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検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――

Inspection XI: The journals of the second Viena's travel & the counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -

 


1ショパンの贋作書簡の典型的な見本―

  1. Typical sample of the counterfeit letter of Chopin-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 マズルカ 第3番▼≫
 

今回紹介するのは、ショパンがウィーンに到着した直後に書いたとされている、ワルシャワ高等中学校時代の友人ヤン・マトゥシンスキ宛の手紙である。

まずは註釈なしに読んでいただきたい。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ書簡・第1便)■

(※原文はポーランド語)

「ウィーン 112224日][1830

親愛なるヤシュ。

君の家の住所を僕に報せてくれたまえ。僕に何が起こっているか君も知っているだろうが、僕がウィーンにいるのをどれほど嬉しく思っているか、多くの興味深い事とか、有益な出会いとか、あるいは僕は恋に落ちるかもしれない。――僕は、君達の誰の事も考えない。ただ、僕は時々、ルドヴィカが髪の毛で作ってくれた指輪を眺めていて、それは、遠く離れるほど愛しいものになっている。――僕は今、ワルシャワにいた時よりもずっと君の事を愛している。でも、(彼らは)僕を愛してくれているだろうか? アスクラピウスよ、もしも君が僕に手紙をくれないなら、悪魔が君を連れ去ればいい、雷がラドムにいる君に落ちるといい、そして君の帽子のボタンを砕くといい! ――手紙は全てウィーンへ送ってくれるようプラハにメッセージを残して来たのに、今のところ1通も届いていない。――雨が君を動揺させているのか? 僕は君が病気をしているような予感がするのだ。どうかお願いだからリスクは冒さないでくれたまえ;君は、僕が何度災難に遭ったか知っているだろう。――僕の粘土は、今度は雨にも溶けない;中身は華氏で90度あるんだ。おそらく――ああ、いや、そうはなるまいが、僕の粘土じゃ、子猫のための小屋くらいしか作れないだろう! ――ああ、君は小ざかしい奴だ! ――君は劇場に行っただろう! ――君はオペラ・グラスを使って、他の人達を見つめただろう! ――君は肩飾りに厳しい視線を投げ掛けただろう…もしもそうなら、稲妻が君を撃つといい、君は僕の愛情に値しないよ。――ティトゥスは知っていて、満足していて、彼はいつも高尚に振舞い、そして何らかの期待をしていた。――僕が君に手紙を書くとしたら、それは僕が自分自身のためにするのであって、なぜなら君はそれに値しないからだよ。――ハイネフェッター嬢が昨日《オセロ》に出演していて、可愛らしかったし、きれいに歌った。僕はあとで全て君に書くが、君の住所が欲しい。僕にキスしてくれたまえ、僕に代わって同窓生のアルフォンスを抱擁してくれたまえ、僕はマルツェリに手紙を書いた。僕の仲間達みんなにキスを送る、キスを。

F.ショパン

このペンは(スープ鍋をよそるための)木製のスプーンのようで、書きづらくて、僕の手から落ちてしまう。こんな乱筆で、不思議に思わないでくれたまえ。――僕はもっと書きたいのだが、考えがまとまらないので、書くのが怖いのだ。

[手紙の裏面に]

僕のお抱えの宮廷医であるヤン・マトゥシンスキ殿、

君達を診療しに来る時は、“抜き彫りの丸木の小船(カヌー)に乗って来る聖ヤツェック名称病院”の一等級のお医者様へ。

郵便の配達者である、ルドゥヴィカ、イザベラ、あるいはズージアへ。

[追記] 老婆のごとく詮索しないように。――この機会に、1ダースの最高のキスを僕の親友達に。――封印を破らないように。

「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」より

結論から先に言えば、この手紙は明らかにショパンが書いたものではない。

完全に贋作である。

これまで本稿にお付き合い下さっている読者であれば、ショパンが今までに書いた手紙は全て順を追って読んで頂いてきた訳であるが、その上で今回のこの手紙を読むと、おそらく、ショパンの手紙として何らかの違和感を覚えられたのではないだろうか? 明らかにショパンの手紙とは文体が違う事を感じられたのではないだろうか?

たとえば、「ヴォイチェホフスキ書簡」を例に取ると、あそこにはいくつもの改ざんの痕跡が見られはしたが、基本的には「ショパンが書いた本物の手紙」がベースになっていたので、一読した限りでは手紙そのものにはそれほどハッキリとした違和感はなかった。

しかし今回の手紙は、一字一句が全て違和感だらけだし、史実と照らし合わせても全く辻褄が合っていない。

そもそもこの時期のショパンは、マトゥシンスキと手紙のやり取りなどしていたはずがないのである。後述するが、この時期の彼らは、まだそのような親密な関係にはなく、全てはカラソフスキーが伝記の中ででっち上げた作り話である。

 

この手紙は、ショパンの直筆原文と言うのもが確認された事はなく、カラソフスキーの伝記にも載っていない。これは、カラソフスキーの伝記が発表されて以降の後世において、どこからともなく手紙の「写し」が出てきた…と言う、いかにも怪しげな代物なのである。

      ちなみに、『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)には、その手紙の「ファクシミリ(写し)」なるものが資料の目録に載っている。ただし載っているのはキャプションのみで、その写真までは掲載されていない。いずれにせよ、確認されているのはショパンの直筆ではなく、あくまでも第三者の手による「写し」だけなのである。

カラソフスキーの伝記には、ウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」は全部で2通(※18301226日付と183111日付)が掲載されているが、しかしながら、そのいずれもが完全な贋作で、それらは全てカラソフスキーが自分で創作して書いたか、あるいは、この当時実際はポトゥジンにいたヴォイチェホフスキ宛に書かれたものを、マトゥシンスキ宛に改ざんしたか、そのどちらかだ。

 

今回のこの手紙は、直接的にはカラソフスキーが書いたものではないが、しかしこれは、カラソフスキーの時代よりも更に後世の何者かが、カラソフスキーの「マトゥシンスキ贋作書簡」を基に捏造したものである。

なぜならここには、カラソフスキーの「オリジナル贋作版」からの流用とアレンジ、そして単なる筆者の妄想とが並べ立てられているだけであって、本物の手紙なら必然的に絶対必要不可欠であるはずの、「当事者のみが知り得る新事実」、さらには、他の手紙からは得られない、「この手紙でのみ得られる新情報」と言うものが一つも書かれていないからだ。

この手紙が出て来た頃は、すでに、カラソフスキーが伝記の中で紹介していた「家族書簡」や「ヴォイチェホフスキ書簡」が、カラソフスキーの手によって改ざんや省略が施されていたと言う事実が判明していた時代だった。であるから、この贋作者はおそらく、ウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」もそれらと同様に扱われていたであろうと言う想定の下に、この「写し」なるものを製作したのだと考えられる。

この手紙の文章の一つ一つをつぶさに検証していけば、これらの記述がショパン本人によるものではない事は簡単に証明できる。

 

 

では、その文章の一つ一つについて見ていこう。

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#1.

「ウィーン 112224日][1830

 

まず日付についてだが、この手紙の筆者がこの手紙に書き込んだ日付は1122日」となっているのだが、いきなりこれがあり得ない日付である。

なぜならショパンは、前回プラハから家族に宛てた「第3便」で、ウィーンには火曜日の朝9時に到着する予定ですと書いており、この「火曜日」とはすなわち「23日」であるから(※下図参照)、ショパンがウィーンに到着したのは「23日(火曜日)」である。したがってその前日である22日」にショパンがウィーンにいた訳がない。

 

183011

 

1

2

出発

3

 

4

5

6

 

7

8

9

 

10

 

11

12

 

13

14

 

15

 

16

17

18

19

 

20

 

21

3便

22

贋作?

23

ウィーン

24

贋作?

25

26

27

28

 

29

30

 

 

 

 

 

したがって、この手紙の22日」と言う日付は明らかに事実ではない。

1.       ちなみに、オピエンスキーの英訳版では、この手紙の日付はそのまま22日」として紹介してある。

2.       その後、シドウの仏訳版においては、おそらく手紙の内容と史実とを照らし合わせてこれは24日」の間違いであろうと見なしたようで、訂正したその日付で紹介してある。だが、原文はあくまでも22日」となっていたのだから、シドウは訂正した事実を読者に知らせる義務があるはずだが、彼はそれを完全に怠っており、24日」と言う日付を推定扱いにしていない。

3.       さらに、そのシドウ版から英訳選集を編集したヘドレイ版では、「ウィーン 18301124日]と言う風に、一応「ウィーン」以下を全て推定扱いにはしているものの、原文が22日」となっていた事実については何も説明していない。

       これらの編集者達については今更言う事でもないが、いずれの編集態度も怠慢極まりないと言わざるを得ない。このような有様では、どれも資料的価値は皆無である。

 

確かにショパンは、過去に手紙の日付を間違えて書いた事がある(※その事実は「ビアウォブウォツキ書簡」の直筆原文で確認されている)。だから、この手紙もそうなのかもしれないと言えない事もない。しかしながらこの場合は、たった2日前に21日」付で手紙を書いたばかりなのだ。それなのにショパンは、その翌日の日付を明後日になってもまだ書いていた事になる。

いくらなんでもショパンがそのような間違いをするだろうか? シドウやヘドレイが日付訂正の事実を隠蔽したのも、ひょっとすると、ショパンがそんなミスをしたなんて読者に知られたくなかったからなのかもしれないが、もしもこれがショパンのミスではなく、贋作者のミスだったと言う事であれば、そのような心配をする必要もなくなるのではないだろうか?

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#2.

「親愛なるヤシュ。

君の家の住所を僕に報せてくれたまえ。」

 

この冒頭の一文もあり得ない。

ショパンが「君の家の住所を報せてくれ」などと書くはずがないからだ。

 

この手紙には、このあと、「ラドムにいる君」と言う記述が出てくるので、つまりマトゥシンスキの家が「ラドム」にあり、ショパンはその住所を知らないがために、マトゥシンスキに「君の家の住所を報せてくれ」と書いている…と言う事らしいのだが、残念ながら、そもそもマトゥシンスキは「ラドム」になど住んでいない。

以前にも紹介したが、彼の略歴は以下の通りである。

 

ヤン・エドゥワルド・アレクサンデル・マトゥシンスキ(Jan Edward Aleksander Matuszyński)は、18081214日にワルシャワに生まれ1842420日にパリに没す。彼は医者で、福音アウグスブルグ教会(ルーテル派)に帰依する町民の子息であった。この家族は、上シレジア地方(プシチナ町)から(ワルシャワに)移住していた。彼は、医学博士で“福音病院”の外科医だった父ヤン・フレデリック(1768年頃に生まれ、1831年に没す)と、マーレンベルグ家出身の母ルドヴィカとの間に生まれた。彼は1827914日に、ワルシャワ大学医学部に入学した。…(後略)…

アンヂェジェイ・シコルスキによる、「ヤン・マトゥシンスキ」に関する記事

Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

つまりマトゥシンスキ家と言うのは、シレジア出身の町民の出で、ヤン・マトゥシンスキはワルシャワで生れ、その彼がワルシャワを出るのは、この直後に起こる「ワルシャワ蜂起」失敗後の事であり、したがってこの手紙の当時、彼はまだワルシャワに住んでいたのである。

したがって、彼はビアウォブウォツキやヴォイチェホフスキらのような金持ちの息子達とは違って、ショパン家の寄宿学校の生徒でもなかったし、実家はあくまでもワルシャワにあり、それ以外の土地に家を持っているような身分でもなかった。

       「シレジア地方」と言うのはポーランド南西部に位置し、一方の「ラドム」はポーランド中東部に位置するので、ワルシャワから見ても方向が違う。

この贋作者はおそらく、マトゥシンスキはヴォイチェホフスキらと同様に士族階級か何かで、大学在学中はショパン家の寄宿学校にいて、卒業後はワルシャワから実家のある田舎に帰っていたと言う設定にしていたのだろう。つまりその田舎が「ラドム」だと言う事らしい。

要するに、この手紙を書いた人物は、マトゥシンスキのプロフィールについて全く何も知らないと言う事なのだ。だが無理もない。なぜなら、この手紙が世に公表された頃には、まだ一般にはマトゥシンスキの詳しいプロフィールについて何も分かっていなかったからだ。だが、ショパンなら当然、そんな事は全て知っていたはずだ。したがって、こんな事を書くのはショパンではあり得ない。

 

それでは、この贋作者がなぜ「ラドム」が選んだのかと言うと、それにはきちんと理由がある。

カラソフスキーの伝記に出てくる11日付の「マトゥシンスキ贋作書簡」に、「彼女(※グワトコフスカ)は今ラドムにいるのか」と書いてあったからだ。つまりこの地名も、「当事者のみが知り得る新事実」でもなければ、「この手紙でのみ得られる新情報」でもないのである。

カラソフスキーの伝記では、ショパンはマトゥシンスキを通じてグワトコフスカと文通する約束をしていた事になっている。なので、マトゥシンスキもまた、この当時「ラドム」にいなければ都合が悪いだろうと、そう考えたのだろう。

 

だが、百歩譲って仮にそうだったとしてもだ、やはりこの記述には辻褄と言うものが全く合っていないのだ。

なぜなら、それならマトゥシンスキは、ショパンがワルシャワからウィーンに向けて旅立った頃には、すでに「ラドム」に住んでいたか、もしくは「ラドム」に引っ越す予定だった事になるだろう。そうでなければ、この時点でマトゥシンスキが「ラドム」にいる事を、ショパンが知っているはずがないからだ。

伝記の上では、ショパンはマトゥシンスキを通じてグワトコフスカと文通する事になっているのだから、だとすれば、ショパンはワルシャワを発つ前に、当然マトゥシンスキの住所を事前に聞いておかなればおかしいはずなのではないか? 文通の仲介を頼んでおきながら、その仲介者の住所も知らずに出発するなんて、そんな間抜けな話があるだろうか?

それとも、マトゥシンスキの方から先にショパンに手紙を書くようになっていて、その手紙で住所を知らせる事になっていたとでも言うのだろうか? だとしても、その相談を彼らは一体いつしたと言うのか? マトゥシンスキが「ラドム」にいたのでは、手紙でやり取りする以外にそんな話はできない。手紙でやり取りしたのならその時に彼の住所も分かるはずである。であれば、両者がワルシャワにいた時にしていた事になるはずだが、それなら、どうしてその時ついでに住所ぐらい聞いておかないのか?

 

それに、カラソフスキーの説明では、これらの手紙はショパンの姉妹達に託してマトゥシンスキへ送られる事になっていた訳だが、ショパンですら知らないマトゥシンスキの住所を、どうして姉妹達が知っていると言う前提になっているのか? 明らかに話が矛盾しているだろう。

もしも姉妹達がマトゥシンスキの住所を知っていたのなら、それはすでにショパンがワルシャワにいた時点で知っていた事になり、ショパンもそれを分かった上で聞きもせずに出発していた事になるが、そんな間抜けな話があるか? ワルシャワの家族からの手紙は、ショパンがウィーンに着くまで1通も出されていないのだから、その情報が出発後の道中に届けられる事はあり得ない。万が一あり得たとしても、それならその時ついでにマトゥシンスキの住所だって教えるだろう。

 

つまり、何をどう考えてみたところで、ショパンが「君の家の住所を報せてくれ」などと書ける道理がないのである。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#3.

「僕に何が起こっているか君も知っているだろうが、僕がウィーンにいるのをどれほど嬉しく思っているか、多くの興味深い事とか、有益な出会いとか、あるいは僕は恋に落ちるかもしれない。――僕は、君達の誰の事も考えない。」

 

ここでは、マトゥシンスキに向かって「君達」と言う複数形を使っている。

この単語は男女の区別を特定できないものなのだが、これはおそらく、この手紙の最後の方に出てくる「アルフォンス」だとか「マルツェリ」だとかの、マトゥシンスキを含めた彼ら「同窓生」達を指しているものと思われる。

これらの名前の矛盾については後述するが、いずれもあり得ない書かれ方をしている。

 

ちなみに、ここには「僕は恋に落ちるかもしれない」とあるが、これにはさほど深い意味はなく、実は次回紹介する「家族書簡・第4便」(121日付)に、しかしロマンチックな妄想はこれくらいにして、僕も1日くらい休暇が欲しいもので、ここには美しいドイツ娘達がたくさんいます;――でも、休暇はいつ来るのか、いつ!と言う記述があり、単にそれを別の言い方に換えただけのものなのである。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#4.

「ただ、僕は時々、ルドヴィカが髪の毛で作ってくれた指輪を眺めていて、それは、遠く離れるほど愛しいものになっている。――」

 

ここに出てくる「指輪」と言うのは、カラソフスキーが伝記の中ででっち上げた「マトゥシンスキ贋作書簡」(18301226日付)を基にして捏造された手紙の「複製」に出てくるものからの流用である。

      ちなみに、『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)には、その手紙の「複製」の写真資料が掲載されており、「オリジナルは第2次世界大戦中、ワルシャワの国有美術収集管理局より紛失」と説明されいる。しかしながら、その「オリジナル」とやらがショパンの直筆なのか「写し」なのかはもはや永遠に分からない。

この「複製」版には「指輪」の記述があるが、カラソフスキーが最初に伝記の中で発表した贋作書簡には出てこない。つまり、これも「写し」を製作した贋作者が、ご丁寧にもあとから加筆したものだ。

実際、このような「指輪」が本当に存在したのなら、ショパンの遺品の中になければおかしい訳なのだが、そのようなものが確認された事はこれまで一度もない。

実は、「髪の毛で作ってくれた」と言うところがミソで、これはおそらく、晩年のショパンがジョルジュ・サンドの髪の毛を後生大事に保管していた事実から連想してひねり出したものではないかと思われる。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#5.

「僕は今、ワルシャワにいた時よりもずっと君の事を愛している。でも、(彼らは)僕を愛してくれているだろうか?」

 

この箇所については、書簡集によって翻訳がまちまちである。

1.       オピエンスキーの英訳版では、「でも、君達みんなは僕の事を愛してくれているだろうか?」と英訳されており、原文で省略されている(彼らは)の主語が「君達みんな」に書き換えられている。だが、これについては、どちらにしてもマトゥシンスキら「同窓生」達を指している主語なので、あくまでも意訳と見なせる変更である。

2.       しかしヘドレイの英訳選集版では、「でも、僕はまだ愛されているだろうか?」と、主語が「僕」にされて受身で表現され、「誰から」の部分が省略されたまま英訳されており、そしてそこに[コンスタンチヤの事を指している]と言う註釈が施されている。これでは完全に「改ざん」と見なせるような変更であり、しかも「こじつけ」と見なせるような註釈だ。この箇所はあくまでもショパンと「同窓生」達の話なのだから、グワトコフスカなど一切関係ない。だがこれは、元々シドウの仏訳版に由来する翻訳と註釈なので、元凶は全てシドウ版にある。

  

しかし、根本的な問題として、いずれにせよショパンがこのような事を書くと言うのは考えにくい。

検証4-4:本物のマトゥシンスキ書簡に垣間見える友情のニュアンス▼の時にも説明したが、ショパンにとってマトゥシンスキと言うのは、かつてのビアウォブウォツキや現在のヴォイチェホフスキとは違って、ショパン家の寄宿学校で寝食を共にしてきた仲ではない。だからこの2人は、そのような家族同然の交際はしてきていないのである。

しかもショパンは、ワルシャワ高等中学校には途中から編入しているので、そこで初めて知り合ったマトゥシンスキとは交際期間も短くて浅い。

さらにその後の大学時代では、それぞれが音楽院と医学部とに別れているから、もう学校で毎日のように顔を合わせられるような環境にはいなかった。したがってこの両者は当時、以前よりも明らかに疎遠になっていたのである。

その流れは、ショパンがマトゥシンスキ宛に出した2通の「本物の手紙」を読み比べれば一目瞭然だ。

1.       最初の1通目は、2人が高等中学校在籍時の夏休みにやり取りされた往復書簡で、その内容は詳細で、明るく楽しげなものだった。ただし、この時ショパンはその裏で、病気で引き篭もっていたビアウォブウォツキと会えない事を気に病んでいて、同時期の「家族書簡」にはその事を嘆いていたのに、マトゥシンスキには一切語っていなかった。

2.       次の2通目は、2人がそれぞれ別の大学に進学して間もなくの頃に書かれた伝言文で、ショパンがマトゥシンスキに貸してあった楽譜を届けて欲しいと言う用件を伝えたもの。これは、ショパンが誰か人伝に手渡しで送ったもので、そこには、「僕らがこんなに長い間会っていないなんて、どうなっているんだい?――僕は君が来るのを毎日待っているのに、君は来やしない」と書いてあり、同じワルシャワに住んでいながら、両者が疎遠になっていた事がはっきりと分かる内容である。

つまり、彼らの友情は、年月を重ねてもまだそれほど深くは育まれていなかったのである。

それが育まれるのは、パリ時代において、マトゥシンスキが1834年にパリに移住して来て2人が同居生活を送るようになってからの話だ。

したがって、この時期のショパンが、かつてのビアウォブウォツキや現在のヴォイチェホフスキと同じような感じで、マトゥシンスキと文通するなど極めて考えにくいのである。

なので、その根拠となるような交際も経ていないのに、「僕は今、ワルシャワにいた時よりもずっと君の事を愛している」と書くなどとはとても思えない。

ところがカラソフスキーは、この2人がパリ時代に同居生活をしていたと言う事実だけで、この2人の仲を、ワルシャワ時代においてもそれくらい親密だったものと見なし、まんまとマトゥシンスキをヴォイチェホフスキの代役に仕立て上げてしまったのである。

カラソフスキーにとって好都合だったのは、彼が伝記を執筆していた頃には、マトゥシンスキはとうの昔に亡くなってしまっており、正に“死人に口無し”の状態だったからだ。

カラソフスキーが「マトゥシンスキ贋作書簡」をでっち上げた目的はハッキリしている。

自分が一番主張したい国粋主義思想を、ショパンに思う存分語らせるためだ。

なぜなら、ショパンが「ワルシャワ蜂起」後に本当に書いていたはずの「家族書簡」は、クリスマス・イヴに書いたものが1通あるだけで、それ以降は5月になるまで1通も紹介されていないからだ。

それについてカラソフスキーは、以下のように解説している。

「愛国的熱誠の気持ちで書かれたショパンの手紙の中には、家宅捜索をさえ始めたロシア政府の手に落ちるのを恐れて、両親が破ってしまったのが幾通もあった。戦争のために、彼が書いたものの多くは全然ワルシャワに着かなかった。」(※モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より)

 

もちろんその可能性はあるだろう。

だが、ここでカラソフスキーが書いている事は完全には鵜呑みに出来ない。

なぜなら、手紙は実際にワルシャワに届いていたからだ。

この時期の家族宛は公表されていないが、エルスネル宛は1通あり、それは1831129日」付になっている。そしてその手紙は、カラソフスキーも自分の伝記の中で紹介しているのである。

 

要は、イザベラが、その期間中に書かれていたショパンの手紙を、カラソフスキーには一切資料提供しなかったと言う事なのである。

       イザベラがカラソフスキーに資料的供した手紙は、「ベルリン紀行」と「第1回ウィーン紀行」、そして今回の「第2回ウィーン紀行」と、いずれもドイツ語圏における3つの旅行からのものに限定されており、「ベルリン紀行」においても欠落している手紙があったし、ショパンがシャファルニャやライネルツやコヴァレヴォから出した多数の「家族書簡」は、1通たりともカラソフスキーに資料提供されていなかった。カラソフスキーは全ての手紙を見せてもらったような事を書いているが、事実は全くそうではなかった。その事は、もはや後世においてしっかりと判明しているのである。

おそらくショパンが、「ワルシャワ蜂起」に関連してあまり世間には公表したくない内容の事を書いていたからに違いない。だが、カラソフスキーにしてみれば、正にそれこそが一番欲しい手紙だったろう。

だから彼は、その埋め合わせを「マトゥシンスキ書簡」を贋作する事で果たそうとした訳だ。しかしその「マトゥシンスキ書簡」こそが、正に「愛国的熱誠の気持ち」に満ち溢れていると言うのに、どうしてそれだけが破棄される事なくショパン家で保管されていたと言うのか? この点でもやはり辻褄が合っていない。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#6.

アスクラピウスよ、もしも君が僕に手紙をくれないなら、悪魔が君を連れ去ればいい、雷がラドムにいる君に落ちるといい、そして君の帽子のボタンを砕くといい! ――」

 

ここに出てくる「アスクラピウス」とは、ギリシア神話、あるいはローマ神話における医学の神の事である(※アスクレピウス、アスクレピオス、アエスクラピウス等とも表記される)。だが、ここで使われているポーランド語の原文は、現在では冗談で「やぶ医者」のような意味に使われる単語なのだそうだ。

これもやはり、元々はカラソフスキーが伝記の中ででっち上げた「贋作マトゥシンスキ書簡」の2通目(183111日付)に書かれていた、「汝、役立たずのアスクラピウスよ」からの流用である。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#7.

「手紙は全てウィーンへ送ってくれるようプラハにメッセージを残して来たのに、今のところ1通も届いていない。――」

 

これも完全に嘘である。こんなバカな話は現実的にあり得ない。

前回も説明した通り、ショパンは「プラハ」には1日間しかいなかった。

たった1日しかいないプラハのショパンに向けて、ワルシャワの家族なり「ラドム」のマトゥシンスキなりがショパン宛に手紙を書くなど、現実問題としてあり得ないのである。

目的地はあくまでもウィーンであり、ショパンがその間に立ち寄ったのは、ヴロツワフに4日間、ドレスデンに1週間、プラハに1日の3ヶ所で、この中ではドレスデンの1週間が最長の滞在期間である。しかしそのドレスデン滞在中ですら、ワルシャワの家族からショパン宛に手紙を送るような真似はしない。

 

なぜなら、現実的に不可能だからである。

 

いつも言っているように、当時の郵便事情は現在とは全く違う。

手紙は馬車で運ばれ、しかも決まった曜日にしか決まった地域への郵便馬車が出ない。

たとえば、ショパンがワルシャワを発ってから最初に書いた手紙はヴロツワフからのものだが、ショパンはヴロツワフに着くまで1週間を要している。そのヴロツワフとワルシャワを結ぶ距離は、直通の郵便馬車でもおそらく片道で45日はかかる距離だ。

つまり、ショパンがヴロツワフから出した手紙に対してワルシャワの家族から返事が届くのは、単純計算で往復の2倍としても、どんなに早くても810日はかかってしまうのである。

ところが、ショパンはヴロツワフには4日間しか滞在していない。

4日しかいないのに、その間にワルシャワから返事をもらうのは不可能である。返事が着く頃には、ショパンはとっくの昔にヴロツワフを発ってしまっている。

もしも家族がヴロツワフのショパンに手紙を届かせるようにしたかったら、それを見越して相当前から手紙を郵便局に持ち込まなければならず、つまりこの場合だと、ショパンがワルシャワを発ってから数日後には、家族はもう手紙を書いて出しておかなければならない事になる。

つい数日前に出掛けて行ったばかりのショパンに対して、まだ旅先からの便りもない段階で、家族や友人知人達が一体何を書き送る事があると言うのだ?

 

つまり、目的地のウィーンに着くまで、誰も移動中のショパンに手紙を出すはずがないのである。ショパンの過去の旅行を振り返っても、そのような事は一切なされていない。そもそも出来ないのだからしなくて当然なのだ。

したがって、ショパンが旅の途中で自分宛に手紙が届く事を気にかけているはずもないのである。

この贋作者は、ショパンが、マトゥシンスキ伝手に送られてくるはずのグワトコフスカからの手紙を心待ちにしていると言う心情を描きたかったのだろうが、4日間滞在したヴロツワフはおろか、1週間滞在したドレスデンですら不可能だというのに、ましてやたった1日しかいなかったプラハなら尚更だ。仮にショパンの後を追って手紙を回送させるとなると、その分いちいち余計な料金がかさんで行く事にもなる訳だし、どっちみち手紙を受け取るのはウィーンになるのだから、それなら最初からウィーンに送るだろう。しかしその場合ですら、予めショパンがウィーンでどこのホテルに宿泊するのかが分かっていなければならない訳だが…。

したがって、ショパンが「プラハ」で手紙の回送を頼むなど、よっぽど頭のデキが良くない限り考えられない。

要するに、この手紙を贋作した人物は、当時の郵便事情と言うものを全く知らず、完全に後世の時代の感覚でこれを書いてしまっていると言う事なのである。つまり、鉄道や自動車、飛行機などが当たり前のように飛び交っている時代の感覚である。

 

もしも物書きの真似事をしたいのであれば、それが贋作書簡であれ何であれ、最低限、時代考証を怠ってはならない。

実は、ショパンの贋作書簡の全てがこの時代考証を怠っており、その点一つだけをとっても、それらが完全にニセモノである事が簡単に証明できてしまうのである。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#8.

「雨が君を動揺させているのか? 僕は君が病気をしているような予感がするのだ。どうかお願いだからリスクは冒さないでくれたまえ;君は、僕が何度災難に遭ったか知っているだろう。――僕の粘土は、今度は雨にも溶けない;中身は華氏で90度あるんだ。おそらく――ああ、いや、そうはなるまいが、僕の粘土じゃ、子猫のための小屋くらいしか作れないだろう! ――」

 

この記述も、完全にショパンのものではない。

「雨」にしろ「病気」にしろ、それらは全て単なる想像で言っている事にしか過ぎない。

       ちなみに、次回紹介する「家族書簡・第4便」121日付)には、「僕が思うに、彼(※マトゥシンスキ)は熱病なのに違いない(彼はもう熱病から回復しましたか?)と言う記述があるから、これはそこからの流用とアレンジである。

ショパンは手紙の中で、こんな風に一方的な妄想で相手に話しかけるような事はしない。必ず、事実に基づくリアクションによってしか話題を振らないのである。

たとえば、過去に実際に相手の身に起きた事を蒸し返すとか、相手からの手紙に書かれていた事に対して返答するとか、あとは、自分が見聞きした情報を相手に提供するとか、ショパンはそう言う現実的な事しか話題にしないのである。

ところが、この記述は、最初から最後まで全てが想像、もしくは妄想だけで書かれており、何一つとして事実に基づいたものではない。

そもそも、マトゥシンスキから手紙が来ていないのは(※あくまでも文通を約束していたと仮定しての話だが)、先ほども説明したように、誰も移動中のショパンに手紙を出すはずがないと言う、極めて現実的な事情によるものだ。

本物のショパンなら当然そんな事は分かりきっているので、「病気」が理由なのではないか?などと考えをめぐらせる訳がない。つまりその内容からしても、これはショパン本人が書いたものではない事を裏付けているのである。

 

それに、自分の体の事を表現するのに、なぜわざわざ「粘土」なんて普段全く使わない言葉でたとえる必要があるのか? ショパンがこんな表現を用いるだろうか?

これはすなわち、ショパンとマトゥシンスキが「同じポーランドの大地から生れた事」を強調するために選ばれた単語なのである。そして、同じポーランド人なのに、一方のマトゥシンスキは「病気(=雨)」のせいで「溶け」ているのに対して、一方のショパンは90度」も熱く熱しているから、今じゃそれくらいの事では「溶けない」と書いている。

これはすなわち、これを書いた人物の意図では、文字通りに「病気」の話をしているのではなく、要するにこれは、「革命に対する熱意」について暗喩している文章なのである。つまりここで言う「病気(=雨)」とは、“臆病風”のような意味で使われており、したがって、「僕の粘土じゃ、子猫のための小屋くらいしか作れないだろう!」と言うのは、“でも自分は音楽家だから、革命の兵士としては非力すぎて何の役にも立てないだろう”と言う意味だ。そうショパンに嘆かせる事で、ショパンの愛国心を強調しようとしている訳なのである。

実はこれも、カラソフスキーによる「マトゥシンスキ贋作書簡」の2通目(183111日付)に書かれていた、「君は砲台を造ったのか。…(中略)…君は戦いに臨もうとしているが、大佐になって帰って来たまえ。どうか全てが上手く行きますように! なぜ僕は、少なくとも君の鼓手になれないのだろうか?」を、単に別の言葉で言い換えたものに過ぎないのである。

 

つまり、これを書いている人物は、他の一部のポーランド人作家達がよくやるように、あたかもショパンが熱烈な革命支持者であったかのようなイメージを読者に植え付けようとしているのだ。

だが、仮に万が一そうだったとしても、ショパンはそのような「反体制」の意思表示を決して文章に残したりなどしない人間なのである。

なぜならショパンは、父ニコラがそれで祖国を追われ、自分の両親や姉妹達と永遠に別れなければならなくなってしまった事を知っているからだ。たとえショパンの心情が革命を指示していたとしても、彼が実際に取っている行動はと言えば、常に争い事からの逃避であり、それは父ニコラの人生そのままをなぞってもいるのである

一部のポーランド人達は認めたくないだろうが、ブルガリアの作曲家であるブクレシュリエフも書いているように、ポーランド人ではない我々外国人の客観的な目から見れば、「ショパンの性格は平和を愛していて、貴族的逃げ腰の人間である事は承知の通り」なのである(※アンドレ・ブクレシュリエフ著/小坂裕子訳『ショパンを解く!』(音楽之友社)より)

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#9.

「ああ、君は小ざかしい奴だ! ――君は劇場に行っただろう! ――君はオペラ・グラスを使って、他の人達を見つめただろう! ――君は肩飾りに厳しい視線を投げ掛けただろう…もしもそうなら、稲妻が君を撃つといい、君は僕の愛情に値しないよ。――」

       ちなみにこの「肩飾り」と言うのは、ヘドレイの英訳選集では「将校肩章」となっており、そしてそこに[ロシアの将校のもので、ショパンは嫉妬していた]と言う註釈が施されている。ちなみにその邦訳版では、邦訳者によって[ベゾブラズフとピサレーフスキーというロシアの中将たちがグウァドコフスカの気を一時ひきつけていたことを指している。]と言う註釈にされている。これは、カラソフスキーによる「マトゥシンスキ贋作書簡」の1通目(1226日付)に書かれていた事を基にしている。

 

これも全く同じである。

ここにあるのは単なる妄想だけだ。

そしてこの箇所もまた、元々はカラソフスキーが伝記の中ででっち上げた「マトゥシンスキ贋作書簡」の2通目(183111日付)に書かれていたものからの流用とアレンジで、カラソフスキーの「オリジナル贋作版」では以下のようになっていた。

「おそらく――おお、彼女(※グワトコフスカの事)は僕を愛しているだろうか?と、僕の鼓動する心臓が訊ねる。汝、役立たずのアスクラピウスよ、君は劇場でオペラ・グラスを手にして、彼女から眼を離さなかったではないか! もしもそうなら、いまいましい奴だ……君は僕の信頼を軽んじないでくれたまえ。」

このように、カラソフスキー版では、マトゥシンスキが「オペラ・グラス」でグワトコフスカを見つめてショパンを嫉妬させたと言う妄想になっていた。しかしこの手紙では、その嫉妬の対象がマトゥシンスキから[ロシアの将校]に妄想変更されている。つまりここにも、この贋作者の国粋主義的な思惑を見て取る事ができるのである。

 

「ヴォイチェホフスキ書簡」の「写し」の原文がそうなっていたように、この当時のショパンには、ロシアの将校やコンスタンチン大公に対する反感をうかがわせるような感じはなく、手紙にそのような事は一切書かれていなかった。逆にそれどころか、ロシア人将校と懇意にしていたり、コンスタンチン大公と繋がりのあったモリオール家やスカルジンスキ家などと親密に交際したりもしていたのだ(※だが、カラソフスキーはそれが気に入らないので、ことごとくそれらの事実を抹消していた)。だからこそショパンは、他の人々とは違って、ヨーロッパ情勢が混迷する中ですら、苦もなく旅券(パスポート)を発行してもらえてもいたのだ。実際ショパンは、次回紹介する「家族書簡・第4便」で、「コンスタンチン大公から紹介状を頂いて来たロシアの大使」を訪ねるとさえ書いているのである。

そうやって、時の支配者に依存する事で利益を蒙っていたショパンが、この時期に反体制の立場を取り、単純に愛国心だけで革命を指示するような事が考えられるだろうか?

しかも、そのような意思表示を手紙に書いてワルシャワへ送る事が、どれほど家族や友人知人達を危険にさらす事になるか、それくらいの事に思いが至らないほど、彼は決して愚かな人間ではないだろう。

 

 

ついでに言っておくと、この手紙は、文と文の間にやたら「――」が多すぎる。

確かにショパンはこれをよく使うが、稀に会話文を描写する際に細かく入れる事はあっても、通常の文中でこんなに細かく入れる事はない。

ショパンは、どこで話題が変わろうが、どこで日付が変わっていようが、お構いなしにそのまま文章を続けて書く事すら珍しくない。要するに、その辺の事に関しては非常に大雑把で、いちいち細かく気を使いながら手紙を書くようなタイプの人間ではないのである。元々文章を書く事をあまり好んでいないのだから、当然と言えば当然だろう。

だがこの手紙は、話題が変わるごとに必ず「――」を入れ、たとえ話題が変わっていない場合でも、まるで感情の高ぶりを演出するかのように細かく「――」を入れており、非常に作為的なものを感じさせる。つまり、フィクションを読み書きする事に慣れている人間の影がちらつく文体だと言える。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#10.

「ティトゥスは知っていて、満足していて、彼はいつも高尚に振舞い、そして何らかの期待をしていた。――」

 

この箇所は、マトゥシンスキが手紙を寄こさない事に対してのヴォイチェホフスキのコメントだと言う事らしい。

ちなみにオピエンスキーの英訳版では、以下のように翻訳されている。

「ティトゥスは知っていて、満足している;彼はいつも(彼女を)尊敬していて、それを期待している。」

つまり、グワトコフスカから手紙が来る事を「期待している」と言うのだ。

一方、ヘドレイの英訳選集版では、以下のように翻訳されている。

「ティトゥスは僕の事は全て知っているし、その事に満足していて、なぜなら彼はいつも僕を尊重してくれているし、僕の気持を事前に察してくれている。」

要するに、ポーランド語原文で省略されている目的格を(彼女)としていたり、「僕」としていたりまちまちなので、それによって意味が違っているのである。

 

いぜれにせよ、根本的な問題として、この頃のショパンがマトゥシンスキと文通する事が考えにくい以上、その彼を通じて「理想の人」ですらないグワトコフスカと文通するなど、端からカラソフスキーの作り話でしかないのである。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#11.

「僕が君に手紙を書くとしたら、それは僕が自分自身のためにするのであって、なぜなら君はそれに値しないからだよ。――」

 

この箇所も、カラソフスキーが伝記の中ででっち上げた「マトゥシンスキ贋作書簡」の2通目(183111日付)に書かれていたものからの流用である。

カラソフスキーの伝記では以下のように書かれている。

「でも僕はただ僕自身のために書いているだけだ;君には骨を折る値打ちもないよ。」

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#12.

「ハイネフェッター嬢が昨日《オセロ》に出演していて、可愛らしかったし、きれいに歌った。」

 

この手紙の中では、唯一この「ハイネフェッター嬢」の話題だけが事実に基づくものだ。

しかしこれは、このあとの「家族書簡」(121日付)の中でも触れられている話題なので、単にそこから流用してきただけの話なのである。

 

要するにこの手紙には、「この手紙でのみ知り得る新事実」と言うものがただの一つも書かれていないのである。

もしもこれをショパン本人が書いていたのなら、そのような事は絶対にないはずだ。これらの文章が当事者ではない後世の部外者によって書かれたものだからこそ、このように、他の資料からの流用とアレンジ、そして単なる妄想のみで全文を構成するしか他に書きようがない訳なのである。

これは、贋作書簡の典型的な文章群そのもので、有名な「ポトツカ贋作書簡」も全くそうだった。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#13.

「僕はあとで全て君に書くが、君の住所が欲しい。」

 

この箇所も冒頭部分と同じで、仮にマトゥシンスキがどこに住んでいようと、ショパンがその「住所」を知らない訳がないし、そんな事を彼に聞く訳もない。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#14.

「僕にキスしてくれたまえ、僕に代わって同窓生のアルフォンスを抱擁してくれたまえ、僕はマルツェリに手紙を書いた。僕の仲間達みんなにキスを送る、キスを。

F.ショパン」

 

この箇所もあり得ない。

ここに書かれている「アルフォンス」「マルツェリ」と言うのは、それぞれ「アルフォンス・ブラント」と「マルツェリ・ツェリンスキ」の事で、この2人は、1829年の夏にショパンがウィーンを初訪問した際に同行した4人の友人達のうちの2人である。しかしショパンは、彼らの事を決してファースト・ネームでは書かないのだ。過去の「家族書簡」においても、「ヴォイチェホフスキ書簡」においても、それぞれ「ブラント」「ツェリンスキ」と、必ず名字で書いているのである。

 

それに、ショパンとマトゥシンスキはワルシャワ高等中学校の「同窓生」なのである。

その「同窓生」同士が他の「同窓生」の話をするのに、いちいち同窓生のアルフォンス」などと、当事者同士には分かりきったプロフィールを書き沿える訳がない(※たとえそれが、「友達」と言う単語だとしても同じ事だ)。当事者同士なら、単にその名前を書くだけで通じるはずで、だからショパンはいつもそのように書いている。この場合で言えば、それぞれが単に「ブラント」「ツェリンスキ」と書かれるだけあって、決して同窓生のブラント」でもなければ、友人のツェリンスキ」でもない。

実際の当事者がそんな風に書く訳がないのだ。

だから、たとえば「ブラント」「ツェリンスキ」のプロフィールについて何も知らない我々部外者は、専門家の註釈なしにはショパンの手紙の登場人物の相関関係が全く分からない訳だが、しかしそれこそが「現実の手紙の文章」として当たり前の「書かれ方」なのである。

こんな事は、ショパンでなくても誰だってそうだろう。

こう言う風に、いちいち同窓生のなどと書いてしまう事自体が、この手紙が当事者本人の手によって書かれたものではない事を裏付けている。要するにこれは、芝居や小説で言うところの、いわゆる「説明セリフ」と言うものなのだ。

たとえば、芝居や小説の中の登場人物達は、今自分が話題にしている某氏が何者であるかを当然分かった上で会話している。しかしそれを観客として観ている、あるいは読者として読んでいる我々は、そんな事はもちろん何も知らない。だから、知らない我々にも分かるように、劇中の登場人物達がわざわざ某氏のプロフィールを同窓生のなどと付け加えながらセリフを話してくれる訳だ…これが「説明セリフ」である。

現実の人間はそのような不自然な話し方は決してしないが、これはフィクション世界に特有の常識的な手法なのである。

したがってフィクションを読み書きする事に慣れている人間と言うのは、そのような文体が当たり前のように身に着いてしまっている。そしてその事に自分で気付けない。この手紙を捏造した人物や、そのオリジナルの贋作者であるカラソフスキーらが正にそれだ。

 

このように、当事者ではない贋作者が、不特定多数の我々第三者に読ませる事を目的に書いている文章だからこそ、このようなボロが出てしまうのである。

最初からショパン本人が文通相手に向かって書いたものなら、決してこのような小説的文体にはならない。

 

 

また、ここには「僕はマルツェリに手紙を書いた」と書かれているが、これもやはり「この手紙でのみ知り得る新事実」ではない。なぜなら、ショパンがこの次に書く121日付の「家族書簡」に、「同封してあったツェリンスキからの手紙に感謝します」と書いてあるので、おそらくこの贋作者は、ショパンがマルツェリ・ツェリンスキ宛に手紙を書いていたのではないか?と想像して書き加えただけだからである。しかし実際のところは、ショパンがこの時ツェリンスキ宛に出した手紙など確認されてはいない。

 

この贋作者は、ショパンにツェリンスキやブラントの事をファースト・ネームで呼ばせる事で、彼らとの親密さを演出しようとしたのだろうが、逆にそれが、これがショパンの文章ではないと言う事実をはっきりと裏付けてしまっているのである。

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#15.

「このペンは(スープ鍋をよそるための)木製のスプーンのようで、書きづらくて、僕の手から落ちてしまう。こんな乱筆で、不思議に思わないでくれたまえ。――僕はもっと書きたいのだが、考えがまとまらないので、書くのが怖いのだ。」

 

この箇所は、一見いかにもショパンが書きそうな書き方に見えはする。

だが、どうしてここだけいきなり、何か不吉なものを感じさせるようなニュアンスがあるのだろうか? この時ショパンはウィーンに到着したばかりで、まだたったの1日しか経っていないである。つまり、1129日に勃発する「ワルシャワ蜂起」の5日前だ。

この1週間後に書かれる「家族書簡・第4便」は121日付で、それは「ワルシャワ蜂起」の2日後になる訳だが(※下図参照)、そのニュースはまだウィーンに届くはずがないから、手紙にもそんなニュアンスは微塵も見られず、ショパンは正に「知らぬが仏」状態で、希望に胸を膨らませながら意気揚々と手紙を綴っている。

 

183011

 

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贋作?

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ウィーン

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贋作?

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蜂起

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12/1

4便

 

 

 

 

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#16.

[手紙の裏面に]

僕のお抱えの宮廷医であるヤン・マトゥシンスキ殿、

君達を診療しに来る時は、“抜き彫りの丸木の小船(カヌー)に乗って来る聖ヤツェック名称病院”の一等級のお医者様へ。

郵便の配達者である、ルドゥヴィカ、イザベラ、あるいはズージアへ。

[追記] 老婆のごとく詮索しないように。――この機会に、1ダースの最高のキスを僕の親友達に。――封印を破らないように。

 

この最後の[裏面]部分は、要するに「宛名書き」と「注意書き」のようなものであり、ここの「君達」とは、この手紙をマトゥシンスキへ送るよう頼まれている「ルドゥヴィカ、イザベラ、あるいはズージア」を指している。

“聖ヤツェック名称病院”と言うのは、名医を意味する慣用句なのだそうだ。

要するに、ショパンがマトゥシンスキの事を、自分の個人的な事柄にとっては「アスクラビウス」(=やぶ医者)と書いておきながら、姉妹達を診察しに来る時一等級のお医者様でいてくれよ、と言うジョークらしい。

 

ところで、どう言う訳かこの箇所は、書簡集によって書かれ方がまちまちである。

以下に2つの例を挙げておこう。

 

ショパンからマトゥシンスキへ 贋作・第1便#16.

オピエンスキー・英訳版

シドウ・仏訳版

[手紙の裏面に]

芝生に入るべからずと言う事を、あなた(※この「あなた=Youは、おそらく「貴女方=ルドヴィカ達」の事)にお願いします。詮索好きな老婆にならぬよう、あなた(※同上)に命じます。この機会に、僕は我が尊敬すべき仲間達に最高の1ダースのキスを送ります。

そして、僕のお抱えの宮廷医であるヤン・マトゥシンスキへ。

配達人によって:ルドヴィカ、イザベラ、あるいはズージア。

封印を破らないで下さい。」

 「僕のお抱えの宮廷医であるヤン・マトゥシンスキ殿、

君達を診療しに来る時は、“抜き彫りの丸木の小船(カヌー)に乗って来る聖ヤツェック名称病院”の一等級のお医者様へ。

郵便の配達者である、ルドゥヴィカ、イザベラ、あるいはズージア。

[手紙の裏面に]

あたなは封印のシールに触れないよう要求します。詮索好きな老婆にならぬよう命じます。

この機会に、僕は1ダースの最高のキスを、我が勇敢なる同志達に送ります。

 

どれがどれでも一向に差し支えないが、このような混乱が起きるのも、一重に、確かな原物と言うものが存在していない事の何よりの証拠なのである。

 

いずれにせよ、この「宛名書き」と「注意書き」のようなものは、カラソフスキーによる「マトゥシンスキ贋作書簡」の2通目(183111日付)の註釈に書かれていたものからのアレンジで、そこでは以下のように書かれていた。

*目の粗い紙2枚に書かれたこの手紙は、両親宛の手紙の中に封入してあったもので、それは封包に入れずに軽く封じてあっただけだ。フレデリックは宛名の下に、姉妹達に宛てて次の言葉を書いておいた。「封を破らないように、それから、老婆のごとく詮索しないようにお願いします」

つまりカラソフスキーの設定では、先述したように、これらの「マトゥシンスキ書簡」は、ショパンが姉妹達に託してマトゥシンスキへ送ってもらうように手配していたと言うのである。

要するに、カラソフスキーがどうやってこれらの「マトゥシンスキ書簡」を入手する事が出来たのかと言うと、何と驚いた事に、それらがショパン家で保管されていて、イザベラから資料提供された「家族書簡」の中に紛れ込んでいたからだと言うのである。

姉妹達がマトゥシンスキに送ったはずのものが、どうしてその後ショパン家で保管されていたのか? 全くもって意味不明だが、相変わらずカラソフスキーはその経緯については何も説明していない。

何らかの理由で結局マトゥシンスキには送らなかったのか? それとも、マトゥシンスキが読んだ後に返してくれたとでも言うのか? あるいは、マトゥシンスキがパリで亡くなった後、彼の遺族がショパン家に返してくれたとでも言うのか? だとしたら、ショパンはパリ時代にマトゥシンスキ宛に何通も手紙を書いていており、その事が「フォンタナ書簡」の記述から間接的に確認されているが、どうしてそれらは1通もショパン家にはなかったのだ?

それに、カラソフスキーは「両親宛の手紙の中に封入してあった」と説明しているが、それならこれと同じ日付の「家族書簡」があった事になる訳だが、なぜその「家族書簡」の方は紹介せず、その内容についても一言もコメントしていないのか? そんな「両親宛の手紙」など最初から存在していなかったからではないのか?

それに、その手紙が元々「両親宛」に送られていたのなら、姉妹達が見る前に先に両親がその手紙の存在を確認していた事になるだろう。ところがカラソフスキーは、「マトゥシンスキ贋作書簡」の1通目(18301226日付)で、ショパンに「僕の両親は、君に手紙を出した事を知らない。だから君は、話す分にはいいけど、手紙を見せる事だけはしないでくれたまえ。」と書かせていたのである。これでは明らかに話が矛盾しているだろう。カラソフスキーは、自分が1通目で書いた「注意書き」の内容を、2通目ではもう忘れてしまっているのである。

ショパンがそんな間抜けな訳ないのだから、この間抜けっぷりは明らかにカラソフスキーのものである。

ショパンと言うのは、高等中学校に在籍していた3年間、常に成績優秀者として表彰されていたような秀才なのである。要するに、そのような知的レベルの高い人物になりすまして贋作書簡を捏造するのは、ポーランドの国粋主義者達が考えているほど容易ではないと言う事だ。コペルニクスの手紙を贋作する位の心構えで臨んでくれとは言わないが、少なくとも自分の知性の底をさらす事のないよう、それ位の覚悟は持って事に当たってもらいたいものだ。

 

なぜカラソフスキーがこのような出鱈目な設定をひねり出したか、その理由はハッキリしている。

もしも「マトゥシンスキ書簡」がショパン家で保管されていたのであれば、カラソフスキーが伝記を執筆していた1863年当時に勃発した「ワルシャワ蜂起」によって、それらは「家族書簡」と共に1通残らずこの世から焼失してしまった事にしてしまえるからである。

そうすれば、どんな出鱈目な手紙を捏造しても、もはや証拠が残っていない以上、「家族書簡」の改ざんも含め永遠に嘘がバレる事はないと踏んだからだ。

 

 

さて、この[裏面]部分で問題にすべきは、この「宛名書き」の原文が、全てポーランド語で書かれていると言う事だ。

残念ながら、ショパンは「宛名書き」を決してポーランド語では書かない。必ずフランス語で書くのである。

したがってこれもショパンが書いたものではあり得ない。

 

以前に何度か説明したが、当時のポーランドの郵便と言うのは、宛名書きをフランス語で書くのが習慣となっていたのである。ポーランドの上流社会では、手紙をフランス語で書く事が嗜みと言うか習慣だったので、必然的に、たとえ本文がポーランド語の場合でも「宛名書き」だけはフランス語で書いていたのだ。

もちろんショパンが書いた本物の手紙も、宛名書きを確認する事の出来るものは全てそうなっている。

であれば、この[裏面]の宛名書きも、当然フランス語で書かれていなければいけない訳なのだが、しかしこれは全てポーランド語で書かれてしまっている。

ポーランドにおいて「宛名書き」を母国語で書くようになるのは、20世紀にポーランドが独立を勝ち取り、教育制度が整備されて以降の事だ。すなわちこれは、そのようなポーランド独立後の習慣が身についている後世の人間が、ショパンの時代の習慣を知らずに書いていると言う、何よりの証拠なのである。

 

これに関しては、当時の習慣に基づいた事である以上、例外はあり得ない。

特にショパンの場合は、冗談めかして慇懃な文章を書く時にはよくフランス語を使う事があるだけに、尚の事、このような風変わりな「宛名書き」をポーランド語で書くなど考えられない。

 

また、ここにはショパンの従姉妹の「ズージア」が久々に登場するが(※ショパンの手紙の中では、彼女は「スーゾン」「スーゼ」「ズージア」等の愛称で呼ばれていた)、この頃、彼女はまだショパン家に居候していたのだろうか?

彼女については、現在以下のような事しか分かっていないのである。

 

ズザンナ・ビエルスカ(1804年頃〜1869年)は、1820年代にワルシャワでショパン家と一緒に暮らしており、彼らの手紙の中で言及されている。

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アントニーナ・クシジャノフスカ」に関する20061月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

しかし、この「マトゥシンスキ書簡」が公表された頃には、彼女がショパンの従姉妹だったと言う事実はまだ知られておらず、オピエンスキーの書簡集ですら、[ズージアはショパン家の女中だが、家族同様に扱われていた]と、間違った註釈が施されていたくらいなのである。

したがって、この手紙を贋作した人物も、彼女の事をそのような存在であると認識していた事は間違いないだろう。

彼女がショパンの手紙の中で言及されていたのは、少年期の「家族書簡」と「ビアウォブウォツキ書簡」だけで、「ヴォイチェホフスキ書簡」の中では一度も言及されていなかった。

したがって、ショパンが「ヴォイチェホフスキ書簡」の中で「パパとママと、その子供達」と書いていた時、その「子供達」の中に「ズージア」が含まれていたのかどうかについては、ちょっと疑問を感じないでもない。

「ズージア」がショパンの手紙で最後に登場したのは、1826212日」付の「ビアウォブウォツキ書簡・第8便」である。それ以降、4年間も出て来なかったものが、ここへ来ていきなりこのような形で出て来ると、どうしても何か違和感を覚えてしまう。

 

 

 

さて、カラソフスキーの設定では、これら「マトゥシンスキ書簡」は、カラソフスキーが伝記を執筆していた当時には、すでにその原物が失われていた事になっている。

それなのに、その後の後世において、次々と「マトゥシンスキ書簡」の」「写し」が出て来たと言うのもおかしな話である。

しかもそれらは、カラソフスキーが伝記で発表したものが形を変えてアレンジされたものばかりなのだ。

そして、その頃にはすでにカラソフスキーの伝記作家としての信頼がかなり揺らいでいたものだから、当然の事ながら、後から出てきた「写し」の方が書簡集等では重宝され、採用されている。

だが私に言わせれば、それらは、元を正せば全てカラソフスキーの「贋作書簡」がオリジナルなのだから、どっちを採用しようがそこに真実など何もない事に変わりない。要は「嘘の上塗り」でしかないからだ。

しかしながら、そのお陰で、却ってカラソフスキーの嘘を暴きやすくなったと言う意味では、たいへん役に立ったと言うべきであろうか。嘘を上塗りすれば、必然的に、その分だけ矛盾も折り重なる訳だから、そうすると、様々な角度から論破が可能になるからだ。

 

 [2012年6月13日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証11-2:ワルシャワ蜂起前夜

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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