検証6:看過された「真実の友情物語」・後編―

Inspection VI: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked (Part 2) -

 


1.1826年秋、ワルシャワ音楽院へ―

  1. In autumn, 1826, to the Warsaw Conservatory-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 3つのエコセーズ▼≫
 

今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡・第11便」で、これはショパンがライネルツからワルシャワに戻ってじきに書かれたものである。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第11便)■

(※原文はポーランド語、一部ラテン語が混在)

「ワルシャワ 112

大切なヤシ!

この3ヶ月が飛ぶように過ぎ去ってしまった。君に手紙を送ったのがつい最近のようにも思えるし、その間、まるでおとぎ話の中にいるみたいだった;自分で自分の過ちを告白するが、あれから早くも四半期分の歳を取った事は認めよう。そんな僕を許してくれるとは、神よ、なんと慈悲深い事だろう;彼の寛大さは、雲にまで達するだろう!...しかし、僕自身の方はどうだと言うのか、警告するが、僕は怒っている、その怒りは、僕がまるでバカみたいに今日まで待ち呆けていた1枚の紙切れ以外の何も和げる事は出来ない。ソコウォーヴォからの20日付の手紙を受け取った事については、神を称えよう、しかし今日は2日なのに、それ以降はもらっていない。君の穀物やジャガイモや馬などあらゆるものに僕がどれほど関心を持っているか、君には分かるはずもないだろうが、考えても見てくれ! そして自分を恥じてくれ! 上記の嘆願書から、救済の方法に目を向けてくれ、そうすれば;求める者には許しが与えられる(※ラテン語petenti veniam dabo.

ブルンネルの様子がどうかについては、下記に説明する:コラレオンは1ヶ月前に完成していたんだけど、彼は君のパパから何も知らせを受けていない、だから彼はそれをバラバラに解体して、それで今再び組み立てているところだ、と言うのは、僕が彼に、それを見せてくれたら嬉しいと話したから。彼は君のパパが喜ぶだろうと言っている、と言うのも、コラレオンがずっとここにあったお陰で、彼はいくつかの改良(それについてたくさん話してくれた)を発明したので、明らかに役に立ったと言う事らしい。僕はまだそれを見ていないので、詳しくは君に説明できないが、見たらその後で、君に郵便で知らせるよ。彼が受け取るべきお金に関しては、これから君のパパに手紙を書くと言っているから、自分の意見を書くだろう(なぜなら、20日に書かれた手紙を受け取っているので)。それでどうなったのか? その答えがこれで、すなわち委託販売にする事、これが最も良い解決法だ。僕がこのように活動的な動き(※ラテン語activitasをするのはいつ以来だか知りたいかい? 答えは短い;ソコウォーヴォ以来だよ、実際、僕は太ってひどく怠け者になってしまい、一言で言えば、何もしたくない。この機会に、僕の生活について聞きたいだろう、僕はもう高等中学校には通っていない。なぜなら、ドイツ人の医者やドイツ・ポーランド系の医者達からできるだけ歩くように言われているのに、あそこに強制的に16時間も座っているなんて馬鹿げた事だし、一方では、この1年間に違う事を勉強できるのに、同じ講義を2度聴くなんてのも愚かな事だ。そういう訳で、僕は今、エルスネルのところへ厳格な対位法を学ぶために週6時間通っている;ブロジンスキ教授とベントコフスキ教授、その他、何かしら音楽に関係のある科目の講義を聴いている。9時には寝床に入る。お茶会、夜会、ちょっとした舞踏会など、全てが出入り禁止になった。マルツ先生の指示で、僕はエメティック液を飲んでいて、それにオートミールだけを食べている、まるでのように(※ラテン語quasi。しかし、ライネルツにいた時に比べてここの空気は僕には良くなくて、来年もまた(僕が)温泉治療に来るだろうと(現地の)彼らは歌っているが、それに関しては僕は距離を置いていて、おそらく行くのであれば、チェコとの国境近辺よりもパリの方がいいだろう。バルチンスキは今年中にも出国するよ、僕の方は...50年後になるかも知れない。

神の恵みがありますように。キスしてくれたまえ、大切なヤシ、郵便を通じてもっと沢山(手紙を)受け取れるだろう。

F.F.ショパン

 

手紙に使用している紙はライネルツで買ったものだよ。

ジヴニー氏、デケルト夫人、その他の人たち皆が君によろしくと。

我々のパパに僕たちの挨拶を送り、僕は彼に追伸で感謝を送る。

追記: ジェヴァノフスキ、ビアウォブウォ(ツキ)、チソフ(スキ)、その他の方々へも。

コンスタンチア嬢にルドゥヴィカと皆から、郵便で手紙を出します。

 

[手紙の裏面に]

[スタンプ]: ワルシャワ 102

102

 

ヤン・ビアウォブウォツキ殿へ、

ソコウォーヴォ宛

プウォツク近郊 [ 最初bontéと書かれていた単語をプウォツク(Płock)に書き直している。]

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)、 

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

及び、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

       ソウタン版の註釈には、使用された用紙は濃い青、2枚、各用紙のサイズ:22.5 x 19.5cm。透かし模様:縦線とライネルツ市の紋。とある。

 

 

まずは日付について。

ソウタン版では、この手紙の冒頭の日付は「ワルシャワ 112日 [土曜日 1826年]としてあり、それについて次のように説明している。

 

1826年にこの手紙が書かれたであろうと示唆しているのは、次の“くだり”である:

a            コラレオン。これは、ヴィブラニェツキとブルンネルとの間で、1826年1月29日に成約した契約の追記(手紙第8便を参照のこと)に見られる通り、この年の630日までに出来上がっているはずのものであったが、同年12月になってもドブジン村に納品されていなかった。やっと1827年の第1四半期になって納品された:

b            “高等中学校には通っていない” − ショパンは学校を18267月に終了している。その年の秋から、中央音楽学校に通い始めている:

c           彼が思い出を書いている通り、ショパンは1826年の夏季休暇をライネルツで過ごしている。

手紙原文に明確に記載されている112日」の日付と、住所の横に捺印された郵便局の日付“102日”(ドイツ語)との相違については説明できない。これは、郵便局の間違いではなく、多分ショパンの間違いではなかったかと想像される。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

ただし、ソウタン版ではこの日付が[土曜日]となっているが、これに関しては間違いである。

1826年のカレンダーは下図の通りで、それが102日”なら「月曜日」であり、112日」なら「木曜日」であるから、どっちみち[土曜日]にはならない。

 

1826年秋のカレンダー

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ソウタンがこのような基本的な間違いを犯すはずがないので、これはおそらく誤植か校正ミスである。

面白いのは、オピエンスキー版でも同様に[土曜日]となっている事だ。ただし、こちらに関しては誤植でも何でもない。オピエンスキーは、ソウタン版をそのまま何も考えずに書き写しているだけなのだ。だからそれが間違いである事にも気付かない。要するにオピエンスキーは、自分では資料の記述に関して一切事実確認や検証を行なっていない事が、これではっきりと暴露されてしまう訳なのである。一方シドウ版では、こちらは間違いに気付いたのか、「曜日」の部分は削除されており、記されていない。

       このオピエンスキーと言う編者については、「ヴォイチェホフスキ書簡」の項でまた詳述するが、彼は、カラソフスキーがショパンの手紙を改ざんしたのと全く同じ手法を用いてショパンの手紙を改ざんしている。この事もまた、本稿が初めて告発する事になるのだが、ここでは取り敢えず、この人物の資料の取り扱い方がいかにいい加減であるかと言う事実を知っておいて頂きたい。

 

 

それでは、手紙の内容の方を順に見ていこう。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#1.

「ワルシャワ 112

大切なヤシ!

この3ヶ月が飛ぶように過ぎ去ってしまった。君に手紙を送ったのがつい最近のようにも思えるし、その間、まるでおとぎ話の中にいるみたいだった;

 

すでに述べたように、ショパンが書いた112日」と言う日付は彼の勘違いと言うか、書き間違いであり、実際は郵便局のスタンプにあるように102日」である。

その事は、手紙に書かれている内容からも分かる。

ここでショパンは、前に「君に手紙を送った」のを3ヶ月」前と書いている。

その「手紙」と言うのは「ビアウォブウォツキ書簡・第10便」の事であるが、しかしその手紙には日付が記されておらず、ソウタンはこれを18266月]と推定していたが、私はそれをさらに突き詰め、「魔弾の射手」の上演初日から逆算して、だいたい「612日〜19日」あたりと推定した。つまり6月中旬頃」である(※下図参照)。

 

1826

6(第10便)

 

7(魔弾の射手)

 

8(ライネルツ)

 

9(ライネルツ)

 

10(第11便)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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であるから、厳密に言えば第10便は「3ヵ月半」近くも前だった事になる訳だが、しかしこれなら、この3ヶ月が飛ぶように過ぎ去ってしまった」と書くには十分許容範囲だろう。

一方、仮に第11便がショパンの自筆通り112日」だとなると、4ヵ月半近くも空いてしまう事になり、それではとても3ヶ月」とは言えないし、また「おとぎ話」、つまりライネルツでの夏休みについて言及するにしても、すでに1ヶ月以上も前の話になってしまう。それでは、それぞれの手紙の内容の、その前後関係がスムーズにつながらないのである。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#2.

自分で自分の過ちを告白するが、あれから早くも四半期分の歳を取った事は認めよう。そんな僕を許してくれるとは、神よ、なんと慈悲深い事だろう;彼の寛大さは、雲にまで達するだろう!...しかし、僕自身の方はどうだと言うのか、警告するが、僕は怒っている、その怒りは、僕がまるでバカみたいに今日まで待ち呆けていた1枚の紙切れ以外の何も和げる事は出来ない。ソコウォーヴォからの20日付の手紙を受け取った事については、神を称えよう、しかし今日は2日なのに、それ以降はもらっていない。君の穀物やジャガイモや馬などあらゆるものに僕がどれほど関心を持っているか、君には分かるはずもないだろうが、考えても見てくれ! そして自分を恥じてくれ! 上記の嘆願書から、救済の方法に目を向けてくれ、そうすれば;求める者には許しが与えられる(※ラテン語petenti veniam dabo.

 

ショパンはまず、その3ヶ月」の間に自分がビアウォブウォツキに手紙を書かなかった事を「過ち」として詫びている。

そしてその「過ち」について、ビアウォブウォツキが「ソコウォーヴォから」送って来た20日付の手紙」で、おそらく彼がショパンの手紙執筆に関して、「たぶん忙しいだろうから」とか何とか言って理解を示し、「許してくれる」ような事を書いていたらしい事が分かる。

 

それはそうと、そのビアウォブウォツキからの「手紙」なのだが、この20日」と言う日付は、普通に単純に考えれば9月の20日」になるのだが、果たしてそれでいいのだろうか?

と言うのは、その20日付の手紙」がワルシャワに届くのは、早くても3日後ぐらいで、遅くとも1週間以内には届いているなずなのである。すると、ショパンはその手紙を受け取ってから返事を書くまでに、せいぜい1週間前後しか経っていない事になる。それなのに、もう「それ以降はもらっていない」と言うのでは、あまりにもせっかち過ぎると言うか、むしろちょっと話の辻褄が合っていないような気がするからだ(※下図参照。がビアウォブウォツキからの手紙、がショパンの手紙)。

 

1826

9(ビアウォブ便)

 

10(第11便)

 

 

 

 

 

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なので、この20日」と言うのは、おそらく9月の事ではあるまい。

それでは何月なのか?

それをはっきり特定するのは難しいが、前にショパンが第10便を書いた時、その6月の時点でビアウォブウォツキからの最新の手紙は「415日頃」だった(※下図参照)。

 

1826

4(ビアウォブ便)

 

5(第9便)

 

6(第10便)

 

7(ビアウォブ便?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おそらく、ビアウォブウォツキが手紙を書くペースから察して、ショパンがライネルツに発つ前、つまり7月の20日」だったとすれば、ショパンが今回の手紙に書いている内容とも辻褄が合うのではないだろうか。

ちょうどその頃ショパンは、ライネルツへの出発の準備で忙しく、その20日付の手紙」に対して返事を書く暇がなかった可能性も高いだろうから、それに関して3ヶ月」も空いてしまったのを「過ち」として詫びているのも分かるし、逆に、ショパンがビアウォブウォツキからの手紙を「それ以降はもらっていない」「怒っている」のも、これなら合点がいくだろう。

いずれにせよ、このように、ショパンが「何月」かをはっきりと書いていないのは、言うまでもなく、「手紙の中の当事者達」にはいちいち書くまでもなく分かりきっている事だからなのである。逆に言えば、ショパンにしてみれば、わざとそれを書かない事によって、「そんな分かりきった事を僕に言わせないでくれよ」と言う風に、ビアウォブウォツキからの手紙が遅い事への思いを、そこに込めているとも言えるのだ。

たとえば、仮にこれが、「手紙の外の部外者達」、つまり不特定多数の第三者に読ませる事を目的にした文章であるとか、あるいはそれを前提に書かれた小説や贋作のようなものであれば、その筆者は、このように「何月」かを書き落とすはずがないのである。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#3.

ブルンネルの様子がどうかについては、下記に説明する:コラレオン1ヶ月前に完成していたんだけど、彼は君のパパから何も知らせを受けていない、だから彼はそれをバラバラに解体して、それで今再び組み立てているところだ、と言うのは、僕が彼に、それを見せてくれたら嬉しいと話したから。彼は君のパパが喜ぶだろうと言っている、と言うのも、コラレオンがずっとここにあったお陰で、彼はいくつかの改良(それについてたくさん話してくれた)を発明したので、明らかに役に立ったと言う事らしい。僕はまだそれを見ていないので、詳しくは君に説明できないが、見たらその後で、君に郵便で知らせるよ。彼が受け取るべきお金に関しては、これから君のパパに手紙を書くと言っているから、自分の意見を書くだろう(なぜなら、20日に書かれた手紙を受け取っているので)。それでどうなったのか? その答えがこれで、すなわち委託販売にする事、これが最も良い解決法だ。

 

「コラレオン」と言う新種のオルガン系楽器に関しては、1826212日」付の第8便で、

「君のパパがワルシャワに来たよ。うちに寄った後、ブルンネルのところへ行って、コラレオンを教会のために注文していた」

と書かれていた。

ショパンがブルンネルの様子がどうかについて」と書いていると言う事は、ビアウォブウォツキが寄こして来た20日付の手紙」に、その件について尋ねる内容が書かれていた事を示唆している。

なので、この箇所に書かれている20日に書かれた手紙を受け取っている」と言うのは、おそらく、ビアウォブウォツキの手紙と一緒にヴィブラニェツキ氏の手紙が同封されていて、それで彼からブルンネルへの手紙を託されていたのではないかと思われる。

つまり、これはこう言う事だ。

ソウタンの註釈にあったように、コラレオンは、「ヴィブラニェツキとブルンネルとの間で、1826年1月29日に成約した契約の追記に見られる通り、この年の630日までに出来上がっているはず」だったので、ヴィブラニェツキの方では、出来上がったらブルンネルから連絡があるだろうと思っていて、一方のブルンネルの方では、期日は決まっているのだからその頃にはヴィブラニェツキから「知らせ」があるだろうと、双方がそんな感じで連絡を怠っていたようなのだ。

要するにここでのショパンは、その両者の橋渡し役を務めていた事になるようだ。

その結果として、以下に続く文章につながっていく訳である。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#4.

僕がこのように活動的な動き(※ラテン語activitasをするのはいつ以来だか知りたいかい? 答えは短い;ソコウォーヴォ以来だよ、実際、僕は太ってひどく怠け者になってしまい、一言で言えば、何もしたくない。

 

つまりショパンはここで、ビアウォブウォツキ、あるいはヴィブラニェツキ氏のためであれば、自分はこのように活動的な動き(※ラテン語activitasをする」のを少しも厭わないのだと、そう言っているのである。ここでそれを言うのにわざわざラテン語を使っているのは、その気持をショパンなりに強調するためである。

なぜなら、ショパンが最後に「ソコウォーヴォ」を訪れたのは去年の夏であり、あの時は、どう言う訳かショパンがソコウォーヴォへ行く事が禁じられていた。

ところが、ショパンはシャファルニャ滞在の最後の最後になって、ビアウォブウォツキに会うためにソコウォーヴォ訪問を敢行するのである。

だが、残念な事に彼らは行き違いになってしまい、結局会う事が出来なかった。

ショパンが今回の手紙で、その時の事を引き合いに出して僕がこのように活動的な動き(※ラテン語activitasをするのは」と言っていると言う事は、つまり去年の夏のソコウォーヴォ訪問と言うのは、普段は何かにつけて受動的かつ消極的であるショパンにしては珍しく、彼が自らの意志で能動的かつ積極的に行動した事だった事がここから分かるのだ。

と言う事は、逆に言えば、今年の夏のライネルツにおける「慈善コンサート」は、ショパンがこのように活動的な動き(※ラテン語activitasを」したうちには数えられていない事にもなり、するとやはりあれは、前回検証したように、エルスネルから「頼まれていた仕事」だったと言う可能性が一段と高くなるとも言えるのではないだろうか?

 

あと、ショパンはここで、

僕は太ってひどく怠け者になってしまい、一言で言えば、何もしたくない

と書いているが、これはそのまま、ライネルツからコルベルク宛に書いた手紙と全く同じである。

「僕は太って今まで以上に怠け者になった、僕が長い間ペンを取る気にならなかったのはそのせいだと思ってくれたまえ」

このように、同じ時期に別の相手に出した手紙の内容が重複するのは、その両者が遠く離れているか、あるいは近くにいても交流がないかのどちらかである。

この場合はもちろん、ビアウォブウォツキとコルベルクが現在遠く離れて暮らしているためである事は間違いないが、ただし、ショパンが書いたビアウォブウォツキ宛の手紙でコルベルクについて触れられた事はなく、その逆もまた然りである事から、ビアウォブウォツキとコルベルク自体は特に親しくはなかったのだとも考えられる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#5.

この機会に、僕の生活について聞きたいだろう、僕はもう高等中学校には通っていない。なぜなら、ドイツ人の医者やドイツ・ポーランド系の医者達からできるだけ歩くように言われているのに、あそこに強制的に16時間も座っているなんて馬鹿げた事だし、一方では、この1年間に違う事を勉強できるのに、同じ講義を2度聴くなんてのも愚かな事だ。そういう訳で、僕は今、エルスネルのところへ厳格な対位法を学ぶために週6時間通っている;ブロジンスキ教授とベントコフスキ教授、その他、何かしら音楽に関係のある科目の講義を聴いている。

       以下、ソウタンの註釈による。

1.         ショパンは1826年の秋から中央音楽学校(Szkoła Główna Muzyczna)に通っている。これはワルシャワ音楽学院の分校で、ユゼフ・エルスネルが監督していた。

2.         ユゼフ・クサヴェリ・エルスネル(Józef Ksawery Elsner17691854)。中央音楽学校の校長、ワルシャワ大学の作曲学の教授。優秀なポーランドの作曲家であり、教授であり、ショパンの心からの友人であった。

3.         カジミシュ・ブロジンスキ(Kazimierz Brodziński)。詩人、当時、ワルシャワ大学でポーランド文学史を講義していた、詩風作家、美学家。

4.         フェリックス・ヤン・ベントゥコフスキ(Feliks Jan Bentkowski17811852)。世界史の教授で、ワルシャワ大学美学部の学長を務めていた。

 

ここで一つ確認しておく事がある。

この1826年秋からショパンが通い始めたワルシャワ音楽院と言うのは、実は二つに分かれているうちの一つなのである。

 

「というわけでこの秋、ドゥシュニキから戻ったショパンは、音楽院の――厳密に言えば、二部に分かれていたうちのより重要な方、ユゼフ・エルスネルが校長を務める「音楽学校」の――学生になった(もう一方は演劇や歌唱のクラスから成る、カロル・ソリヴァ校長の「演劇歌唱学校」)。フレデリックは「音楽理論、和声学および作曲法」の学科に入学したが、この学科で講義をし、学科長を務めるのもエルスネルだった(他の学科と違い、ワルシャワ大学の校舎内にあった)。これ以外にも、父の指導に従い、フレデリックはワルシャワ大学の国文学や歴史の講義に出ることにした。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカは「父の指導に従い」と書いているが、私は断じてそうではないと思う。

なぜなら、ショパンは高等中学校を卒業した後、ワルシャワ大学に入学するための試験を受けていないからだ。したがって、本来であれば彼は大学の講義には参加できないはずなのである。それを、単なる一教師でしかないニコラの一存で特別扱いされ得るとは、とても考えられない。

それにも関わらず、こうしてショパンが大学の講義を聴きに行っているからには、そこには必ず何か裏があるはずで、つまり、これはおそらく、音楽院の校長でもあるエルスネルの権限でなされた事で、彼がショパンにそうするよう取り計らい、指示していたのではないかと考えられるのだ。

そもそも、なぜショパンの通う「音楽学校」の方だけがワルシャワ大学の校舎内にあったのか? それは、「作曲」と言うものが創造的な仕事に属するからで、それに対して、もう一方の「演劇歌唱学校」は、あくまでも「表現者」を育てるためのものだ。つまり、同じ芸術に属するものであっても、ポーランド文化の発展にとって、その担う役割が根本的に違うのである。

前回も書いたように、エルスネルは、彼自身がそうしてきたように、ポーランドの歴史を題材にしたポーランド語の「ポーランド・オペラ」を、何としてもショパンにも、いや、むしろショパンにこそ書いて欲しいと考えているのである。その事は、彼が1834914日付でパリのショパンに送った手紙にも、はっきりとそう書かれている。

つまり、ショパンが、一見音楽とは無関係と思える「ブロジンスキ教授とベントコフスキ教授」「国文学や歴史の講義」に出ているのは、そのための知識や見聞を得るために欠かせない事なので、エルスネルがショパンにそれらの講義にも出るよう取り計らったはずだからで、だからこそ、ショパンは手紙の中で、それらを「何かしら音楽に関係のある科目」と書いているのである。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#6.

9時には寝床に入る。お茶会、夜会、ちょっとした舞踏会など、全てが出入り禁止になった。マルツ先生の指示で、僕はエメティック液を飲んでいて、それにオートミールだけを食べている、まるでのように(※ラテン語quasi

       以下、ソウタンの註釈による。

1.         エメティック(Emetyk)。アンチモン、カリと2倍の塩を酸で混ぜたもの。最近までは、愛好され、広範囲に使用されていた薬。カタルに病む気管支に適用し、咳をすることを通じて、カタルを癒すのに使用されていた。しかし、エメティック・ワインとして、即ち、吐き気を起こさせる溶液(エメティックを1、クセレスを250の割合で混ぜる)として頻繁に利用されていた。

2.         ヴィルヘルム・マルツ(Wilhelm Malcz17951852)。ショパン家の主治医(ホーム・ドクター)。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#7.

しかし、ライネルツにいた時に比べてここの空気は僕には良くなくて、来年もまた(僕が)温泉治療に来るだろうと(現地の)彼らは歌っているが、それに関しては僕は距離を置いていて、おそらく行くのであれば、チェコとの国境近辺よりもパリの方がいいだろう。バルチンスキは今年中にも出国するよ、僕の方は...50年後になるかも知れない。

       ソウタンの註釈によると、「ライネルツ」は、ドゥシュニキ(Duszniki)、ドイツ名でライネルツ。小さな町であるが、アルカリ性のギシギシ(Sorrel)を含む泉が13ヶ所ある。海抜366m。スデティ山脈の麓、クウォツク郡、プルス・シレジアのヴロツワフ地域。ショパンは、母や姉妹達(ルドヴィカ、エミリア)と共に1826年の夏季休暇をここで過ごした。とある。

       また、ここでの「バルチンスキ」については、「バルチンスキは、182710月に、国外へ留学するための政府費用で派遣された。」とある。

 

「チェコとの国境近辺」と言うのはすなわち「ライネルツ」の事である。ライネルツはワルシャワから南西へ約300キロ以上も離れた最果てにあり、それはちょうど「チェコとの国境近辺」に位置する。ショパンがそこよりも「パリの方がいい」と書いているのは、健康上の問題ではなく、あくまでも精神上の問題、つまり職業的な問題で言っている事なのだ

いつも近くにいたバルチンスキが、分野こそ違えども、そうやって国外へ旅立って行くのを見て、いつか自分もと思いを馳せているのだ。この秋から音楽院に通うようになって、ショパンがそう言う自分の将来について具体的に考え始めるようになったと言う事なのである。

ただし、それを50年後」と書いているのは、別に本心からそう思っている訳ではなく、ショパンのいつもの消極性と謙虚さとが綯い交ぜになっての発言で、いかにも彼らしいと言えよう。

そのバルチンスキについては、ショパンは212日」付の第8便で、「バルジンスキ氏はすでに僕達の家にいない。彼は学位の試験が近いので、論文を書くのに静かな所じゃないとね」と書いていた。バルチンスキはその結果、その時のソウタンの註釈にもあったように、無事、「論文(題名:“放射線の湾曲性理論に関する総合的な考察”)をもとに、1826年に修士号を取得」したのである。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#8.

神の恵みがありますように。キスしてくれたまえ、大切なヤシ、郵便を通じてもっと沢山(手紙を)受け取れるだろう。

F.F.ショパン」

 

ショパンがこのように手紙を結ぶ場合、その手紙自体は「郵便」では送らずに、誰か知人を介して手渡しで届けてもらうつもりで書いているものなのである。その場合は、手紙の内容も、今回のように比較的短くなる。

おそらくこの手紙も、最初はそのようにしてソコウォーヴォへ届けてもらうはずだったものと思われる。ところが、そのメッセンジャーを務める人の予定が急に変わったとか、あるいは第8便の時のように、ワルシャワ訪問中のヴィブラニェツキ氏に渡すつもりが渡しそびれてしまったとか、何かそう言った事情で、結局自分で郵便局に持ち込む事になったのだろう。

ショパンが日付を間違えたのも、おそらく、そのメッセンジャーに渡すために書き急いでいたためだと思われる。

 

これ以降は、毎度お馴染みの追伸部分になる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#9.

手紙に使用している紙はライネルツで買ったものだよ。

ジヴニー氏、デケルト夫人、その他の人たち皆が君によろしくと。

我々のパパに僕たちの挨拶を送り、僕は彼に追伸で感謝を送る。

追記: ジェヴァノフスキビアウォブウォ(ツキ)チソフ(スキ)、その他の方々へも。」

       以下、ソウタンの註釈による。

1.         この「ジェヴァノフスキ」は、「多分ユリウシ・ジェヴァノフスキ家Juliuszostwo Dziewanowski、シャファルニャ持ち地所地主。」

2.         この「ビアウォブウォ(ツキ)は、「多分ビアウォブウォツキの親族で、ウーカシュ・イジドル・ビアウォブウォツキ(Łukasz Izydor Białobłocki1793年生まれ)。パヴェとビストゥラム家出のマリアンナとの息子で、ヤン・ビアウォブウォツキの実の従兄弟(彼の叔父の息子)。チソフスカ夫人が持っていたソコウォーヴォ村近辺の土地、ラドミン村の貸借人(ポーランド家紋集、第836号)。」

3.         この「チソフ(スキ)は、「多分、チソフスキ家。」

 

「我々のパパ」と言うのは、ビアウォブウォツキの継父ヴィブラニェツキ氏を指している。

ショパンが自分の父親以外の事をこのように呼ぶのは他に例がないだけに、それほどヴィブラニェツキ氏の事を慕っていると言うのがよく分かる。

 

ここで一つ私が個人的に気になるのは、追伸に、珍しく「ジェヴァノフスキ」の名がある事だ。

ショパンの友人である息子ドミニクの方は、夏季休暇を終えてワルシャワに戻って来ているはずだから、この「ジェヴァノフスキ」は、ソウタンの註釈にあるように父親のユリウシの方だろう。

今までは、追伸で「シャファルニャ」と言う地名を使って当地の人々に向かって挨拶を送る事はあっても、その領主である「ジェヴァノフスキ」の個人名が出てくる事はなかった。

私は以前、第2便を検証した際に、シャファルニャの領主ジェヴァノフスキ氏と、ソコウォーヴォの領主ヴィブラニェツキ氏との間で、何か仲たがいでもあったのではないだろうか?と考え、その仮説を考慮しつつ、ショパンの1825年におけるシャファルニャ滞在について考察していった訳だが、もちろん私はこの仮説をごり押しするつもりはないが、仮にそうだとすると、あれからもう一年が過ぎ去っている事だし、この両者の仲たがいも、もう修復していると考えてもいいのかもしれない。

たとえば、仮にこの二人の仲たがいの原因が、転地療養を兼ねて夏休みを過ごしに来るショパンを、どちらの家で預かるかと言う問題だったとしたら、もう今年はその件はご破算になってしまったのだから、それが両者の頭を冷やす事につながったとも言えるのではないだろうか。

このジェヴァノフスキ氏は、次回の第12便では、追伸ではなく、手紙の本文の中に登場する事になる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#10.

コンスタンチア嬢にルドゥヴィカと皆から、郵便で手紙を出します。

 

ここでも「郵便で」とあるので、やはりこの手紙自体は、最初は郵便で送るつもりで書いていたのではないと思われる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便#11.

[手紙の裏面に]

[スタンプ]: ワルシャワ 102

102

 

ヤン・ビアウォブウォツキ殿へ、

ソコウォーヴォ宛

プウォツク近郊 [ 最初par bontéと書かれていた単語をプウォツクpar Płockに書き直している。]

 

さらに、ショパンがこの最後に書き込んでいたpar bontéと言う言葉なのだが、これはフランス語であり、直訳すると「親切によって」と言うような意味になるのだが、これは第2便の最後にも、同じように宛先を書いたあとにpar bontéと書き込まれていた。

本来であれば、正規の郵便で出す時は、たとえばソコウォーヴォへ送るのであれば、それはpar Płockプウォツク近郊)」と書くのが正式な宛先の書き方なのである。

つまり、par bonté(親切によって)」と言うのは、最初から郵便で出すつもりはなく、誰か知人の「親切によって」手渡しで届けてもらうと言う意味で、ショパンが洒落で書いた宛名書きのようなものではないかと考えられる(※第2便も、内容が短い上に日付が書かれておらず、「手渡しの手紙」の特徴を備えたものだった)。

そうすると、やはりこの手紙は、最初は郵便で出すつもりではなかった事になり、急遽予定が変わったので、ショパンが郵便局に持ち込む際にきちんと書き直した事になる訳だ。

 

[2010年12月25日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証6-2.1827年新春、行間に消えた年賀状

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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