺麗に弾くか、信じてくれないだろう。先日、僕のところに来た。非常に嬉しかった。」 |
「レムビエリンスキ」については、昨年「1825年10月30日」付の第5便でこう書かれていた。
「その他に、レムビエリンスキ某というのがパリからワルシャワにやって来ていた。彼は総裁の甥で、パリに6年いて、今まで誰も聴いた事のないようなピアノを弾いた。それが僕達にとってどんな喜びだったか、君には想像できるだろう、ここじゃ本当に卓越した演奏なんて今まで聴いた事がなかったからね。彼はプロのアーティストではなく、アマチュアだ。彼の速い、滑らかな、丸味のある演奏についてはこれ以上説明しない。しかし、一人の演奏家で、左手が右手ほどに強いのは稀に見る事だと言う事だけは君に教えておこう。なぜなら、彼のすばらしい才能について君に書くためには、紙の全面が必要になるからね。」
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#14. |
「ワルシャワのニュースに関しては、君は通信を読んでいるだろうから、個人に関する情報としては、グットゥコフスキ大佐が足を打って死んでしまったと言う事のみ教えよう:ズベレヴィッツに娘が生まれた;ヤロツキがポドレ地方で結婚し、結婚式の後、すぐに奥さんを連れて来た;」 |
※
以下、ソウタンの註釈による。
1.
「グットゥコフスキ大佐」⇒「ヴォイチェッフ・グトゥコフスキ(Wojciech Gutkowski、1775−1826年5月1日)。技師部隊の大佐補[代議者王国技術者部隊出身。古文書保管所 ]。」
2.
「“足を打って”とショパンが書いているのは、彼の皮肉。ショパンは、ヴイシッツキ(K.W. Wojsicki)が書いた風刺的な、単調な、詩的な『ポヴォンコフスキ墓地“Cemnetrz Pow?zkowski”』を短く紹介している。(F. Hoesick, 第1巻、ページ89−90)。」
3.
「ズベレヴィッツ」⇒「アダム・イグナチ・ズベレヴィツ[ザベレヴィッツ](Adam Ignacy
Zubelewicz[Zabellewicz]、1777−1831)。ワルシャワ大学の哲学教授。」
4.
「ヤロツキ」⇒「フェリックス・パエウ・ヤロツキ(Feliks Paweł Jarocki(?)、1790−1864)。ワルシャワ大学の動物学教授。」
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#15. |
「1週間前の日曜日になるが、僕はザモイスキ家を訪問した。そこでは、夕方、ドゥゴシュの作ったエオリパンタリオン(※エオロパンタレオン)をみんなが賞賛していた。ドゥゴシュはこのエオリパンタリオンを1つ、ムニフスキという人(彼は昔プルスキ伯爵夫人の所にいたが、今じゃ結婚している。すばらしいスルドゥット(長めの上着)を着ていた)に売った。」 |
※
以下、ソウタンの註釈による。
1.
「ザモイスキ家」⇒「多分、スタニスワフ・ザモイスキ伯爵(Stanisław Zamoyski)の法的相続人の館で、所謂、“葵宮殿”と言われていて、当時ワルシャワの有名な“サロン”であった。」
2.
「ドゥゴシュ」⇒「ドゥゴシュ(D?ugosz)は大工で、エオロパンタレオン、あるいはエオロパンタリオンを製造した。これはピアノと、ブルンネルが作ったエオロメロディコン、すなわちコラレオンとを繋げたもの(手紙第8便を参照)。ドゥゴシュはこれを簡単なものにした。ショパンはこの楽器で即興曲を1825年5月27日と6月10
日の2回に渡って弾き、大成功を博した。」
3.
「プルスキ伯爵夫人」⇒「ユスティナ・プルスカ(Justyna Pruska(?))、ショパンのゴッド・マザーであったイザベラの母親。」
ショパンは「エオリパンタリオン」と綴っているが、ソウタンの註釈にもあるように、ショパンがこの「エオロパンタレオン」を公開の場でお披露目演奏したのはちょうど1年前の事で、その時の様子は、当時の『ワルシャワ通信(クリエル・ワルシャフスキ)』でも取り上げられている。
「クリエル・ワルシャフスキ、一八二五年五月二十八日、ワルシャワ 昨夜の音楽院での演奏会は、いろいろな意味で興味深いものだった。演奏者たちの才能を高く評価するのはもちろんのこととして、ここでは次のような詳細を申し述べたい。演奏会は音楽院の作曲科学生ヨゼフ・ノヴァコフスキの新作の序曲で幕を開けた。彼が作曲家として名を連ねることは、音楽会にとって明るい話題といえそうである。ロードのヴァイオリン協奏曲を演奏した学生も多大な拍手を浴びた。もう一人のアマチュア〔ショパン〕は、二度目のステージで、ワルシャワで発明されたアエロパンタレオンという楽器で幻想曲を披露し、味わいと感性を持った演奏で、再度にわたって識者の注目を集めた。『我が祖国の父、国王に栄光あれ』の詩によるヨゼフ・エルスナー作曲のカンタータはひときわ観客を喜ばせた。合唱とフル・オーケストラに、オルガンとこれまたワルシャワでの発明品コラレオン〔おそらくこれもショパンが弾いた〕が加わり、並々ならぬ演奏効果があった。合唱やヤヴレク指揮のオーケストラ演奏に参加したアマチュアの数は百四十人にもおよび、二百人の観衆がその演奏を堪能した。 クリエル・ワルシャフスキ、一八二五年六月十一日、ワルシャワ 昨夜行われた音楽院での演奏会で、すばらしい曲の数々に百七十人の観衆が酔いしれた。特にこの国を訪問中のクレスナーによるフルートの変奏曲、国内の演奏家によるバス・ビオールのためのアダジオ、ドゥゴシュ発明のアエロパンタレオンでショパンが演奏した幻想曲、ワルシャワでは初お目見えのビアンチ夫人の二曲目のアリアは称賛に値する出来だった。」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より |
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#16. |
「コシンスキが亡くなった。ヴェルケに娘が出来た。ドモヴィッチがこの前ワルシャワに来て、君によろしくと言っていた。今、僕は楽譜を入れる整理棚を持っている。最後に、靴の裏に穴が開いた、だから、スリッパのようなものを履いている。僕がビエラニ地区へ行くと誰かが思うかも知れない、守衛が許可してくれるように交渉をするために…[手紙の端が破れていて判読不能]…そのビエラニ…[判読不能]…今年たくさん。」 |
※
「ヴェルケ」は、ソウタンの註釈によると、「多分、フランチッシェック・アントニ・ヴェルケFranciszek Antoni Woelke、1788年の生まれで、1862年に死去。ワルシャワ大学のクラシック文学(ギリシャ・ラテン)の教授。」とある。
ちなみに「ビエラニ地区」と言えば、前回の第8便で言及されていたように、ポーランドの著名人である「スタシッツ」が葬られた場所であるが、この[判読不能]部分は、何かそれと関係があるのだろうか?
一方、シドウ版の註釈には、「ビエラニは、ワルシャワ郊外北のズィスワ川沿いにあり、日曜日にはワルシャワ市民が遠足に行く人気の場所」とある。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#17. |
「庭園、僕の植物園、つまり例の古い宮殿の裏の別名だが、宮殿管理委員会が命令してそれを綺麗に手入れさせた。そこにはもう、春が近付くとおいしくかじっていたニンジンがない。つまりサンドイッチも、木陰の休息所も、サラダも、キャベツもない。悪臭もないけどね。ただ英国風の花壇があるだけだ。僕は、今頭に浮ぶ事を全部、1時間の4分の1(※つまり15分)で書き留めた。だからもう何も残っていない。僕が生きている限り、常に君を思っている事を保証する以外は。」 |
※
以下、ソウタンの註釈による。
1.
「植物園」⇒「植物園、カジミエジョフスキ宮殿の裏、ヴィスワ河側にあった。1811年、ホフマン(Fr.Hoffmann)(一般に“植物”の先生と言われていた)が設置したもので、ショパンが好んで散歩をした場所。」(※この「ホフマン」は、前回言及されていた「コラレオン」と言う楽器を発明したワルシャワ大学の教授の事である)。
2.
「宮殿管理委員会」⇒「宗教信仰・公衆啓蒙に関する国家委員会。」
さて、さすがに前回の手紙から「3ヶ月」も空いたので、それなりに書く事はたくさんあったようだが、これだけ色々と書き連ねられていながら、そのほとんどが、あくまでも当事者達にとってのみ重要な伝達事項であり、我々一般の読者の興味の対象となるような内容には乏しい事が、如実によく分かる手紙だと言えよう。そしてそれこそが、「本物のショパンの手紙」に顕著な特徴の一つなのである。
そして、ここから毎度お馴染みの追伸部分になる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#18. |
「ママとパパと僕は、君のパパに敬意を送る。今のところ君は敬意を要求して来ないので、君にはただよろしくと。子供達みんなからは、コンスタンチア嬢のにキスを、僕からは彼女の手に。 デケルト夫人、ジヴニー氏、バルジ(※バルチンスキ)氏、その他の人たちからもよろしくと。」 |
例の表現、「ママとパパ」、「子供達」である。
毎度の事ながら、ここでも、ショパンが自分の姉妹達を指して「子供達」と言う時の「2つの絶対必要条件」がきちんと満たされている。
1.
手紙の追伸部分の挨拶でしか使われない事。
2.
その際、必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記される事。
今までこの表現は、1824年と1825年の夏休みにシャファルニャから出された「家族書簡」の中でそれぞれ使われ、それ以外では、「ビアウォブウォツキ書簡」において、1825年「9月」の第4便、「10月30日」の第5便、そして前回「1826年2月12日」の第8便に続いて、今回が4回目となる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第9便#19. |
「君は長い事僕の手紙を読んでいなかったから、きっとこの手紙の意味が理解出来ないだろうが、許してくれたまえ。僕は郵便局へ急がねばならないので、読み返している時間がないのだ。 F.F.ショパン 」 |
ここでショパンは「郵便局へ急がねばならない」と書いている。
これはすなわち、この手紙が書かれているのが「月曜日」か「木曜日」かのどちらかである事を示している。
「第1便(※実際は第3便)の手紙、及び他の人の手を通して送り届けられたもの以外は、全て郵便で、ワルシャワからプウォツクとリップノを経てデゥルヴェンツァ河畔のドブジン村ヘ送付されている。中でも、“プウォツク”への郵便物は、毎週月曜日と木曜日の夕刻6時にワルシャワから発送されているが、あらゆる種類の郵便物は、発送時刻前の午後5時までに郵便局へ持ち込むべきものとされていた。これが、なぜショパンが月曜日と木曜日に手紙を書いたかの理由である。しかも、郵便局から発送される時刻に合わせるため、ぎりぎりの時間帯に書かれており、このため、ほとんどの手紙の書き終わりが5時の直前となっている。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』より |
したがって、この箇所の記述も、この手紙が[1826年5月15日 月曜日]に書かれたとする裏付けの一つになる訳である。
今後も、ビアウォブウォツキからの手紙は滞りがちになり、それが、ついにショパンの心を乱す事になる。
[2010年11月26日初稿 トモロー]
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