×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

検証10:そして祖国に別れを告げた――

Inspection X: And Chopin said good-bye to his land -

 


3.ドレスデンより/親友「ティトゥス」は何処にいるのか?―

  3. From Dresden/Where is Titus Wojciechowski who should have joined the departure of Chopin? -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 マズルカ 第46番 ハ長調 作品68-1▼≫
 

今回の検証の趣旨も、前回同様にヴォイチェホフスキが本当にショパンのウィーン行きに同行していたのか?にある。

 

まず、カラソフスキーが最初に公表したドイツ語版・初版における手紙を読んで頂きたい。改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ドレスデンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第2回ウィーン紀行・第2便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

18301114日 ドレスデン

僕には、ずっとあなた方へ23の言葉を書き送る暇が見付からないでいました。ちょうど今、ポーランド人ばかりのディナーの席から帰って来たところです。僕は、あなた方に手紙を書くためこっそり抜け出して来たのです。と言うのも、郵便馬車が七時に出ますし、それに、僕はまた劇場で《ポルティチの唖娘》を見たいからです。

僕達は、渋々ブレスラウを去りました。ショルツ氏さんに紹介状で引き合わせてもらった紳士達は、僕達のシレジアの首府での滞在を非常に愉快なものにしてくれました。僕がドレスデンで最初に訪問したのはペヒヴェル嬢でした。彼女は金曜日に、顧問官のクライジッヒ家の音楽夜会で弾く事になっていて、それで僕に入場券をくれました。同じ夜に《唖娘》が劇場で上演される事になっています。この二者択一は困難でしたが、ご婦人方には常に丁重でなければいけませんから、僕は夜会の方に行く事に決めました。僕にとってもう一つの大きな理由は、イタリア歌劇のプリマ・ドンナのパラッゼージ夫人が出演する事が予定されていた事でした。

至極念入りなお化粧を済ませてから、僕は駕籠を呼んで、乗心持のよい奇異な箱の中に入り、特別な服装をした「駕籠かき」にかつがれて、音楽の宴会が催される家へ運ばれました。僕は茶目っ気に取りつかれて、腰掛の底を踏みつけてみたくなりましたが、我慢しました。

クライジッヒ氏の御宅に着き、ペヒヴェル嬢に僕の名を告げました。するとその家の主人が現れ、僕に色々とお世辞を並べ、ご婦人達が8個の大きなテーブルに座っている一室に僕を案内しました。僕が凝視したのはダイヤモンドの閃光ではなくて、慇懃なご婦人達の手の中で絶えず動いている、沢山のスチール製編み針の控えめなきらめきでした。

もしもこのご婦人達が紳土達を攻撃しようとしたならば、後者は目も当てられない窮地に陥るだろうと思われるくらい、ご婦人達と針の数は沢山でした。紳士達にとってはメガネを武器にする事が頼みの綱だったに違いありませんが、この眼鏡は禿頭の数と同じでした。

編み針とティー・カップのカチカチ言う音は、突然隣室から聞こえた音楽にかき消されました。《フラ・ディアボロ》の序曲が最初に演奏されたのです。次にパラセッシ夫人がすばらしい声で、鐘の音のように清浄に、難曲を沢山歌いました。僕はこの女流声楽家に紹介され、その結果、さらに彼女の伴奏をした楽長ラストレリ氏と話す機会を持ちました。ラストレリ氏は、真に芸術的な礼儀でもって、僕にルビーニ氏を紹介しました。彼は、また大層愛想よくて、彼の兄弟の有名なテノール歌手に僕を紹介する手紙をくれると約束しました。ミラノではこれ以上に何も要らないでしょう。昨日ルビーニ氏は親切にもミサにモルラッキ氏(ここの軍楽長)のが演奏されるカソリック寺院に僕を連れて行きました。この高雅な気持のよい人(モルラッチ)は直ぐに僕を思いだして、僕に自分の側の席を与え、長い間僕と話をしました。僕はこうした礼拝式で有名なナポリのソプラノ歌手サッサロリとタルクイノを聴きました。ヴァイオリンの助奏は、ソリヴァ氏が僕に推薦状をくれた無敵のロラが奏きました。ロラ氏は非常に喜んで僕を迎えて、彼の父ミラノの歌劇支配人に僕を紹介する手紙をくれると言いました。

この音楽夜会でペヒヴェル嬢を聴いた後、僕はこっそり抜け出して歌劇を見に行きましたが、やっと5幕目の初めのところで着いたものですから、批評するのはやめておきましょう。今夜は全部聴きます。

僕はドレスデンでの訪問時間に、クレンゲル氏を訪ねに出掛けたことろ、その家の前で氏に会いました。彼は直ぐに僕に気付いて、極めて懇切に歓迎してくれました。僕は彼を尊敬しています。彼は僕が何処に宿っているかと訊ね、今は一緒に引き返す事が出来ないから、明日早く会いに来てくれるようにと乞われました。彼は僕に公衆の前で演奏するように勧めましたが、僕は出来るだけ心安い言い方で、そうしていられるだけ長い間ここに滞在出来ない旨を話しました。ドレスデンは僕に大した声名も沢山のお金もくれそうには思えませんし、またそうする暇もありません。

プルシャック夫人の家で会ったクニアジェヴィッツ将軍は、音楽会の事を話しましたが、僕と同様にほとんど利益にはなるまいと考えていました。

昨日、僕は《タンクレーディ》を聴きましたが、全体としてはその演奏を称讃できませんでした。ロラの不思議な独奏とウィーン帝室歌劇々場附のフォン・へーネル嬢の歌は、他の人々の不足を償っていました。王様と宮廷の方々が臨場していましたが、この人達は同じ日の朝ミリッツ男爵のミサがモルラッキ氏の指揮の下に演奏された寺院の礼拝式に出席されました。サッサロリ、ムシェッチ、バブニックおよびゼヅィー諸氏の声は、荘厳に響きました。僕は、この作品を独創的なものとは評しませんが、巧みに仕上げてあると思いました。帝室付きの室内音楽家で有名なチェロの大家であるドットツァウエルとクンメルの両氏は極めてあざやかに独奏しました。

僕は、親愛なクレンゲルさんを除けば、主立った音楽家は一人も知りませんが、明日は必ずこの人達の前で弾きます。僕はクレンゲルさんと話すのが好きです。と言うのも、あの人からはいつも何かしら教えられるところがあるからです。

僕は、この前に来た時には「緑の丸天井」(※ザクセン王家の宝飾品コレクションを保管してある部屋)を見物しましたが、一度で沢山です。でも美術館は最大の興味を持って再び訪問しました。もしも僕がここに住むなら、毎週でも行くのですが。ここには見ていると音楽を聞いているように想像させる絵が何枚もあります。今日はこの辺で、さようなら。

あなた方のフレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より

この手紙についても、カラソフスキー・ドイツ語版・初版と、彼が第4版で改訂したポーランド語版とで比較しながら議論を進めていきたいと思うが、私は現在カラソフスキーの第4版・ポーランド語版が入手できずにいるので、そちらについては、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料がそれに該当するものと思われるので、それによった。

今回の趣旨も、あくまでもヴォイチェホフスキの同行が事実かどうかを検証する事にある。

なので、その改ざんの痕跡を調べるためにも、ドイツ語版とポーランド語版を見比べる必要があるのだ。

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

18301114日 ドレスデン」

            同じ。

 

まず日付についてだが、この手紙は前回の手紙から5日後に書かれている(※下図参照)。

 

183011

 

1

2

出発

3

 

4

5

6

ブロツ

7

8

9

1便

10

出発

11

12

夜会

13

14

2便

15

 

16

17

18

19

 

20

 

21

 

22

23

24

25

26

27

28

 

29

30

 

 

 

 

 

前回「第1便」の結びで、明日の2時にドレスデンに向けて出発すますと書かれていた。

今回の「第2便」に出てくる話題で一番古いのは「金曜日」「音楽夜会」であるから、ショパンは少なくとも「12日」にはドレスデンに到着していた事が分かる。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

僕には、ずっとあなた方へ23の言葉を書き送る暇が見付からないでいました。ちょうど今、ポーランド人ばかりのディナーの席から帰って来たところです。僕は、あなた方に手紙を書くためこっそり抜け出して来たのです。と言うのも、郵便馬車が七時に出ますし、それに、僕はまた劇場で《ポルティチの唖娘》を見たいからです。」

僕自身の事について、そちらに手紙を書く時間をやっとの事で見つけました。(今)ポーランド料理店から(僕は)帰って来たところです。この店の客はポーランド人達ばかりでした。彼らをそこに残して、僕は一人でホテルに帰って来ました。と言うのも、郵便が(午後)7時に出てしまいますし、それに、僕はこの夕刻に、是非とも再度《ポルティチの唖娘》を聴きたいと願っているからです。

       《ポルティチの唖娘》は、フランソワ・オベール(François Auber 17821871)が1827年に作曲したオペラ。1828年にパリのオペラ座で初演された。《ポルティチの唖娘》と言えば、前回のヴロツワフ殻の手紙で、飛び入りで行なった演奏会で、「(僕は)ロンドの演奏の他に、オペラ”ポルティチの唖娘“のテーマを知っている人たちのために即興演奏もしました。と書かれていた。

 

さて、この書き出しだが、どちらも全て「僕」である。

これはいきなり不自然ではないだろうか?

ポーランド人ばかりが集まってディナーをしている場であるなら、当然、そこへはショパンとヴォイチェホフスキの2人で行ったはずだろう。ところが、ここにはヴォイチェホフスキと一緒に行ったとも書かれていないし、また、彼を残して帰って来たとも書かれていないのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

僕達は、渋々ブレスラウを去りました。ショルツ氏さんに紹介状で引き合わせてもらった紳士達は、僕達のシレジアの首府での滞在を非常に愉快なものにしてくれました。」

 「僕達は)、このヴロツワフ市からあまり出立したくなくなっていました。シュルツ氏が手紙を宛てた紳士達と知り合いになってから、(僕達には)ヴロツワフでの滞在が居心地よくなって来ていました。

 

ここでは一転して、主語が全て「僕達」になっている。

例によって、「僕」「僕達」に置き換えただけでヴォイチェホフスキの同行が表現されているだけなのである。

ところが、これに続く文章は全て、最後まで「僕」なのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕がドレスデンで最初に訪問したのはペヒヴェル嬢でした。彼女は金曜日に、顧問官のクライジッヒ家の音楽夜会で弾く事になっていて、それで僕に入場券をくれました。同じ夜に《唖娘》が劇場で上演される事になっています。この二者択一は困難でしたが、ご婦人方には常に丁重でなければいけませんから、僕は夜会の方に行く事に決めました。僕にとってもう一つの大きな理由は、イタリア歌劇のプリマ・ドンナのパラッゼージ夫人が出演する事が予定されていた事でした。」

「(僕が)ここで最初に訪問したのはペヒヴェル嬢でした。彼女は去る金曜日にここのクラブでの演奏会に出演し、僕のために入場券を世話してくれました。一方、同じ日の夕刻に劇場で《唖娘》の公演がありました。(僕は)二者択一する事で悩みましたが、(ペヒヴェル)嬢から是非とも彼女の演奏を聴いて欲しいとの願いがあったので、(僕は)こっちを選ぶ事にしました。もう一つの理由は、彼女の伴奏で、当地で一番の女性歌手が歌うと言う情報を得たからです。生まれはイタリアで、姓はパラゼッシです。

 

ここのドイツ語版とポーランド語版で大きく違うのは以下の部分である。

·           ドイツ語版⇒「ご婦人方には常に丁重でなければいけませんから」

·           ポーランド語版⇒「(ペヒヴェル)嬢から是非とも彼女の演奏を聴いて欲しいとの願いがあったので」

 

この「ペヒヴェル嬢」については、去年のウィーン旅行の帰り道に立ち寄ったドレスデンからの「家族書簡」にも、以下のように書かれていた。

「このご婦人はクレンゲルの弟子で、彼の意見によると、ドレスデンにおける第一級のピアニストなのです。」

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「至極念入りなお化粧を済ませてから、僕は駕籠を呼んで、乗心持のよい奇異な箱の中に入り、特別な服装をした「駕籠かき」にかつがれて、音楽の宴会が催される家へ運ばれました。僕は茶目っ気に取りつかれて、腰掛の底を踏みつけてみたくなりましたが、我慢しました。」

最も綺麗な服装を身に着けて、(僕は)駕籠(かご)を呼び、(僕は)この不思議な箱(=駕籠)に乗り込み、夕刻の演奏会が開かれる事になっていたクライジッヒ氏の家に乗り着けるように(僕は)指示を出しました。制服を着た御者達に運ばれての移動中、僕は自分で自分の事を笑ってしまいました;(駕籠の)床に穴を空けてやりたいと思ったほどでしたが、(僕は)それを我慢しました。

 

この箇所も一貫して主語は「僕」である。

もしもこの「駕籠」にヴォイチェホフスキも一緒に乗っていたのなら、この時のショパンの行動や感情を、どうしてヴォイチェホフスキと共に共有していないのか?

つまり、この日の音楽夜会に出掛けていったのは、あくまでもショパン一人だったとしか思えないのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「クライジッヒ氏の御宅に着き、ペヒヴェル嬢に僕の名を告げました。するとその家の主人が現れ、僕に色々とお世辞を並べ、ご婦人達が8個の大きなテーブルに座っている一室に僕を案内しました。僕が凝視したのはダイヤモンドの閃光ではなくて、慇懃なご婦人達の手の中で絶えず動いている、沢山のスチール製編み針の控えめなきらめきでした。

もしもこのご婦人達が紳土達を攻撃しようとしたならば、後者は目も当てられない窮地に陥るだろうと思われるくらい、ご婦人達と針の数は沢山でした。紳士達にとってはメガネを武器にする事が頼みの綱だったに違いありませんが、この眼鏡は禿頭の数と同じでした。」

駕籠が僕を(建物の)階段の上まで運んでくれたのには驚きました。(僕は)馬車から降りて、ペヒヴェル嬢に(僕が着いた事を)知らせるように頼みました。この家の主人が出て来て、お辞儀をし、大層恭しく僕にお世辞を言って、ホールの中に連れて行きました。ホールの両側には大勢の人が座れる巨大なテーブルがあって、沢山のご婦人達が座っているのを(僕は)見ました。彼女達を飾っている宝石が輝いていたと言うよりは、彼女達が持っていた沢山の編み針と彼女達の視線が輝いていました。冗談なしに、ご婦人達と針の数が非常に多く、いかにも男性達に蜂起するのではないかと恐れるほどの数でした。(その男性達は)メガネと禿げを掲げて戦いに来たように見えました。そのメガネのガラスの数は多く、先に行くほどに生の肌のみになりました(※メガネをかけた人の数が少なくなったと言う意味)

 

この箇所も同様で、主語は全て「僕」である。

最初からヴォイチェホフスキが同行している事を前提に、そのような先入観を持って読み進んでいれば、たとえ表現は「僕」でも「僕達」の行動に読めてしまうのかもしれないが、逆に、仮にこの手紙の中で唯一「僕達」と書かれている箇所が実際は「僕」だったとしても、これらの行動が全て2人のものとして読めるだろうか?

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「編み針とティー・カップのカチカチ言う音は、突然隣室から聞こえた音楽にかき消されました。《フラ・ディアボロ》の序曲が最初に演奏されたのです。次にパラセッシ夫人がすばらしい声で、鐘の音のように清浄に、難曲を沢山歌いました。僕はこの女流声楽家に紹介され、その結果、さらに彼女の伴奏をした楽長ラストレリ氏と話す機会を持ちました。ラストレリ氏は、真に芸術的な礼儀でもって、僕にルビーニ氏を紹介しました。彼は、また大層愛想よくて、彼の兄弟の有名なテノール歌手に僕を紹介する手紙をくれると約束しました。ミラノではこれ以上に何も要らないでしょう。昨日ルビーニ氏は親切にもミサにモルラッキ氏(ここの軍楽長)のが演奏されるカソリック寺院に僕を連れて行きました。この高雅な気持のよい人(モルラッチ)は直ぐに僕を思いだして、僕に自分の側の席を与え、長い間僕と話をしました。僕はこうした礼拝式で有名なナポリのソプラノ歌手サッサロリとタルクイノを聴きました。ヴァイオリンの助奏は、ソリヴァ氏が僕に推薦状をくれた無敵のロラが奏きました。ロラ氏は非常に喜んで僕を迎えて、彼の父ミラノの歌劇支配人に僕を紹介する手紙をくれると言いました。」

「編み針が動く音とティー・カップが動く音が、ホールの最も奥に座っていた演奏家たちの奏でる音楽が始まるとともに、静かになりました。最初に、オペラ《フラ・ディアボロ》の序曲を演奏し、その後、例のイタリア人女性が歌いました――悪くはなありませんでした。(僕は)彼女と話し込みました。彼女の伴奏の奏者とも知り合いになりました。彼の姓はラストレリで、ここのオペラ劇場の次席指揮者です。それに、ルビーニ氏、かの有名な声楽家の兄(弟)と一緒に(僕は)ミラノまで同行したいとの願いを持っています。――この親切なイタリア人は、彼の兄弟宛に手紙を書くと約束してくれました。これ以上望む事はないでしょう。昨日、(オペラ)《シチリアの晩鐘》の演奏練習、即ち、当地の宮廷演奏家たちのコンサート・マスターであるモルラッキ氏の作曲になるオペラの練習に僕を連れて行った。この機会に説明しておくが、彼は自分の横に僕を座らせ、僕と沢山の会話を交わした。《シチリアの晩鐘》は今日、有名なナポリの男性ソプラノ歌手達サッサロリとタルクイノらによって歌われていました。そして、独唱部分ではロラ氏がヴァイオリンを弾きました。彼は、ソリヴァ氏が僕のために書いてくれた紹介状の宛先人です。――彼と知り合いになり、(彼は)ミラノ・オペラ劇場の指揮者である自分の父親宛に手紙を書くと約束してくれています。

       《フラ・ディアボロ》 オピエンスキーの註釈によると、[オベールによるコミック・オペラ。初演は1829年。]

       「モルラッキ」 フランチェスコ・モルラッキ、17841841。ウェーバーの死後、ドレスデンの歌劇場の後任指揮者となった。イタリア生れの音楽家で、オペラ、宗教著楽等の作品が多く、当時の名声は高かった。

 

この箇所も全て、主語は「僕」である。

「モルラッキ」については、去年のドレスデンからの「家族書簡」にも、以下のように書かれていた。

「明日の朝、僕はモルラッキを待ち受け、僕と彼とで一緒にペヒウェル嬢のところへ行くのです。すなわち;僕が出掛けて行くのではなく、彼が僕のところへやって来るのですよ。

ハッ、ハッ、ハッ!」

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「この音楽夜会でペヒヴェル嬢を聴いた後、僕はこっそり抜け出して歌劇を見に行きましたが、やっと5幕目の初めのところで着いたものですから、批評するのはやめておきましょう。今夜は全部聴きます。」

話を例の夕刻の音楽会に戻しましょう。――ペヒヴェル嬢がピアノを弾き、僕は色々な人達と話を交わした後、例の《唖娘》の観劇に赴きました。(このオペラの演奏に関する)評価は書けません。何故なら、出し物の全てを(僕は)聴いてはいなかったからです。これに関しては、今夕、はっきりした事が書けるでしょう。

 

この箇所も全て主語は「僕」である。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕はドレスデンでの訪問時間に、クレンゲル氏を訪ねに出掛けたことろ、その家の前で氏に会いました。彼は直ぐに僕に気付いて、極めて懇切に歓迎してくれました。僕は彼を尊敬しています。彼は僕が何処に宿っているかと訊ね、今は一緒に引き返す事が出来ないから、明日早く会いに来てくれるようにと乞われました。彼は僕に公衆の前で演奏するように勧めましたが、僕は出来るだけ心安い言い方で、そうしていられるだけ長い間ここに滞在出来ない旨を話しました。ドレスデンは僕に大した声名も沢山のお金もくれそうには思えませんし、またそうする暇もありません。プルシャック夫人の家で会ったクニアジェヴィッツ将軍は、音楽会の事を話しましたが、僕と同様にほとんど利益にはなるまいと考えていました。」

今朝、(僕が)クレンゲル氏を訪問したところ、同氏とはちょうど家の前で会う事ができました。直ぐに僕に気付いてくれて、(僕が)感激するほどに親切でした。(僕は)彼を心から尊敬しています。(予め僕の逗留先を聞き取った後で)、明日(僕が)彼を訪ねて行くように誘ってくれました。(同氏が)公衆の前で演奏する事を提案しましたが、僕は拒否しました。時間を失いたくないし、ドレスデンは僕の名を揚げてくれる訳でもないし、お金も儲けられません。プルシャック夫人の家で知り合ったクニアジェヴィッツ将軍が、(僕に)コンサートに出演する事を口にしましたが、大した利益にはならないだろうとも言いました。

 

ここも全て「僕」である。

この「クレンゲル」(※アウグスト・クレンゲル、1783年−1852。ドレスデンの宮廷オルガニスト)については、去年のドレスデンからの「家族書簡」でも、以下のように触れられていた。

「僕は、テーブルの上にクレンゲルの名刺があるのに気付いたので、ドレスデンのあの有名なクレンゲルと関係があるのですかと聞いてみました。“そのクレンゲル自身がここにいるのですよ、”とピクシスは答え、“私が外出している間に訪ねて来たのです。” 

僕は、その人宛の手紙をウィーンから預かっていたので、この芸術家と知り合いになれる見通しができて喜びました。その事についてピクシスに話すと、彼は僕に、午後に来るように誘ってくれて、もしクレンゲルに会いたいのなら、その頃には来るだろうからと。僕達は、ピクシスの家の階段で偶然クレンゲルと顔を合わせ、そこで初対面を果しました。僕は、2時間以上も彼のフーガを聴きました;僕は求められなかったので弾きませんでした。彼は上手に弾きましたが、しかし僕は、彼がもっと(静かに)弾いたら好きになっていたでしょう。彼はとても愛想よくしてくれました;彼は出発前に2時間ほど僕と一緒にいました。彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりで、僕達はその事について色々と話さねばなりませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、貧弱なチェルニーとのそれよりも感謝しています(しっ!) 彼は僕に、次のようなアドレスで紹介状をくれました:“最も高名な騎士モラッキ 王室楽団の第1指揮者”(※イタリア語);彼はこの紳士に頼んで、僕をドレスデンの全ての音楽関係者に引き合わせ、特にペヒヴェル嬢に紹介してくれるとの事です。」

そして、ショパンがワルシャワに帰宅後、ポトゥジンのヴォイチェホフスキ宛に書いた手紙にも、以下のように書かれていた。

「プラハのピクシスのお宅で会ったクレンゲルは、僕の芸術上の知人の中で一番好きな人だ。彼は僕に自作のフーガを弾いてくれた(バッハのフーガの延長だと言う人もいるかも知れないが、全部で48あって、カノンも同数ある)。チェルニーと比べたら、何と言う違いだろう! クレンゲルは僕に、ドレスデンのモルラッキに紹介する手紙をくれた。」

さて、と言う事は、ヴォイチェホフスキはすでにショパンから「クレンゲル」については事前に聞かされていて知っていた訳だ。

それならだ、音楽に造詣が深いと伝えられているヴォイチェホフスキであるなら、是非ともこのクレンゲルの演奏を聴きたいと思うだろう。そして、ショパンも彼を是非ともクレンゲルに引き合わせたいと思っていたはずである。

ところが、ここでのショパンはあくまでも「僕」一人で全てを語っており、ヴォイチェホフスキをクレンゲルに紹介したとも何とも書いていない。

これはどう考えても、この場にヴォイチェホフスキは同行していなかったとしか思えないだろう。

それに、この時ショパンは、ドレスデンで演奏会を開くか否かと言う提案について言及しているが、そういう時、ショパンが真っ先に意見を求めるのがヴォイチェホフスキと言う存在ではなかったのか? それなのに、ここでもヴォイチェホフスキは一切この話題に関与してこないのである。

これもやはり不自然ではないのか?

このように、この手紙からも、やはりヴォイチェホフスキの不在感がひしひしと漂ってくるのだ。

 

 

ちなみに、ここには「プルシャック夫人」の名が出てくるが、これについては、去年の「家族書簡」には以下のように書かれていた。

「プルシャック夫人と、アレクサンドリーヌンとコンスタンチン(彼女の子供達)は、今ドレスデンにいる。僕は出発の日に彼らに会った。その愉快な事と言ったらなかったよ! “フリツェックさん、フリツェックさん”*ポーランド語でのショパンの愛称]と彼らは大声をあげた。僕も有頂天になって、もしも他の友達が一緒でなかったら、間違いなく出発を見合わせたに違いなかった。」

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「昨日、僕は《タンクレーディ》を聴きましたが、全体としてはその演奏を称讃できませんでした。ロラの不思議な独奏とウィーン帝室歌劇々場附のフォン・へーネル嬢の歌は、他の人々の不足を償っていました。王様と宮廷の方々が臨場していましたが、この人達は同じ日の朝ミリッツ男爵のミサがモルラッキ氏の指揮の下に演奏された寺院の礼拝式に出席されました。サッサロリ、ムシェッチ、バブニックおよびゼヅィー諸氏の声は、荘厳に響きました。僕は、この作品を独創的なものとは評しませんが、巧みに仕上げてあると思いました。帝室付きの室内音楽家で有名なチェロの大家であるドットツァウエルとクンメルの両氏は極めてあざやかに独奏しました。」

昨日、イタリアのオペラを観劇しましたが、演奏は下手でした。ロラの独奏とウィーン劇場の歌手で、昨日《タンクレーディ》で初出演したヘーネル嬢の歌がなかったなら、何も聴くに値するものはなかったでしょう。(オペラでの役の)王様が宮廷人たち全員に囲まれていました。それは今日の教会でのミサと同様でした。当地で知名度の高いミルティツァ氏の作曲による“ミサ”を演奏していました。指揮はマルラッチでした。サッサロリ、ムスチェティ、マブヴィグおよびズージの声が最も良かったです――作曲そのものはそれほど良くはありませんでした。――当地で有名なチェリストのドットツァウエルとクンメルが数曲のソロを弾きました。演奏は鮮明でした。でも、特筆するほどのことではありません。

       《タンクレーディ》 オピエンスキーの註釈によると、[ヴォルテールの戯曲による、ロッシーニによるオペラ。初演は1813年。このオペラは、のちにパリで非常に人気を博した。]

 

ここも全て「僕」である。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕は、親愛なクレンゲルさんを除けば、主立った音楽家は一人も知りませんが、明日は必ずこの人達の前で弾きます。僕はクレンゲルさんと話すのが好きです。と言うのも、あの人からはいつも何かしら教えられるところがあるからです。」

明日、その人の前で巧く演奏せねばならないクレングル氏以外に当地には興味を引くものはない。(僕は)彼と話をするのが好きになりました。何故なら、彼からは学ぶものが多いからです。

 

昨年と同様に、ショパンはクレンゲルに対して非常に良い印象を持っている事が分かる。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕は、この前に来た時には「緑の丸天井」(※ザクセン王家の宝飾品コレクションを保管してある部屋)を見物しましたが、一度で沢山です。でも美術館は最大の興味を持って再び訪問しました。もしも僕がここに住むなら、毎週でも行くのですが。ここには見ていると音楽を聞いているように想像させる絵が何枚もあります。」

でも、(僕は)絵画館で展示されている絵画を鑑賞しましたが、これ以外に、ここドレスデンで二度も見るに値すべきものはありません;グルーネス・ゲヴェルベ(※ドイツ語で「緑の丸天井」は一度で十分ですが;これは、一度は見ておくだけの価値はあります。仮に僕がここに住むならば、毎週鑑賞するために通いたいほどです。と言うのも、眺めていると、いかにも音楽が聞こえてくるような絵画(複数)があるからです。

 

この箇所でもそうである。

もしもこの「絵画館」見学にヴォイチェホフスキが同行していたのなら、彼は何かしらの感想をショパンにもらしているはずなのに、やはりその事についても何も触れられていない。

       ちなみに、どう言う訳かオピエンスキーの英訳版では、「仮に僕がここに住むならば、……」から次の最後の挨拶までの箇所が、全て省略されている。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第2便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

今日はこの辺で、さようなら。

あなた方のフレデリックより」

            同じ。

 

前回の手紙でもそうだったが、この結びの部分にも、ヴォイチェホフスキからワルシャワの人々への挨拶がない。

もしも本当に彼がショパンに同行していたのなら、そんな事は断じてありえないはずなのだ。

それに、これらの手紙を書いているショパンにしてみたって、彼には、ヴォイチェホフスキの安否その他についてワルシャワの人々に知らせる義務があるはずなのである。たとえそれがどんなに取るに足らない事であっても、たとえば、“ティトゥスも元気にしています。彼からも皆さんによろしくと言っています。”…みたいな一言がなければ絶対におかしいだろう。

確かに、このような書かれ方は、去年の「第1回ウィーン紀行」の時とほとんど同じではある。

しかしヴォイチェホフスキの場合は、この前の4人の友人達とは訳が違う。

去年の彼らは、ショパンにとって特別な親友と言う訳でもなかったのだし、立場的にも、ある者は法学講師だったり、またある者は西洋古典語の学生だったりして、それぞれが別々の目的を持ってウィーンに赴いていたはずで、だから彼らは、ショパンの演奏会以外では各々別行動を取っていた可能性も十分に考えられる。それに、みんなワルシャワに住んでもいたから、それぞれが自分の家族に手紙を書けば、その情報は間接的にショパン家にも直ぐにもたらされるだろう。

しかし、一方のヴォイチェホフスキはポトゥジンに住んでいる。したがって、彼が自分の家族に書いた手紙の情報は直ぐにはワルシャワに届かない。

だからこそ、彼はショパンに伝言を頼んで、ワルシャワの人々へも挨拶を送るのが当然の成り行きと言うか、当然の義務となるはすなのだ。

何度でも言うが、ヴォイチェホフスキはショパン家の人々と家族同然に時を過ごしてきた仲なのだ。その彼が、ショパンの保護者同然の立場で同行していたと言う以上、どう考えてもこのような手紙の書き方になるはずがないのではないだろうか。

 

 [2012年5月23日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証10-4:プラハより/ここでも「ティトゥス」は何も語られない

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証10-2:ヴロツワフより/ヴォイチェホフスキは本当に同行していたのか?▲】 【筆者紹介へ▼】

Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.