検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
8.半年間の空白――
8. A blank of a half year -
今回紹介するのは、ウィーン時代の「家族書簡・第6便」である。まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第6便)■ (※原文はポーランド語) |
「1831年5月14日、ウィーン 僕の愛する両親と姉妹達、 僕は、今週は手紙の事に関しては減食を続けなければなりませんが、でも来週は再びあなた方からの消息が聞ける事と思って自分を慰め、そして、あなた方が街にいるのと同じように、田舎でも達者だと信じて、辛抱強く待っています。僕自身に関しては、すこぶる元気で、何より健康なのが不幸中の幸いだと感じています。 実際、僕がこれまでより気分が良くなったのは、おそらくマルファッティのスープが僕にそのような体力を与えてくれたからです。もしそうなら、マルファッティと彼の家族が田舎へ行ってしまった事は、僕にとっては二重に残念です。あなた方は、彼がどれほど美しい別荘に住んでいるか想像出来ないでしょう;僕は一週間前、フンメルと一緒にそこへ行きました。彼は家中を案内してから、庭園を見せてくれましたが、僕達は丘の頂上にいった時、二度と降りたくなかったほど見事な景色を見ました。マルファッティは、毎年宮中からの訪問があると言う名誉に浴し、彼の隣人であるアンハルト・ケーテンの公爵夫人がこの庭園を羨んだとしても、僕は不思議だとは思いません。 一方を見渡せば、足元にはウィーンが横たわっていて、それがシェーンブルンに連なっているのが見えます;もう一方には、絵のように美しい僧院や村落が点在する高い丘があります。このロマンチックなパノラマは、騒がしくてせわしい帝都の近くにいる事を全く忘れさせます。 昨日、僕はハントラー[*音楽関係の著者、鑑定家で、1792年に生まれ、1831年9月26日にコレラで亡くなった。]と一緒に帝国図書館ヘ行きました。僕がここを調査するのはこれが初めてなのですが、おそらく、世界中の音楽手稿が最も贅沢にコレクションされている事を、あなた方は知っていますか? ボローニアの図書館でもこれ以上大きく系統的にまとめられているとは、僕には想像出来ません。 さて、親愛なる方々、僕が新しい手稿の中に“ショパン”と題した本を見た時の驚きを想像して下さい。 それはかなりのボリュームで、エレガントに装釘されていました;僕が自分で思ったのは、僕は他にショパンという名の音楽家がいるとは聞いていなかったけど、確かシァムピン(champin)という人はいるので、おそらく綴りが間違っているのかも知れないと。僕がその手稿を手に取ってみると、僕自身の筆蹟でした。ハスリンガーが僕の変奏曲の手稿を図書館に送ったのです。これは記憶に価する馬鹿らしさです。 この前の日曜日に花火大会をやる事になっていましたが、雨のために駄目になりました。彼らが花火を上げようとすると、たいてい雨が降るのは注目に値する事実です。この事は僕に、次の話を思い出させます:“ある紳士がブロンズ・カラーの立派なコートを持っていましたが、彼がそれを着るといつも雨が降りました;それで彼は、その理由を尋ねるために仕立て屋に行きました。仕立て屋はとても驚いて頭を振り、おそらく、帽子、チョッキ、あるいはブーツが不幸の原因かも知れないから、そのコートを1日2日置いて行ってくれと頼みました。しかしながら、そうではありませんでして、と言うのも、仕立て屋がそのコートを着て散歩に出かけたところ、突然雨が激しく降って来て、彼は傘を忘れて来たために、気の毒にも男は辻馬車を雇わなければなりませんでした。今度は彼の妻がお茶会に持って行ったという事ですが、ところが案の定、そのコートは絞るように濡れました。長い間この不思議な出来事についてよく考えた後、仕立て屋はコートの中に何か変ったものが隠してあるのだろうと思い付きました。彼は袖を取りましたが、何もありませんでした;尾を解き、それから前を、すると、どうでしょう! 裏地の下に花火についてのチラシの切れ端が入っていたのです。これが全てを説朗しました;彼はその紙を取り出し、するとそのコートは、もう雨をもたらす事はありませんでした。” 僕自身については、話すような新しい事が何もないのをお許し下さい;そのうち、もう少し面白いニュースがある事を望んでいます。僕は、心からあなた方の希望を満たしたいと思っています。しかしながら、これまでのところは、演奏会を開く事は不可能でした。あなた方は、ストチェクでのドウェルニッキイ将軍の勝利をどう思いますか? 神よ、我々のために戦い続けてください! あなた方のフレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER
LIMITED 1938)より
「家族書簡」に限って言うと、この「第6便(1831年5月14日付)」とこれの前の「第5便」(1830年12月22日付)との間には、約半年ものブランクがある(※下図参照)。
1830年12月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
11/28 |
11/29 蜂起 |
11/30 |
1 第4便 |
2 |
3 |
4 |
5 news |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 第5便 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
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1831年5月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 第6便 |
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17 |
18 |
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この間に書かれていたもので確認されているのは「1831年1月29日」付の「エルスネル書簡」だけで、それ以外の「マトゥシンスキ書簡」はどれも贋作である。
「エルスネル書簡」の追伸には、ショパンが自分の家族に向けたメッセージはなかったから、おそらくそれと同じ日付の「失われた家族書簡」が存在していた可能性は考えられる。
その他にも、おそらくカラソフスキーが「マトゥシンスキ贋作書簡」のために一部分だけ抜粋して抹殺してしまった「家族書簡」が存在していた可能性も考えられる。
今回の「第6便」にしても、これ以前に半年ものブランクがあった事を示唆する記述は一切なく、それどころか、その間にも普通に手紙がやり取りされていたような調子で書き始められている。
この中の話題も、最も古いものでも「一週間前」にしか遡っていない(→「僕は一週間前、フンメルと一緒にそこへ行きました」)。つまり、それ以前の話題は、この手紙の前に出されていたはずの「失われた手紙」に書かれていると言う事なのだ。
たとえば、この半年の間に、ショパンは演奏会に出演する予定があった事が分かっている。
「一八三一年春、約束の公演は実現されると思われた。三月一六日、ケルンテン門劇場の仮面舞踏会ホールで、歌手ガルシア・ヴェストリスの演奏会が予定され、そこにショパンの出演も予定されていた。しかし歌姫は突然日程変更を申し出て、二度にわたってこの演奏会は延期された。最終的な日程は四月一七日と決まり、自作《協奏曲 ホ短調》を演奏する事になっていたショパンの名前入りで、ポスターも印刷された。ところがこの日付もまた紙の上だけのものに終わった。理由は不明だが、結局演奏会は開かれなかったのである。」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
このような重要な話題が家族に一切知らされなかったなんて事はあり得ないので、ショパンはその都度、事の顛末を家族宛に報告していたはずなのである。
したがって、このブランクについて説明しているカラソフスキーの以下の解説は、私にはどうしても鵜呑みにする事ができない。
「愛国的熱誠の気持で書かれたショパンの手紙の中には、家宅捜索をさえ始めたロシア政府の手に落ちるのを恐れて、両親が破ってしまったのが幾通もあった。戦争のために彼が書いたものの多くは、全然ワルソウにつかなかった。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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それでは、だとしたら、この半年間のブランクの意味するものは一体何なのであろうか?
なぜこの間の「家族書簡」がごっそり失われてしまっているのだろうか?
一番もっともらしい説として考えられるのは、ショパン家の唯一の遺族となっていた妹のイザベラが、最初からカラソフスキーにこの時期の手紙を資料提供していなかったと言う可能性である。
なぜしなかったのかと言えば、言うまでもなく、それを世間に公表されるのが憚られたからである。その理由として考えられるのは、当時の時期的な事情と照らし合わせても、おそらくショパンが、この1831年の2月から本格的に始まった「ロシア・ポーランド戦争」について、あくまでも保守中立としての政治的立場を書き綴っていたからではないだろうか?
カラソフスキーは必死になってショパンを好戦的な革命支持者に仕立て上げようとしているが、実際のショパンがそれを手紙に書き記していた可能性は万に一つも考えられない。
なぜなら、何度も説明してきたように、百歩譲ってもしもショパンが革命支持の立場を取っていたとしても、ロシア当局の検閲が考えられるこの時期に、そのような内容の手紙をワルシャワの家族宛に書くような愚かな真似をするはずは絶対にないからである。
だがしかし、逆に保守中立の立場を書くのであれば、当局の検閲はまったく問題にならない訳だから、実際には保守中立だったショパンがそれを手紙に書いていたとしても何の不思議もないのではないだろうか。
実は、カラソフスキーが伝記執筆のためにイザベラに手紙の資料提供を持ちかけた1862年当時と言うのも、ちょうどポーランドはこの1830年頃と同じ状況にあり、まさに1863年の「1月蜂起」を控えて不穏な空気を漂わせていたのである。
であれば、イザベラとしても、そんな時期にショパンもしくはショパン家の政治的立場を公表されるのだけは避けたかったはずである。
それが革命派であれ保守派であれ、そのいずれかの立場を表明すれば、必ずそれと反対の立場にいる側を敵にする事になる。
だから政治的立場そのものを表明するべきではないと言うのが父ニコラの教えだったはずで、平和主義だったショパン家の人々は、頑なにそれを守り続けていたはずなのである。
要するに、ショパンの手紙を検閲していたのは、実際はロシア当局と言うよりは、むしろカラソフスキーなのだ。
盲目的な国粋主義者であるカラソフスキーが、ショパンをあくまでも革命派に仕立て上げるために、実際のショパンが保守中立であったと言う事実を検閲し、手紙をそのように改ざんしたり編集したりしていたのだ。
モリオール嬢への本当の恋を抹殺してグワトコフスカを「理想の人」としてあてがったのも、ヴォイチェホフスキをウィーンに同行させたのも、全てはショパンを愛国的に脚色するための捏造であり、つまりはカラソフスキーが何の目的でショパン伝を書き始めたのかを物語ってもいるのだ。
今にして思えば、唯一無二の親友とか言われているヴォイチェホフスキが、実際には、ショパンが彼を思うほどにはショパンの事を愛していなかったのも、結局のところ、あくまでも革命派として将来政治家となる彼が、ショパンの保守中立の政治的立場を内心快く思っていなかったからなのではないだろうか?
だからこそヴォイチェホフスキは、ショパンの手紙を改ざんする事にも、そしてその証拠隠滅のために現物を処分してしまう事にも、全く何の躊躇もなかったのだ。
ショパンは今回の手紙を次のように始めている。
「僕は、今週は手紙の事に関しては減食を続けなければなりませんが、でも来週は再びあなた方からの消息が聞ける事と思って自分を慰め、そして、あなた方が街にいるのと同じように、田舎でも達者だと信じて、辛抱強く待っています。」
これは、家族から届いた手紙に何が書かれていたのかを教えてくれる。
つまりワルシャワの家族はおそらく、これからジェラゾヴァ・ヴォラかどこかの「田舎」に行く予定なので、“その間はこちらからの手紙が滞るかもしれないが、そう言う事情だから心配しないように…”みたいな事が書かれていたらしい事が察せられる。
なぜなら、仮に家族の「田舎」滞在が旅程も含めて1週間かそこらの短期だったとすると、ウィーンのショパンがその期間にその「田舎」宛にピンポイントで手紙を届けるのはほぼ不可能に等しいからだ。いつも説明しているように、ウィーンからその「田舎」方面への手紙が出発する曜日が決まっているからで、そうすると手紙が家族と行き違いになる可能性が出てくるため、下手に「田舎」へは送れないのである。
したがって家族は、ショパンからの手紙はワルシャワに帰ってから局留めで受け取り、それから返事を書く事になるので、その分、今回の手紙に対する返事が遅れると言う事なのである。
はっきりそう書いてはいないが、きちんと行間を読めば、この書き出しからは、そのような「文通のやり取り」が示唆されている事が分かるのである。
カラソフスキーが贋作書簡に書くような、そのまんまな「説明セリフ」には決してなっていないだろう。だがちゃんとそれが行間から読み取れる。これこそが「生きた手紙の文章」と言うものだ。
贋作書簡の文章が「説明セリフ」になるのは、現実の文通相手である特定の個人に向かって会話をしていないからだ。最初から不特定多数の一般読者に向けて書いているからこそ、無意識のうちにどうしたって「説明セリフ」になってしまうのである。
しかし「現実の文通」では、いちいち書かなくてもお互いに分かっている事は決して書かない。だからこのように、あからさまな「説明セリフ」には決してならないのである。
カラソフスキーはもちろんの事、ショパンの贋作書簡を捏造するような人間達には、このような文章を意図的に創作できるほどの、そんな超一流の文章力など、残念ながら持ち合わせていないのである。
したがって、今回のこの手紙の結びの文句が、実際はショパン本人が書いたものではなく、カラソフスキーの加筆改ざんだと言う事もはっきりと分かってしまうのである。
つまり、
「あなた方は、ストチェクでのドウェルニッキイ将軍の勝利をどう思いますか?
神よ、我々のために戦い続けてください!」
とあるのがそれだが、これはそのまんま「説明セリフ」である。
何度も書いている通り、この時期、ロシア当局の検閲が考えられるような状況で、このようにあからさまな「ポーランド、わが祖国」の内容を家族に向けて書き、そして家族にもそれを返事で書かせようとするなど、よほど知恵の回らない国粋主義者でない限り決して考えられないのである。
そして、その事実を証明するかのように、この箇所は、のちの書簡集等ではどう言う訳か削除されている。
私は現在、このカラソフスキーの著書の第4版にあたるポーランド語版を入手できずにいるので、確かな事は言えないが、この手紙の原資料はカラソフスキーの著書でしか確認されていないため、カラソフスキーがポーランド語版を編集した際に、この箇所を自ら削除してしまった可能性が考えられる。
なので、のちのオピエンスキー版にもシドウ版にもこの箇所がないし、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」のポーランド語原文にもない。
ちなみに、ドイツ語版とポーランド語版の大きな違いはもう一箇所だけで、それは以下の通りである。
カラソフスキー・ドイツ語版 |
カラソフスキー・ポーランド語版 |
「これは記憶に価する馬鹿らしさです。」 |
「“馬鹿野郎、”と僕は自分自身に言いました;――“お前にも保管されるだけの何かがあったか!”と。」 |
カラソフスキーが行ってきた数々の意図的な改ざんを思えば、この程度は意訳として許容されても差し支えないものだと言えよう。
[2012年9月1日初稿 トモロー]
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