検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――

Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–

 


4.本物のマトゥシンスキ書簡に垣間見える友情のニュアンス――

  4. About the friendship of Chopin and Matuszyński.-

 

BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第11番 ホ短調 作品17-2 by Tomoro

[VOON] Chopin:Mazurka 11 Op.17-2 /Tomoro

 

 

今回紹介するのは、ショパンがこの夏にシャファルニャからワルシャワのヤン・マトゥシンスキJan Matuszy?ski宛に書いた手紙である。

この「マトゥシンスキ書簡」には、タイプの違う3種類のものがある。もちろんこの分類は本稿における独自のものだ。

 

1.         初期書簡に含まれる、本物の手紙が2通。

2.         ウィーン時代に含まれる、贋作書簡が34通。

3.         パリ時代に含まれる、マトゥシンスキから彼の義兄に宛てた手紙の抜粋が1通(※これに関しては真偽不明だが、そもそもその真偽を問うほどの内容ですらない)。

 

今回は、この中から、本物の「マトゥシンスキ書簡」2のうちの最初の1通について検証する。

この手紙が書かれた背景については、以下の著書がよく説明してくれているので、ここでちょっと紹介しておきたい。

 

「フレデリックがシャファルニャで過ごした一八二五年の素晴らしい夏は、たびたび遠足に出る機会もあり、変化に富んだものだった。近隣のお屋敷訪問にとどまらず、一行はもう少し遠方にも――たとえば外国まで――足を伸ばしたのである。つまり、当時新たにプロイセン領に編入された土地への遠足である。クヤーヴィ地方を横断する新しい国境線は、ジェヴァノフスキ家の領地からほんの数キロというあたりを通っていた。

…(中略)…

少年に強い印象を残した町はトルンである。スカルベク家の故郷の町でもあり(フリデリックの代父もここで生まれた)、古い街路や、チュートン騎士団が建てた教会や、町の城門、名高い市庁舎などのゴチック建築が魅力のこの町で、もちろん少年は、聖アンナ通り[現コペルニクス通り]にたどり着き、かのポーランド人天文学者が生まれた家を見学して大いに興奮した。その感想はヤン・マトゥシンスキ宛ての手紙に記されているが、これはヤンがプワーヴィの町[ワルシャワの南東一三〇`、ヴィスワ河沿い]から、チャルトリスキ一族が蒐集した民族の宝物を収める「シビラの神殿」見学の模様を書いてよこした手紙への返信である。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

ここでは、「一八二五年の素晴らしい夏」と書かれているが、本当にそうだったのだろうか? このような上辺の解釈こそが、ショパン伝において、いかにビアウォブウォツキとの友情が看過されているか、もしくは軽んじられているかを物語っているのである。

 

 

それでは、ショパンがマトゥシンスキ宛に書いたその「返信」を見てみよう。

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ■

(※原文はポーランド語)

[1825年、シャファルニャ]

拝啓、親愛なるヤーシア!

ああ、君から手紙をもらうなんて、この僕の歓喜は、あのセヴィニエ夫人ですら表現できないだろう、それほど意外だったよ。

        「セヴィニエ夫人」Mme de Sévigné. 16261696)。機知に富み、生き生きとした描写で手紙を書く事で知られる17世紀のフランスの貴族。

こんな驚きを探すくらいなら、自分の死を探した方がよっぽど早く見つかるだろう。君みたいにシラーに鼻を突っ込んでる言語学者が、ラテン語の本もまだ1ページも読まずに、僕みたいに祖父の馬ムチと同じくらい緩慢で貧弱なマヌケに手紙を書いてくれるなんて、僕には想像する事すら頭になかったよ。

        「シラー」Johann Christoph Friedrich von Schiller. 17591805)。18世紀のドイツの詩人、劇作家。ベートーヴェンの《交響曲 第9番「合唱付き」》の原詞を書いた事で知られる。

とにかくこっちは、牛のように肥えてる君の10分の1でもいいから太りたいと、子豚のように残飯を食っているような有様だと言うのにね。

これは本当に、我がヤン君からの素晴らしい贈り物、素晴らしく名誉な事だ。そして、もしもそのあまりにも高すぎる価値を正当に評価できる者がいるとすれば、それは僕だ、今のところね。僕は、それと同じ価値を自分の手紙に当てはめてはならないが、かと言って君の高貴なる肥満を侮辱するためにペンを手に取ってるようじゃ申し訳ない。

前置きはこれくらいにして、さっさと本題に移ろう。もしも君が、君のプワーヴィとウサギで僕をびっくり仰天させたいと言うのなら、僕は、僕のトルンとウサギ(間違いなく君のより大きいよ)と、それから4羽のヤマウズラで未熟な狩猟家の鼻をへし折ってやるつもりだ。それは一昨日のことだ。君はプワーヴィで何を見たって? 何を? 君が見たのは、僕の目がとらえた全体からすれば、ほんの一部分でしかないんだよ。君はシビラで、コペルニクスの家から、彼の生地から取って来たレンガを見たんだろ? 僕は家全体を、その生地全体を見たんだよ。確かに、現在はちょっと冒涜的に扱われてはいたな。考えてもみてくれ、ヤーシアよ、かの有名な天文学者が生命の恵みを授かった正にその部屋に、その部屋の一角に、今じゃ、どこの馬の骨かも分からないドイツ人のベッドが置かれてるんだ。多分そいつは、ジャガイモを腹いっぱい食ったあとで、そよ風の如く屁でもこきまくってるんだろうよ。そしてそのレンガの上には、トコジラミが何匹も這い回っていて、そのレンガの一つが、盛大な式典までしてプワーヴィへと運ばれた訳だ。そうなのさ、兄弟! そのドイツ人は、かつてその家に誰が住んでたかなんて気にもしないんだ。これがチャルトリスカ公妃だったら、一つのレンガにだってしないような扱いを、彼は壁全体にしてるって訳さ。

しかし、コペルニクスは置いといて、トルンのお菓子の話に移ろう。君は、コペルニクスよりもそっちの方がよく知っているだろうから、僕はそれに関する重大な事実を君に知らせなければならない。そしてそれは、単に便箋に染みを付けてるに過ぎない君のようなヤツを驚かせるかもしれない。その事実とは以下の通りだ。ここのペストリー職人の習慣によると、そのお菓子屋は仮設売店で、たくさん入る棚を備えていて、そこに色んな種類のお菓子が何ダースもしまってある。君は、こんなの『アダジオラム・ヒリアーデス』の中じゃ間違いなく見つからないだろう。

        『アダジオラム・ヒリアーデス(Adagiorum Hiliades)』。正式な綴りは『アダジオラム・リアーデス(Adagiorum Chiliades)』。ショパンの書いた綴りは、おそらくポーランド語の発音に則って表記されたものと思われる。オピエンスキー版ではショパンの原文通り表記し、何の註釈も施していない(※その邦訳版では、訳者によって「ホレースの作品」と註釈されているが、それは間違い)。シドウ版では、抜け落ちたCCで補ってはあるのだが、やはり語句の意味までは注釈されていない。ちなみにこれは「千の格言」と言う意味で、ギリシャ語とラテン語の格言を集めて解説した本の題名。オランダの古典研究家エラスムスによってルネサンス期に編集され、1500年にパリで出版された。第1版は『コレクティアーナ・アダジオラム』(Collecteana Adagiorum 「格言選集」)の題名で収集数も約800だったが、徐々に拡大されて題名も現在のものに改められ、最終的に4,658の格言が集められた。

しかし僕は、君がそのような重要な問題に興味を持っているのを知っている。だから君がホレースの詩を訳す際、半信半疑の重要な語句に出くわした時の助けになるよう、君に報告しておく。

        「ホレース」Horace 紀元前65年−紀元前8年)。クィントゥス・ホラティウス・フラックスQuintus Horatius Flaccus)。古代ローマ時代の偉大な詩人の一人。

つまりだ、僕は君にトルンについて書く立場にいる訳だが、おそらく直接会った時に話せるとは思うが、今手紙で言える事は、当地ではそのお菓子が最も強い印象を与えていて、そしてそれが全てだと言う事だ。僕がこの町の四方に設置された要塞を全て詳細に見てきたと言うのは本当だ。砂をあちこちに運ぶ見事な機械も見た、えらく単純だが最も面白いものだった、ドイツ人はサンドマシンと呼んでいたね。僕は他にゴシック様式の教会も見た、そのうちの一つは十字軍の騎士によって1231年に建てられたものだ、斜塔や素晴らしい市庁舎の内外も見た、特筆すべきは、一年の日数(※365個)ほどもある窓と、一年の月数(※12個)ほどもあるホールと、週数(※52個)ほどもある部屋があって、全ての建造物がゴシック様式で、壮大かつ崇高なんだ。しかしそれら全てを、このお菓子が凌いでいるのだ、ああ、お菓子よ! 僕は一つワルシャワへ送ったよ。しかし僕は何を見てるのか? 僕はたった今机に着いたばかりなのに、もう最後のページだ。今しがた書き始めて、君とおしゃべりを始めたばかりのような気がするのに、もう終わりにしなければならない! 親愛なるヤーシア、あと僕にできるのは、心から君を抱擁する事だけだ。もう10時で、みんな寝る時間だ、僕もそうしなければならない。ワルシャワで、22日に。僕はそれより早くそこへ帰れない――さあ、この手紙を終わりにするとしよう、そして、心から君を抱擁しよう、親愛なるヤーシア。今は20マイルの彼方から僕の唇を君に押し付け、僕らが会えるまでさよならを言うとしよう。

君の最も誠実なる、親しき友

F.ショパン

僕はどんなに君に会いたい事だろう、2週間くらいなら、君と直接会って遊べなくても大丈夫だ、だって、心の中では毎日会っているからね。この手紙は誰にも見せないでくれよ、恥ずかしいから。僕は読み返さないので、意味が通っているかどうか分からないから。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より

 

 

まず、この手紙の日付について。

この[1825年、シャファルニャ]と言うのはオピエンスキー版で推定されていたもので、これに関しては問題はない。ところがシドウ版では、これがさらに限定されて[18258月の初め、シャファルニャ]となっている(※ちなみにポーランドの「フレデリック・ショパン研究所」と言うサイト(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)でもそうなっている)。だがこの手紙が[8月の初め] であるはずがない。

前回紹介した「家族書簡」が1825826日」だから、それだと、この「マトゥシンスキ書簡」はそれよりも前に書かれていた事になってしまい、話の前後関係が合わなくなってしまう。実はこの手紙は、この中の記述や先の「家族書簡」の中の記述と照らし合わせれば、簡単にその日付まで特定できてしまうのである。

まず、ショパンはこの手紙の最後で、「ワルシャワで、22日に」と書いている。これは、ショパンがワルシャワに帰宅するのが22日」と言う事だから、それはすなわち「9月」の22日」である。さらにショパンは、2週間くらいなら、君と直接会って遊べなくても大丈夫」と書いているから、それによって、この手紙が922日」2週間」前に書かれていた事が分かる。つまり、この手紙は「98日頃」に書かれているのだ。

さらにショパンは、先の「家族書簡」の中で、「明日の朝早く僕たちはトゥールズノへ行き、第一水曜日に戻って来る予定」と書いていた。その「第一水曜日」とはすなわち「97日」である。そうすると必然的に、今回の「マトゥシンスキ書簡」は、その小旅行から戻って来た「97日」以降に書かれていた事が分かる。おそらくショパンがシャファルニャに戻って来た時には、すでに「マトゥシンスキからの手紙」がショパンの戻るのを待ちわびていたはずである。それと考え合わせても、この手紙が、早くて9月7日 水曜日」か、遅くとも「98日 木曜日」には書かれていたと考えて間違いないだろう(※下図参照)。

 

1825年における、ショパンの夏休みのスケジュール―

1825年 8月

 

1825年 9月

 

1

「発」

2

3

「到着」

4

5

6

 

 

 

 

1

小旅行

2

小旅行

3

小旅行

7

8

9

10

 

11

12

13

4

小旅行

5

小旅行

6

小旅行

7

1

8

マトゥシ

9

10

 

14

15

 

16

17

18

19

 

20

11

12

13

14

15

 

16

17

21

22

23

24

 

25

 

26

家族書

27

小旅行

18

 

19

 

20

21

22

帰宅

23

24

 

28

小旅行

29

小旅行

30

小旅行

31

小旅行

 

 

 

25

 

26

 

27

28

29

30

 

 

 

 

それでは、手紙の内容に移ろう。

今回の「マトゥシンスキ書簡」は、まず相手の方からショパンの休暇先であるシャファルニャに手紙を送って来たと言う点においても、そしてそれに対してショパンが返事を書いたと言う点においても、昨年の「コルベルク書簡」と全く同じパターンのものである。その内容の、少年らしい他愛なさも似たり寄ったりだ。そして文面を見れば明らかなように、これはショパンがマトゥシンスキに書いた最初の手紙でもある。

 

 

まず、前回の「家族書簡」との関連性を考える上で、次の表現について着目したい。

 

「僕みたいに祖父の馬ムチと同じくらい緩慢で貧弱なマヌケに手紙を書いてくれるなんて」

 

前回「家族書簡」を検証した際、私は、今年のシャファルニャ訪問におけるショパンの「極度の筆不精ぶり」について説明した。そして今回の「マトゥシンスキ書簡」におけるこの表現も、何気にその「筆不精ぶり」を裏付けるものと言える。

その「極度の筆不精ぶり」と言うのをもう一度掻い摘んで説明すると、

 

1.         今年の夏は、ショパンは83日にシャファルニャに到着していたにも関わらず、最初の頃は「検閲官」のルイーズ嬢も不在だった上、本来の目的とも言うべきビアウォブウォツキに会えない事に気落ちしていたため、とても家族に手紙を書く気になれず、ずっと手紙の執筆をサボっていたらしいと言う事。

2.         ところがそれが、ルイーズ嬢が「オボルフから元気になって帰って来たこと」に加え、一緒に帯同していたらしき姉のルドヴィカやワルシャワの家族からも尻を叩かれ、それで、ようやく26日」になって初めて「書き上げ」たのが、前回の「家族書簡」だったと言う訳である。

 

つまり、ここでショパンは、マトゥシンスキに向かって、そのような自分の「筆不精ぶり」を、「自分で自分の尻を叩くとなると、「祖父の馬ムチと同じくらい緩慢で貧弱」だ」と言う風に自嘲し、そんな「マヌケに手紙を書いてくれるなんて」云々と書いている訳なのである。

ある意味、そのマトゥシンスキからの「手紙」は、ビアウォブウォツキに会えずに寂しい思いをしていたショパンにとって、いい慰めになったと言うか、「意外だった」ゆえにいい気分転換にもなっていたのではないだろうか。ショパンはその上で、「君の高貴なる肥満を侮辱するためにペンを手に取っているようじゃ申し訳ない」と、あたかも、彼の友情に応えて重い腰を上げるかのごとく、「本題に移」って行くのである。

 

 

それにしても、この手紙の書き出しにおける、ショパンのこの浮かれた調子はどうだろうか? 去年のコルベルク宛の時もこんな調子だったが、今回はそれ以上だ。確かにこの手紙だけ読めば、誰もそんな事など気にもしないのかもしれない。しかし、この2週間ほど前に書かれた「家族書簡」と続けて読み返してみる時、ここには、家族宛に書いた時のような「感傷」が微塵もない事に気付かされるだろう。となれば、前回の「家族書簡」と、今回の「マトゥシンスキ書簡」と、たった2週間の間に書かれたこれら2通の、このあまりにも対照的な書き出しは、明らかに何かを示唆していると言えるのではないだろうか。

何故なら、とにかくこの夏のショパンにとって、彼の心を占めている最大の関心事は、決してトルンの「お菓子」などではないはずだからだ。それはただひたすら、「ビアウォブウォツキに会えない」と言う辛い現実であり、そもそもショパンにとって「シャファルニャ訪問」とは、最初から「ソコウォーヴォ訪問」を意味していたに過ぎないからこその「感傷」だったはずだからである。

ショパンはその「感傷」を、家族に対しては包み隠す事なく告白したのに、一方のマトゥシンスキに対しては、一切それらしい態度は見せず、むしろ、逆に陽気に振舞おうとしているかの如き筆致に終始している。

すなわちそこに、ショパンのマトゥシンスキに対する「友情のニュアンス」を垣間見る事ができるのである。

ショパンは、家族に対しては素直に吐露するような真情を、マトゥシンスキに対しては決してしない。つまりマトゥシンスキと言う友人は、ショパンにとってそのような弱みを見せる対象ではないと言う事だ。おそらくショパンは、コルベルクに対しても同様だろう。だが、ビアウォブウォツキに対しては違う。もちろん、のちのヴォイチェホフスキに対しても違う。同じ友人でも、マトゥシンスキはあくまでもマトゥシンスキであり、決してビアウォブウォツキやヴォイチェホフスキの代わりにはならないし、もちろん家族の代わりにもなり得ない。ショパンにとってマトゥシンスキとは、そう言うタイプの友人なのであり、それは生涯変わらない。

 

そんな彼も、ヴォイチェホフスキやフォンタナの影に隠れがちながら、ショパンを語る上では欠かす事のできない友人の一人である。しかしマトゥシンスキは、ショパンと同じワルシャワに住み、同じ学校に通っていながら、ショパンが今までに書いた手紙の中には、まだ一度も彼の名は出てきていなかった。

たとえば、ビアウォブウォツキやヴォイチェホフスキなどが間接的に他の手紙の中で言及されていた事を思えば、ショパンにとって、当時のマトゥシンスキの存在がどのようなものだったかは容易に想像もつくだろう。そのマトゥシンスキから、この夏、突然シャファルニャのショパン宛に手紙が送られて来たのである。それに対するショパンの驚きようは、「意外だった」と言うにはあまりにも大袈裟で、しかもクドイほど「御丁寧な過大評価」でもって綴られている。

この、まるで「おちょくってる」としか思えないようなショパンの軽口の中にも、この2人の関係性とか、「友情のニュアンス」を垣間見る事ができる。

 

しかしながら、このようなニュアンスと言うのは、実はマトゥシンスキのプロフィールを見てみる時、なるほど当然の事なのかもしれないと、そう頷けるような節が見受けられるのである。

 

ヤン・エドゥワルド・アレクサンデル・マトゥシンスキJan Edward Aleksander Matuszy?skiは、18081214日にワルシャワに生まれ、1842420日にパリに没す。彼は医者で、福音アウグスブルグ教会(ルーテル派)に帰依する町民の子息であった。この家族は、上シレジア地方(プシチナ町)から(ワルシャワに)移住していた。彼は、医学博士で“福音病院”の外科医だった父ヤン・フレデリック(1768年頃に生まれ、1831年に没す)と、マーレンベルグ家出身の母ルドヴィカとの間に生まれた。彼は1827914日に、ワルシャワ大学医学部に入学した。…(※後略)…

アンヂェジェイ・シコルスキによる、「ヤン・マトゥシンスキ」に関する記事

Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

        ちなみにシドウ版の註釈では、「ヤン・マトゥシンスキ(18091842)」となっていて、生年が一年違っているのだが、これもまた誤植だろうか?

 

マトゥシンスキは、ショパンの友人達がみな資産家の息子だった中にあって、「町民」の出身でありながら「医学博士」にまで上り詰めたと言う、そんな「外科医」を父に持つ身である。ショパンの父ニコラも、元は農民、または車大工の息子からワルシャワ高等中学校の教授にまで上り詰めた人であったから、そういう意味では、このマトゥシンスキの境遇もショパンのそれと似ていると言える。年齢も一つしか違わない。

そして、コルベルク家がワルシャワに住んでいたのと同様、マトゥシンスキ家もワルシャワに住んでいたから、彼はショパン家の寄宿学校には入っておらず、したがってショパンと寝食を共にした事もないのである。そういう意味では、ショパンにとってマトゥシンスキは、コルベルクに近い「友情のニュアンス」があると言える。

しかしながら、一方のコルベルクが、親同士が同じ学校の教師でショパン家とかねてから親交があったのに対し、一方のマトゥシンスキは親が医者であるから、ショパン家とは個人的な付き合いがあった訳ではない。だからショパンは、コルベルク宛では、その追伸で「君のお母さんとお父さんに、僕から尊敬の念を、そして僕は君の兄弟達を抱擁する」と、コルベルクの家族にも挨拶を贈っているのに対して、マトゥシンスキ宛では、マトゥシンスキの家族には一切挨拶を贈っていない。要するに、ショパンとマトゥシンスキは、ショパンが学校に編入してから、そこで初めて知り合った友人なのだ。そういう意味では、コルベルクの場合とは違って、逆に親絡みではない分、純粋にお互いが選び合った友人同士だとは言えよう。ただし、その親交と言っても、現時点ではまだ、最長に見積もってもせいぜい1年半くらいの浅いものなのである。

 

これで、ショパンにとってマトゥシンスキが、「家族書簡」で見せたような「感傷」を吐露するような間柄ではないと言うのもよく分かるだろう。それに、ショパン家の寄宿学校にいなかったマトゥシンスキは、23つ歳上のビアウォブウォツキの事は知らない。だからショパンとマトゥシンスキの間では、ビアウォブウォツキは共通の友人ではないので、ショパンがビアウォブウォツキについての悩みを打ち明ける対象でもない訳だ。

そして、そのマトゥシンスキからの手紙に対して、何故ショパンがあのように極端な驚き方をしてみせていたのかと言うのも、その理由がよく分かるだろう。現時点での彼らは、同じワルシャワに住み、同じ学校に通ってはいるが、知り合ってまだ間もない、あくまでも「学校の友達」でしかなかったのである。もちろん、ショパンはすでに有名人だったから、マトゥシンスキの方では、ショパンの事をそれ以前から知ってはいたはずだが…。

 

この2人の関係について、もう少し掘り下げてみよう。

これは前にも書いたが、ショパン達の通っているワルシャワ高等中学校と言うのは、「試験」でいい成績を収めるとその生徒には「賞」が与えられ、その名前が「ワルシャワ通信」に掲載されるのである。

ショパンは昨年その学校に編入した訳だが、彼は入っていきなりその年の「試験」「賞」を取り、その名が「ワルシャワ通信」に載ったのである。そしてその際、このマトゥシンスキも同様に名前が載っていた。さすがは医者の息子にして、自らも医者を目指しているだけの事はある。ところが、そのマトゥシンスキは、今年はどうだったのかと言うと、ショパンが2年連続で「賞」を取ったのに対して、彼は今年は「賞」が取れず、「ワルシャワ通信」にも名前が載らなかったのである。さらに、これが来年はどうなるのかと言うと、ショパンが3年連続でまたしても「賞」を取るのに対して、マトゥシンスキも前年の汚名を返上し、見事に「賞」を奪還するのだ。

つまり、ここから想像される事は、ショパンが、こと勉強に関しても天才肌の秀才であるのに対して、一方のマトゥシンスキは、どこか不器用な感じのする、言わば努力家タイプの秀才であると言う事だ。

 

そこで、この「マトゥシンスキ書簡」で特徴的なのは、いつになくショパンが、「学のある」ところをこれでもかと言うくらいに披露している点だ。「セヴィニエ夫人」「シラー」「アダジオラム・ヒ(チ)リアーデス」「ホレース」…、私などは、この中ではかろうじて「シラー」を知っていたくらいで、現代の一般の人には、註釈なしにはほとんど意味が分からないのではないだろうか。しかし当時のこの2人は、当たり前のようにそれらを知っていたのである。シドウ版の註釈では、マトゥシンスキは[ショパンの親しい友人で、勉強仲間]云々と書かれていたが、おそらくこの2人の間では、日常的にこのような調子で、学校の勉強や読書などに関する話題がその中心を占めていたのだろう(※もちろん音楽もだが)。この手紙からは、そのようなニュアンスが生き生きと伝わってくる。

要するに彼らは、学校で知り合っただけあって、こと勉強においては、お互いを良きライバルとして意識し合っていたのかもしれない。そして、2人がこの手紙をやり取りしている頃には、彼らは当然、今年の「試験」の結果も分かっている(※すでに「ワルシャワ通信 182584日号」でも公表されている)。そう考えると、今年は「賞」を逃したマトゥシンスキが、この夏「シビラの神殿」を見学し、その様子をここぞとばかりに突然ショパン宛に自慢げに報告してきたと言うのも、何だか微笑ましい姿として頷けてくる。しかし対するショパンは、見事にそれを返り討ちにしてのける訳だ。

 

ただしこれを読まされたマトゥシンスキも、決して不快には思わないのではないだろうか?

 

普通なら、マトゥシンスキから見れば、ショパンと言うのは、それこそ嫉妬の対象にもなりかねないような存在であるはずだ。しかしそうならないのは、マトゥシンスキ自身の人間性もさる事ながら、ショパンの持っているキャラクターが、そうさせないだけのユーモア感覚を備えているからだと言うのが、この手紙から実によく分かるのではないだろうか。この中でショパンは、散々「学のある」ような事を書いておきながら、それらは単に「お菓子」ネタでオチを付けるための前振りでしかなく、つまり、いかに天才肌の秀才でも、一皮向けば「ただの人」と言う事を、彼はそのように自虐して笑い飛ばしてみせるのだ。

こう言ったところが、ショパンが天から二物も三物も与えられていながら、嫉みや妬みの対象になる事なく、誰からも愛され、人気者となっていた所以なのだろう。

 

しかし一方、その裏では、たとえばバルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカはこの手紙について、「少年に強い印象を残した町はトルンである」として、「かのポーランド人天文学者が生まれた家を見学して大いに興奮した」などと、単に字面だけを表面的になぞってポーランド的に曲解しているが、これは断じてそう言う事ではないだろう。

そもそも、そうこうしている間にも、親友ビアウォブウォツキが病気で苦しんで正にソコウォーヴォにいるのだ。それなのに、その彼に会えずにやきもきしているショパンにとって、そんなものは、本当はどれもどうだっていい事なのである。だからこそ余計に、「それら全てを、このお菓子が凌いでいるのだ」

 

次回に紹介する「ビアウォブウォツキ書簡」の第3便で、その事が決定的によく分かるだろう。

 

 

 

最後にもう一つ、この手紙の結びの文句について。

ショパンは、

 

「この手紙は誰にも見せないでくれよ、恥ずかしいから。僕は読み返さないので、意味が通っているかどうか分からないから」

 

…と書いている。これは、本稿で再三に渡って指摘してきた通り、ショパンが自分の文章の拙さを弁解する表現の一つとしてよく使われるものだ。

たとえば、彼が2年前に初めて書いた「マリルスキ書簡」にも、

 

「誰にもこの手紙を見せないでくれよ。僕が政治について何も知らないから、書く事が出来ないのだと、誰もが言うだろうから」

 

…と書いていたが、これと同じ事である。

 

 [2010年9月28日初稿 トモロー]


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検証4-5.会えなかった二人

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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