検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行――

Inspection VII: The letters to Wojciechowski & the journals of Berline's travel -

 


1.誰も「ヴォイチェホフスキ書簡」の現物を見た者はいない―

  1. There is not the person that watched the original of the letters to Wojciechowski -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 マズルカ 第47番 イ短調 作品68-2▼≫
 

本稿の序章でも書いたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」を最初に出版したのはカラソフスキーである。

彼のショパン伝には、現在知られている「ヴォイチェホフスキ書簡」全22通が漏れなく掲載されており、カラソフスキーはその典拠について以下のように説明していた。

まず、ワルシャワ時代からパリ時代初期にかけての20通に関しては、

 

「友人ティツス・ウォイシエヒョフスキイ(※ティトゥス・ヴォイチェホフスキ)に送った手紙――氏は極めて親切にもその写しを自分に提供してくれた――を通して、我々は彼が次の数年をどんな風に送ったかを、ショパン自身より聞くのである。最も親しい友人がこの天稟の芸術家の手紙の一宇一句を、神聖な記念物のように大切に保存して置いたことは、我々にとって非常な仕合せである。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社 1952年)より

 

 

さらに、最晩年に突如として現れた意味不明の2通に関しては、

 

「親友、ティツス・ウォイシエヒョフスキイが海水浴をしにオスタンドヘ行ったと聞いて、ショパンは彼の仲間入りをしたいという強烈な欲望を感じた。我々はこのことに関して二通の手紙を発見した*ショパンがティツス・ウォイシエヒョフスキイに送った最後の二通の手紙。)――これは彼が書いた最後のものである。ロシアの臣民として当時ウォイシエヒョフスキイがパリヘ赴く事はなかなか困難であった。彼はワルソウの当局者から特別な許可を受けたのか、さもなければパリ駐在のロシア大使の手紙をもっていたに相違ない。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社 1952年)より

 

 

最初の20通では、直接ヴォイチェホフスキ本人が「提供してくれた」と書いていたのに、最後の2通では「我々は」「発見した」とは、一体どう言う事なのか?

カラソフスキーのこの著書は、元々は雑誌に連載していたものを本にまとめたものなので、その執筆期間は1862年〜1869年にまで渡っている。したがって、最初の20通の頃と最後の2通の頃では、カラソフスキーの置かれている状況や環境に天と地ほどの差があった。彼は1863年の「ワルシャワの反乱」の失敗を受けて、その翌年にはドレスデンへ亡命してしまっているからだ。

 

ちなみに、本稿の序章でも触れた通り、最晩年の2通に関しては、その一字一句がカラソフスキーの手になる完全な捏造である。そのような手紙は最初からこの世には存在していない。その嘘を暴くのは極めて簡単なのだが、それについてはその手紙を紹介する時に詳しく説明しよう。

一方の最初の20通に関しては、基本的には本物である。ただし、あくまでも「基本的には」と言う但し書きが付く。

このように、カラソフスキーは、その20通の「手紙」をヴォイチェホフスキ本人から直接借り受けていた。

ただし、ここで問題なのは、その借り受けた「手紙」と言うのが、どう言う訳かショパン直筆の「原物」でなく、あくまでもヴォイチェホフスキの手による「写し」だったと言う事だ。

つまり、カラソフスキー自身は「原物」を見ていない事になる訳だ。しかし、なぜヴォイチェホフスキは「原物」の方を提供せず、わざわざ「写し」を取ってそちらの方をカラソフスキーに資料提供したのか? その時「原物」の方は一体どうなっていたのか? 「原物」はその時点ではヴォイチェホフスキの手元に現存していたのか?それともしていなかったのか? 誰もが興味ある問題であるはずなのに、なぜカラソフスキーは、「家族書簡」の消失についてはきちんと説明していたのに、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、ヴォイチェホフスキが「原物」の方を資料提供しなかった理由について全く触れないのか?

 

そんな事で、「一宇一句を、神聖な記念物のように大切に保存して置いた」などと言われても、その言葉を、本当に言葉通りに信じる事ができるだろうか?

 

ティトゥス・ヴォイチェホフスキなる人物は、すでに何年もの間、ショパン家の寄宿学校でショパン達と寝食を共にしてきながら、ヤン・ビアウォブウォツキ亡き後になって初めて、ショパンの唯一無二の親友として突如ショパン史の表舞台に急浮上した。

この人物の挙動不審の数々を列挙したらそれこそキリがないのだが、まず、いきなり、この最初の第一歩からしてがそうなのである。

 

カラソフスキーは「ヴォイチェホフスキ書簡」の原物を目にしていない。だがそれは、何もカラソフスキーに限った話ではない。

誰も「ヴォイチェホフスキ書簡」の現物を見た者などいないのである。

それを目にしたのはこの世にただ2人だけ、すなわち、それを書いたショパン本人と、それを受け取ったヴォイチェホフスキだけだ。

実は、「ヴォイチェホフスキ書簡」には、カラソフスキーが出版したものとは異なる典拠のものがもう1種類ある。それについては、ハラソフスキが以下のように書いている。

 

「シャルリット(Bernard Scharlitt 18771946)の、ショパンの往復書簡のコレクションの中で、彼はカルウォヴィツの『ショパンの未公開の記念品』と、ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号で発表されたティトゥス・ヴォイチェホフスキへのショパンの手紙20通を利用した。その手紙は、オピエンスキーによって、ヴォイチェホフスキの孫娘の夫JT.ヴィジガ(Tadeusz Wydżgą)から入手されたもので、それらは、カラソフスキーによってもたらされたものと、ショパンのオリジナル・テキストとの間に存在する大きな違いを明確に示すと言う意味において、重要なものである。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York 1980)より

 

 

つまり、オピエンスキーがヴォイチェホフスキの遺族から入手したものがそれである。

ところがこれもまた、カラソフスキーの時と同様、オピエンスキーはショパンの書いたオリジナルを入手した訳ではなく、あくまでもヴォイチェホフスキの手による「写し」を入手していたのである。そしてその「20通」とは、かつてカラソフスキーがヴォイチェホフスキ本人から借り受けて返却したのと同じ「ワルシャワ時代からパリ初期までの20通」だったはずで、ここで言っている「大きな違い」とは、カラソフスキーの場合、それをドイツ語に翻訳する際に、かなりの省略や恣意的な意訳、あるいは改ざんを施していたと言う事である。

一方のオピエンスキーの場合は、それと同じ「写し」を外国語には翻訳せず、ポーランド語原文のまま雑誌で公表した。それでいてオピエンスキーは、自分の入手した手紙がショパン自筆のオリジナルだと言う証拠を何一つとして残していない。つまり、他の書簡集の編者達が普通するように、その原物の写真コピーを撮ってもいないのだ。

たとえば、オピエンスキーが「ヴォイチェホフスキ書簡」を発表したのは「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」だった訳だが、その6年前の1904年に出版されたカルウォヴィツ編『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』では、1通ながらも、その原物の写真コピーが口絵で紹介され、使用された紙のサイズ等までもがきちんと明記されていた。のちの1926年のソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』でも、当たり前のようにそうしていた。

 

つまりオピエンスキーと言う編者は、かつてカラソフスキーが手紙の写真コピーも撮らずに返却し、それでそれを焼失させて批判されたのと全く同じ事を、この期に及んでもまだ平然と繰り返していたのである。

 

このような編集態度をとる人間のした仕事の内容を、一体どこまで信用すればいいと言うのだろうか?

 

コルベルク書簡も、マトゥシンスキ書簡も、ビアウォブウォツキ書簡も、フォンタナ書簡も、エルスネル書簡も、ショパンが文通を交わした主だった人物達宛の手紙は、多かれ少なかれ、必ず原物が写真に収められてその事実の痕跡を残していると言うのに、ただ一人ヴォイチェホフスキ宛の手紙だけが、一番有名な「ヴォイチェホフスキ書簡」だけが、ただの1通たりとも、その原物が世間に公表されていないなんて、こんな奇妙な話があるだろうか。

したがって、本当にショパン自身が書いた直筆の「原物」の、その「真実の内容」を確認した第三者など、この世にただの一人もいないのである。

 

それでは、ショパン直筆の「ヴォイチェホフスキ書簡」の原物は、一体いつ、どこへ消えてしまったのだろうか? いや、敢えてはっきり言おう、ショパン直筆の原物を、ヴォイチェホフスキがいつ処分してこの世から抹殺してしまったのか?…である。

 

足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)には、こんな貴重な話が書かれている。

 

「宮殿焼失とその再建(?)

その後、ショパン協会の資料を読んでいたとき、これは小さなパンフレットのわずか半頁だけのものだが、ヴォイチェホフスキ宮殿が「一九四七年に焼失」、と書かれているのに気がついた。誤植ではないか? ポトゥジンについては書かれているものが他になく、そういえば現地であまり歴史を聞いてこなかった。しかし、どう考えても焼失は第二次世界大戦中だったと思われ、これは確かめてみなければならなかった。ジャルコ氏からは次のような返事が来た。

「〔……〕四七年というのは間違いです。宮殿は一九四四年春、ポーランドのパルチザンに焼かれました。そう、ポーランド人だったのです、焼いたのは! ウクライナ蜂起軍の拠点にさせないためでした。

戦後、廃嘘は撤去することになり、母から借りた二枚の写真は、撤去前、一九四八年に撮ったものです。

砂糖工場の方は二回焼けました。ティトゥスが工場を建てたのは、一八四〇年頃。一回目はその六年後で、火事でした。ティトゥスはフルベシュフの領主から金を借りて工場を再建、これは一九一四年まで嫁動していました。

この年、第一次世界大戦が勃発して二度目に焼けました。廃嘘は柵で囲まれ、人々が交替で見張りましたが、それをドイツ人たちが第二次世界大戦の直前に、宮殿の次の持ち主であるヴウォジミェシ・ルリコフスキから買ったのです。そして内の機械類を持ち去り(彼らの関心はそれだげでした!)、残りを破壊しました。母の話では、工場の煙突に慣れ親しんでいた住民は、皆、それを見て泣いたそうです。…(後略)…」」

足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷 2000年)より

 

       余談ですが、この著書の中で「ティトゥスの肖像画。属啓成著『ショパン(生涯篇)』(音楽之友社)より」として掲載されている肖像画は、あれはヴォイチェホフスキではありません。私もその本を持っているので確認しましたが、属啓成著『ショパン〈生涯篇〉』(音楽之友社)が間違っているのです。実はあれは、後にショパンの婚約者となるマリア・ヴォジンスカが、彼女の兄アントニ・ヴォジンスキを描いたスケッチです。クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』にはその絵の全体像が掲載されており、絵の右下部分には、マリア自身によって兄の名Antoni Wodzińskiがはっきりと書き込まれています。『故国におけるショパン』には、他にもマリア・ヴォジンスカによるヴォジンスキ家の人々の名前入りのスケッチが2枚掲載されていますが、それらを見ると、彼女には明らかに絵の才能があり、後に彼女が描いたショパンの肖像画は、おそらく実物に似ていたであろう事が想像されます。

 

ヴォイチェホフスキがポトゥジンに砂糖工場を建てたのが1840年頃。そしてそれは1846年に一度火事で焼け、再建した工場も第一次世界大戦で焼けてしまった。だが、誰も砂糖工場に手紙など保管してはいまい。問題はヴォイチェホフスキの家(宮殿)である。

ヴォイチェホフスキの没年は1879年である。「宮殿は一九四四年春、ポーランドのパルチザンに焼かれました」と言うのであれば、それは彼の死から65年後の事だ。すなわち、まだヴォイチェホフスキが生きていた間は、ショパン自筆の原物はまだ焼失する事なく現存していたはずだと考えるのが普通だろう。であれば、彼はそれをカラソフスキーに資料提供しようと思えばできたはずなのである。カラソフスキーが伝記の連載を始めてからヴォイチェホフスキが亡くなるまで、17年もの猶予がある。

さらに、1910年のオピエンスキーの時も同様なのだ。その時点でもまだ「宮殿」は焼失していないのだから、ヴォイチェホフスキの孫娘の夫も、オピエンスキーに原物を資料提供できたはずなのである。

それなのに、なぜ、そのどちらの場合でも、「原物」の方は常に門外不出とされていたのか? また、その「原物」を1通も写真コピーで残す事さえされなかったのか?

 

シドウは、彼が編纂した仏訳版書簡集の序文で次のように書いている。

 

我々は、1939年以降に失われた、ティトゥス・ヴォイチェホフスキの有名な手紙の痕跡を回復する事に成功しなかった。

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale 1981)より

 

 

 

それではここで、このティトゥス・ヴォイチェホフスキ18081879 享年71歳)と言う人物について少し掘り下げてみたい。

まず、彼のプロフィールについては、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されている以下の著書からの引用文が最も詳しいので、それを紹介させていただきたい。

 

「ティトゥス・シルヴェステル・ヴォイチェホスキ(Tytus Sylwester Wojciechowski)は、農民活動家であり、政治家でもあった。彼は、ラヴィチュ伯爵家のユーゼフと、トプール伯爵家出身のマリア・バリッツカとの嫡子で、カロル・ヴェルツ(1804年生まれ、1883年以降に没)は彼の義理の兄弟だった。また、フリデリック・ショパンの友人で、ショパン家の寄宿学校の生徒だった。ティトゥスはワルシャワ高等中学校に通った後、18261829年の間ワルシャワ大学の法律・行政学部で学んだ。1829年には、ポトゥジン村にある母方の地所を受け継ぎ、そこに住み着いた。

183011月、フレデリック・ショパンと共に外国に移住したが、短期間で帰国し、ポーランド・ロシア戦争に大尉補として参戦した。これを称えて軍事騎士号の金製十字勲章を拝受した。18601861年の間、農民協会の会員であった。18611862年、“白党”の指導者の一人となり、地下統帥部の一員であった。ルブリン地域の農業技術の革新運動の啓蒙者であった。そこでは、穀物の輪作制を導入したり、ポーランド王国で最初の砂糖工場を創設したりした(1847年)

ティトゥスは、ヴォイスウァヴィツェ村で、ティシヴダル伯爵家のアロイジア・ポレティウオ(1815頃生まれ、1903年没)と結婚。彼女は、ヴォイスウァヴィツェの土地財産相続人で、ヘウム郡仲裁裁判所の裁判官で、アロイジ伯爵とステゥシェミア伯爵家のテレサ・テゥシェチェルスカとの娘であった。ティトゥスは、義父が持っていたフルビェショフ郡ポデゥホルツェ村とゴズデゥフ村の土地財産を相続した。彼は4人の子供を儲けたが、その内、娘テレサはヤステゥシェンビェッツ伯爵家のマルツェリン・ヴィジガに嫁ぎ、息子はヴアディスワフであった。

ティトゥスは学校に通っていた頃、ショパン家に寄宿し、フレデリックより1年上の学級に通っていた。18307月、ショパンはティトゥスが住むポテゥジン村へ駅馬車を利用して訪問した事があるが、それ以降はフレデリックとは文通をするだけの関係を保った。フリデリックは彼に≪変奏曲 変ロ長調 作品2≫を捧げた。これはモーツアルトのオペラ≪ドン・ジョヴァンニ≫の≪Là ci darem la mano(お手をどうぞ)≫をテーマにしたものである。1873年には、ティトゥスはショパンの銅像をワルシャワ音楽協会に寄付している。」

ハンナ・ヴルブレフスカ、ストラウスとカタジナ・マルキェフィッチによる

『フレデリック・ショパンとコルベルク兄弟の時代―友情、仕事、ファッション、作品』(ワルシャワ 2005

Hanna Wróblewska-Straus i Katarzyna Markiewicz,

Fryderyk Chopin i bracia Kolbergowie na tle epoki. Przyjaźń. Praca. Fascynacje, oprac.』(Warszawa 2005)より

 

       ちなみにビアウォブウォツキも「ワルシャワ大学の法律・行政学部」だったので、ヴォイチェホフスキはビアウォブウォツキの後輩になる訳だ。

       ここでは、「ポーランド王国で最初の砂糖工場を創設したりした(1847年)」と書かれているが、先述した足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)における「ジャルコ氏」の証言とはちょっと食い違っている。ジャルコ氏の証言では、「砂糖工場の方は二回焼けました。ティトゥスが工場を建てたのは、一八四〇年頃。一回目はその六年後で、火事でした。ティトゥスはフルベシュフの領主から金を借りて工場を再建」とあり、それが事実なら、「ポーランド王国で最初の砂糖工場を創設したりした(1847年)」と言うのは再建した方の工場だった事になる。

       また、ここでは183011月、フレデリック・ショパンと共に外国に移住した」と書かれているが、あれが「移住」だったとは驚きだ。私の考えでは、ヴォイチェホフスキは「移住」どころかショパンと共にウィーンに行ってすらいないのだが、しかしこの項目についても、その時が来たら詳しく説明しよう。

 

この中で私が「やはり」と思った情報は、まず、ヴォイチェホフスキが「農民活動家であり、政治家でもあった」と言う点だ。

彼の経歴には、18611862年、“白党”の指導者の一人となり、地下統帥部の一員であった」とあるが、カラソフスキーがショパン伝の連載を始めたのも1862年である。つまりこの両者は正に、ちょうど時を同じくして祖国再興に関わるための行動を起こしていた事が分かるだろう。そんな二人が、この時ショパンを通じて互いの利害を一致させようと考えたのだ。

こう言ったヴォイチェホフスキの経歴は、今までどのショパン伝でも語られてこなかった。私がこの事実を知った時、かねてから奇妙に感じていた彼の挙動不審の数々に、やっと一本の芯が通った思いがした。つまりそこには、チャルトリスキがそうしたように、ショパンとの個人的な関係を、自らの政治活動に利用しようとする不純な動機が働いていたと言う事だ。

現在の日本で分かりやすくたとえるなら、たとえば時の総理大臣が、自分の人気取りのために著名な芸能人やスポーツ選手に国民栄誉賞を贈るみたいな話である。たとえば、1873年には、ティトゥスはショパンの銅像をワルシャワ音楽協会に寄付している」とあるが、ヴォイチェホフスキには、そんな何の役にも立たない「銅像」なんかより、ショパンに関するもっと貴重で重要な資料がいくらでも寄付できたはずだろう、たとえば、直筆の楽譜であったり、直筆の手紙であったりだ。

そう言った品々を最も多く提供できる立場にいながら、そのような関係者の中で、ただ一人ヴォイチェホフスキのみが、そう言ったものを何一つとして世の中に提供していないのである。なぜなのか? それは、自分のついた嘘がバレるからではないだろうか? 彼が自分の人気取りのために、カラソフスキーと結託してショパンの手紙を改ざんしていた事がバレるからできないのではないだろうか? その事実を隠蔽するために、ヴォイチェホフスキが自分の生前にショパンの直筆の資料を全て処分して証拠隠滅してしまったのでなければ、彼の遺族までもがそれらを資料提供できない事の理由の説明がつくだろうか? ルドヴィカの遺族にはそれが提供できたのに、なぜヴォイチェホフスキの遺族にはそれができなかったのか?

どう考えてもおかしいのである。

 

「ヴォイチェホフスキ書簡」を読んだ誰もが等しく感じる事、それは、ショパンがヴォイチェホフスキを愛していたほどには、ヴォイチェホフスキが決してショパンを愛してなどいなかったと言う事だ。

「ビアウォブウォツキ書簡」を読んで、ビアウォブウォツキがショパンを愛していなかったと感じる人はまずいないだろう。それは、「コルベルク書簡」でも、「本物のマトゥシンスキ書簡」でも同じだろう。だが、「ヴォイチェホフスキ書簡」を読んで、ヴォイチェホフスキのショパンへの愛を感じる人など皆無なはずだ。そんな感想を書いている伝記作家を私は一人も知らないし、もちろんそれは私も同じである。

だから余計に、ヴォイチェホフスキがショパンのウィーン行きに同行していたと言う話が、いかにも取って付けたように胡散臭く見えてしまうのだ。

 

 

結論としてまとめると、私の解釈では、一連の「ヴォイチェホフスキ書簡」と言うのは、

1.       ワルシャワ時代からパリ時代初期にかけての20通に関しては、元々存在していたショパン直筆の原物を基にして、その資料提供者であるヴォイチェホフスキと、それを編集したカラソフスキーとの結託によって改ざんされたものであり、

2.       最晩年の2通に関しては、最初からそのようなショパンの手紙など存在せず、一字一句が全てカラソフスキーによる捏造である。

カラソフスキーは、最初の20通については、その改ざんされた「写し」に対して、省略、要約、意訳を加えつつドイツ語に翻訳して雑誌に連載し、一方、オピエンスキーは、その「写し」を省略なしにポーランド語のまま雑誌で公表した。ただし、その際にオピエンスキーもまた、独自にさらなる加筆改ざんを施しているのである。

 

 

 

私は今まで、「ビアウォブウォツキ書簡」を検証しながら、彼とショパンとの間にあって、今までずっと看過されてきた「真実の友情物語」を浮き彫りにしてきたつもりである。

だが、次回からは全くその逆の事をしていく事になる。

つまり、私はこれから、「ヴォイチェホフスキ書簡」を検証しながら、彼とショパンとの間にあって、今までずっと看過されてきた「捏造された友情物語」を浮き彫りにしていく事になるであろう。

 

[2011年2月14日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証7-2.ヴォイチェホフスキ書簡・第1便の真実

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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