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検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行――

Inspection VII: The letters to Wojciechowski & the journals of Berline's travel -

 


5.ベルリン紀行・第3便、消えた《魔弾の射手》とラジヴィウ公―

  5. The journals of Berline's travel No.3, and a lost letter-

 
  ≪♪BGM付き作品解説 「お手をどうぞ」による変奏曲(2台ピアノ版)▼≫

      シューマンはなぜ、この曲をあれほどまでに称賛したのか? その舞台裏に迫る。

 

 

今回紹介する手紙は、ショパンがベルリンからワルシャワへの帰途に着く直前に書いたものである。

まずは以下の書簡資料を読んで頂きたい。これは、カラソフスキーが彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』において初めて世に公表したもので、文中の[註釈]もカラソフスキーによるものである。

 

■ベルリンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(ベルリン紀行・第3便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語で、一部「フランス語」「ドイツ語」が混在)

1828927日、土曜日、ペルリンにて

僕は全く達者で、見るぺきものは全て見物しました。僕はじきに、再びあなた方と共にいるでしょう。明後日から一週間後には、僕達は抱き合っている事でしょう。のらくら過ごす(※あるいは、「ぶらぶら歩き回る」のは、素晴らしく僕の性に合っています。昨日《妨げられた奉献祭》が再度上演されましたが、フォン・シェッツェル嬢は半音をいくつも落しました。僕はまったくあなた方の中にいるような気分になりました[ショパンは、装飾音をよく落したり変更したりするワルシャワの女性歌手を指して言っている]。この「あなた方」と言う言葉が、僕にベルリンの漫画を思い出させました[ポーランド語で「あなたの」は「wacz」で、「ワッシュ」もしくは「ヴァッシュ」と発音する]。ナポレオン軍の近衛兵が一人、番兵に立っていて、通りがかった女を呼び止めて「誰だ」(※フランス語で)と問いただします。その婦人は「ディー・ヴェッシェリン(die Wäscherin)」(※ドイツ語で「洗濯女」と答えようするつもりが、もっと上品な言い方で自分を表現したかったがために、「ラ・ヴァッシュ!(la vache)」(※フランス語で「雌牛」、俗語で「太った女、だらしない女」の意味もある)と言ってしまうのです。

僕がここに滞在中、最も大きなイベントの一つに数えられるのは、科学者達との2回目の晩餐会で、それは会議が終わる前日に催され、非常に賑やかで楽しいものでした。いかにも宴会向きの美しい歌がいくつか歌われ、出席者はみんな、多かれ少なかれ心からそれに参加しました。ツェルターが音頭を取りました;そして彼の前には、赤い台が置いてあって、そこには大きな金のカップが載っており、それは彼の高い音楽上の功績の印として、とても彼に満足感を与えているように見えました。その日の料理はいつもより上等で、彼らが言うには、“科学者達が会議の間、主に肉、ソース、スープ、その他の改良で忙しかったからだよ”と。ケーニヒシュタットの劇場でも、同じような事で学者達を冷やかしています。ある劇で、ビールを飲みながら誰かが尋ねます、“なぜ、今ベルリンではビールがこんなに美味いのかね?”すると、“なぜって、科学者達が会議を開いているからさ”と答えるのです。

おや、もう寝る時間です、明日、僕達は朝早く出発するので。僕達はウォリツキ大司教から招待されたため、ポズナニで二日間過ごす予定です。おお、親愛なるあなた方に話す事がどんなに沢山あるでしょう、そして、再び会える事がどんなに嬉しいでしょう!

あなた方の暖かい愛情を込めて

フレデリックより」                                                  

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より

   

今回の手紙は、過去の2通に比べて非常に短く、これだけ読むと、特に何の問題も感じられないようにも思える。

しかし、「第1便」、「第2便」の内容と照らし合わせてみる時、ここには看過する事の出来ない奇妙な点が二つある事に気付く。

すでに前回予告しておいた通り、ここには、本来であれば書かれているはずの事が書かれていないからだ。

1.       一つは、《魔弾の射手》を観た感想

2.       もう一つは、「ラジヴィウ公爵」の来訪について

 

上記二つの項目は、ショパンがワルシャワを発つ前から彼の念頭にあった事であり、そしてどちらも心待ちにしていた事であり、だから前回の「第2便」の中でもそのように触れられていた。したがって、ここでその結果報告がなされる事なしにショパンが帰途に着くと言うのは、ちょっと考えにくい。それなのに、なぜ今回、それらの事について全く触れられていないのか?

 

その問いに対する答えは、おそらく以下のような事だろうと思われる。

1.       一つは、カラソフスキーが何らかの意図によって文中から削除した。

2.       もう一つは、「第2便」と「第3便」の間に「失われた手紙」が存在しており、カラソフスキーが何らかの理由でその手紙の掲載を見合わせたか、もしくは、最初からイザベラがカラソフスキーに資料提供していなかった。

 

この件については、イワシュキェフィッチも以下のように指摘している。

 

「私たちはショパンのもっとも興味ある報告を知ることができない。というのは、ショパンが一八二八年九月二十日から二七日までの間に書いたにちがいない手紙が、たぶん失われてしまっているからである。興味ある報告というのは、ショパンが〈魔弾の射手〉の上演でベルリンとワルシャワの歌手の比較をしていることである。この重要なショパンの劇評はある嫉妬深い運命の手でどこかへ持ち去られてしまったのである。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社/1968年)より

 

 

 

さて、今回の手紙に関しては、このカラソフスキーのドイツ語版と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを比べても、その内容にはほとんど大した違いはない。

なので今回は、全文の比較検証という形は取らず、上記二つの項目にしぼって検証を進めて行きたいと思う。

 

繰り返しになるが、カラソフスキーは、この手紙を引用する際も、前回の「第2便」に続けて掲載しているだけで一切何の説明もしていない。なので、手紙を省略したのかどうかについても何も触れていない。

 

ベルリン紀行・第3便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語版

1828927日、土曜日、ペルリンにて

僕は全く達者で、見るぺきものは全て見物しました。僕はじきに、再びあなた方と共にいるでしょう。明後日から一週間後には、僕達は抱き合っている事でしょう。」

18289月]27日、土曜日、ペルリンにて

僕は全く達者で、見るぺきものは全て見物しました。僕はあなた方の許へ帰ります。明後日から一週間後の月曜日には、僕はあなた方を抱きしめている事でしょう。」

 

まず、日付についてはドイツ語版とポーランド語版に若干の違いが見られる。

ドイツ語版では、1828927日、土曜日」と全てが書かれていた事になっているが、一方のポーランド語版では、18289月」と言う部分が推定扱いになっている。つまり、ポーランド語原文には27日、土曜日」しか書かれていなかった事になっている。

これは、「第1便」の時とは逆のパターンで、「第1便」の時は、下記のように、ポーランド語版の方が日付が全て書かれていた事になっており、ドイツ語版では「火曜日」しか書かれていなかった事になっていた。

ベルリン紀行・第1便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「火曜日1828916日]、ベルリンにて」

1828916 火曜日 ベルリンにて」

ショパンは、わざわざ日付を全て書く必要のない時には、このように省略して書く事がしばしばある。

仮に今回の「第3便」が、ポーランド語版のように27日、土曜日」しか書かれていなかったとすると、ショパンはかなりこまめに手紙を書いていた可能性が考えられ、つまり、「第2便」と「第3便」の間に「失われた手紙」が存在していた可能性が浮上してくるのである。

もしそうだとすれば、ショパンはこの一連のベルリン紀行を、毎週「火曜日」「土曜日」にきちんと定期的に書いていたと考えられる(※下図参照)。

1828年 9月(ショパンのベルリン紀行)

 

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1便

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2便

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消失?

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3便

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30

 

 

 

 

この「23日 火曜日」を境にして、ショパンのベルリン滞在の足跡があいまいになっているからである。その詳細については後述する。

 

 

また、ポーランド語版では、「明後日から一週間後」が、はっきり「月曜日」であると書かれている(※下図参照)。

1828年 9月−10月(ショパンのベルリン帰宅スケジュール)

 

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3便

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明後日

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10/1

2

 

3

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10/6

1週間後

7

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11

これは、前回の「第2便」でも同様だった。

ベルリン紀行・第2便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語版

1828920日、ベルリンにて

僕は元気で、幸福に過ごしています、親愛なるご両親と姉妹達。まるで僕に敬意を示そうとするかのように、毎日新しい作品が上演されています。」

1828920日、ベルリンにて

僕は元気で過ごしています。火曜日以来、まるで僕に敬意を示そうとするかのように、毎日新しい作品が上演されています。」

ポーランド語版では、「前回の第1便を書いて以来」と言うところを、はっきり「火曜日以来」と書いてあった訳なのだが、ドイツ語版ではそれが削除されていた。

このようにドイツ語版では、とにかくショパンが文中に書き込んでいる「曜日」がことごとく削除されている。それをされると、ショパンのベルリンにおける具体的な足跡があいまいになってしまうのである。

カラソフスキーの意図がそこにあるのだとすると、ショパンが実際に書いていたイベント報告について、カラソフスキーがそれらを削除した事を読者に悟られないよう、彼が慎重に配慮していた可能性が浮上してくるのである。

 

 

ベルリン紀行・第3便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語版

「のらくら過ごす(※あるいは、「ぶらぶら歩き回る」のは、素晴らしく僕の性に合っています。」

「休暇は僕を元気にしました。劇場に行く以外は、何もしなかったのです。」

 

この変更は、二つの点でちょっと引っ掛かる。

1.       ドイツ語版では、ポーランド語版にある「休暇は僕を元気にしました」と言う、ショパンの健康上の問題を示唆する記述が削除されている。

2.       ドイツ語版では、ポーランド語版にあるショパンが「劇場に行く」と言う記述が削除されている。

前者についてはすでに述べたように、カラソフスキーはリストに反論するために、ショパンの少年期における病弱説を否定する立場をとっているので、ここでもその方針に則って改ざんしたものと考えられる。

問題は後者の変更だ。

ポーランド語版では、ショパンは相変わらず毎日のように劇場通いをしているように書かれているが、ドイツ語版では、そのような具体的な行動が曖昧な表現に直されている。なぜカラソフスキーはドイツ語版において、ショパンが「劇場に行く」と言う記述を削除したのだろうか?

1便と第2便を見ても明らかなように、ショパンはそれこそ毎日のように、違う演目のオペラ鑑賞をするために劇場通いをしている(※下図参照)。

 

1828年 9月(ショパンのベルリン音楽鑑賞スケジュール)

 

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奉献祭

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オラトリ

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コルテツ

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秘密婚

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行商人

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2便

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魔弾射

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奉献祭

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3便

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ところがだ、その劇場通いに関しては、第2便で「明日は、僕の最も熱心な望みが叶えられる事でしょう。《魔弾の射手》が上演されるのです」と書いてから、今回の第3便で「昨日《妨げられた奉納式》が再度上演されました」と書くまでの間に、実に4日間もの空白がある。

ポーランド語版によれば、ショパンはその間にも「劇場に行く以外は、何もしなかった」と書いているのだから、この4日間にも何かしら観に行っているはずである。しかし、そうは報告しているものの、具体的には「昨日《妨げられた奉献祭》が上演されました」としか書いておらず、あれほど楽しみにしていたはずの《魔弾の射手》については全く触れられていないのである。

       ちなみに、《妨げられた奉献祭》については、第1便で、「僕達が到着した日に、《妨げられた奉献祭》の上演がありましたが、リヒテンシュタインさんを訪問したので行けませんでした」と書かれていたので、今回のドイツ語版ではそれを受けて再度上演されました」と書かれているのだが、一方のポーランド語版では「再度」とは書かれていない。

 

ショパンは前回の「第2便」で、次のように書いていた。

「明日は、僕の最も熱心な望みが叶えられる事でしょう。《魔弾の射手》が上演されるのです。それで我々の歌手とここの歌手とを比較できる事でしょう。」

ここまで書いていながら、ショパンがその結果報告を怠っているとはちょっと考えにくい。

仮に今回の手紙にそれが書いてあって、それなのにカラソフスキーがそれを削除してしまっていたのだとしたら、その意図は何だろうか?

 

たとえばカラソフスキーは、ベルリン出発前の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」において、「昨日の《魔弾の射手》はひどい出来だったと言われている。コーラス隊はリズムがずれていた」とあった箇所をそっくり削除してしまっていた。理由は、ショパンが当時の自国の音楽レベルを低いと見なしていた事が気に入らなかったからである。

そうすると、カラソフスキーはここでも同じ検閲を行なっていた可能性が出てくる。

つまり、ショパンは今回の手紙の中で《魔弾の射手》について触れており、その際、やはり「我々の歌手」はレベルが低いと、自国の音楽事情を嘆く由の発言をしていた可能性が高いのではないか?と言う事なのである。

そう考えると、カラソスフキーが、ポーランド語版にあった「劇場に行く」と言う記述をドイツ語版で削除した意図も見えてくる。

つまり、ショパンを劇場通いの話から遠ざける事で、読者が《魔弾の射手》について触れていない事に気付かないよう配慮したした結果だとも考えられるからである。

そもそも、ショパンが今回ベルリンを訪問したのは、「第1級のオペラを聴く」ためである。その中でも《魔弾の射手》は、「それで我々の歌手とここの歌手とを比較できる事でしょう」と言う意味においてメイン・イベントの一つと言ってもいいものだった。それなのに、それを聴いた感想がどこにも書いてないなんて、どう考えてもおかしいだろう。

 

あるいは、もう一つの可能性として考えられるのは、第2便と第3便の間に、実はもう1通「失われた手紙」があって、そこに《魔弾の射手》についての感想が書いてあったために、カラソフスキーがその手紙を丸ごと隠蔽してしまったのではないだろうか?と言う事である。

 

このように、書かれているはずの事が書かれていないのは、《魔弾の射手》についてだけではない。

今まで再三に渡って「ラジヴィウ公爵」の来訪について触れられていたのに、今回はそれもない。

1.       前々回の第1便では、「ラジヴィウ公爵は今月の20日に到着すると予想されています」とあり、

2.       前回の第2便でも、「ラジヴィウ公爵が今日来るだろうと言われていますが、それが事実なら朝食後に分るでしょう」とあった。

それなのに、今回その事についての結果報告が全くなされていないのである。これもやはり、どう考えても不自然だろう。

それだけではない。前回の最後には、「僕は今日、講堂で催される大晩饗会に招待されました。漫画の数がまた増えます」とも書かれていたが、その結果報告も書かれていない。

この不自然に辻褄を合わせるとしたら、カラソフスキーが文中からそれらをごっそり削除したか、あるいは「失われた手紙」の存在について考えない訳にはいかないのではないだろうか。

 

以下のポーランド語版にある記述もまた、「失われた手紙」が存在していた可能性を示唆している。

 

ベルリン紀行・第3便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語版

「僕がここに滞在中、最も大きなイベントの一つに数えられるのは、科学者達との2回目の晩餐会で、それは会議が終わる前日に催され、非常に賑やかで楽しいものでした。」

「僕がここに滞在中、最も大きなイベントの一つに数えられるのは、科学者達との2回目の晩餐会です。それは会議が終わる前日の火曜日に催され、非常に賑やかで楽しいものでした。」

       ちなみにアーサー・へドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、前々回の第1便、及び前回の第2便同様、この「火曜日」「木曜日」と誤植されいる。原著の英訳版でも、その原本である仏訳版でもきちんと「火曜日」となっている。なぜこんなにも同じ誤植が連続しているのだろうか?

  

ポーランド語版では、「会議が終わる前日」をはっきり「火曜日」と書いているが、ドイツ語版にはそれがない。

ポーランド語版の通りだとすると、今回の第3便では、話題が4日前の晩の出来事にまでさかのぼっている事になる。すると、仮に「失われた手紙」が存在した場合、その手紙はその「火曜日」の午前中に書かれていた可能性が高い事になる。第2便を書いたのが20日」の午前中で、それ以降からその「火曜日」の午前中までの話題がきれいに消えている事からも、その可能性は極めて高いと言えるだろう。

もしそうであれば、先述したように、ショパンはちょうど火曜日と土曜日の週2回、きちんと定期的に手紙を書く事を義務付けられていたらしい事実が浮かび上がってくるのである(※下図参照)。

 

1828年 9月(ショパンのベルリン音楽鑑賞スケジュール)

 

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奉献祭

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オラトリ

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コルテツ

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秘密婚

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行商人

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ラジ公?

21

魔弾射

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晩餐会

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奉献祭

27

3便

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29

 

30

 

 

 

 

 

となれば、カラソフスキーが、ポーランド語版にあった「火曜日」と言う具体的な日付を、ドイツ語版に翻訳する際に削除した理由も見えてくる。

つまり、そうする事によって2回目の晩餐会」の日程を曖昧にし、読者が、《魔弾の射手》「ラジヴィウ公爵」が消えた事について疑問を抱かないようにしていたのである。

 

 

さて、今回の手紙には、検証すべき内容がこれぐらいしかない。

ちなみにカラソフスキーの著書では、このあと、ショパンとヤロツキ教授が「ポズナニ」に立ち寄った時のエピソードが紹介されており、当地では、「ウォリツキ大司教」だけでなく「ラジヴィウ公爵」からも歓待されたと書かれている。

が、相変わらず、カラソフスキーが何を情報源にしてそのような事を書いているのか分からず、私はその事実関係を検証する資料も持ち合わせていないので、敢えてここでは触れない事にする。

ただ、一つだけ言える事は、カラソフスキーがそのように書いていると言う事は、ショパンの手紙の中で言及されていた「ラジヴィウ公爵のベルリン訪問」は、結局実現していなかった可能性が高いのではないだろうか?と言う事である。

もし両者がベルリンで会っていたのなら、ショパンが帰宅途中の「ポズナニ」でラジヴィウ公爵と再び会う約束もその時になされていたはずで、もしそうであれば手紙でその事について触れないはずがないからである。しかし実際には、手紙には「ウォリツキ大司教」の事しか書かれていない。

 

また、カラソフスキーは、旅の途中の駅舎での、いかにも作り話くさい逸話も紹介している。

それは、ショパンとヤロツキ教授が馬車を待っている間、ちょっと散歩していたらピアノを見つけたので、ショパンが《ポーランド民謡による大幻想曲》の初期草稿を弾き、周りに居合わせた人々を魅了したと言う話で、その際の一般市民達の台詞までもが小説風にこまごまと書かれている。

しかもカラソフスキーはそれを、「その後永年の間、ショパンはこの挿話を思い出しては喜んだ」(※モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』より)と、あたかもショパン本人から聞いたかのような口ぶりで紹介している。

何度も言うように、カラソフスキーはショパンとは面識がなく、ショパン家の遺族では、当時唯一存命中だった妹のイザベラとしか面識がない。それなのにカラソフスキーの著書には、そのイザベラから取材して得たと説明されているエピソードが一つもないのである。信じられない話だが、本当である。

なのでこれも、十中八九カラソフスキーの創作であろうと思われる。

 

 [2011年6月23日初稿 トモロー]


【頁頭】 

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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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