検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――
Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–
9. Xmas at Żelazowa
Wola in 1825.-
ショパンは1825年のクリスマスを、自分の生地であるジェラゾヴァ・ヴォラで過ごし、そこからビアウォブウォツキ宛に手紙を書いている。それが今回紹介する「ビアウォブウォツキ書簡」の第7便である。
まずは註釈なしに読んでいただきたい。
■ジェラゾヴァ・ヴォラのフレデリック・ショパンから、 ビショフスヴェルダーのヤン・ビアウォブウォツキへ(第7便)■ (※原文はポーランド語で、一部ラテン語が混在) |
「[ジェラゾヴァ・ヴォラ 1825年12月24日 土曜日] 親愛なるヤシ! この手紙がどこから届いたか、君には絶対分らないだろう! きっと君は、カジミエシュ宮殿のパヴィリオンの2階からだと思うだろう。違うよ! それじゃあ、もしかして…なんて考えても無駄だね。ジェラゾヴァ・ヴォラからだよ。これで最初の疑問は解決した。それじゃあ、いつ書いたのか分かるかい? いつだと思う? これも分からないだろうから、君に教えよう、馬車を降りてから直ぐに、クリスマス・イヴの晩餐のテーブルの前に坐って書いているんだ。運命がそう命じたのさ、ママは僕が旅に出るのを嫌がって許してくれなかったけど、何も僕を止める事はできなかった。僕とルドヴィカはジェラゾヴァ・ヴォラにいる。新年が近付いているから、僕は君にお祝いの挨拶を送るべきなんだろうけど、一体何のために? 君は全てを持っている。だから僕は君の健康以外は何も望まないよ。君は今度こそ良くならなければいけない。今年は――1826年の事だよ――僕らが会えるよう期待している。書くような事が何もないので、君にあまり手紙を書けない。僕は元気だ、僕らは皆元気だよ。君の手紙を受け取った。それをもらうのが楽しみだから、もっとたくさん欲しいな。僕がいつ手紙を書いているか既にご存知なんだから、短くてそっけなくても驚かないでくれよ。君に豪勢な手紙を書くには、お腹が減り過ぎているんだから。(※以下ラテン語で)≪お腹が一杯じゃないと、君の手紙を毎日心待ちにする以外、喜んで手紙も書けない。≫ 僕がまだラテン語を忘れていない事がこれで証明されただろう。しかし、しかしだ、もしもヤヴォレック家から昼食に招待されていなかったら、ここで手紙を書き終えていたところだったろう。と言うのも、僕とパパは、一昨日ヤヴォレックからラクス(Lax)に招待された(おっと、下剤のLaxansじゃないよ)。招待状をもらった時、僕は最初、彼が便秘に襲われたので僕にも進呈する気なのかと思ったが、あとでそのラクスとやらを見せられて分かったよ、そいつは、大勢の人が食べられるくらい沢山出てきた、見事な鮭で、ドイツ語でラックス(Lachs)と言い、この魚はグダンスクから取り寄せたんだそうだ。ヤヴォレック家には多くの来客があったが、その中には、チェコのピアニストでシャペック氏という人がルゼフスカ夫人と共にウィーンから来ていて、それともう一人、ジャック(Żak)氏という人もいた。ポーランドの学生(żak)じゃないよ、彼はプラハ音楽院の生徒だ。彼は僕がかつて聴いた事もないようにクラリネットを吹いた。一息で二つの音を同時に出せると報告すれば、それで十分だろう。 キスしてくれ、我が生命よ。僕は君が回復する事以外は何も望まない。日一日と君が良くなっていく事を願う。それが家族全員の願いだ、とりわけ僕の。 君の忠実なる友人より。 僕が手紙を書いている事を知ったら、家族皆が君に挨拶を送るだろう。手紙をくれる事を期待しているよ。 追記:僕は木曜日にはワルシャワにいるだろう。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE DE
FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue Musicale)、
スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy
Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej
Młodzieży Akademickiej)、
及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』
Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LAND(Polish Music Publications、Cracow)より
※ ソウタン版の註釈には、「使用された用紙は白、2枚、各用紙のサイズ:24
x 19.5cm。第2ページ端に透かし模様:縦線とイニシャル。」とある。
※ この手紙の原物は、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、その前半部分のみを写真コピーで確認する事が出来る。
※ シドウ版では、この手紙が[ソコウォーヴォ宛]となっているが、正しくは[ビショフスヴェルダー宛]である。ビアウォブウォツキがビショフスヴェルダーから帰って来るのは翌年の春頃で、その事は1826年5月の第9便に書かれている。
まずは日付について。
この手紙の原文には日付はないが、ソウタンはこれを[1825年12月24日 土曜日]と推定し、それについて以下のように説明している。
「下記の内容から、手紙の日付は容易に特定できる。“クリスマス・イヴの晩餐のテーブルの前に坐って書いている”、“新年が近付いている……今年は――1826年の事だよ――僕らが会えるよう期待している”」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
※ 「クリスマス・イヴの晩餐のテーブル」とあるのは、実はショパン本人が書いたポーランド語原文では、「ヴィラ(Wilji)」と言う単語で表されており、これは、オピエンスキー版では「大晦日の晩餐」と英訳され、シドウ版では「クリスマス・イヴの晩餐のためのテーブル」と仏訳されている。
実は、この手紙に関しては日付を推定するも何もなく、そもそもショパンはその日付ををクイズにして手紙を書き始めているのだから、当然その答えもちゃんと文中で明かされている訳で、したがって、最初から冒頭に日付(=答え)を書くはずもなかったと言うだけの話なのである。
それでは、手紙の内容の方を順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#1. |
「[ジェラゾヴァ・ヴォラ 1825年12月24日 土曜日] 親愛なるヤシ! この手紙がどこから届いたか、君には絶対分らないだろう! きっと君は、カジミエシュ宮殿のパヴィリオンの2階からだと思うだろう。違うよ! それじゃあ、もしかして…なんて考えても無駄だね。ジェラゾヴァ・ヴォラからだよ。これで最初の疑問は解決した。」 |
※ 「カジミエシュ宮殿のパヴィリオンの2階」と言うのは、ソウタンの註釈では、「当時、ショパン家はカジミエジョフスキ宮殿(現在はワルシャワ大学が管理する建物)の右側入り口の2階に住んでいた。」とある。
「ジェラゾヴァ・ヴォラ」はショパンの生まれ故郷である。しかしながら、ショパン家は、ショパンが1809年3月1日に生まれ、その翌年の10月にはもうワルシャワへ引っ越してしまっているので、ショパン本人には、勿論その土地で暮らしていたと言う記憶はない。
一方、ワルシャワに引っ越して以降はどうなのだろうか? この1825年に至るまでの間に、ショパンはすでに何度か「ジェラゾヴァ・ヴォラ」への再訪を果たしていたのだろうか? もちろん、ショパン家とスカルベク家の関係を思えば、両家が15年近くも交流がなかったなどとは考えにくいので、おそらく果たしていただろうと考えるのが自然なのだが、それについては、記録がないためちょっと分からない。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#2. |
「それじゃあ、いつ書いたのか分かるかい? いつだと思う? これも分からないだろうから、君に教えよう、馬車を降りてから直ぐに、クリスマス・イヴの晩餐のテーブルの前に坐って書いているんだ。運命がそう命じたのさ、ママは僕が旅に出るのを嫌がって許してくれなかったけど、何も僕を止める事はできなかった。僕とルドヴィカはジェラゾヴァ・ヴォラにいる。。」 |
それにしても、ショパンのこの書き方から察するに、彼にとってこの「ジェラゾヴァ・ヴォラ訪問」は、相当に心浮き立つものであったようだ。
この土地は、父ニコラが母ユスティナと出会って結婚した場所であり、その二人を引き会わせたのが、当時のニコラの雇い主だったスカルベク家の女主人ルドゥヴィカ・スカルブコヴァ伯爵夫人(※スカルベク夫人)で、彼女はジェラゾヴァ・ヴォラの所有者でもあった。
そのスカルベク家の館の離れでショパンは生まれた訳だが、それは姉の「ルドヴィカ」も同じである。彼女は1807年4月6日生まれであるから、だいたい3歳半くらいまでジェラゾヴァ・ヴォラにいた事になる。そうすると、ショパンとは違って、ルドヴィカには、この土地に関する記憶がおぼろげながらあったかもしれない。
ショパンは、スカルベク家の長男フレデリック・スカルベクがゴッド・ファーザー(※代父、名親、名付け親)であるが、一方のルドヴィカは、その母親、つまり、ルドヴィカ・スカルベク夫人がゴッド・マザーである。
さらにルドヴィカは、この翌年の1826年の6月にも、今度は単身で2週間ほど、再びこのジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク家を訪れており、その事は、「ビアウォブウォツキ書簡」第10便に書かれている。それと考え合わせると、おそらく今回のジェラゾヴァ・ヴォラ訪問も、基本的にはルドヴィカが招かれていたところへ、弟のショパンもついでに付いて行った形だったのではないだろうか。なぜなら、最初からショパンも一緒に招かれていたのなら、「ママは僕が旅に出るのを嫌がって許してくれなかった」なんて事にはならないだろうからだ。ユスティナは、おそらくこの時ショパンの体調が思わしくない風だったので、「旅に出るのを嫌がった」のだと思われるが、きっとショパン本人が大丈夫だと言い張ったのではないだろうか。
ショパンの家族はみんな仲が良かったが、中でも、ショパンとルドヴィカは特に仲が良かった。
この二人は顔つきも似ていたし、何よりも、芸術への関心が高いと言う点でも共感し合えるものがあった。これは、ショパンが誰かと親密になる上で欠かせない要素である。その点では末の妹エミリアがショパンに次いで最も傑出していたが、彼女は現時点ではまだ若すぎたし、その才能が目覚め始めてから亡くなるまでがまた早すぎた。
いずれにせよ、今回のジェラゾヴァ・ヴォラ訪問は、ショパンとルドヴィカの二人旅である。こう言うのを見るにつけても、やはり私は、先の夏休みのシャファルニャ訪問においても、やはりショパンとルドヴィカは一緒だったのではないかと思えるのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#3. |
「新年が近付いているから、僕は君にお祝いの挨拶を送るべきなんだろうけど、一体何のために? 君は全てを持っている。だから僕は君の健康以外は何も望まないよ。君は今度こそ良くならなければいけない。」 |
この辺は、ショパンがビアウォブウォツキ宛に書く手紙には欠かせない、病気の親友への思いやりの言葉である。
それにしても、「君は全てを持っている」と言う一言がちょっと気になる。これはつまり、ショパンにしてみれば、本来ビアウォブウォツキと言う男は、ショパンから見ても羨むに足るものを「持っている」と言う事だろう。ビアウォブウォツキは、実の両親はすでに亡くしているが、残された姉と義父は共に素晴らしい人物だし、家柄も裕福で何不自由ない。そして何よりも、彼は、他の誰よりも「ハンサム」だったのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#4. |
「今年は――1826年の事だよ――僕らが会えるよう期待している。」 |
ここでショパンは、「今年は――1826年の事だよ――僕らが会えるよう期待している」と書いている。つまりこれは、この手紙がビアウォブウォツキの許へ届く頃には、すでに新年を迎えていると言う事を考慮した書き方である。要するに、我々日本人でたとえるなら、年賀状を書いている時点ではまだ年末なのに、その時点ですでに「今年もよろしく」と書いているのと同じ事である。
さて、ここで注目したいのは、「1826年」は「僕らが会えるよう期待している」と書いている点だ。これは要するに、結局1825年には、とうとう彼らは会えずじまいに終わった…と言う意味なのではないだろうか。
第3便の時にも書いたが、あの時ショパンが、「この休暇中にこれ以上君に会えないのは非常に残念」と書いていたのは、やはり今年に限定した話ではなく、去年の夏休みから引き続いた話だったのではないだろうか。だからこの第7便では、来年こそは…と言う風に書いているのだ。これは、そうとしか考えられない書き方である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#5. |
「書くような事が何もないので、君にあまり手紙を書けない。僕は元気だ、僕らは皆元気だよ。君の手紙を受け取った。それをもらうのが楽しみだから、もっとたくさん欲しいな。」 |
さて、今回のポイントはここである。
この何気ない記述の行間から、この時のビアウォブウォツキの心理状態を、それとなく想像する事ができる。
まず、前回も書いたが、前回の第6便が書かれたのは[1825年11月]の上旬頃だった。そして今回の第7便がクリスマス・イヴなので、あれから約一ヵ月半が過ぎている事になる訳だが、それだけの期間がありながら、ショパンは「書くような事が何もない」と言っている(※下図参照)。
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しかもショパンは、その間に「君の手紙を受け取った」にも関わらず、それでも「書くような事が何もない」と言っている訳だ。つまり今回ここで問題なのは、ここには、単に「君の手紙を受け取った」と言う事実が書かれているだけで、ショパンは、その「君の手紙」の内容については何一つコメントを返しておらず、したがってビアウォブウォツキが一体どんな事を書いて来たのかが全く見えて来ないと言う点なのだ。
このような事は、実は今回が初めてである。
ショパンは前回の第6便で、「ヴィジットゥキ尼僧教会のオルガン」の話を書いたあと、「詳細は郵便で書くよ」と結んでいたのに、その後それらしい手紙は書いていない。おそらく、書くに値するようなエピソードもなかったと言う事なのだろう。したがって、余談になるが、「ヴィジットゥキ尼僧教会のオルガン」については、当時の関係者によって以下のような逸話が伝えられているが、この証言も、何やら作り話臭いのである。
「ただ、オルガンは難なくこなしたものの、自分の楽想の展開に夢中になるあまり、神の世界も典礼の式順も忘れてしまうことが時としてあった。年下の学友で、やがてコラムニスト、音楽評論家になったユゼフ・シコルスキは、ある日曜日のこと、神父が「すでに二回も“永遠に”“永遠に”と「唱えている」のに、侍者たちが鐘を鳴らしているのも耳に入らずに、フレデリックが長々と即興演奏を続けているので、ついには香部屋掛りを上にやってやめさせなければならなかったという話を、何年も後になってから『ビブリオテカ・ヴァルシャフスカ[ワルシャワ文庫]』[月刊総合誌]で紹介している。」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
それはさて置き、ショパン自身が「書くような事が何もない」と言うような日々だったために、「君にあまり手紙を書けない」と弁解している訳だが、そんな時、ショパンは「君の手紙を受け取った」ので、それに対してこうして返事を書いている訳である。それなのに、その「ビアウォブウォツキからの手紙」の内容に対して、具体的なコメントの返しが何もないのだ。今までそのような事はなかった。
そうなると、ここから想像される事は、その「ビアウォブウォツキからの手紙」の内容と言うのが、要するにショパンが「返しのコメント」をするに足るような事が何も書かれていなかったと言う事なのだ。
つまり、今回の「君の手紙」には、たとえば病気の事などについては、特に良くなったとも悪くなったとも書かれておらず、だから勿論ジヴニーには教えていたであろう「外科的な治療」についても触れてはおらず、それ以外の日常的な事についても、単調な療養生活なので、それこそショパン以上にこれと言って特筆するような事もなく、極めて当たり障りのない内容だったと想像されるのである。
そしておそらくビアウォブウォツキは、その「君の手紙」を書いたのちに、前回ジヴニーと「新年の8日後(元旦から8日後まで)」と密約を交わした「外科的な治療」の診察のために、外科医の許を訪れて行ったはずなのである。そしてその診察結果を受けて、ビアウォブウォツキはショックのあまり長い沈黙に陥る事になり、それに対してショパンは、次回紹介する「1826年2月12日」付の第8便で、その事を嘆く事になるのである(※下図参照)。
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ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#6. |
「僕がいつ手紙を書いているか既にご存知なんだから、短くてそっけなくても驚かないでくれよ。君に豪勢な手紙を書くには、お腹が減り過ぎているんだから。(※以下ラテン語で)≪お腹が一杯じゃないと、君の手紙を毎日心待ちにする以外、喜んで手紙も書けない。≫ 僕がまだラテン語を忘れていない事がこれで証明されただろう。しかし、しかしだ、もしもヤヴォレック家から昼食に招待されていなかったら、ここで手紙を書き終えていたところだったろう。と言うのも、僕とパパは、一昨日ヤヴォレックからラクス(Lax)に招待された(おっと、下剤のLaxansじゃないよ)。招待状をもらった時、僕は最初、彼が便秘に襲われたので僕にも進呈する気なのかと思ったが、あとでそのラクスとやらを見せられて分かったよ、そいつは、大勢の人が食べられるくらい沢山出てきた、見事な鮭で、ドイツ語でラックス(Lachs)と言い、この魚はグダンスクから取り寄せたんだそうだ。」 |
※ 「ヤヴォレック」は、ソウタンの註釈によると、「ユゼフ・ヤヴォレック(Józef Jaworek 1756−1840)。チェコ出身。ワルシャワ音楽院のピアノ教師。ショパン家の友人。」とある。
食事前には少々そぐわないながらも、ショパンお得意の駄洒落ネタである。
さて、ここに至って、ショパンのここ数日の流れが判明する。
今ショパンは、「馬車を降りてから直ぐに、クリスマス・イヴの晩餐のテーブルの前に坐って書いている」訳だが、なぜそんなに慌ただしい状況で手紙を書いているのかと言うと、おそらく、「君の手紙を受け取った」と言うその「手紙」をショパンが受け取ったのが、「一昨日ヤヴォレックからラクスに招待された」前後だったからなのだろう。つまり、「一昨日」はワルシャワでその「招待」の予定が入っていたので一日が潰れ、そしておそらくその翌日の早朝には、ショパンとルドヴィカはジェラゾヴァ・ヴォラへ向けてワルシャワを出発しなければならなかった。なのでショパンは、ビアウォブウォツキからもらった手紙にすぐ返事を書く事ができず、それでジェラゾヴァ・ヴォラに到着してすぐに書き始めたと言う訳である。
つまりこの3日の間にイベントが密集しており、そのさなかに「君の手紙」が届いていたのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#7. |
「ヤヴォレック家には多くの来客があったが、その中には、チェコのピアニストでシャペック氏という人がルゼフスカ夫人と共にウィーンから来ていて、それともう一人、ジャック(Żak)氏という人もいた。ポーランドの学生(żak)じゃないよ、彼はプラハ音楽院の生徒だ。彼は僕がかつて聴いた事もないようにクラリネットを吹いた。一息で二つの音を同時に出せると報告すれば、それで十分だろう。」 |
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「ルゼフスカ夫人」とは、ソウタンの註釈によると、「多分、アレクサンドラ・ロザリア(Aleksandera Rozalia)、ルボミル(伯爵家出)ジェヴスカ(Lubomirska Rzewuska 1791−1865年)。」とあるが、それ以外の事は不明である。
ヤヴォレックはワルシャワ音楽院の教師であるから、その彼が晩餐会を開くとなると、当然音楽関係者が多く集う事になる訳で、そうなれば、学院長エルスネルの弟子にしてワルシャワ一有名なアマチュア音楽家のショパンが招かれない訳にはいかないだろう。
それはそうと、「一息で二つの音を同時に出せる」とは一体どう言う意味なのか? 一本のクラリネットで和音が出せるとでも言うのだろうか? それとも、これはショパン独特の言い回しで、彼の吹く楽器の音程の悪さをほのめかしているのだろうか?
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便#8. |
「キスしてくれ、我が生命よ。僕は君が回復する事以外は何も望まない。日一日と君が良くなっていく事を願う。それが家族全員の願いだ、とりわけ僕の。 君の忠実なる友人より。 僕が手紙を書いている事を知ったら、家族皆が君に挨拶を送るだろう。手紙をくれる事を期待しているよ。 追記:僕は木曜日にはワルシャワにいるだろう。」 |
今回の追伸の挨拶には、ジヴニー、バルチンスキ、デケルト夫人と言った、いつものお馴染みの面々が名を連ねていない。ここはワルシャワの自宅ではないからである。だからショパンは、「僕が手紙を書いている事を知ったら、家族皆が君に挨拶を送るだろう」と言う書き方にとどめている。一緒にいるルドヴィカが何も言っていないようだが、おそらく、彼女は彼女でコンスタンチア嬢に手紙を書いているので、ショパンの手紙にまで顔を出す必要がなかったのかもしれない。
ここでショパンは、「僕は木曜日にはワルシャワにいるだろう」と書いている。これはつまり、「12月29日(木)」に帰宅すると言う事である。
仮に、帰りの旅程が行きと同じく丸2日かかっているのなら、出発は遅くとも水曜の早朝あたりになるのだろう。そうすると、ジェラゾヴァ・ヴォラには24日〜28日までの4日間滞在していた事になろうか。ただし、ショパンはここで「僕は……」と単数形で書いているので、ひょっとすると、ルドヴィカだけはもうしばらくここに残り、スカルベク家で年を越した可能性もあるのではないかと考えられる。
そしてこのあと、ショパンとビアウォブウォツキは、長い音信不通状態に入るのである。
[2010年11月19日初稿 トモロー]
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