検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――

Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–

 


10.ビアウォブウォツキの沈黙――

  10. The silence of Bialoblocki.-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 マズルカ 第52番(第51番) 変ロ長調▼≫
 

今回は「ビアウォブウォツキ書簡」の第8便である。

何気に初登場の人名が多数出てくるが、敢えて、まずは註釈なしに読んでいただきたい。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ビショフスヴェルダーのヤン・ビアウォブウォツキへ(第8便)■

(※原文はポーランド語で、一部ドイツ語の単語が混在)

「ワルシャワ、1826212日 [日曜日]

親愛なるヤシ!

あまりにも長い事君から知らせが届いていないので、僕はひどく残念に思っている。僕が前に手紙を書いたのは1825年で、もう1826年だというのに、この間、君から手紙を1通ももらっていない! 時折コンスタンチア嬢、別名コストゥシャからルドヴィカ宛に手紙が来るだけで、僕らのよりも頻繁にやり取りされている、その手紙の中で、君の健康について何やら書いてある、僕ら家族が君の健康についてどれほど関心を持っているか、君は知っているだろう。郵便配達人(ちなみにヴィシンスカ夫人じゃないよ)が緑の中庭に入ってくるたびに期待するけど、彼の靴音が階段の上まで聞こえて来なかったり、手紙の赤い消印がドブジン村からじゃなくて、ラドムかルブリンかその他だったりすると、却って彼は僕らを悲しませる事になる。でもそれは、本当は郵便配達人の落ち度じゃなくて、手紙を書く人のせいだ、奴さんはきっと、気の毒な太っちょに階段を登らせて疲れさせたくないだけの理由で手紙を書かないんだろう。でも、君はそんなに彼の事を思いやってやる必要はない。こんな寒い冬に、誰も暑いなんて文句は言わない。みんなが寒いと不満をたらすのを聞くだけさ。だから、親愛なるヤシよ、復活祭の前までに、彼に2度ほど運動させて温めてやったところで、何の差し障りがあるもんか。これだけ意見したんだから、この手紙に対する返事は確実だろうと期待している。この手紙と前回の分と、両方の返事が欲しいな。僕は国王陛下殿の(昔々の)気前良さを知っているから、僕の嘆願書の成果を信じて疑わないよ。

スタシッツに関する事は君に書かないけど、彼の非常に貧疎な葬式について一般の新聞やその他の通信がニュースを流したので、多分、君はすでにこの事を知っていると思う。アカデミーの学生達が、聖十字協会から、彼を葬る予定のビエラニ地区まで棺を担いで行った。スカルベクが墓前で弔辞を述べ参列者達が、敬愛と熱狂のために棺に抱きつくようにしてお別れをした。僕も記念として、棺台に掛けてあったビロードの覆いの切れ端を持っている。最終的には、2万人もの参列者が棺とお別れをした。数人の元気の良い輩達が棺を運ぶ道の途中で騒々しく罵倒したり、商人達が尊い偉人の棺を担ぐ手助けをしたり、あるいは、一般の人達がアカデミーの学生達の運んでいる棺を取り上げようとしたりした。僕は君に、ディベックが亡くなったと伝えるのを忘れる訳にはいかない。ニエムツェヴィチの体は弱っているらしい。みんなが病気している。僕もだ。君は多分、僕がテーブルの前に腰掛けてこんな走り書きをしていると思うだろうが、違うんだ。布団の下から、ナイトキャップで締め上げた頭を出して書いているのだ。なぜか分からないが頭痛がしていて、もう4日も苦しめられている。リンパ腺が腫れたので、喉にヒルを貼り付けられた。レーメルはカタル症状だと言っている。確かに、謝肉祭の土曜日から木曜日まで、毎晩夜中の2時まで外出していたけど、そのせいだけじゃない。いつも次の朝には十分寝ているんだから。これ以上こんな病気の話をしても、君を退屈させるだろうから(君の方がもっと良くないのだからね)、なので、このページの残りは何か他の事で埋めるとしよう。君のパパがワルシャワに来たよ。うちに寄った後、ブルンネルのところへ行って、コラレオンを教会のために注文していた。僕は君宛の手紙を彼に渡したかったけど、もう行ってしまったので、我々の手紙はワルシャワに残されたのさ。アデュー、親愛なるヤシ、君の偽りなき友に、どうか手紙を書いてくれたまえ。

F.F.ショパン

 

ママとパパ、子供達みんなとズージアが、君の早い回復を願っている。

ベニアミン神父が僕に会いに来て、君によろしく言っていたよ。彼は水曜日から教義を始めるそうだ。

ジヴニー氏、デケルト夫人、バルジンスキ氏、レシチンスキ氏とみんなも。

追記:バルジンスキ氏はすでに僕達の家にいない。彼は学位の試験が近いので、論文を書くのに静かな所じゃないとね。でも、真面目なアントシの立派な後継者として、ルブリンからもう一人生徒が加わったよ!

君が早く回復するように、パパは健康のために君に千回祈りを送ると。

マリルスキは随分前に手紙を持って来たが、やっと今日、送る。[この後、単語が3つ続くが、判読不能]

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)、  

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)、

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

       ソウタン版の註釈には、使用された用紙は白、2枚、各用紙のサイズ:24 x 19.5cm。第2ページ端に透かし模様:縦線とイニシャル。とある。これは前回の第7便に使った便箋と同じものである。

       この手紙の原物は、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、その前半部分のみを写真コピーで確認する事が出来る。

 

 

では、手紙の内容を順に見ていこう。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#1.

「ワルシャワ、1826212日 [日曜日]

親愛なるヤシ!

あまりにも長い事君から知らせが届いていないので、僕はひどく残念に思っている。僕が前に手紙を書いたのは1825年で、もう1826年だというのに、この間、君から手紙を1通ももらっていない! 時折コンスタンチア嬢、別名コストゥシャからルドヴィカ宛に手紙が来るだけで、僕らのよりも頻繁にやり取りされている、その手紙の中で、君の健康について何やら書いてある、僕ら家族が君の健康についてどれほど関心を持っているか、君は知っているだろう。」

 

さて、前回の第7便が1825年」のクリスマス・イヴだったので、あれから一ヵ月半以上が過ぎ去っている訳だが、その間ショパンは、ビアウォブウォツキから「手紙を1通ももらっていない!」と書いている。 

それでは、この音信不通はいつまで続くのか? つまり、ショパンがこの次にビアウォブウォツキから手紙をもらうのは、一体いつになるのだろうか?

具体的な日付は特定できないが、ショパンは次の第9便で、ビアウォブウォツキから手紙をもらった事について触れている。触れてはいるのだが、その第9便自体が書かれたのが1826515日]で、何と3ヶ月も後になり、しかもショパンはその中で、ビアウォブウォツキへの返事がかなり遅れてしまった事を詫びている。それがどれくらい遅れたのか分からないが、内容から1ヶ月くらいの猶予が見込まれるようなので、おそらくビアウォブウォツキからの音信不通期間は、だいたい3ヶ月半〜4ヶ月はあったものと思われる(※下図参照)。  

 

1825/12

 

1826/1

 

2

 

 

 

 

 

 

 

10

10

11

12

13

14

10

11

11

12

13

14

15

16

17

15

16

17

18

19

20

21

12

13

14

15

16

17

18

18

19

20

21

22

23

24

22

23

24

25

26

27

28

19

20

21

22

23

24

25

25

26

27

28

29

30

31

29

30

31

 

 

 

 

26

27

28

 

 

 

 

 

3

 

4

 

5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10

11

10

11

12

13

12

13

14

15

16

17

18

10

11

12

13

14

15

14

15

16

17

18

19

20

19

20

21

22

23

24

25

16

17

18

19

20

21

22

21

22

23

24

25

26

27

26

27

28

29

30

31

 

23

24

25

26

27

28

29

28

29

30

31 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらにショパンは、その1826515日]付の第9便の中で、3ヶ月前」の事について言及しており、それはちょうど、今回の第8便が書かれた1826212日」の直後にあたる。そのため、ショパンの方でも、第8便と第9便の間には手紙を書いていなかったらしい事が分かる。

 

それでは、一体何がビアウォブウォツキをここまで沈黙させたのか?

 

前回も前々回も書いたように、おそらくビアウォブウォツキは、「ビスクピエッツ町(ビショフスヴェルダー)に於ける温泉療法」の傍ら、12月下旬頃に「外科的な治療」の診察のために外科医の許を訪れていたはずなのである。そしてその診察結果を、彼はジヴニーに新年の8日後(元旦から8日後まで)」に知らせるよう密約を交わしていた訳だ。おそらくその「ビアウォブウォツキからジヴニーへの手紙」は、「コンスタンチア嬢からルドヴィカへの手紙」に同封されてジヴニーの許へ届けられていたのではないだろうか(※下図参照)

 

1825/12

 

1826/1

 

2

 

 

 

 

 

 

 

10

10

11

12

13

14

10

11

11

12

13

14

15

16

17

15

16

17

18

19

20

21

12

13

14

15

16

17

18

18

19

20

21

22

23

24

22

23

24

25

26

27

28

19

20

21

22

23

24

25

25

26

27

28

29

30

31

29

30

31

 

 

 

 

26

27

28

 

 

 

 

 

つまり、その診察結果が、ビアウォブウォツキにとって残酷な現実を突きつけていたために、彼はしばらくの間そのショックから立ち直れずにいた…と言う事なのである。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#2.

郵便配達人(ちなみにヴィシンスカ夫人じゃないよ)が緑の中庭に入ってくるたびに期待するけど、彼の靴音が階段の上まで聞こえて来なかったり、手紙の赤い消印がドブジン村からじゃなくて、ラドムかルブリンかその他だったりすると、却って彼は僕らを悲しませる事になる。」

       「ヴィシンスカ夫人」については、どの書簡集でも註釈が施されておらず、詳細不明である。ただし、この書かれ方から察すると、よくショパン家に使いで手紙を届けに来てくれる人のようではある。

 

前回の第7便にも書いてあったように、当時のショパン家は「カジミエシュ宮殿のパヴィリオンの2階」に住んでいたので、つまりこの箇所は、

 

郵便配達人(カジミエシュ宮殿の)緑の中庭に入ってくるたびに(君の手紙を)期待するけど、彼の靴音が(パヴィリオンの2階の僕の家の)階段の上まで聞こえて来なかったり、(仮に2階まで来ても)手紙の赤い消印がドブジン村からじゃなくて、ラドムかルブリンかその他だったりすると、却って彼は僕らを悲しませる事になる。」

 

…と言う意味になる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#3.

「でもそれは、本当は郵便配達人の落ち度じゃなくて、手紙を書く人(※つまりビアウォブウォツキの事)のせいだ、奴さん(※これもビアウォブウォツキ)はきっと、気の毒な太っちょ(※「郵便配達人」に階段を登らせて疲れさせたくないだけの理由で手紙を書かないんだろう。」

 

ここでショパンは、「郵便配達人」「手紙を書く人」2つの単語に、それぞれBriefträgerBriefschreiberと言うドイツ語の単語を当てている。

なぜここだけドイツ語の単語を使ったのだろうか?

これはおそらく、今ビアウォブウォツキがビショフスヴェルダーにいるからだろう。

4便にも書いてあったように、ビショフスヴェルダーは地理的には「旧プロイセン」になり、プロイセンは13世紀頃にドイツ騎士団によってドイツ化され、主要民族はドイツ人で、もちろん公用語もドイツ語である。そして、ショパンは次回の第9便で、ビショフスヴェルダーから帰って来たビアウォブウォツキの事を冗談で罵るのに、「(君は)ドイツ的美徳を習得したと見えると表現している。それに、そもそもショパンが使っている「ビショフスヴェルダー」と言う地名自体がドイツ語であり、彼は決してそれをポーランド語で「ビスクピエッツ町」とは書いていないのである。

すなわち、ショパンにとって、今現在「ビショフスヴェルダー」にいるビアウォブウォツキからの手紙と言うのは、「ドイツ語圏から送られて来るもの」と言う認識があると言う事なのだ。だから、「手紙を書く人」であるビアウォブウォツキもドイツ人(=Briefschreiber)なら、それを届けてくれる「郵便配達人」もドイツ人(=Briefträger)になると言う意味である。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#4.

「でも、君はそんなに彼(※「郵便配達人」の事を思いやってやる必要はない。こんな寒い冬に、誰も暑いなんて文句は言わない。みんなが寒さに不満をたらすのを聞くだけさ。だから、親愛なるヤシよ、復活祭の前までに、彼に2度ほど運動させて温めてやったところで、何の差し障りがあるもんか。」

       「カジミエシュ宮殿のパヴィリオンの2階」と言うのは、ソウタンの註釈では、「当時、ショパン家はカジミエジョフスキ宮殿(現在はワルシャワ大学が管理する建物)の右側入り口の2階に住んでいた。」とある。(※つまりビアウォブウォツキの事)

 

このようなジョークが思いつくほど、どうやらこの「郵便配達人」「太っちょ」だったらしい。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#5.

「これだけ意見したんだから、この手紙に対する返事は確実だろうと期待している。この手紙と前回の分と、両方の返事が欲しいな。僕は国王陛下殿の(昔々の)気前良さを知っているから、僕の嘆願書の成果を信じて疑わないよ。」

       「国王陛下殿の(昔々の)気前良さ」と言うのは、ソウタンの註釈では、「多分、ここで言っていることは、ショパン家で頻繁に行われていた、アマチュア演劇での何かの役の事であろう。役によっては、J.ビアウォブウォツキが受け持った事は間違いない。」とある。

 

ショパンがこの中で書いている「僕の嘆願書」の調子は、まるで、一昨年の夏休みにシャファルニャで書いた「初めての家族書簡」における、「私の論文」の調子にそっくりである。

あの時は、「田舎のパン」が食べたくて、その由を理屈っぽく説明しながら母にしつこく懇願していた訳だが、非常に念入りな言い回しで、最後にしっかりオチを付けるユーモア感覚は、ショパン独特のものだ。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#6.

スタシッツに関する事は君に書かないけど、彼の非常に貧疎な葬式について一般の新聞やその他の通信がニュースを流したので、多分、君はすでにこの事を知っていると思う。アカデミーの学生達が、聖十字協会から、彼を葬る予定のビエラニ地区まで棺を担いで行った。スカルベクが墓前で弔辞を述べ参列者達が、敬愛と熱狂のために棺に抱きつくようにしてお別れをした。僕も記念として、棺台に掛けてあったビロードの覆いの切れ端を持っている。最終的には、2万人もの参列者が棺とお別れをした。数人の元気の良い輩達が棺を運ぶ道の途中で騒々しく罵倒したり、商人達が尊い偉人の棺を担ぐ手助けをしたり、あるいは、一般の人達がアカデミーの学生達の運んでいる棺を取り上げようとしたりした。

       この「スタシッツ」と言うのは、当時のポーランドでは著名人であるにも関わらず、なぜかソウタン版では註釈が施されていない。クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』によると、「スタニスワフ・スタシッツ(Stanisław Wawrzyniec Staszyc. 17551826)。最も著名なポーランドの政治記者の一人で、進歩的な社会活動家、政治家、優れた自然主義者、1808からワルシャワ科学協会の後援会長。」とある。

       この「スカルベク」と言うのは、ソウタンの註釈では、「フレデリック・フロリアン・スカルベック伯爵(Fryderyk Florian hr. Skarbek17921866)。ミコワイ・ショパンの教え子。フレデリックのゴッド・ファーザー(※代父、名親、名付け親)。ワルシャワ大学の優秀な経済教授。」とある。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#7.

「僕は君に、ディベックが亡くなったと伝えるのを忘れる訳にはいかない。

       「ディベック」と言うのは、ソウタンの註釈では、「アンドゥジェイ・フランチシェック・クサヴェリ・ディベックAndrzej Franciszek Ksawery Dybek1783年生まれ、1826年2月5日死去。ワルシャワ大学の優秀な外科教授。」とある。

 

ビアウォブウォツキは、今現在、病気の治療に専念するためにワルシャワ大学へは通っていない。おそらくは休学扱いなのだろうと思われるのだが、いずれにせよ、彼は現役のワルシャワ大学生だった訳だ。

その「ワルシャワ大学の優秀な外科教授」が亡くなったのだから、当然ショパンは、その事をビアウォブウォツキに「伝えるのを忘れる訳にはいかない」訳である。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#8.

ニエムツェヴィチの体は弱っているらしい。

       ニエムツェヴィチと言うのは、シドウの註釈では、ユリアン=ウルシン・ニエムツェヴィチ(Julien-Ursin Niemcewicz. 17571841)。 ポーランドの作家、詩人、歴史家で政治家。 彼は幼児期からショパンの熱心な崇拝者で、ニエムツェヴィチは、1818年に若きピアニストが公共の場に初登場した事に誘発されて小さなコメディを書いた。ユーモア溢れるこの寸劇は、『私達の社交界(Notre société)』と言う題で、その子供のまわりで展開する社交界の人々を描いている。18301831年の騒乱後、ニエムツェヴィチはパリに移り、彼はショパンとの関係を維持し続けた。バレストリエーリの美しい絵『ノクターーン』には、ショパンのピアノを瞑想するように聴く、長年の誠実な友人ニエムツェヴィチの姿がある。とある。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#9.

みんなが病気している。僕もだ。君は多分、僕がテーブルの前に腰掛けてこんな走り書きをしていると思うだろうが、違うんだ。布団の下から、ナイトキャップで締め上げた頭を出して書いているのだ。なぜか分からないが頭痛がしていて、もう4日も苦しめられている。リンパ腺が腫れたので、喉にヒルを貼り付けられたレーメルはカタル症状だと言っている。確かに、謝肉祭の土曜日から木曜日まで、毎晩夜中の2時まで外出していたけど、そのせいだけじゃない。いつも次の朝には十分寝ているんだから。これ以上こんな病気の話をしても、君を退屈させるだろうから(君の方がもっと良くないのだからね)、なので、このページの残りは何か他の事で埋めるとしよう。」

       「レーメル」と言うのは、ソウタンの註釈では、「多分、フリデリック・アドリ・レーメル(Fryderyk Adoli Roemer17751829)。医学博士、聖ルカ病院の主任医。」とあり、シドウの註釈では「ショパン家の主治医」とある。

 

「喉にヒルを貼り付けられた」とあるが、当時は、悪い血を吸い出すためにこのような治療法が取られていたらしい。ただし、ここに書かれている「ヒル」が本物のヒルだったのか、それとも「ヒルのような治療器具」だったのかはちょっと判断しかねる。この治療法については、これ以降の手紙でもたびたび言及されている。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#10.

「君のパパがワルシャワに来たよ。うちに寄った後、ブルンネルのところへ行って、コラレオンを教会のために注文していた。僕は君宛の手紙を彼に渡したかったけど、もう行ってしまったので、我々の手紙はワルシャワに残されたのさ。」

 

「ブルンネル」とはワルシャワの楽器製造者の一人で、「コラレオン」とはある種の鍵盤楽器の事であり、別名「エオリメロディコン」、もしくは「エオロメロディコン」とも呼ばれ、これについては、ソウタンの註釈に以下の説明がある。

 

F.ヘシックの『ショパン、人生、作品、第1巻(1904)、ページ464465』によれば、コラレオン(choraleon)、つまり、エオリメロディコン(eolimelodikon)はワルシャワ大学の植物学教授であったヤクブ・フリデリック・ヘルフマン(Jakób Fryderyk Helfmann)が発明したもので、ブルンネルはヘルフマンの構想を実現させたのみである。コラレオンなる楽器とは、オルガンに似ていて、下記に引用した契約書に見えているように、ブルンネルによってヴィブラニェツキのために製造された。ヴィブラニェツキは、自分が寄付して建堂したドゥルヴェンツァ河畔のドブジンの教会にこの楽器を寄贈した。これが契約書の引用である:

 

 “プウォツク県リップノ郡のソコウォーヴォ村の持ち地所の継承者で、現在一時期的にワルシャワに滞在されているアントニ・ヴィブラニェツキ殿下(甲)、ヴィトルド・ブルンネル(乙)との間で、コラレオンと呼ばれている楽器を製造。ワルシャワのクラコフスキエ・プシェッドミシチェ通り、第394号に居住するヴィトルド・ブルンネル(乙)との間で下記内容の契約が結ばれた。

 

§1ヴィブラニェツキ殿下(甲)が、楽器、所謂コラレオンの製作をブルンネル(乙)に注文される。この楽器は、5分の1を掛け物で覆われた全面が閉鎖されており、即ち、3番目のCから最後のGまで、全体がトリネコ材で制作され、外側は赤い色のラッカーで塗装されており、フォーン(音管)は真鍮製で、これらのフォーンには予備として26個のトレブル調整用の真鍮のスプリング――ラッカーで塗装された鉄板で作った、色は白黄、全体が曲がったもの――を付けること。この楽器は、ブルンネル氏(乙)が正確にこの記載通りに制作したものを今年の630日までに納品することを彼に義務付ける。この日に受け取りがなされるか、それとも……

§2.両者間で合意した代金4000ズローチをヴィブラニェツキ殿下がブルンネル氏に払われる。この様な方法で……

 

この契約書作成は、1826126にワルシャワで行われた。

アントニ・ヴィブラニェツキ(Antoni Wybraniecki

ヴィトルド・ブルンネル(Witold Brenner

ユゼフ・コズウォフスキ(Józef Kozłowski)、証人 ”。

(プウォツク県中央古文書保管所、第87号)

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana BiałobłockiegoZwiązku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiejより

 

この「契約書」の日付が1826126日」で、ショパンが今回の第8便を書いたのが1826212日」であるから、ヴィブラニェツキ氏がワルシャワを訪れたのはだいたい2週間半くらい前の話だったと言う事になる(※下図参照)。

 

1826/1

 

2

 

 

 

10

11

12

13

14

10

11

15

16

17

18

19

20

21

12

13

14

15

16

17

18

22

23

24

25

26

27

28

19

20

21

22

23

24

25

29

30

31

 

 

 

 

26

27

28

 

 

 

 

 

ちなみに、シドウ版の註釈では、この楽器について、「コラレオン、あるいはエオロメロディコンは、ワルシャワ大学の教授ホフマン(※ヘルフマンのフランス語名)によって発明された、ピアノとオルガンを合わせたような楽器。ホフマンの設計と指示を基に楽器製造者のブルンネルが具現化した。」とある。しかし、この「ピアノとオルガンを合わせたような楽器」と言うのは、「コラレオン」に引き続いてワルシャワで発明された「エオロパンタレオン」そのものの特徴であり、その楽器は次回紹介する第9便で言及されている。おそらくシドウはこの両者を混同しているものと思われる。

「コラレオン」はヴィブラニェツキが教会へ寄贈した事からも分かるように、あくまでも「オルガンに似て」いる楽器であり、「契約書」の説明からもピアノの要素をうかがわせるものは見当たらない。それは以下の記述においても同様である。

 

「一八二五年にはピアノやオルガン以外にも、アエロパンタレオン、アエロメロディコン、コラレオンといった新しい楽器がショパンの興味を引いた。このうちアエロパンタレオンはドゥゴシュという家具職人が発明したものだったが、ほかの二つを考え出したのは、ワルシャワ大学に鉱物博物館と植物園(ショパンの住まいのすぐ裏にあった)を造った博物学者、ヤーコプ・フレデリック・ホフマン教授だった。教授の新しい発明を実際に形にする役目は、ブルナーという工場主が、すでにメロディコルドン、メロディパンタレオン、オーケストリオンという名の同じような楽器を作っていた商売敵、ブホルツに対抗するために引き受けてくれた。足踏みペダルで一対のふいごを動かし、空気を金属のシリンダーを通じて、大きなブリキ製の笛に送り込むのである。制作した本人に言わせるとこの楽器によって発せられる音は、クラリネットの細い音色から、ブラス・アンサンブルの耳をつんざくような音まで変化に富み、音量は五十人編成のオーケストラ伴奏で歌っても対抗できないほど大きいということであった。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社)より

 

 

実はショパンは、「コラレオン」「エオロパンタレオン」が世間にお披露目された際、そのそれぞれについて、公開の場での試演奏を請け負っており、その事実は新聞雑誌等にも載っていて、きちんと記録が残っている。

       「コラレオン」の方は18254月に、当時のポーランド国王であるロシア皇帝アレクサンダー一世の御前において。一方「エオロパンタレオン」の方は1825527日に、ワルシャワ音楽院主催の慈善音楽会において。

したがって、ショパンが「ビアウォブウォツキ書簡・第4便」の中で言及していたソコウォーヴォの「パンタレオン」とは、間違いなくこの「エオロパンタレオン」の事である。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#11.

アデュー、親愛なるヤシ、君の偽りなき友に、どうか手紙を書いてくれたまえ。

F.F.ショパン」

 

ショパンは、手紙の中で「さようなら」を言う時は、ほぼ必ずフランス語の「アデュー」を使う。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#12.

「ママとパパ、子供達みんなとズージアが、君の早い回復を願っている。」

 

例の表現、「ママとパパ、子供達」である。

くどいようだが、前にも書いた通り、ここでも、ショパンが自分の姉妹達を指して「子供達」と言う時の「2つの絶対必要条件」がきちんと満たされている。

1.         手紙の追伸部分の挨拶でしか使われない事。

2.         その際、必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記される事。

今までこの表現は、1824年と1825年の夏休みにシャファルニャから出された「家族書簡」の中でそれぞれ使われ、それ以外では、「ビアウォブウォツキ書簡」において、18259月」の第4便と1030日」の第5便に続いて今回が3回目となる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#13.

ベニアミン神父が僕に会いに来て、君によろしく言っていたよ。彼は水曜日から教義を始めるそうだ。」

 

この「ベニアミン神父(=Benjamin5便でも登場していたが、あの時は以下のような書かれ方をしていた。

 

ブニアーミンが君について僕に尋ねている。そして、君が彼に何も書かなかった事に驚いていたよ。」

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#14.

「ジヴニー氏、デケルト夫人、バルジンスキ氏、レシチンスキ氏とみんなも。

追記:バルジンスキ氏はすでに僕達の家にいない。彼は学位の試験が近いので、論文を書くのに静かな所じゃないとね。でも、真面目なアントシ(※「バルジンスキ(=アントニ・バルチンスキ)」の愛称)の立派な後継者として、ルブリンからもう一人生徒が加わったよ!

君が早く回復するように、パパは健康のために君に千回祈りを送ると。」

       ここで言う「学位」と言うのは、ソウタンの註釈では、「修士の学位。」とある。

       また、「論文」については、AF.バルチンスキは、論文(題名:“放射線の湾曲性理論に関する総合的な考察”)をもとに、1826年に修士号を取得。」とある。

       「生徒」については、「多分、フェルックス・ジャホスキ(Feliks Żachowski18021868)。1825913日、ルブリン市で勉学を終了後、ワルシャワ大学の美学部に入学。1828321日、自由科学の修士号を取得した。」とある。

 

この箇所は、いつもの常連達の追伸の挨拶である。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第8便#15.

マリルスキは随分前に手紙を持って来たが、やっと今日、送る。[この後、単語が3つ続くが、判読不能]

       「マリルスキ」については、ソウタンの註釈では、「エウスタヒ・マリルスキ(Eustachy Marylski)、ミコワイ・ショパンの寄宿生、J.ビアウォブウォツキの高等中学校時代の学友。」とある。

 

マリルスキと言えば、ショパンが18239月〕に書いた手紙の相手であり、その手紙は、両親へのグリーティング・カードを除けば現在知られている「ショパンの手紙」で最も古く、おそらくショパンが最初に書いた手紙だろうと考えられるものである。それは以下のような内容だった。

 

「僕は新入生のための講義――試験ではないよ――がいつ始まるのか知るために、自分でズベルヴィツキさんの所へ行ってきた。彼が言うには、それは今月の16日か17日に始まるのだそうだ。アカデミーの公開セッションが15日になるのか16日になるのか、委員会がまだ決定していないらしい。さらに彼はこう話した、午前中に講義を、午後に試験をやる事になっていて、そして、15日以降は誰の申し込みも受け付けないのだと。僕の乱筆を許してくれ給え、僕は急いでいるのだ。僕が君に話した事をウェルツにも伝えて、彼とティトゥスにどうぞ僕からよろしくと伝えてくれ給え。ビアウォブウォツキは土曜日にワルシャワに来た。彼は火曜日に名前を記入して水曜日に帰って行ったが、学期の間には戻ってくるだろう。」

 

実はこの時、ショパン自身は「高等中学校」に編入した「新入生」だった訳だが、一方のビアウォブウォツキは、ショパンとは入れ違いにその「高等中学校」を卒業しており、彼の方は「ワルシャワ大学」に入学した「新入生」だった訳だ。そのビアウォブウォツキとマリルスキが「高等中学校時代の学友」と言う事は、彼らは歳も同じか、もしくは同じくらいなので、マリルスキもまた「ワルシャワ大学」に入学した「新入生」だったのかもしれない。

マリルスキは、ショパンがビアウォブウォツキと文通しているのを知っていたので、おそらく自分の手紙も一緒にヴィブラニェツキ氏に渡してもらおうと思って、ショパンに預けておいたのではないだろうか? だからさっきショパンが「僕は君宛の手紙を彼(※ヴィブラニェツキ氏)に渡したかったけど、もう行ってしまったので、我々の手紙はワルシャワに残されたのさ」と書いていたその「我々の手紙」の中には、「ルドヴィカからコンスタンチア嬢宛の手紙」の他に、「マリルスキからビアウォブウォツキ宛の手紙」も含まれていたのだろうと思われる。

 

 

ビアウォブウォツキの長い沈黙が解けるのは、次回の第9便においてである。

 

[2010年11月23日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証4-11.行間から読み取れるビアウォブウォツキからの返事(その2)

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証4-9:生地ジェラゾヴァ・ヴォラでのクリスマスが語るもの▲】 【筆者紹介へ▼】

Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.