検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――
Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–
2.行間から読み取れるビアウォブウォツキからの返事(その1)――
2. The answer from Bialoblocki to be able to read from the space between
the lines (Part.1)-
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第10番 変ロ長調 作品17-1 by Tomoro
[VOON] Chopin:Mazurka 10
Op.17-1 /Tomoro
今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡」の第2便なのだが、これは、ちょっと書き方が変わっている。
前回の第1便にもフランス語が一文だけ混ざっていたが、今回は長短あわせて13箇所もフランス語(※厳密には、ポーランド語表記のフランス語で、たとえるなら、我々日本人が英語をカタカナ表記で書くようなものなのだそうだ)が混ざっている。しかもその混ざり方がランダム過ぎて、日本語に訳した場合それをどう表せばいいのか困ってしまうほどなのだ。それで本稿では、註釈が煩雑になるのを避けるため、今回はそのフランス語部分を「紫色」で示す事にした。
さて、この第2便を読む前に、今一度、前回の第1便でショパンがビアウォブウォツキに何を要求していたのかを確認しておこう。
1.
「もしも君が手紙を書いてくれないなら、僕の次の手紙でひどい叱責が君を待ち受けていると思ってくれたまえ」
2.
「君の足の具合が良くなったかどうか、そして、君が無事家に到着したかどうか僕に報せてくれるように」
そして、これらの要求が書かれたショパンの第1便をビアウォブウォツキが読み…、返事を出し…、そしてそれをショパンが読み…、それで書いたのが以下の第2便と言う事である。
まずは、註釈なしに読んでみていただきたい。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第2便)■ (※原文はポーランド語で、部分的に「ポーランド語表記のフランス語」が混在) |
「[ワルシャワ、1825年11(7)月27日] 「僕の愛しい人! 君が僕に書いてくれた手紙は僕を喜ばせた。けれども見たところ、それは悲報を含んでいる。君の足は君を痛めつけている。僕はそれで深く悲しんでいる。手紙から察するところでは、君はすっかり陽気なようで、それが僕に元気を与えて、最高の気分にさせてくれる。 明日、我々は試験を終える。でも僕は賞を取れないだろう、何故なら、浣腸が賞を取るだろうから――僕が君の所へ行った時、この謎を説明しよう――浣腸が賞を取るべき候補者なのか? これを手紙で明らかにするには、長い説明を必要とする。しかし言葉で直接話すのであれば、この言い回しをうまく説明できるだろう。 ルイーズ嬢が決めた通り、僕達は月曜日にここを発って、水曜日にシャファルニャに到着する。君が僕に会いたいなら、真っ先に来てくれたまえ。もう一人の賢者のせいで、僕の良き保護者女性は、僕が君の所へ行くのを許してくれないのだ。 明日の今頃は、何という楽しみ、何という喜び、僕は寝たら、金曜日には、それほど早くから起きられないだろう。僕は新しい、宮廷スタイルの長ズボンを持っているんだ[判読不能]、カッコ良いよ(実際には、これは最後の嘘だが)。僕の首には新しいマフラーが――たぶん君はそれが何だか分からなくて、他の名前で呼ぶに違いない――ネクタイとかね。それを買うために一体何ズローチかかったか覚えてないんだ。僕は親愛なるルドヴィカ姉さんの手を借りてそのお金を払ったよ。 お聞き下さい、お聞き下さい、ドロシア嬢様 使用人役のアドルフ・シドウォフスキ。 お聞き下さい、ここらで僕は手紙を終わらせるとしよう、我々はすぐに会えるのだし。あまりに乱筆になるのも好ましくないしね(手が4本でもあれば別だが)。だからこれで終わりにするのを許してくれたまえ。僕達は皆元気だよ、僕は君からの手紙を3通もらった。試験は明日だ。レシチンスカ嬢は、君に挨拶を送ります。ドモフィッチさんはワルシャワにいる。ジヴニーは、古いかつらをまだつけている。デケルト夫人は、君の手に握手をする。バルチンスキは、君を抱きしめる。僕は、君がオクニエ村へ行く時のために本を持って行こう。家族皆が君に愛を送るよ。同じく君のパパにも。君の鼻づらを見せてくれたまえ! 君を愛している。 F.F.ショパン ああ、僕はソコウォーヴォの匂いを感じる事が出来る! ソコウォーヴォのムッシュ、ムッシュ・ヤン・ビアウォブウォツキへ ―親切によって」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)より
※
このように、まるで気まぐれとしか思えないようなフランス語の混在ぶりなのである。このあとの「ビアウォブウォツキ書簡」にも外国語の混在は見られるが、ここまでランダムにフランス語が散りばめられている例はこれしかない。ショパンは冗談のつもりなのだろうが、おそらく、今現在、彼が試験期間の真っ只中だと言う事も関係しているのではだろうか?
※
この手紙の日付[ワルシャワ、1825年11(7)月27日]はオピエンスキー版の推定の日付だが、シドウ版では[ワルシャワ、1825年7月27日]となっている。いずれも推定だが、これに関しては、シドウ版の日付が絶対的に正しい。前回の第1便に「試験が今月の26日にある」と書かれていた事や、今回「明日の今頃は、何という楽しみ、何という喜び、僕は寝たら、金曜日には、それほど早くから起きられないだろう」と曜日が特定されている事から、このシドウ版の推定で間違いない(※下図参照)。
1825年 7月 |
||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 第1便 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 「試験」 |
【27】 第2便 |
28 試験終 |
29 「金曜」 |
30 |
31 |
8/1 出発 |
8/2
⇒ |
8/3 シャファ |
8/4 |
8/5 |
8/6 |
※
実はこの日付は、当時の「ワルシャワ通信」の記事と照らし合わせて確認されたもののようだ。クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』にその資料が載っているのだが、「ワルシャワ通信 1825年8月4日号」には、ワルシャワ高等中学校の試験が「7月26、27、28日」に執り行われたと書いてある。これは、ショパンの手紙に書かれている内容とぴったり一致する。
それでは、今回は、手紙の内容全てについて、最初から順に見ていく事にしよう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#1. |
「僕の愛しい人! 君が僕に書いてくれた手紙は僕を喜ばせた。けれども見たところ、それは悲報を含んでいる。君の足は君を痛めつけている。僕はそれで深く悲しんでいる。手紙から察するところでは、君はすっかり陽気なようで、それが僕に元気を与えて、最高の気分にさせてくれる。」 |
まず、これを読んだだけでもう、ビアウォブウォツキがショパン宛に書いてきた手紙の内容がどのようなものだったかの想像がつくだろう。
彼は、ショパンからの「君の足の具合が良くなったかどうか」と言う問いかけに対して、正直に「痛めつけている」と説明してきている。つまり、病状はちっとも回復に向かっていないのである。しかしその反面、彼はショパンに余計な心配をかけまいとして、気丈にも「陽気」に振舞ってみせてもいるのだ。
我々はここから、ショパンが第1便の中で書いていた「君の慈悲心」と言うところの、ビアウォブウォツキの善良なる人間性をも読み取る事ができるのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#2. |
「明日、我々は試験を終える。でも僕は賞を取れないだろう、何故なら、浣腸が賞を取るだろうから――僕が君の所へ行った時、この謎を説明しよう――浣腸が賞を取るべき候補者なのか? これを手紙で明らかにするには、長い説明を必要とする。しかし言葉で直接話すのであれば、この言い回しをうまく説明出来るだろう。」 |
ここに書かれている「賞」と言うのは、「試験」で優秀な成績を収めた者に与えられる「賞」の事で、その「賞」を取ると、その事が「ワルシャワ通信」に書かれ、受賞者の名前が紙上に掲載されるのである。前章の『シャファルニャ通信 1824年8月19日号』の時にも書いたが、実はショパンは、昨年この「賞」を取っており、それで実際に「ワルシャワ通信 1824年8月9日号」に名前が載ったのである(ちなみに、そこには友人ヤン・マトゥシンスキの名も載っていた)。
そんな訳だから、この成績優秀なショパンは、今年は「僕は賞を取れないだろう」などと謙遜している訳なのだが、さて、それでは実際はどうだったのだろうか?…と言うと、実はこれが、「取れていた」のである。この手紙の日付を確認した「ワルシャワ通信 1825年8月4日号」には、今年もしっかりショパンの名前が載っているのだ。
※
ちなみに、今年は残念ながらマトゥシンスキの名前はなかったものの、その代わりに、将来ショパンのマネージャー権雑用係を勤める事になる友人フォンタナの名前があった。
※
ちなみに、ついでに来年の分も見てみると、「ワルシャワ通信 1826年8月6日号」には、またしてもショパンの名前が載っているのだ! なんと3年連続で「賞」を取ったのはショパンだけで、フォンタナも昨年に続いて載っており、それ以外では、昨年ダメだったマトゥシンスキが再び返り咲いた他は、ティトゥス・ヴォイチェホフスキとドミニク・ジェヴァノフスキが新たに名を連ねている。これを見ると、ショパンの友人達は皆かなり優秀だった事が分かる。逆に言うと、優秀だからこそ、将来を渇望されてショパン家の寄宿学校にも入って来たと言う事なのだろう。
※
これらの資料は全て、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で確認する事ができる。
ところで、ショパンは何故、今年は「賞を取れない」と思っていたのだろうか? そもそも「浣腸が賞を取る」とは一体どう言う意味なのか?
私が想像するに、おそらくショパンは、当時ひどい便秘に悩まされていて、そのせいで試験勉強に集中できなかったのではないだろうか? それでもし「賞」が取れたとしたら、それは「浣腸」をしてスッキリしたお陰だと、だから「浣腸が賞を取るべき候補者」なのだと、そんなような事が言いたかったのではないだろうか?
いずれにせよ、ここで着目すべきは、「言葉で直接話すのであれば、この言い回しをうまく説明できる」と言って、話を途中でやめてしまった点である。
つまりここにも、ショパンが書く事をあまり得意としていないと言うか、多少面倒くさがっているような様子が窺えるのだ。ただしこの場合は厳密に言うと、「どうせもうすぐ会えるのだから、書くよりも、会った時に直接話したい」と言う思いが強いからこそ、話を途中でやめてしまったと言う事なのだが、たとえばこれがジョルジュ・サンドのような筆達者なら、一旦書き出した事なら、途中で勿体ぶってやめたりせず、そのまますらすらと書ききってしまうはずである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#3. |
「ルイーズ嬢が決めた通り、僕達は月曜日にここを発って、水曜日にシャファルニャに到着する。君が僕に会いたいなら、真っ先に来てくれたまえ。もう一人の賢者のせいで、僕の良き保護者女性は、僕が君の所へ行くのを許してくれないのだ。」 |
この「ルイーズ嬢」とは、ルイーズ(=ルドヴィカ)・ジェヴァノフスカ、つまり、ショパンの友人ドミニク・ジェヴァノフスキの叔母で、去年もシャファルニャでショパンの世話焼き係を務め、「家族書簡」や『シャファルニャ通信』で幾度となく言及されていた女性であり、なんと言ってもその『シャファルニャ通信』の「検閲官」でもある。ショパンはここで、その彼女の事を「僕の良き保護者女性」と書いているが、一方、「もう一人の賢者」と言うのが誰を指すのかは、ちょっと分からない。我々には分からないが、しかしビアウォブウォツキには、それが誰を指しているのかが、ショパンのその言い方でちゃんと通じてしまうと言うところがミソなのだ。
そこで興味深いのは、今年のショパンのシャファルニャ滞在の日程には、どう言う訳か、ソコウォーヴォ訪問が含まれていないと言う事である。
だからショパンは、ビアウォブウォツキの方に「来てくれ」と言っている訳だが、と言う事は、別にショパンがビアウォブウォツキと会うのを禁じられている訳ではなく、ショパンがソコウォーヴォへ行く事が禁じられている事になる訳だ。と言う事は、それを禁じるなどと言う、そんな権力を行使できるような「賢者」とは、ドミニクの父にしてシャファルニャの領主、ユリウシ・ジェヴァノフスキ以外には考えられないのではないだろうか?
おそらくこのジェヴァノフスキ氏が、ビアウォブウォツキの継父であるソコウォーヴォの領主ヴィブラニェツキ氏と、何か仲たがいでもしていたとしたらどうだろうか?(※ちなみにシャファルニャとソコウォーヴォは隣接している)。そしてその仲たがいは、ビアウォブウォツキがまだワルシャワにいた頃に起きており、当然その事は、当時ショパンとビアウォブウォツキの間でも話題になっていた…とすれば、ショパンが手紙に「もう一人の賢者のせいで」と書くだけで、その意味するところがビアウォブウォツキに通じてしまうと言うもの、頷けるのではないだろうか。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#4. |
「明日の今頃は、何という楽しみ、何という喜び、僕は寝たら、金曜日には、それほど早くから起きられないだろう。」 |
これは要するに、ショパンがこの手紙を書いているのが「夜」だと言う事である。
つまり、「明日の今頃(夜)は、とっくに試験も終わっている、それは何という楽しみ、何という喜びだろう、試験勉強から開放されて夜もぐっすり眠れるから、その翌日の金曜日には、それほど早くから起きられないだろう」と言っているのである。
このように、部外者である我々には、ここまで言葉を補わないと、ショパンが何を言っているのかその意味がよく分からない。しかし、予め試験の日程を知っている当事者達には、それは書くまでもない前提事項として認識されているので、たったこれだけでも十分に通じてしまうのである。すなわちこう言った事が、「手紙の文章」に特有の筆致なのである。これは、ショパンの「本物の手紙」には顕著で、「まともな専門家」の註釈なしには意味がよく分からない箇所が多いと言うのも、そう言う事から来るのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#5. |
「僕は新しい、宮廷スタイルの長ズボンを持っているんだ[判読不能]、カッコ良いよ(実際は、これは最後の嘘だが)。僕の首には新しいマフラーが――たぶん君はそれが何だか分からなくて、他の名前で呼ぶに違いない――ネクタイとかね。それを買うために一体何ズローチかかったか覚えてないんだ。僕は親愛なるルドヴィカ姉さんの手を借りてそのお金を払ったよ。」 |
ショパンがおしゃれに気を使い、それゆえに浪費癖があると言うのはパリ時代以降に発覚する話であるが、この時すでに、もうその傾向が現れていた事が分かる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#6. |
「お聞き下さい、お聞き下さい、ドロシア嬢様 使用人役のアドルフ・シドウォフスキ。」 |
この箇所は、オピエンスキー版では、[おそらく、ショパンが非常に好きだったアマチュア芝居からの引用]と言う註釈が施されている。シドウ版では、[ショパンの身近で上演された小さな現代コメディからの引用]となっている。
おそらくそれはその通りなのだろう。しかし、いずれにせよそんな註釈だけでは、どうしてそれをショパンがここに書き込んだのかと言う、その肝心の意図については何一つ説明した事にはならない。
要するにこれは、ショパンとビアウォブウォツキが、2人で一緒にこの[芝居]を観に行っていたのだと言う事であり、そして、そこで「使用人役」を演じた「アドルフ・シドウォフスキ」と言う役者の演技っぷりが、2人には「大ウケだった」と言う事なのである。
仮にビアウォブウォツキがこの[芝居]を観ていなかったとしたら、ショパンがいきなりこんな事を書いたところで、それは単なる書き手の独りよがりでしかなく、完全に読み手の事など無視している事になってしまうだろう。これは、この2人にしか通じない楽屋オチであり、2人が共有している思い出そのものなのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#7. |
「お聞き下さい、ここらで僕は手紙を終わらせるとしよう、我々はすぐに会えるのだし。あまりに乱筆になるのも好ましくないしね(手が4本でもあれば別だが)。だからこれで終わりにするのを許してくれたまえ。」 |
まず、「我々はすぐに会えるのだし」と書いている事。
ショパンは、自分からはソコウォーヴォには行けないが、しかしショパンは、ビアウォブウォツキがショパンに会うために、当然シャファルニャへ来るものと信じきっている。去年だってそうだったのだから。これはつまり、ビアウォブウォツキがショパンに書いて寄こした手紙には、それくらい、ビアウォブウォツキがショパンに会いたがっている事が書かれているのである。だからショパンは、「君が僕に会いたいなら」と書いているのだ。
確かにビアウォブウォツキは足を患ってはいるが、彼は金持ちの息子だから当然自家用の馬車くらい持っている。だからソコウォーヴォからシャファルニャへ来るくらいの事は何の問題もないのだと…。
次に、「手が4本でもあれば」と書いている事。
これは、いかにもピアニストらしい発想である。たとえば、普通文章を書いている時に、いくらたくさんの事を書きたいからと言って、「手が4本でもあれば」なんて誰も思わないだろう。しかしピアノを弾く人は、誰でも一度は「手が4本でもあれば」と思うものなのである。たとえば、手が小さくて指がオクターブ以上届かない時…、あるいは、素早く遠くの鍵盤に移動しなければならない時…、あるいは、作曲している際に、2本の手では足りないほどたくさんの音を鳴らしたいと思った時…。
それに、ピアノ音楽には、去年ショパンがソコウォーヴォから書いた「家族書簡」にもあったように、《ムーアのアリアによる4手のピアノのための変奏曲》、と言うように、2人で連弾する曲を《4手の――》と言うからである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#8. |
「僕達は皆元気だよ、僕は君からの手紙を3通もらった。」 |
この「3通」の手紙と言うのは、
1.
一番最初にビアウォブウォツキの姉「コンスタンチア嬢」がショパンの姉ルドヴィカに手紙を寄こしてきた際に、そこに書き込まれていたビアウォブウォツキからのショパンへのメッセージ。
2.
それに対するショパンの第1便で、「ソハチェフからの、君からの手紙がまだ来ない」と言及されていたその「手紙」。
3.
そして同じ第1便で、「もしも君が手紙を書いてくれないなら、僕の次の手紙でひどい叱責が君を待ち受けていると思ってくれたまえ」と要求されてビアウォブウォツキが書いたその返事の「手紙」。
これは、おそらくビアウォブウォツキが、ショパン宛に出した手紙がちゃんと届いているかどうかの確認を求めてきたので、ショパンがそれに答えてこう書いたのだと思われる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#9. |
「試験は明日だ。レシチンスカ嬢は、君に挨拶を送ります。ドモフィッチさんはワルシャワにいる。ジヴニーは、古いかつらをまだつけている。デケルト夫人は、君の手に握手をする。バルチンスキは、君を抱きしめる。」 |
※
この「バルチンスキ(Barciński)」は、オピエンスキー版では注釈が施されていないが、シドウ版の註釈では、[アントニ・バルチンスキ(1803−1878)は、ショパン家の寄宿学校の教師。彼はそれまでワルシャワ大学の数学科の学生だった。のちにイザベラ・ショパンの夫となる。ショパンはしばしば手紙の中で、彼の事をバルヅィンスキ(Bardzinski)、バルトーロ(Bartolo)、バルトロスコ(Bartolosko)等と呼んでいる。]とある。
ここから、手紙の結びに必ず書かれる「〜からもよろしく」と言う追伸部分になる。
ジヴニーとデケルト夫人の名は前回の第1便にもあったが、この2人は今後も、ショパンがワルシャワからビアウォブウォツキに手紙を書く時は、必ず追伸にその名前が書かれるので、ビアウォブウォツキとは特に親しかった事が分かる。バルチンスキもほぼ常連で、それ以外の顔ぶれも、たいがい同じである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#10. |
「僕は、君がオクニエ村へ行く時のために本を持って行こう。」 |
この一文も、ビアウォブウォツキがショパン宛に書いた手紙の内容を教えてくれるものだ。
おそらく病気の治療のためだと思うが、ビアウォブウォツキが「オクニエ村」へ行く予定があると手紙に書いてきたので、それでショパンは、ビアウォブウォツキがそこで退屈しないようにと、気を利かせて「本を持って行こう」と言っているのである。
そして最後の部分。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#11. |
「家族皆が君に愛を送るよ。同じく君のパパにも。君の鼻づらを見せてくれたまえ! 君を愛している。 F.F.ショパン ああ、僕はソコウォーヴォの匂いを感じる事が出来る!」 |
この箇所の、ショパンからビアウォブウォツキの家族への挨拶なのだが、前回の第1便でも、「僕の尊敬を君のパパへ」と、つまりビアウォブウォツキの継父であるヴィブラニェツキ氏にしか挨拶を送っていなかった。去年ショパンがソコウォーヴォから書いた「家族書簡」でも、ビアウォブウォツキの家族についてはヴィブラニェツキ氏の名前しか書かれていなかった。
これに関しては、ミスウァコフスキらの調査報告によると、実は、ビアウォブウォツキの母が、この時すでに亡くなっていたからなのである。
「彼の父親は1750年頃の生まれで、18世紀にグニェズノ郡に居住を始めたオゴインチック伯爵家に属する家族の出身であり、ドゥルヴェンツァ川の河畔、ドブジン村(現在はゴルブ・ドブジン村の一部)とソコウォーヴォの土地財産相続者だった。これらの土地は自分の息子から貰ったのであるが、彼は死ぬ前に、それらをアントニ・ヴィブラニェツキに売却した。彼は1815年12月28日にソコウォーヴォで亡くなったが、それまではリップノ郡の郡会議所の議長を務めていた。 ヤンの母カタジナ・モニカ(旧姓ズビイェフスカ)は1779年頃に生まれている。1814年3月25日に、フェルディナンド・ベウトゥからソコウォーヴォ近くのビアウコヴォ村の土地財産を買い取った。最初の夫の死後、カタジナはアントニ・ヴィブラニェツキと再婚した。彼はワルシャワ公国の第8騎兵隊の主将で、金の軍事十字章と名誉護衛隊賞を受賞した事もあり、リピン郡、ドゥルヴェンツァ川の河畔のドブジンとリピン郡のソコウォーヴォの土地財産継承者だった。カタジナは1824年3月25日にソコウォーヴォで亡くなり、1834年にドゥルスク村に埋葬された。彼女の夫は、1834年にソコウォーヴォとドブジンの土地財産をアントニ・ボジェフスキに売却した。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ヤン・ビアウォブウォツキ」に関する2007年11月の記事 『Piotr Mys?akowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より |
つまり、ビアウォブウォツキの母は夫の死後ヴィブラニェツキ氏と再婚していたので、ビアウォブウォツキは、すでに両親ともに亡くしていたのである。しかも、母の没年が「1824年3月25日」であるから、ショパンが去年ソコウォーヴォを訪問した「1824年8月10日」と言うのは、実はビアウォブウォツキが母を亡くしてからまだ4ヶ月半しか経っていなかった事になる。おそらく、彼が母親と死別した当初、ショパンもまた、彼の悲しみを我が事のように思い、慰めたり、励ましたりしながら、そうやってこの2人は、その友情を更に深め合っていた事だろう。
それはそうと、ここには、「カタジナ」がヴィブラニェツキと再婚したのが何年だったか書かれていないが、これを見ると、前夫が亡くなった時彼女は36歳だったので、少なくともそれ以降である事が分かる。当時と言うのは、24歳で結婚したユスティナが晩婚と言われていたような時代である。いくらカタジナ母子が土地財産を持っていたからと言って、何不自由なく暮らせていけるはずの子持ちの未亡人が、そのような歳で2度目の結婚をすると言うのだから、もしかすると「カタジナ」は、「ハンサム」と誉れ高いビアウォブウォツキに似て、相当な美人だったのではないだろうか?
ショパンからビアウォブウォツキへ 第2便#12. |
「ソコウォーヴォのムッシュ、ムッシュ・ヤン・ビアウォブウォツキへ ―親切によって」 |
この最後の箇所は、手紙の宛先と宛名である。
ポーランドの郵便は、慣例として宛名の記入をフランス語で書くようになっているので、ショパンの手紙はどれもそうなっている。かつてニコラが19歳の時にフランスの両親に宛てた手紙もそうだった。
ただし、この手紙は、どうやら正規の郵便で送られたものではなく、おそらく誰か知人の手を介して手渡して届けてもらったものであろう。
手紙の内容が短い事や、日付が記されていない事なども、その事を裏付ける特徴であるが、一番最後の「親切によって」と言う言葉は、原文では「par bonte」と書かれており、これは本来、正規の郵便でソコウォーヴォへ送る場合には「par P?ock(プウォツク近郊)」と書くのが正式な宛先の書き方なのである。
つまりこれは、おそらくショパンが、誰か知人の「親切によって」手渡しで届けてもらうと言う意味で書き込んだ、洒落のような宛名書きなのではないかと思われるのだ。
このような例は、第11便でも見られ、その手紙も最初は郵便で出し予定ではなかった事を示す痕跡が見られるのである。
このように、今回の第2便では特に顕著だったが、「ビアウォブウォツキ書簡」と言うのは、ショパンとビアウォブウォツキの友情と愛情が、それこそ行間のそこかしこからありありと伝わって来る。
そしてこれこそが「手紙と言うものの文章」なのである。
手紙は決して日記でもなければ、手記でも独白文でもない。必ず相手のある、ある意味「会話帳」のようなものだ。だからこそ、その文章からは、書いている本人だけでなく、それを読む文通相手の顔や心まで見えてこなければ不自然なのである。
私が今まで再三に渡って、贋作書簡にはその「当たり前」が欠落していると主張してきた事の意味が、これでよく分かっていただけるかと思う。
その事を念頭に置いて、のちの「ヴォイチェホフスキ書簡」やウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」を読んでみる時、誰の目にも、その不自然さがよく分かるはずである。
[2010年9月15日初稿/2010年10月23日改訂 トモロー]
検証4-3.1825年夏、ノンフィクション版シャファルニャ通信▼
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