×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行――

Inspection VII: The letters to Wojciechowski & the journals of Berline's travel -

 


3.ベルリン紀行・第1便に見る、カラソフスキーの印象操作―

  3. The journals of Berline's travel No.1-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 4手のための変奏曲 ニ長調 遺作▼≫
 

前回の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」に書かれていた通り、ショパンは外国の高いレベルのオペラを聴くために、ニコラの友人でもある「ワルシャワ大学の動物学教授」ヤロツキに連れ添われてベルリン観光へと旅立った。

今回紹介する手紙は、ショパンが当地に到着してから最初に書いたものである。

まずは以下の書簡資料を読んで頂きたい。これは、カラソフスキーが彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』において初めて世に公表したもので、文中の[註釈]もカラソフスキーによるものである。

 

■ベルリンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(ベルリン紀行・第1便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

「火曜日1828916日]、ベルリンにて

僕の最愛なる両親、そして姉妹達!

僕達は無事、日曜日の午後三時頃にこの大都市に到着しました。郵便局(※駅馬車の駅でもある)から真っ直ぐに、現在僕達がいるホテル“クロンプリンツ(※帝王の皇子の下に”に来ました。そこは素晴らしく、快適な家です。僕達が到着したその日に、ヤロツキ教授は僕をリヒテンシュタインさんの所へ連れて行き、そこでアレクサンダー・フォン・フンボルトに会いました。彼は、背丈は中背を越えないくらいで、容貌はハンサムとは言えませんが、突出した広い額をしている以外は、深く鋭い眼が学者としての厳しい知性を現していて、旅行者としても人間性の研究者としても偉大です。彼は、彼の母国語のようにフランス語を話します;親愛なるお父さん、あなたでさえそう言った事でしょう。

リヒテンシュタインさんは、ここの主な音楽家達に僕を紹介すると約束しました;そして、僕達がもう23日早く到着しなかったのを残念がっていました、そうすれば、彼の娘が先の日曜日のマチネー(昼興行)でオーケストラ伴奏で演奏するのが聴けたと。

僕としてはほとんど失望を感じていません、それが正しいか間違っているか分かりませんが、だって僕はその若いご婦人を見た事も聞いた事もないのですから。僕達が到着した日に、《妨げられた奉献祭》(※ドイツの作曲家ペーター・ヴィンター(Peter Winter 1754 - 1825)のオペラ)の上演がありましたが、リヒテンシュタインさんを訪問したので行けませんでした。

昨日、学者達が大晩餐会を開きました。議長席に着いたのはフォン・フンボルト氏ではなく、とても風変わりな格好をした人で、その人の名前は現在思い出す事ができません。しかしながら、明らかに著名な人に違いないので、僕が描いた肖像画の下にその人の名前を書いておきました。(僕は、少々漫画を描く事を抑えられず、僕はそれをすでに分類分けしてあります)。その晩餐はあまりにも長く続いたので、ビルンバッハと言う非常に称賛されている9歳のヴァイオリニストの演奏を聴く時間がありませんでした。今日は、僕は一人で食事をするつもりです、ヤロツキ教授にそう言い訳をすると、彼は、音楽家には、科学者達と囲む飽き飽きするほど長い晩餐よりも、スポンティーニの《フェルナンド・コルテッツ》のような作品の演奏の方が面白いに違いないと、快く認めてくれました。今は完全に一人で、僕の親愛なるあなた方とのおしゃべりを楽しんでいます。

偉大なパガニーニがここへ来ると言う噂があります。僕はそれが本当である事を望むだけです。ラジヴィウ公爵は今月の20日に到着すると予想されています。もし彼が来るならば、僕は非常に嬉しいです。僕は、動物学的なコレクション以外はまだ何も見ていませんが、この都市のほとんどを知っています、なぜなら僕は、まる2日間、美しい通りと橋の間をぶらついていましたから。これらについては、いずれ口頭で説明しましょう、そして、見るからに大きくて立派な城についても。僕がベルリンから受けた主な印象は、僕が思うに、現在の人口の2倍は収容できるくらいに散在した都市だと言う事です。僕達はフランス通りに宿泊したかったのですが、そうしないで良かったです、と言うのも、それは僕らのレシュノ町[ワルシャワにある長くて広い通り]と同じくらい広くて、その寂れた外観から脱するには、今いる人数の十倍は必要でしょう。

今日は、僕にとってベルリン音楽の初体験となります。親愛なるパパ、僕が動物学的博物館の13部屋を苦労して回るよりも、シュレジンガー(※楽譜出版者)の所で過ごす方がいいと言ったとしても、僕を偏狭だと思わないで下さい、僕は僕の音楽教育のためにここに来たのですからね、そしてシュレジンガーのライブラリーには、あらゆる時代や国の最も重要な音楽作品が含まれていて、もちろん、他のどんなコレクションよりも僕にとって興味あるものです。僕は、シュレジンガーの所を見逃さないと考える事で自身を慰めています、それに、学ぶべき何かがそこにあるなら、若者はあらゆる所で可能な限り全てを見るべきだと。僕は今朝、長いフリードリッヒ通りの端にあるキスティングのピアノフォルテ製造所へ行きましたが、仕上がった楽器が一つもなかったので、長い散歩も無駄になりました。僕にとって幸いだったのは、僕らのホテルには良いグランド・ピアノがあって、僕は僕自身とここの主人の双方の満足のために毎日弾いています。

プロシアの駅馬車(乗合馬車)は非常に乗り心地が悪くて、それで、旅は予想したより愉快ではありませんでした;しかしながら、僕は健康かつ元気にホーエンツォレルン家の首府に到着しました。僕達の旅の同行者は、ポズナニに住んでいるドイツ人の法律家で、その人はどぎついジョークで目立とうとしていました;あとは非常に太った農学者で、駅馬車で旅行するのに慣れていて見聞が豊からしい。

オーデル川のフランクフルトの一つ手前の駅で、ドイツ人のサッフォー(※Sappho、紀元前7世紀末−紀元前6世紀初。古代ギリシアの女流詩人)が馬車に乗り込んで来て、馬鹿げた、わがままな不満を土砂降りのごとく言い放っていました。この良きご婦人は、まったく無意識のうちに僕を非常に楽しませてくれて、と言うのも、彼女がその弁護士と議論を始めると、彼は彼女を笑う代わりに、彼女の言う事すべてに対して真面目に反駁するので、それがコメディと同じくらい面白かったからです。

僕達のいる側のベルリン郊外は美しくはありませんが、周到な掃除と整頓が至る所に行きわたっていて、大いに目を楽しませます。明日は、向こう側の郊外を訪れるつもりです。

会議は明後日から始まります。リヒテンシュタインさんが僕に入場券を一枚くださるとの事です。夕方には、アレクサンダー・フォン・フンボルトが彼の家にメンバーを招待します。ヤロツキ教授は僕の招待状を調達すると申し出ましたが、僕は彼に感謝しつつも、僕には十分な学問がないので、そのような会合からはほとんど知的な利益を得られないと言いました;それに加えて、専門家の先生方が、僕のような素人に疑惑の視線を投げかけ、“サウロ(※新約聖書の著者の一人セント・パウロのユダヤ名)は、それでは預言者のうちの一人なのかね?”などと尋ねるかもしれません。僕は晩餐の時でさえ、僕の隣にいた、ハンブルグから来た有名な植物学者のクレーマン教授が、僕の事を物珍しそうに眺めていると想像していました。僕は彼の小さな拳の力には驚かされました;僕が両手とナイフとを使ってやっと割くような大きな白パンを、楽々と壊してしまうのです。彼は、ヤロツキ教授と話すためにテーブルにかがみ込んで、会話に興奮しては、自分の皿と間違えて僕のを叩き始めるのです。彼も本当の学者なのか?大きな不恰好な鼻を持っていました。今までずっと、僕は絶えず不安におののいていました、そして、彼が僕の皿を叩き終えると、僕はすぐに、できるだけ素早く僕のナプキンで彼の指の跡をふき取りました。

マリルスキが、ベルリンの女性は良く着飾っていると思っているのなら、彼には審美眼のカケラもないでしょう;彼女達の服は間違いなく立派ですが、こうした服の懸釘に裂かれる美しい素材は気の毒なものです!

あなた方のいつも優しい愛情に富める                                        

フレデリック                                       」                                                  

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

ショパンはベルリン滞在中に、家族に宛てて手紙を3通出している。それが彼の「ベルリン紀行」の全てで、その他の友人知人に宛てたものは現在1通も知られていない。この手紙に先立つ「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」にも書かれていたように、2週間だけ滞在する予定」と言う滞在期間の短さから考えても、おそらくそれで全てだったと考えて間違いないだろう。

       【訂正】 第2便と第3便の間に、もう1通、失われた手紙が存在していた可能性がある。しかしそれについては、第3便の項で改めて詳述したい。

また、今までの例から考えても、ショパンが旅先から家族以外の友人知人に手紙を書く場合には必ず条件があり、まず、友人であれば、彼らの方から旅先のショパン宛に手紙を書き、ショパンがそれに対して返事を書いていたのだし、それ以外では、たとえばライネルツからエルスネルに宛てた手紙などは、予め旅行前に両者の間でそのように約束されていた。ショパンは今回、ヴォイチェホフスキに対してさえ、「僕が戻ったら、僕が何を見たか君に話そう」と書いていたので、今回旅先からは手紙を送らないつもりだった事が分かる。一方、ワルシャワにいる家族の方からも、ベルリンのショパンへは返事を送っていない。

要するに、たった2週間」の滞在では、当時の通信事情から考えて、仮にワルシャワからベルリンへ手紙を出し、ショパンがそれに対して返事を書いたとしても、それがワルシャワに届く頃には、ショパン自身もとうに家に帰り着いてしまっている…と言うような事になりかねないからなのである(※下図参照)。

 

1828年 9月−10月(ショパンのベルリン旅行スケジュール)

 

1

 

2

3

4

5

6

 

7

8

 

9

出発

10

 

11

 

12

13

 

14

到着

15

 

16

家族宛1

17

18

19

20

家族宛2

21

22

23

24

 

25

26

27

家族宛3

28

出発

29

 

30

10/1

2

 

3

4

5

10/6

帰宅

7

8

9

10

11

       99日付の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」で、「今日ベルリンへ出発しようとしている」と書かれており、さらに5日間の馬車の旅」とも書かれていた。この日数は直通の場合で、帰りは途中でポズナニに2日間」滞在する予定である事が家族宛の第3便に書かれており、帰宅は「月曜日」とも書かれてあった。したがって、ショパンのベルリン滞在期間は予定通りきっかり2週間」だった訳であるが、ワルシャワを出発してから帰宅までに費やした旅の全日数はその倍の4週間だった。

 

それに、ワルシャワにいる友人知人に対しては、家族宛に送った手紙が回し読みされる事でその代わりとなるので、わざわざ個別に書く必要もない事はすでに何度も説明した通りである。

 

この「ベルリン紀行」3通は、カラソフスキーが、当時唯一存命中だったショパンの直接の遺族であるイザベラから借り受けた書簡資料に含まれていたもので、彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で初めて世に公表された。

しかし、カラソフスキーが自著の序文で書いていたように、1863年に勃発したワルシャワ蜂起を受けて彼がイザベラに資料を返却した直後、それらは戦火に紛れて焼失してしまった。

したがって、これらの手紙の記述は、もはやカラソフスキーの著書の中に残されたもののみが唯一の拠り所となっていた。

ところがである。

この「ベルリン紀行・第1便」に限って言うと、最初にカラソフスキーの著書で公表されたものと、後にオピエンスキー版やシドウ版で公表されたものの内容にはかなりの違いがあるのだ。しかしこの違いについて説明してくれている著作物がちょっと見当たらない。

そこで色々と調べていて分かったのは、実は、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料を見ると、そこでは、この「ベルリン紀行・第1便」の宛先が、どう言う訳か「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているのである。このヴォジンスキと言うのは、後にショパンの婚約者となるマリア・ヴォジンスカの兄の一人で、ショパン家の寄宿生の一人でもあった友人だ。

要するにショパンは、ベルリンで家族宛に書いた手紙を、このヴォジンスキに頼んで託送してもらっていたらしい事になるのだが、このようなパターンは他にもあり、翌1829年の「第1回ウィーン紀行」でも全7通のうち5通がそうなっており、さらに1830年の「第2回ウィーン紀行」にも同様のものが1通ある。

つまり、ショパンから託送を依頼されたヴォジンスキが、その際に手紙の写しを取って個別に保管していたのではないかと思われ、それがカラソフスキー版との違いを明らかにしたのではないかと想像されるのだ。

しかしだ、なぜショパンがわざわざそのような回りくどい方法で手紙を送ったのか?その意味が全く分からない。

それでは手紙が家族の許へ届くまでに余計な時間がかかってしまうではないか? それに、仮に本当に託送されていたのなら、それに関してショパンが、ヴォジンスキ宛に依頼の言葉なり感謝の言葉なりをどこかしらに書き添えていなければおかしいのに、そんなメッセージはどこにもない。

さらに、「ベルリン紀行」なり「ウィーン紀行」なり、全ての手紙が同様に託送されている訳ではない点もまた引っ掛かる。託送されているものとされていないものの間には、それを区別する内容的な違いが何も見出せないのだ。

現実的に考えれば、「託送」と言うのは何かの間違いで、実際は、ヴォジンスキがショパン家から見せてもらった手紙の写しを取って、それを個別に保管していただけだったのではないだろうか?

それに、そもそも根本的な問題として、この「ヴォジンスキ版」の一字一句を、ショパンの文章を忠実に書き写したものと見なしていいのかどうかにも疑問がある。たとえば、「ヴォイチェホフスキ書簡」におけるオピエンスキー版みたいなものと考える事も十分に可能だからだ。

いずれにせよ、現在の私にはそれに関する情報がないので、何とも言えない。

 

ちなみにカラソフスキーは、この手紙を引用する際、前回紹介した「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」の直後に続けて掲載しているだけで、一切何の説明も施していない。なので、手紙を省略したのかどうかについても何も触れていない。

 

それでは、手紙の内容を、ヴォジンスキ版と比較しながら順に検証していこう。前回の比較検証とはまた違った側面から、カラソフスキーの印象操作が見えてくる。

       ヴォジンスキ版の引用については、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながらその再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。これも「ヴォイチェホフスキ書簡」同様ショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかねるからである。

 

ベルリン紀行・第1便#1.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「火曜日1828916日]、ベルリンにて」

1828916日 火曜日 ベルリンにて」

       ちなみにアーサー・へドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、この「火曜日」「木曜日」と誤植されいる。原著の英訳版でも、その原本である仏訳版でもきちんと「火曜日」となっている。  

 

まず、日付についてだが、カラソフスキー版では、原文には「火曜日」しか書かれておらず、1828916日]と言うのはカラソフスキーが「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」の記述と照らし合わせて導き出した推定の日付であるが、これに関しては間違っていない。

しかしながら、ヴォジンスキ版では、最初から1828916日 火曜日」と全てが書かれていた事になっており、したがって、こちらを採用しているオピエンスキー版やシドウ版の書簡集でも、この日付は推定扱いされていない。

私がヴォジンスキ版をそのまま信用する事ができないのは、まず、この点にある。

もしもショパンの原文にきちんと日付が全て書かれていたのなら、カラソフスキーがわざわざそれを推定扱いして註釈する理由などどこにもないからだ。

ショパンが日付の記入に関して無頓着であると言う話は以前にもしたが、今回の場合で言うと、ショパンがカラソフスキー版の通り「火曜日、ベルリンにて」としか書いていなかったとしても、それはちっとも不思議ではないと言うか、それどころか、これはいかにも当事者らしい書き方なのである。

なぜなら、今回の旅行は、「出発」から5日間」で目的地に付く事が予め分かっていたからだ。その「出発」99日の火曜日だったのだから、その5日後に到着してから「火曜日、ベルリンにて」と書けば、必然的に、それはちょうど1週間後の916日]である事は明白だからである。

であれば、ショパンがわざわざ1828916日 火曜日」と全てを書き込まなかったとしても、ちっとも不思議ではないのだ。

なぜならショパンは、手紙を書く時、それが後世の不特定多数の第三者に読まれる事など想定していないからだ。あくまでも、その時その時、当事者同士に分かればそれでいいと言う感覚でしか書いてはおらず、それが日付に関する無頓着さにもつながっているのである。逆に言えば、それを無頓着と感じるのは、我々が後世の部外者であるからに他ならない。

 

 

ベルリン紀行・第1便#2.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕の最愛なる両親、そして姉妹達!

僕達は無事、日曜日の午後三時頃にこの大都市に到着しました。」

「僕の最愛なる両親、そして姉妹達!

僕達は、日曜日の午後三時頃にこの大都市に到着しました。」

 

細かい事だが、「無事」の有る無しが違う。

 

 

ベルリン紀行・第1便#3.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

郵便局から真っ直ぐに、現在僕達がいるホテル“クロンプリンツの下に”に来ました。そこは素晴らしく、快適な家です。」

停車場から真っ直ぐに、現在僕達がいるホテル“クロンプリンツの下に”に来ました。そこは素晴らしく、快適な家です。」

 

これも細かい事だが、「郵便局」「停車場」の違いがある。

そもそも当時の乗合馬車と言うのは郵便馬車でもあるので、「郵便局」がすなわち停車場を意味しており、だからそれをそのまま「郵便局」と書くのはいかにも当事者らしい表現なのだ。

つまりこれに関しては、ヴォジンスキ版の「停車場」の方が怪しい事になる。なぜならその表現は、後世の不特定多数の第三者に対して分かりやすくなっているからだ。つまり、手紙を書き写した人間の配慮が介入している可能性が感じられるのである。

 

 

ベルリン紀行・第1便#4.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕達が到着したその日に、ヤロツキ教授は僕をリヒテンシュタインさんの所へ連れて行き、そこでアレクサンダー・フォン・フンボルトに会いました。」

「僕達が到着したその日に、ヤロツキ教授は僕をリヒテンシュタインさんの所へ連れて行き、そこでフンボルト氏に会いました。」

 

ここは「フンボルト」の名前の表記が違う。

カラソフスキー版はフル・ネームで敬称もなく、あたかもすでに歴史上の人物であるかのようなニュアンスがあるのに対して、ヴォジンスキ版の方は名字のみで敬称があり、こちらの方が当事者的なニュアンスを感じる。

 

 

ベルリン紀行・第1便#5.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「彼は、背丈は中背を越えないくらいで、容貌はハンサムとは言えませんが、突出した広い額をしている以外は、深く鋭い眼が学者としての厳しい知性を現していて、旅行者としても人間性の研究者としても偉大です。彼は、彼の母国語のようにフランス語を話します;親愛なるお父さん、あなたでさえそう言った事でしょう。」

 

 

この箇所は、ヴォジンスキ版にはそっくりそのままない。

もしもこれが、カラソフスキーが勝手に加筆改ざんしたものであれば、その意図は明らかで、前回の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」でもそうしていたように、ドイツ語圏の読者に対する配慮である。つまり、ここでドイツの著名人である「アレクサンダー・フォン・フンボルト」を褒め称えておく事で、ドイツ語圏の読者がショパンに対して親近感なり好印象なりを抱くよう配慮していると言う事になる。

 

 

ベルリン紀行・第1便#6.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「リヒテンシュタインさんは、ここの主な音楽家達に僕を紹介すると約束しました;そして、僕達がもう23日早く到着しなかったのを残念がっていました、そうすれば、彼の娘が先の日曜日のマチネー(昼興行)でオーケストラ伴奏で演奏するのが聴けたと。

僕としてはほとんど失望を感じていません、それが正しいか間違っているか分かりませんが、だって僕はその若いご婦人を見た事も聞いた事もないのですから。僕達が到着した日に、《妨げられた奉献祭》(※ドイツの作曲家ペーター・ヴィンター(Peter Winter 1754 - 1825)のオペラ)の上演がありましたが、リヒテンシュタインさんを訪問したので行けませんでした。

昨日、学者達が大晩餐会を開きました。議長席に着いたのはフォン・フンボルト氏ではなく、とても風変わりな格好をした人で、その人の名前は現在思い出す事ができません。しかしながら、明らかに著名な人に違いないので、僕が描いた肖像画の下にその人の名前を書いておきました。(僕は、少々漫画を描く事を抑えられず、僕はそれをすでに分類分けしてあります)。その晩餐はあまりにも長く続いたので、ビルンバッハと言う非常に称賛されている9歳のヴァイオリニストの演奏を聴く時間がありませんでした。今日は、僕は一人で食事をするつもりです、ヤロツキ教授にそう言い訳をすると、彼は、音楽家には、科学者達と囲む飽き飽きするほど長い晩餐よりも、スポンティーニの《フェルナンド・コルテッツ》のような作品の演奏の方が面白いに違いないと、快く認めてくれました。今は完全に一人で、僕の親愛なるあなた方とのおしゃべりを楽しんでいます。

偉大なパガニーニがここへ来ると言う噂があります。僕はそれが本当である事を望むだけです。ラジヴィウ公爵は今月の20日に到着すると予想されています。もし彼が来るならば、僕は非常に嬉しいです。僕は、動物学的なコレクション以外はまだ何も見ていませんが、この都市のほとんどを知っています、なぜなら僕は、まる2日間、美しい通りと橋の間をぶらついていましたから。これらについては、いずれ口頭で説明しましょう、そして、見るからに大きくて立派な城についても。僕がベルリンから受けた主な印象は、僕が思うに、現在の人口の2倍は収容できるくらいに散在した都市だと言う事です。」

       この箇所は、カラソフスキー版とほぼ同じなので略

 

この箇所は読んだままなので、特にコメントする事はございません。

 

 

ベルリン紀行・第1便#7.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕達はフランス通りに宿泊したかったのですが、そうしないで良かったです、と言うのも、それは僕らのレシュノ町[ワルシャワにある長くて広い通り]と同じくらい広くて、その寂れた外観から脱するには、今いる人数の十倍は必要でしょう。

今日は、僕にとってベルリン音楽の初体験となります。」

「僕達は最初フランス通りに宿泊する予定でしたが、予定が変わり、僕はそれを喜んでいます、と言うのも、その通りはとても寂しいからです;やっと6人ほどの通行者を見かける事ができる程度です。街幅が広すぎるのです;それは僕らのレシュノ町[ワルシャワにある長くて広い通り]と同じくらい広いです。今日は、僕にとってベルリンがどれほど意義のあるところかが分かる事でしょう。」

 

ここはこまごまと違っているが、この箇所に限らず、カラソフスキー版で全般的に気になるのは、ショパンにしては妙に改行が多いと言う事だ。

今まで見てきた本物の手紙でも分かるように、ショパンは、話題が変わってもそのまま改行せずに文章を続ける事が多い。なので、この手紙のように小まめに改行していたなんて、ちょっと考えにくいのである。

要するに、この改行の多さは、おそらく、原文にはもっとたくさんの事が書かれていたのではないだろうか?と言う事を想像させ、そして、カラソフスキーがそれをを削除した結果として、残された文章に改行が多いように見えるのではないだろうか。仮にそうだとすると、ヴォジンスキ版では、カラソフスキーが省略したはずの文章がほとんど全く補われていない事にもなる。

たとえば、前回の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」では、カラソフスキー版には省略が半分近くもあって、それらがオピエンスキー版でしっかり補われていた。そう考えると、今回の「ベルリン紀行・第1便」において、カラソフスキー版とヴォジンスキ版の文章量がほとんど変わっていないと言うのは、やはり引っ掛かる。その点からも、どうもヴォジンスキ版の信憑性には疑問が持たれるのである。

 

 

ベルリン紀行・第1便#8.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

親愛なるパパ、僕が動物学的博物館の13部屋を苦労して回るよりも、シュレジンガーの所で過ごす方がいいと言ったとしても、僕を偏狭だと思わないで下さい、僕は僕の音楽教育のためにここに来たのですからね、そしてシュレジンガーのライブラリーには、あらゆる時代や国の最も重要な音楽作品が含まれていて、もちろん、他のどんなコレクションよりも僕にとって興味あるものです。僕は、シュレジンガーの所を見逃さないと考える事で自身を慰めています、それに、学ぶべき何かがそこにあるなら、若者はあらゆる所で可能な限り全てを見るべきだと。」

「動物の檻のある13個もの部屋の中で時を過ごすよりも、シュレシンガー氏の家を訪問したいと願っています。実際のところ、その家は綺麗でしたが、上記の人の楽譜店の方が僕の興味を起こさせます。見るに値するものであるなら、僕はそこへ行きます。」

 

この手紙のカラソフスキー版では、ニコラ個人に向かって話しかけるパターンが2度出てくるが、それらはいずれもヴォジンスキ版にはなく、この箇所はヴォジンスキ版の方があっさりしている。

 

 

ベルリン紀行・第1便#9.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕は今朝、長いフリードリッヒ通りの端にあるキスティングのピアノフォルテ製造所へ行きましたが、仕上がった楽器が一つもなかったので、長い散歩も無駄になりました。僕にとって幸いだったのは、僕らのホテルには良いグランド・ピアノがあって、僕は僕自身とここの主人の双方の満足のために毎日弾いています。」

「僕は今朝、フリードリッヒ通りの端にあるキスティングのピアノフォルテ製造所へ行きましたが、仕上がった楽器が一つもなかったので、長い散歩も無駄になりました。――ところが、幸いご主人が住む家にピアノがあって、僕はそれを弾く事が出来ました。僕は毎日、僕達が泊まっている宿屋の主人(と言うか彼の楽器)を訪問しています。」

 

ここでは、カラソフスキー版では、ショパンの皮肉を削除して、あくまでも「わが大作曲家」を優等生に仕立て上げようとする意図が見える。

 

 

ベルリン紀行・第1便#10.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「プロシアの駅馬車(乗合馬車)は非常に乗り心地が悪くて、それで、旅は予想したより愉快ではありませんでした;しかしながら、僕は健康かつ元気にホーエンツォレルン家の首府に到着しました。」

「途中の道は、最初に思っていた程には悪くなかった ――何となれば、石だたみのプロシアの馬車道では埃が立つのが通常ですが、それでも僕にとっては良かった。なぜなら僕は健康で、体の調子が非常に良かったからです。」

 

ここでは、旅の快適さに関する感想が全く逆の意味になっており、カラソフスキー版では、あくまでも「プロシア」に対する印象を悪くするようにイメージ操作が加えられている。

なぜなら、「プロシア」は当時ポーランドを分割支配していた三国のうちの一つだったからで、国粋主義者であるカラソフスキーの中では、ショパンはその「プロシア」に対して悪感情を抱いていなければならなかったからである。

 

 

ベルリン紀行・第1便#11.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕達の旅の同行者は、ポズナニに住んでいるドイツ人の法律家で、その人はどぎついジョークで目立とうとしていました;」

「僕達の旅の同行者は、ポズナニに住んでいるドイツ人の法律家で、その人はドイツ流のどぎついジョークを言い続けていました;」

 

ここでは、カラソフスキー版では、法律家の「どぎついジョーク」「ドイツ流の」とはしていない。

これもやはり、ドイツ語圏の読者への配慮が見え隠れする。

 

 

ベルリン紀行・第1便#12.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「あとは非常に太った農学者で、駅馬車で旅行するのに慣れていて見聞が豊からしい。」

「あとは太ったプロシア人の農学者で、駅馬車で旅行するのに慣れているらしい(旅行の経験が豊か)。」

       ちなみに、この「農学者」は、カラソフスキー版のドイツ語原文ではlandwirtとなっており、一方ヴォジンスキ版のポーランド語原文ではagronomとなっている。どちらも「農学者」「農業技師」「農業経済者」「農耕家(農産物と土壌管理を扱う農学の分科)」等、農民の上に立つ指導的な役割を果たす職業である。ところが、これらの単語は、他の言語に翻訳される際に、オピエンスキー英訳版やシドウ仏訳版ではそのままagronomistagronomeとしてあるものの、カラソフスキー英訳版やヘドレイ英訳版ではfarmerと英訳されてしまっており、その結果、それらを重訳したそれぞれの邦訳版では、そのまま「百姓」と和訳されてしまっている。この時代の「百姓」(旅行の経験が豊か)などと言う事はあり得ないのにである。その結果、文章の辻褄を合わせるために、「旅行で覚えた半可通の礼儀を振りまわす大層肥ったお百姓」(モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より)だとか、あるいは「太って脂ぎったプロシャの百姓――彼はずいぶん旅行をしていて、駅馬車のなかの耳学問で教育をつけてきた男」(アーサー・へドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)より)などと、時代考証的に無理のある和訳がなされており、この人物に対するイメージが全く逆のニュアンスにされてしまっている。これが重訳の怖さである。  

 

ここでは、この「太った農学者」を、カラソフスキー版では「プロシア人」としていない。

上記と合わせると、カラソフスキーは、あくまでも「ドイツ人」を貶めず、そして「プロシア人」は持ち上げず、と言ったように、その印象操作は分かりやすいまでに一貫している事が見て取れるだろう。

 

 

ベルリン紀行・第1便#13.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「オーデル川のフランクフルトの一つ手前の駅で、ドイツ人のサッフォー(※Sappho、紀元前7世紀末−紀元前6世紀初。古代ギリシアの女流詩人)が馬車に乗り込んで来て、馬鹿げた、わがままな不満を土砂降りのごとく言い放っていました。この良きご婦人は、まったく無意識のうちに僕を非常に楽しませてくれて、と言うのも、彼女がその弁護士と議論を始めると、彼は彼女を笑う代わりに、彼女の言う事すべてに対して真面目に反駁するので、それがコメディと同じくらい面白かったからです。」

「このような同行者達と共にフランクフルトの手前の駅まで旅行しました。そこでドイツ風のコリンナ(※スタール夫人の小説のヒロイン)が乗り込んで来ました。彼女の言葉には、文章を区切るためのアー、ヤー、ナーのなどの発音が多く、実にロマンチックなお尻(※小柄な女性の意味で、しかし軽蔑した言い方らしい)でした。途中、間断なく彼女は隣に座っている法律家と口論していた事もあって、愉快な同行者達でした。」

       アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(Anne Louise Germaine de Staël 17661817)。スタール夫人(Madame de Staël)の名で知られているフランスの批評家、小説家。「コリンナ―美しきイタリアの物語」(Corinne ou l'Italie)は、美しきイタリア人女性で即興詩人のコリンナ(コリンヌと表記される事もある)とスコットランド貴族の恋を描いた1805年の小説。スタール夫人の代表作で、イタリアとスコットランド両国の風俗、宗教、芸術など、異質の価値観を背景に描かれており、主人公の「コリンナ」と言う名前は、紀元前5世紀のギリシャの女流詩人に由来するらしい。

「コリンナ―美しきイタリアの物語」

ここでは「サッフォー」「コリンナ」が違う。

これに関しては、ヴォジンスキ版の「コリンナ」が本当で、カラソフスキーがそれを「サッフォー」に変えたのではないかと想像される。

なぜなら、カラソフスキーは「コリンナ」の作者であるスタール夫人が気に入らなかった可能性が高いからだ。

と言うのも、スタール夫人と言うのは、政治評論家としては、ナポレオンの時代に終生ナポレオンと対立する立場をとっていたからだ。しかし一方のカラソフスキーは、どうやらそのナポレオンを擁護する立場にいたらしいのである。カラソフスキーは自著中で以下のように書いている。

 

「幼いフレデリックの両親が、彼の成長と発育とを楽しんでいる間に、またもポーランドの政治状態は変化した。ナポレオン一世がチルシットの平和条件に依って一八〇七年にワルソウ大公国を起したことが、国土の最後の割譲後陥っていた政冶上の死の眠から、ポーランド人を目覚めさせた。成功の征服者ナポレオンに依って立派な首府に高められたワルソウ市は、新に建設された大公国のあらゆる力を鼓舞し集中する活動の中心となった。誰もかれも手入れに熱中した。短兵急に政府を組織し、軍隊を起し、新な学校を建てた。ニコラス・ショパンもまた家族を連れて彼自身のために、また養いの国のために働くことが出来るワルソウへ戻って来た。一八一〇年の八月一日、彼は新設の高等学校のフランス語教授に任命され、そこで二十一年間、ワルソウがロシア政府に亡ぼされるまで活動をつづけた。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

つまり、多くのポーランドの国粋主義者達にとってそうであったように、カラソフスキーにとってもナポレオンは、祖国ポーランドの歴史に、一時的にせよ希望をもたらした存在だった。であれば、それを批判していたスタール夫人を彼が認めたくないとしても、少しも不思議ではないだろう。

 

 

ベルリン紀行・第1便#15.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕達のいる側のベルリン郊外は美しくはありませんが、周到な掃除と整頓が至る所に行きわたっていて、大いに目を楽しませます。明日は、向こう側の郊外を訪れるつもりです。」

※ この箇所は、カラソフスキー版とほぼ同じなので略

 

 

ベルリン紀行・第1便#16.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「会議は明後日から始まります。リヒテンシュタインさんが僕に入場券を一枚くださるとの事です。夕方には、アレクサンダー・フォン・フンボルトが彼の家にメンバーを招待します。ヤロツキ教授は僕の招待状を調達すると申し出ましたが、僕は彼に感謝しつつも、僕には十分な学問がないので、そのような会合からはほとんど知的な利益を得られないと言いました;それに加えて、専門家の先生方が、僕のような素人に疑惑の視線を投げかけ、“サウロ(※新約聖書の著者の一人セント・パウロのユダヤ名)は、それでは預言者のうちの一人なのかね?”などと尋ねるかもしれません。」

「明後日からは会議が始まる。リヒテンシュタインさんが僕に入場券を一枚くださるとの事です。その日は、フンボルトが主催する自然科学者達の宴会があります。ヤロツキさんはその宴会に僕が参加できるように努力していると言ってくれていたので、僕は彼にそのような事は止めて欲しいとお願いしました。何となれば、その宴会に出席しても僕にとって何の益にもならないでしょうし、外国のお歴々が彼らの中に門外漢がいるのを見たら、僕を煩わしい同席者と思うでしょう。もともと、不適切な場所に入り込むのは前々から嫌でした。」

 

ここでは、ヴォジンスキ版には“サウロ”のジョークがない。

ショパンにしてはセンスのないジョークなので、もしかするとカラソフスキーが勝手に付け加えたのかもしれない。

とにかく、カラソフスキー版にあってヴォジンスキ版にない軽口に関しては、どれも今一つユーモアのセンスに欠けるのが気になる。

 

 

ベルリン紀行・第1便#17.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「僕は晩餐の時でさえ、僕の隣にいた、ハンブルグから来た有名な植物学者のクレーマン教授が、僕の事を物珍しそうに眺めていると想像していました。僕は彼の小さな拳の力には驚かされました;僕が両手とナイフとを使ってやっと割くような大きな白パンを、楽々と壊してしまうのです。彼は、ヤロツキ教授と話すためにテーブルにかがみ込んで、会話に興奮しては、自分の皿と間違えて僕のを叩き始めるのです。彼も本当の学者なのか?大きな不恰好な鼻を持っていました。今までずっと、僕は絶えず不安におののいていました、そして、彼が僕の皿を叩き終えると、僕はすぐに、できるだけ素早く僕のナプキンで彼の指の跡をふき取りました。」

※ この箇所は、カラソフスキー版とほぼ同じなので略

 

 

ベルリン紀行・第1便#18.

カラソフスキー版

ヴォジンスキ版

「マリルスキが、ベルリンの女性は良く着飾っていると思っているのなら、彼には審美眼のカケラもないでしょう;彼女達の服は間違いなく立派ですが、こうした服の懸釘に裂かれる美しい素材は気の毒なものです!

あなた方のいつも優しい愛情に富める

フレデリック」

「マリルスキが、ベルリンの女性は良く着飾っていると思っているのなら、彼には審美眼のカケラもないでしょう;彼女らは歯のない顎だけを持っていて、つまり歯無しの顔をしています。服装は綺麗に着飾っているのは事実ですが、羊の皮を薄く鞣した皮で作った人形に着せるような素敵なモスリンであっても、その織物の布切れを着ているのは残念です。

あなた方のいつも優しい愛情に富める

フレデリック」

 

カラソフスキー版では、「ベルリンの女性」についての批判が削除されている。これははまたしてもドイツ語圏の読者への配慮だろう。

 

さて、実は、私が今回の「ベルリン紀行・第1便」で一番気になるのは、この結びの部分だ。

ここには、ショパンの手紙の最後に必ず書き連ねられる追伸が一つもないのだ。あの「〜によろしく」という例のやつが、どちらの版にも全くないのである…。こんな事はかつて一度もなかった。実は、「ベルリン紀行」の全3通がそうなのである。

これはあらゆるショパン伝について言える事なのだが、たとえば伝記の中でショパンの手紙が紹介される際、この追伸部分までもが引用される事はまずない。一般の読者にとって何の興味の対象にもならないからで、そのため、これらは真っ先に省略される。

カラソフスキーは前回の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」でも、そう言った追伸部分をほとんど省略していたから、今回もそうしていた可能性は極めて高い。しかし、もしそうだとしたら、今回ヴォジンスキ版でその削除が補われていないのは、やはりおかしいと言う事になるだろう。

ヴォジンスキ版が腑に落ちないのは、この点なのだ。

 

 

結局、どちらの版にも、それぞれショパンらしい部分とそうでない部分が少しずつ混在している。しかし、どちらが本当でどちらが改ざんされていたとしても、どれもそれほど大きな問題となるような記述でもないため、今回はこれ以上あまり深追いしないでおきたい。

 

 [2011年5月29日初稿/2011年6月5日改訂 トモロー]


【頁頭】 

検証7-4.第2便・メンデルスゾーンとのニアミス?

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証7-2:「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」の真実▲】 【筆者紹介へ▼】

Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.