検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
14.「家族書簡・第9便」におけるカラソフスキーの嘘――
14. The letter from Chopin to his family part 9-
今回紹介するのは、ウィーン時代の「家族書簡・第9便」で、これは、カラソフスキーが伝記の中で紹介したウィーン時代の手紙の最後となるものである。まずはそのカラソフスキーの初版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第9便)■ (※原文はポーランド語) |
「1831年7月、土曜日、ウィーン 僕の最も親愛なる方々、僕はあなた方の最近の手紙から、あなた方が既に不屈の精神で不幸に堪えるようになった事を学びました。僕だってそんなにたやすく投げ倒されないと、あなた方に保証してもいいです。希望、ああ、甘美なる永遠の希望! 僕はやっとパスポートを手に入れましたが、月曜日に出発すると言う考えについてはあきらめました。僕らは水曜日にザルツブルグへ移動して、そこからミュンヘンに行くつもりです。僕はパスポートにロンドン行きと裏書きするように求めました;すると警察は直ぐにそうしてくれました;でもロシア大使館では2日間留め置かれて、ロンドンではなくミュンヘンまでの旅行が許可されて送り返されてきました。フランス大使のメイソン氏がそれに署名してくれれば、僕にとっては同じ事です。こうしたトラブルに、今度はもう一つ別のものが追加されました。コレラのために、バイエルンの国境を通過するには健康証明書が必要なのです。僕らはクメルスキと一緒に半日駈け回りましたが、午後にパスを手に入れました。 僕達は、我らが流浪の旅の間中、少なくとも良い仲間として交際できる愉快な存在を得ました、と言うのも、それはアレクサンデル・フレドロ伯爵[*アレクサンドル・フォン・フレドロ伯爵は1793年に生れ、優れたコメディ作家として有名で、彼の同国人からはポーランドのモリエールと呼ばれ、ゲーテの『クラヴィコ』の翻訳をもって彼の文学的労働を開始した。彼の喜劇は独特の思想に輝いており、国民的舞台に光彩を添えた人物である。1876年7月14日にレムベルグで亡くなった。]で、彼のポーランド人らしい容貌や洗練された話し方、そしてパスポートから我々にはそれと分かったのですが、彼は僕達と一緒に、彼の使用人のために同様の通行券を申請していたからです。 今日のニュースには、ウィーンの街が陥されたとあります。これが事実ではない事を望みます。 誰もがひどくコレラを恐れていて、その予防策は全く馬鹿げたものです。祈祷の札が売られ、コレラを止めるように神と全ての聖者に祈願しています。誰も果物を食べようとはしませんし、大部分の人々が都市を去っています。 僕はメシェッティにチェロのためのポロネーズを預けました。 ルイズ(※ショパンの姉ルドヴィカ)が書いていたところによると、エルスネルさんはあの記事[*たぶん前に掲げた彼の音楽会の短評であろう。]がたいへん気に入ったそうですが、彼は僕の作曲の先生でしたから、他のものについて何と言うか僕は聞きたいです。僕は、より多くの生命とエネルギーが欲しいだけです。僕はしばしば、意気消沈した気分になったり、かと言えば時々、家にいた時と同じように元気にもなります。憂鬱に感じる時は、僕はシャツェック夫人の家へ行き、そこではたいてい心優しいポーランドの婦人方に何人も会い、いつも思いやりのある希望に満ちた言葉で僕を励ましてくれるので、だから僕はここの司令官の物真似を始めました。これは僕の最新の手品です;それを見た者は、今にも死にそうなくらいに笑います。でもそこが気質と言うもので、ああ! 人々が僕から一言も引き出せない時があります;そんな時は、僕はたいてい30クロイツェル使ってヒツィヒヘ行くか、さもなければどこかウィーンの近郊へ出掛けます。ワルシャワから来たツァハルキェウィッツに会いまして、彼の奥さんはシャシェックの家で僕を見て以来なので、僕がこんな立派になって、彼らの驚きは際限がないほどでした。僕は右の頬に髭を残しておいただけなのですが、それは非常によく伸びています;いつも聴衆には右を向けて座るので、左側には生える機会がなかったのです。 一昨日、善良なるヴェルフェルは僕と一緒にいました;そこヘチャベック、クメルスキ、他に数人来たので、僕達は一緒にセント・ヴェイトという素晴らしい場所へ行きまして、そこはいわゆるティボリよりも美しいと言えますが、ここには一種の力ルーゼル、あるいは“ルッシュ”と呼ばれるソリのついたレールがあります。これは子供じみた娯楽設備ですが、しかし大勢のいい大人が何の目あてもなくこのソリに乗って丘を転げ落ちていました。僕は最初、試してみようとは全く思いませんでした;でも僕達は8人いましたし、それに皆仲の好い友達なので、お互いに我先にと挑戦し始めました。それは非常に馬鹿げていましたが、でも僕達は皆心から笑いました。僕も、身も心も打ち込んでその楽しみに加わっていましたが、強くて健康な人間はもっと良い仕事を見つけるべきだし、保護と防御とが必要な万人は一度楽しむくらいにしておくべきだと気付くまででした。忌々しい我々の軽薄さ! 少し前の事ですが、ロッシーニの《コリントの包囲》が非常に上手く上演され、僕はこのオペラをもう一度聴く機会が持ててとても喜びました。ハイネフェッター嬢、ヴィルト、ピンデル、フォルティの諸氏、一言で言えば、ウィーン中の最高の芸術家達が出演して、彼らの最善を尽くしたのです。僕はチャベックと一緒にオペラに行き、そしてそれが終わってから、僕達はべートーヴェンがいつも夕食したのと同じレストランに行きました。 僕は忘れないうちに言っておかなければなりませんが、僕はおそらく、親愛なるパパが手配してくれたよりも多くのお金を銀行家のベーテル氏から引き出すでしょう。僕はとても倹約しており、また神かけてそうするしか出来なくて、さもないと空っぽの財布を持って出発しなければなりません。神様は僕を病気から遠ざけて下さっています;でも、もしも僕に何か起これば、おそらくあなたは、僕がもっと多く取らなかった事で僕を非難するでしょうから、お許し下さい、また、5、6、7月の間はこの金額で生活した事と、冬になれば今より多く夕食代を払わなければならない事を思い出して下さい。僕がこのようにするのは、単に僕自身の意向だけでなく、他の人から良くアドバイスされた上での事です。あなたにおねだりしなければならないのを、非常に申し訳なく思います。パパは僕に、既に大金を費やしてくれましたし、そして僕はお金を稼ぐ事がどんなに難しいか分かっています。僕を信じて下さい、我が最愛なる方々、僕にとっておねだりする事は、あなたにとって与えるのと同じくらい辛い事なのです。神様が我々をお助け下さるでしょう。 僕がパスポートを受け取ってから、10月で1年になります;もちろん、更新する必要があります;どのように取り計らうのでしょうか? もしもあなたが新しいのを送れるのなら、手紙に書いて教えて下さい。おそらくそれは不可能です。 僕はしばしば外へ繰り出して、ヤシュやティトゥスを訪ねたものです。昨日僕は、後者を眼の前で見たと誓う事が出来たのですが、しかしそれは忌々しいプロシア人でした! このような言い方が、僕がウィーンで学んだマナーとして、あなた方に悪い印象を与えない事を望みます。ここでは、話し方に特異なものは何もありませんが、ただし、彼らは別れを告げる際、“ゲオルザメル・ディーネル(あなたの忠実なしもべ)”と言い、それを“コルシャメル・ディーネル”と発音します。僕はウィーン人の習慣は全く身につけませんでした;たとえば、僕はいかなるダンス・ワルツも弾けませんし、その事が十分に証明しています。 神様があなた方に健康を授けますように。我々の友人達がこれ以上倒れませんように。可哀想なグスタフ! 僕は今日、シャシェックと共にディナーをとります;僕はポーランドの鷲のついた飾釦をつけ、コシニエル[*暴動を起こした一部のポーランド歩兵連隊は、彼らが大鎌だけで武装していた事から“コシニエリ”と呼ばれていた。]のついたハンカチを使います。 僕はヴェルフェルと共にここを去らなければならないので、ポロネーズを一つ書きました。僕は、我らが司令官スクジネッキ将軍の肖像を受取りましたが、コレラのために台無しになっていました。あなた方の手紙(※複数形)も同様に破られていましたし、また、どちらにも大きな衛生スタンプが押してありました;それほどここでは不安が大きいのです。 あなた方のフレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER
LIMITED 1938)より
この手紙についても、カラソフスキーが伝記の中で紹介したものしか資料が残っていない。
ただし、後のオピエンスキーの英訳版(※シドウの仏訳版も)と比べると、最後の方の箇所にいくつかの違いがある。
おそらくこの違いは、カラソフスキーが初版で発表したドイツ語版と、第4版で発表したポーランド語版との間でいくつかの改定がなされた事からくる違いだと推測される。
私は現在、ポーランド語原文に関しては「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されている資料を参照するしかないので、それによったが、この手紙は明らかにカラソフスキーによって改ざんされている。
おそらく、「僕がパスポートを受け取ってから、10月で1年になります」以下は全てカラソフスキーによる創作である。
なぜなら、突然ここから手紙の内容が意味不明になると言うか、知性のレベルが明らかに低下しているからだ。つまり、書き手がショパンからカラソフスキーに切り替わったと言う事だ。
まず「パスポート」の件だが、海外を旅行する人間にとっては極めて基本的なこのような話を、しかもまだ3ヶ月も先の話を、どうして今ここで、わざわざ手紙で家族に相談しているのか?
ショパンは最初から1年以内にワルシャワへ帰る予定などなかったはずなのだから、そんな事はパスポートを取得した際に当然知っておくべき話だろう。
それに、もしも本当に知らなかったのだとしても、ウィーンにだってポーランドから来ている人はたくさんいて、ショパンは彼らと知り合いにもなっているのだから、彼らに聞けばそれで済むような単純な話である。
さらに言えば、今現在ショパンが持っている「パスポート」は、すでにワルシャワで取得したものではない。
この手紙の前の「第8便」にも書いてあった通り、「僕のパスポートは何処かに置き忘れて見付からないと言う嬉しい知らせを受け取りまして、それで僕は、新しいのをもらうようにしなければなりません」と言っていたのだから、これはウィーンで新たに申請し直したものなのである。そして、だから今回の「第9便」の冒頭で「僕はやっとパスポートを手に入れました」と書いているのだ。
それなのに、どうして今ここで「更新する必要があります;どのように取り計らうのでしょうか?」などと聞いているのか? 毎度の事ながら、カラソフスキーの「成りすましショパン」はどうにも頭が悪すぎる。
要するに、なぜカラソフスキーがこのような話で加筆改ざんを始めたのかと言うと、この手紙が、カラソフスキーが紹介するウィーン時代最後の手紙になるからなのである。
つまり、カラソフスキーはこの手紙を使って、ショパンではなく、あくまでも自分の描く「ウィーン時代」と言うものを総括しようとしているのだ。
だからこそ、現時点では「7月」なのに「僕がパスポートを受け取ってから、10月で1年になります」などとわざわざ3ヶ月も先の話をさせているのは、まず最初に、「愛する祖国を発ったのは去年の11月2日の事でした…」と回想させるためである。
だからこそ、そのあとには、実際は文通もしていない「ヤシュ」(=マトゥシンスキ)や、実際には同行もしていない「ティトゥス」(=ヴォイチェホフスキ)の名が強引に思い出したように書き連ねられ、それを皮切りにカラソフスキーお得意の愛国節がつらつらと綴られているのである。
その愛国節だが、まず、上記のドイツ語版で「僕はウィーン人の習慣は全く身につけませんでした;たとえば、僕はいかなるダンス・ワルツも弾けませんし、その事が十分に証明しています」となっていた箇所は、ポーランド語版では「しかし僕は本質的にウィーン的なものは取り上げません。僕はワルツの正しい踊り方さえ知りません;その事が十分に証明しています! 僕のピアノはマズルカしか聴いていません」と言う風に書き直されている。
さらに、上記のドイツ語版で「僕は今日、シャシェックと共にディナーをとります;僕はポーランドの鷲のついた飾釦をつけ、コシニエル[*暴動を起こした一部のポーランド歩兵連隊は、彼らが大鎌だけで武装していた事から“コシニエリ”と呼ばれていた。]のついたハンカチを使います。僕はヴェルフェルと共にここを去らなければならないので、ポロネーズを一つ書きました。僕は、我らが司令官スクジネッキ将軍の肖像を受取りましたが、コレラのために台無しになっていました」とあった箇所は、ポーランド語版ではそっくり削除されている。
以前から繰り返し説明してきたように、ロシア当局の検閲が考えられた当時の状況下においては、このような愛国的内容の郵便物が双方でやり取りされるなど、自分や家族の身を危険に晒すに等しい行為であり、とうてい考えられない事だ。
この削除に伴い、「あなた方の手紙(※複数形)も同様に破られていましたし、また、どちらにも大きな衛生スタンプが押してありました;それほどここでは不安が大きいのです」となっていた最後の一文は、次のように書き直されている。
「あなた方の手紙(※複数形)が破られていて、大きな衛生スタンプが押してありました;僕はとても怯えてしまい、もうパニックのようでした。」
この手紙では、ショパンがいかに金銭面で苦労していたかが分かるだろう。
こんな訳だから、ウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」にあったような、ショパンが「使用人」を雇っていただとか、すでに堪能だった「ドイツ語の教師」を雇っていただとか、そんな余計な事にお金を使う余裕などなかったと言うのがよく分かるだろう。あれらは全てカラソフスキーの創作なのだ。
[2012年10月29日初稿 トモロー]
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