×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

検証10:そして祖国に別れを告げた――

Inspection X: And Chopin said good-bye to his land -

 


1.グワトコフスカが書いたという、2つの四行詩の不審点―

  1. Doubt point of two tetrastich by Gładkowska -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ピアノ協奏曲 第1番(ピアノ独奏版)▼≫
 

今回紹介するのは、ショパンがいよいよ(※本当にいよいよだが)ウィーンへ旅立つ8日前に、ショパンの「理想の人」とされているコンスタンツヤ・グワトコフスカが、ショパンのために書いて贈ったとされている四行詩である。

これはショパンのアルバム(記念帳)に書き込まれていたものだと言う事である。

詩は二つあり、これらに関しては、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著『決定版 ショパンの生涯』における関口時正さんのポーランド語からの翻訳が間違いなく優れているので、是非ともそこから引用させて頂きたいと思うのであるが、ただしそこには詩の本文しか掲載されていないので、それ以外のイニシャルと日付、及びショパンによるアルバムのページ番号と書き込みは、それぞれクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』に掲載されている、原資料を複製したものの写真資料(※つまり、直筆の原物は現存していない)から補足した。

 

■ワルシャワのコンスタンチア・グワトコフスカから、

ワルシャワのフレデリック・ショパンへ(その一)■

(※原文はポーランド語)

「                   9(※アルバムのページ番号)

運命の辛い心変わりを貴方は行い、

私たちも必然に従わねばならない。

忘れないで、忘れがたき人、

ポーランドに貴方を愛する者がいることを。

                  K.G.

25 10 1830

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社) 

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

■ワルシャワのコンスタンチア・グワトコフスカから、

ワルシャワのフレデリック・ショパンへ(そのニ)■

(※原文はポーランド語)

「                   12(※アルバムのページ番号)

名声の花冠を、とこしえに枯れぬものに変えようと、

貴方はいとしい友や愛する家族を残し、去っていく。

異国では、貴方の値も褒賞もいやまさるかもしれません

けれども、私たちほどに貴方を愛することはきっとできません。―(彼らは)できる―(※ショパンの書き込み)

                  K.G.

25 10 1830

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社) 

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

さて、これを見てどう思われるだろうか?

これがどちらか片方だけだったら、さほど違和感はなかったかもしれない。だが、このような物が二つ並んでしまうと、どうしても首を傾げないではいられなくなり、これらの資料は実に奇妙な事ばかりなのである。

まず目に付くのは日付だが、この二つの詩はそれぞれが違うページに書かれているのに、その日付はどちらも同じ25 10 1830なのである(※下図参照)。

183010-11

 

 

 

 

 

1

2

 

3

 

4

 

5

 

6

7

8

9

10

 

11

演奏会

12

18便

13

14

 

15

 

16

 

17

 

18

19

 

20

 

21

22

23

24

 

25

グワト

26

27

28

29

30

31

 

11/1

2

出発

3

 

4

 

5

 

6

 

そしてそのアルバムのページ番号だが、同じ日に書かれたものなのに、何故か9ページと12ページに隔てられていて、間にあったはずの10ページ目と11ページ目の内容については一切分かっていない(※この記念帳の他のページには、友人達のサイン等が書き込まれていたとも伝えられている)。

しかも詩の内容に目を向けると、それらはどちらも似たり寄ったりで、このようなものをわざわざ改めて別のページに書き足した理由が全く分からない。

どちらの詩も、主語は「私たち」であり、したがってグワトコフスカが個人的な感情をショパンに対して綴ったものですらなく、あくまでも同胞民族の立場から書いているだけの、至って社交辞令的な常套句ばかりである。

つまり、ここにあるテーマは「愛国心」なのである。

つまり、私がいつも指摘しているように、ここには、当事者しか書き得ないような個人的なエピソードなり感情なり、何かそう言ったものを彷彿とさせるような文句が一つもないと言う事で、したがって当人でなくとも誰にでも書けてしまうようなものである事が問題なのだ。

 

その事を分かりやすく説明するために、以下の資料を紹介しよう。

これは、ショパンがウィーンへ向けて旅立った当日に、エルスネルがショパンへのはなむけとして演奏した歌で、ポーランドの詩人ドゥムシェフスキの詩にエルスネルが曲を付けた「ギター伴奏による男性合唱のためのカンタータ」である。

 

■ドゥムシェフスキ作詞、エルスネル作曲による

フレデリック・ショパンへの送別のカンタータ■

(※原文はポーランド語)

「ポーランドの土で培われし者よ

君いずこに行こうとも、

願わくは君が才、君に誉れをもたらさんことを。

君、シュプレー川(註、ベルリン貫流)、テベレ川、セーヌ川の岸辺に住もうとも、

我らを喜ばせし調べ、マズルカを、愛すべきクラコヴィヤクを

古き良きポーランドのならわしもて

君が音楽にて常に聴かせんことを

 

(合唱)

君、国を去ろうとも、

君が心我らと共に残らん、

君が天才のおぼえ忘れざらん。

それ故、心のそこから我ら言う、

君いずこに行こうとも幸あれと。」

小沼ますみ著『ショパン 若き日の肖像』(音楽之友社)より

 

これも、先のグワトコフスカの四行詩と全く同じで、主語は「我ら」であり、あくまでも同胞民族の立場から書かれたものでしかない。

したがってここにあるテーマもやはり「愛国心」である。

 

もう一つ同様の例を挙げよう。

以下はカラソフスキーの伝記における、ショパンの旅立ちの場面を描写した箇所である。

 

「お祝いの饗宴の際、芸術的に細工した銀の大盃に故国の土を縁まで盛られて彼に贈られた。この美しい巧妙な贈物を見ると、ショパンの輝ける、芸術を愛する眼にはいとも深い感動の涙が湛えられた。

「何処へ赴かれても故国を忘れないで下さい。さもなくば暖い忠実な心を以て故国を愛しつづけて下さい」と一同を代表して大盃を贈った友人は云った。「ポーランドを思い、君を同胞と呼ぶことを誇りとし、君に大事を期待している友人達を思ってくれ給え。その人達の希望と祈薦とは絶えず君に連れ添っている」。若き芸術家はもう一度一人一人に握手し、踵を返して未知の国へと向った。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

ここに書かれている「銀の大盃」のエピソードは、カラソフスキーによる作り話だった事がのちに判明しているが、要するに、このようなものなら、グワトコフスカだろうがドゥムシェフスキだろうがカラソフスキーだろうがどれも皆一緒で、判で押したように同じ内容にしかならないと言う事だ。

要するに、すべてが「ポーランド、わが祖国」に向けられているのである。

 

それでは逆に、当事者にしか書き得ない個人的なエピソードなり感情なりが盛り込まれた「別れの文章」とはどう言うものか、その格好の例を二つ挙げよう。

一つは、のちにショパンが本当に恋に落ちて婚約したものの破談となったマリア・ヴォジンスカがショパン宛に書いた「別れの手紙」で、もう一つは、パリ時代にショパンと愛人関係にあったジョルジュ・サンドがショパン宛に書いた「別れの手紙」である。

 

■スルゼーヴォのマリア・ヴォジンスカより

パリのフレデリック・ショパンへ(1837年)■

(※原文はフランス語)

「美しいCahier(手帳)をお送り下さったお礼の言葉だけを申し述べさせていただきます。あれをいただいてどんなに嬉しかったか、言葉では申し上げないつもりです。――言葉なんかではいえませんから。わたしが心から感謝していますこと、またあなたさまにわたしども一家をあげて終生かわらない愛情をいだいておりますことは申すまでもございません。しかも才能の乏しい弟子、子供友だちのわたしはなおいっそうそうであることをお信じ下さい。さようなら。ママがやさしい接吻をおくっていられます。小さなテレサは、いつもの彼女の「ショペナ」(※ショパンの愛称)のことを言っております。わたしたちのことをお忘れなく

マリア」

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

 

この手紙は、マリア・ヴォジンスカが両親によってショパンとの婚約を破棄させられた後、彼女がショパン宛に書いた最後の手紙であるが、彼女の書く手紙は、必ず母親の検閲を受けていたらしい様子が見受けられるので、表現が非常に遠回しになっており、裏の事情を知らないと真意が掴みにくいが、彼女とショパンとの個人的な関係がどのようなものであったかは、「才能の乏しい弟子、子供友だちのわたし」と言う言葉によってよく分かるだろう。この言葉は、結婚するはずだった恋人同士が、これからはもう婚約する以前の「かつての二人の関係」、つまり、「ピアノの師弟関係でもあった幼友達」に戻ったのだと、そう告げている、そう言う別れの言葉なのである。

 

■ノアンのジョルジュ・サンドより

パリのフレデリック・ショパンへ(1847728日)■

(※原文はフランス語)

…(前略)…あなたは自分が身を捧げなければならないのはあの子(※サンドの娘ソランジュ)だとお考えなのですから、あの子の面倒を見てやって下さい。このことでわたしはあなたを束縛いたそうとは思いませんが、わたしが侮辱された母親の役を演ずる権利は主張するつもりですし、従ってどんなことがあっても母親たる権威と威厳が無視されたことは許せませんことは承知しておいて下さい。欺かれ犠牲になるのはもうたくさんです。わたしはあなたを許しますし、今後一言も非難がましいことは申しません。あなたは誠意のこもった告白をなさったのですから。今度のことにわたしはいささか驚きましたが、これであなたがこれまでより気持が自由になり楽になったとお考えになるようでも、わたしはこの不思議な豹変ぶりに悩みはいたしますまい。

 

さようなら、わが友よ。早くご病気がすっかり良くなられますように。今は良くなられるだろうと願っております(そう考えるわけがわたしにはあるのです)。そして、この九年間の二人だけで占めてきた友情のこの変な終局を神さまに感謝します。時どきご消息おきかせ下さいませ

ほかのことはいっさい問答無用でございます。」

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

 

 

この手紙は読んだそのままなので、特に解説する必要もないだろう。

ショパンとサンドの破局の引き金となったのは、サンドとソランジュの母娘の確執に対し、ショパンがソランジュの肩を持つような立場を取った事にある。

だが、それはあくまでも表向きの引き金となったに過ぎず、根本の理由はもっと違う、それ以前の問題にある。しかしそれについては、遠い先の話になるが、「サンド書簡」の項で説明する事になるだろう。

 

ここで私が言いたいのは、上記の二つの手紙は、当事者本人にしか書き得ない個人的な内容に満ちているのが誰の目にも明らかだと言う事で、それに比べると、たとえ短い四行詩とは言え、グワトコフスカのそれにはそう言ったものが何もないと言う事である。

また、マリア・ヴォジンスカの手紙もジョルジュ・サンドの手紙も、あくまでも個人的な内容であるから、そこには祖国の話もなければ愛国心の話もない。

逆にグワトコフスカの詩にあるのは、ただひたすら愛国心だけなのである。だからこそ主語が必ず「私たち」なのであり、だから「ポーランド」「異国」と言うキーワードが使われているのである。 

基本的に強調されているものが愛国心だと言う事になると、過去の例から言っても、必然的にこれは贋作である可能性を考えない訳にはいかなくなってしまう。

 

グワトコフスカの詩が書き込まれていたとされているそのアルバムには、有名な「シュトゥットガルトの手記」などの日記も書き込まれている。

ところがだ、実はそのアルバムが最初に発見された時、その内容を公表したスタニスラス・タルノフスキの著作では、グワトコフスカの詩についてなど一言も触れられていなかったのである。

それではここで、その著作から以下の部分を読んで頂きたい。 

ショパンは、この決然たる旅に一冊の小さな手帳(ポケット・ブック)を持参した。これは一種のアルバムで、彼は時々、身に起こった様々なアクシデントや、胸中に去来する色々な考えをぞんざいに記録した。最初のページにワルシャワのスケッチがある;月光に照らされたスギムンド皇帝円柱とクラコウの郊外広場。それから、押しつぶされた黄色い一枚の紙に“私達はあなたを愛して”(※フランス語)と書かれ、“ジョルジュ”とサインがしてある。そのアルバムのこれらの2ページは、彼の人生の二つのシンボルのようである

スタニスラフ・タルノフスキー著・J.T.タンカレー編/ナターリア・ヤノータ英訳

『ショパン:日記の抜粋で明らかになったその人物像』(ロンドン:ウイリアム・リーヴス83 チャリング・クロス通り W.C.

CHOPIN: AS REVEALED BY EXTRACTS FROM HIS DIARY(LONDON: WILLIAM REEVES.83, CHARING CROSS ROAD, W.C.)より

 

これを読んで初めて知った事だが、このアルバムの2ページ目には、何とジョルジュ・サンドの書き込みがあったと言うのだ。

今までそんな事を書いている著書は一つも見た事がなかったし、このアルバムはあらゆる書簡集でも必ず取り上げられているが、そのいずれにおいても、このサンドの書き込みだけが完全に黙殺されていたのである。その作為的な編集は一体どうした事だと言うのだろうか?

そして、このサンドの書き込みについては「シンボル」の一つとしてコメントされているのに、同じくもう一つの「シンボル」であるはずのグワトコフスカの詩については一切触れられていないなんて…。

だがそんな事はどう考えてもおかしいだろう。

なぜならその詩は、ショパンとグワトコフスカの間に個人的なやり取りがあった事を証明する唯一の文書資料になるからだ。その意味ではサンドのそれよりも資料的価値は高いのだから、もしも本当にそのような貴重なもの(しかも二つもだ)がそのアルバムに書き込まれていたのなら、発見者がそれについて何もコメントしないなんてとうてい考えられないのである。

 

要するにこの詩は、明らかにあとから別の贋作者によって捏造されたものなのである。そしてその際、ついでにこれも例のアルバムに書き込まれていた事にしてしまおうと、そう言う思惑のもとに製作されたとしか考えられない。

 

さて、これらの四行詩が贋作である事を示す決定的とも言える証拠は、そのページ番号の位置である。

これは「一冊の小さな手帳(ポケット・ブック)」に書き込まれていたと言うのだから、それは本の形をした既成の帳面だった訳だ。だとしたら普通、洋書の場合だと、奇数のページ番号は見開きの右上に、そして偶数のページ番号は左上になければならないのに(※ちなみに縦書きの和書の場合だとそれが逆になる)、これがそうなっていないのだ。

二つの詩のうち、最初の9ページ目の方は正しい位置にページ番号の9があるが(※下図参照)、

 

見開きにおける、正しいページ番号の位置

8(←※このように、偶数は左上にあり、)

   (※奇数は右上にあるのが普通→)9

運命の辛い心変わりを貴方は行い、

私たちも必然に従わねばならない。

忘れないで、忘れがたき人、

ポーランドに貴方を愛する者がいることを。

                  K.G.

25 10 1830

 しかしもう一つの12ページ目の方は、本来あるべき位置とは逆の位置にページ番号の12が振られている(※下図参照)。

 

見開きにおける、間違ったページ番号の位置

(※偶数なのに右上にある→)12

名声の花冠を、とこしえに……

貴方はいとしい友や愛する家族を…

異国では、貴方の値も褒賞も……

けれども、私たち…―(彼らは)できる―

                  K.G.

25 10 1830

(※奇数が右上にあるのが普通→)13

 

 

こんなページ番号の振り方は普通ありえない。

つまり、このような不可思議な現象がなぜ起こったのかと言うと、おそらくこの四行詩が、最初から本の形に閉じられたアルバムに書き込まれたのではなく、それぞれが単独の一枚の紙に書かれたものであったからに他ならないのである(※下図参照)。

 

見開きではない一枚の紙(その一)

 (※最初のは正しい位置に書いたものの→)9

運命の辛い心変わりを貴方は行い、

私たちも必然に従わねばならない。

忘れないで、忘れがたき人、

ポーランドに貴方を愛する者がいることを。

                  K.G.

25 10 1830

 

見開きではない一枚の紙(そのニ)

(※次のもうっかりこっちに書いちゃった→)12

名声の花冠を、とこしえに……

貴方はいとしい友や愛する家族を…

異国では、貴方の値も褒賞も……

けれども、私たち…―(彼らは)できる―

                  K.G.

25 10 1830

 

実際、現存している資料はそれぞれが上図のような一枚の紙でしかない。しかもそれらには、それぞれが見開きページの片側に書かれていた事を窺わせるような痕跡は何もない。

最初から見開きの形に閉じられた帳面に書き込んだものならば、偶数のページ番号を反対の位置に書くなどと言う、このような初歩的なミスは犯しようがない。

つまり、これを書いた贋作者は、最初から別々の一枚の紙にこれらを書いていた可能性が極めて高い。そうでなければこのような事にはならないだろう。

 

したがってこれは、少なくとも二つ目の12ページの方は間違いなく贋作だと断定できてしまうのである。

 

そうすると、すなわち「ショパンのアルバム」なるものの存在そのものまでもが怪しい事になるだろう。

ちなみに、後で検証する「シュトゥットガルトの手記」は、このアルバムの148150ページ目に書かれていたのだそうだ。

「シュトゥットガルトの手記」には贋作説があり、私もそれを贋作だと確信しているが、仮にそれが本物だと仮定した場合、それが書かれるのはこの時点から約11ヶ月ほど先になる訳で、そうすると、その11ヶ月の間に、このアルバムは実に136ページも消費されていた事になる。これは、あの筆不精のショパンが、23日に1ページの割合で書き込みをしていた計算になるのである。

家族宛に手紙を書くのですら2週間に一度くらいのペースだったのに、ショパンがそんな事をしていたなんてちょっと考えにくいだろう。それに、それだけの書き込みの分量があるにも関わらず、そのうち伝記作家らによって紹介されているのはほんの数ページだけだし、もちろんその原資料も残っていない。

残りのページには、一体何が書かれていたと言うのか?

そしてそんな貴重なアルバムの中から、何故わざわざこんなグワトコフスカの詩だけが選りすぐられて写真撮影され、資料として残されているのか? 他にもっと撮影しておくべきページがいくらでもあったはずではないのか? たとえば例の「シュトゥットガルトの手記」などは、どうして撮影しておかなかったのか? そっちの方がこんなものよりも遥かに価値があるだろうに…。この撮影者とやらの、この不可解な行動を一体どう説明すればいいのだろうか? つまりは、その撮影者こそがこの四行詩の贋作者自身でなければ、そのようなおかしな事は到底あり得ないのではないのではないだろうか?

 

それに、なぜ四行詩の署名が普通にサインではなく、「K.G.」と言うイニシャルなのか?

このアルバム(記念帳)の他のページには、友人達のサインが書き込まれていると伝えられていると言うのに(つまり、卒業アルバムの寄せ書きのようなものだろう)、彼女だけ、詩まで書いておきながらサインもせずにイニシャルを書いているなんて、どう考えても不自然なのではないだろうか?

そもそもこれは、本当にグワトコフスカの筆跡である事が証明された資料なのだろうか?

彼女はその後半生を失明のうちに過ごしているから、必然的に彼女が書き残したものはそう多くはないはずで、現にそのようなものの原物が確認されたと言う話を聞いた事がない。

つまりは、これを書いた贋作者が、グワトコフスカのサインの実物を見た事がないために、のちにそれが発見されて嘘がバレるのを恐れ、わざとサインではなくイニシャルにしたのではないのか?

 

 

いずれにせよ、逆に、これらの四行詩が仮に本物だったとしても、そこから読み取れる事と言えば、グワトコフスカには、ショパンに対する特別な個人的感情など何もなかったと言う、歴然とした事実だけなのである。

したがって、そのようなものを餞別の言葉として「理想の人」から贈られたとしたら(しかも念入りに二つもだ)、単に自分の片思いが絶望的である事を思い知らされるだけだろう。

それなのに、伝記の上では、ショパンはこの時、マトゥシンスキを通じてグワトコフスカと文通の約束をした事になっているのだ。

しかしそのような流れには、ちょっと無理があるのではないだろうか?

しかもショパンは、今まで「ヴォイチェホフスキ書簡」の中では、彼女の事を「グワトコフスカ嬢」「グワトコフスカ」「グワト嬢」「G嬢」「G」と、いずれも名字でしか書いた事がなかったのに、ウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」では、それがいきなり「コンスタンツヤ」とファースト・ネームで書くようになり、そしてその恋愛感情は日が経つにつれてどんどんエスカレートしていく。

ショパンは、本当の片思いの相手である「モリオール嬢」ですらファースト・ネームで書いた事はなかったし、そもそも彼は、直接本人やその家族に手紙を書く場合を除き、自分の恋愛対象の事を決してファースト・ネームでは書かないのである。

たとえばパリ時代でも、ショパンがジョルジュ・サンドについて書く場合、家族宛でも友人宛でも必ず「サンド夫人」と書いており、決して「ジョルジュ」だとか本名の「オーロール」だとかのファースト・ネームでは書かない。

 

グワトコフスカが書いたとされている詩の二つ目には、のちにショパンが書き込んだとされている「―(彼らは)できる―」と言う言葉がある。

     これは、ポーランド語の原文では「−mog?−」という単語がたった一つだけであるが、ポーランド語は動詞の変化が複雑であるがゆえにそこから主語が特定できるため、主語が省略される事が多い。ここでは(彼らは)と言う主語が省略されているので、そのように補ってある。

要するにこれは、ショパンが、「異国の人でも僕を愛する事はできる」という風に、グワトコフスカの言葉を否定るする事によって彼女への思いと決別した事を演出したかったものだ。

しかしながら、それは、あくまでもショパンがグワトコフスカの事を「理想の人」と崇め、その彼女に片思いしていたと言う大前提があって初めて成立する話なのである。

ところがショパンが実際に片思いしていた相手は、グワトコフスカではなく「モリオール嬢」である。

であれば、この詩も、その詩に対するショパンの書き込みも、そしてそれが書かれたアルバムの存在自体も、最初からすべてが贋作者の手によるものである事になるだろう。

 

 

いずれにせよ、そのアルバムの原物を見た者が一人もいない以上、そのアルバムに何が書かれていようと、その信憑性は極めて疑わしいと言わざるを得ない。

過去に現存していたアルバムの資料は部分的なものばかりで、しかもそれらはいずれも自筆ではなく第三者による複製なのである。それなのに、どうしてそのようなものをショパンが書いたと信じる事ができるだろうか?

  

       ちなみに、最近、あるブログ記事に、ショパンのピアノ協奏曲について、「本人がオーケストレーションをしていないのは、まず確かなこと」と書かれているのを見つけ、そのあまりに的外れな話に唖然としてしまいました。しかもそれを書いているのはショパン関連のプロのライターさんで、しかもその話はショパン弾きとして著名なピアニストから取材して得たものだと言うから驚きです。もちろんそれは完全に間違いです。なので、私はGM作品解説ブログピアノ協奏曲 第1ピアノ独奏版の方でそれに対する反論を書いておりますので、興味のある方は是非ご覧になってみてください。

 

 [2012年5月6日初稿/2012年12月4日改訂 トモロー]


【頁頭】 

検証10-2:ヴロツワフより/ヴォイチェホフスキは本当に同行していたのか?

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証9-16:1830年10月11日、ワルシャワ告別公演▲】 【筆者紹介へ▼】

Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.