検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――

Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–

 


8.ビアウォブウォツキとジヴニーの密約(その2)――

  8. A confidential letter of Białobłocki and Żywny (Part.2) -

 

BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第16番 変イ長調 作品24-3 by Tomoro

[VOON] Chopin:Mazurka 16 Op24-3 /Tomoro

 

 

前回の第5便でもそうだったが、ビアウォブウォツキとジヴニーとの間に何らかの密約があった事は、今回紹介する第6便からも明らかなのである。

この手紙は、何と、そのジヴニーからビアウォブウォツキへ「直筆のメッセージ」が書き込まれていたと言う点で、非常に珍しい、また非常に価値のあるものなのだ。

まずは註釈なしに読んでいただきたい。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ビショフスヴェルダーのヤン・ビアウォブウォツキへ(第6便)■

(※原文はポーランド語で、一部ラテン語が混在。裏面にジヴニーからのドイツ語のメッセージ)

「ワルシャワ 182511月]

コストゥシャ(コンスタンチア嬢)がワルシャワにいるので、君に数行の文章を書かない訳にはいかない! 新しいニュースが少ないとは言え、この数日の間にも君のために収集しておいたから、それらを君に書いてあげねばなるまい。まず最初に、次のニュースから始めよう:(君の病気が)悪化したと言う話を聞いて心配している、が、近いうちに健康な君に会う事ができるものと信じている。君が受けていると言う、温かで気持ちの良い治療について、別に君に嫉妬する訳ではないが、君がすぐに健康を回復する事が分かったなら、僕自身も君と同じように2ヶ月くらい髭を剃らなかったかもしれないな。この前の手紙で、君が(僕からの)手紙を受け取っていないとの事だが、それは大した事ではない:しかし受け取ってくれるはずだ。ビショフスヴェルダーに滞在している君宛に手紙を書く事ができなかったんだ。なぜなら、どう言う風に宛先を書いたらいいのか分からなかったから。でも、コストゥシャが親切にも、この手紙を前のと一緒に届けてくれるか、あるいは送ってくれるかしてくれる事になっている。

こう言った状況なので、この手紙の前の手紙でもう知っているだろうが、ワルシャワでは“理髪師”が劇場の至る所で称賛されている、また、 かなり前から期待されている“魔弾の射手”がもうじき上演されるそうだ。僕は“理髪師”から(テーマを取って)新しいポロネーズを書きあげたよ。これは僕自身気に入っている。明日、これを石版印刷に出そうかと検討している。ルドヴィカが、今までワルシャワでは踊られた事がないほどの、素敵なマズルカを作った。これは彼女のNon plus ultra(※ラテン語で「最上級」の作品である。これは間違いなく、この種のものではNon plus ultraの作品だ。弾むようで、チャーミングで、一言で言えばダンサブルで、誇張する訳ではないが、非常に素晴らしい。君が僕のところに来れば、君に弾いてあげよう。高等中学校のオルガン奏者になった。だから、僕の妻と子供達は全員、二つの理由から僕に敬意を払わねばなるまい。ハッ、慈悲深き神様、僕は何という地位に就いたものやら! 教会の神父に続いて、僕は高等中学校の第一人者だ。

週に一度、日曜日に、ヴィジットゥキ尼僧教会のオルガンを僕が弾き、その他のみんなが歌う。さて、もうこれ以上何かを書くのが難しくなってきた。チェトゥヴェルティンスキ家へ急いで行かなければならないんだ。その上、コストゥシャが帰ってしまうからね。詳細は郵便で書くよ。今は君が健康である事を祈り、君を強く抱きしめたい。特に、僕は君の最も親身な友人だよ。

FF.ショパン

 

デケルト夫人、ジヴニー氏、バルジ氏、レシチンスキ氏、みんなが君にキスを送る。

[最後の言葉は読み難い]。」

 

[ページの裏側に、ジヴニーからの追伸がドイツ語で書かれている](以下ドイツ語)

「閣下どの!

新年の8日後に大いに期待しております

敬意を込めて

友であり、下僕である

アダルベルト・ジヴニー

 

ムッシュ、ムッシュ、ヤン・ビアウォブウォツキ殿へ」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)、  

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)、

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

       ソウタン版の註釈には、使用された用紙は明るいヤナギ色(明るい緑色)、2枚、各用紙のサイズ:21 x 17cm。透かし模様:縦線と空想上の動物の頭。とある。

 

 

まずは日付について。

ソウタンはこれを182511月]と推定し、それについて以下のように説明している。

 

原本に日付はないが、この手紙が1825年の秋− 11月に書かれた事は間違いない。その事を証明するものとして、下記の“くだり”がある:

a) ワルシャワで初めて公演されたと言う“理髪師” − 18251029日。

b)前回の手紙で、ショパンが初めてビスクピェツ町(ビショフスヴェルダー)宛に手紙を発送し、そこには、正に、1825年の秋、J.ビアウオブオツキが滞在していた − 従い、18251030日に手紙第5便が記載されたものと思われる。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

ソウタンのこの説明はちょっと分かりにくいと言うか、どうもいくつか勘違いして書き間違えているようなので、彼が本当に言おうとしていた事を私が加筆修正してお伝えしよう。

 

1.         まず、前回の第5便の日付は、ショパン自身によって18251030[日曜日]と記されており、その中で彼は、「〈セビリヤの理髪師〉が土曜日に劇場で上演された」と報告していた。そしてそれは、実際に「ワルシャワで初めて“理髪師”が公演されたのは18251029日」「土曜日」だったと言う事実とぴったり一致する。したがって第5便の日付に間違いはない。

2.         今回の手紙では、その第5便で書かれていた“理髪師”の話を「この手紙の前の手紙でもう知っているだろうが」と説明しているので、この手紙が前回の第5便に続く内容である事が分かる。

3.         また、「ビショフスヴェルダーに滞在している君宛に手紙を書く事ができなかったんだ」と言う記述も、ビアウォブウォツキがまだ前回の第5便を「受け取っていない」理由の説明として辻褄が合っている。

4.         さらに、「新しいニュースが少ないとは言え、この数日の間にも」と言う記述から、前回の第5便からまだ「数日」しか経っていない事が分かり、それなのに「コンスタンチア嬢」「ワルシャワ」滞在に促されて急遽書く事になったと言う経緯と考え合わせても、この手紙が182511月](※もっと言えば11月上旬」)に書かれたのは間違いない。

 

 

それでは、内容の方を順に見ていこう。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#1.

「ワルシャワ 182511月]

コストゥシャ(コンスタンチア嬢)がワルシャワにいるので、君に数行の文章を書かない訳にはいかない! 新しいニュースが少ないとは言え、この数日の間にも君のために収集しておいたから、それらを君に書いてあげねばなるまい。」

 

この手紙は、最後の方で「詳細は郵便で書くよ」と書かれている事からも分かるように、正規の郵便で送られたものではなく、ビアウォブウォツキの姉「コストゥシャ(コンスタンチア嬢)」に託して届けられたものである。彼女がショパンからこれを受け取り、その後ビアウォブウォツキに手渡ししたのか、それとも自分の手紙と一緒に郵送したのか、それは分からない。いずれにせよ、ショパンは急遽メッセージとしてこれをしたためており、そう言う場合の手紙は、前にも書いた通り、このように内容も簡素になり、日付も記されない事が多い。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#2.

「まず最初に、次のニュースから始めよう:(君の病気が)悪化したと言う話を聞いて心配している、が、近いうちに健康な君に会う事ができるものと信じている。君が受けていると言う、温かで気持ちの良い治療について、別に君に嫉妬する訳ではないが、君がすぐに健康を回復する事が分かったなら、僕自身も君と同じように2ヶ月くらい髭を剃らなかったかもしれないな。」

 

ここに書かれている「(君の病気が)悪化したと言う話」は、言うまでもなく、ワルシャワを訪れたコンスタンチア嬢から口頭でもたらされたものである。

彼女は、ショパンの姉ルドヴィカと文通するほど仲がいいのだし、それでなくとも両家は家族ぐるみで親密な間柄であるから、彼女がワルシャワを訪問したなら、必ずこうしてショパン家を訪れるのは当然だろう。

「君が受けていると言う、温かで気持ちの良い治療」と言うのは、前回も紹介したように、「ビアウォブウォツキが彼の家族に宛てた手紙」に書かれていた、「ビスクピエッツ町(ビショフスヴェルダー)に於ける温泉療法」の事である。ショパンはそれに対して、「別に君に嫉妬する訳ではないが」などと冗談を言っているが、実は彼自身、来年の夏には、妹のエミリアと共に、その「温かで気持ちの良い治療」を受けるためにライネルツへと行く羽目になるのである。

 

また、コンスタンチア嬢は、ビアウォブウォツキが2ヶ月くらい髭を剃」っていないと言う情報ももたらしてくれている。

ショパンはそれに対して、長い療養生活のせいで身だしなみを整える事もしていない親友を思いやるかのように、「僕自身も君と同じように」その苦しみを分かち合いたいと言っているのであるが、それを、ユーモアや皮肉を交えて表現するところがいかにもショパンらしい。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#3.

「この前の手紙で、君が(僕からの)手紙を受け取っていないとの事だが、それは大した事ではない:しかし受け取ってくれるはずだ。ビショフスヴェルダーに滞在している君宛に手紙を書く事ができなかったんだ。なぜなら、どう言う風に宛先を書いたらいいのか分からなかったから。でも、コストゥシャが親切にも、この手紙を前のと一緒に届けてくれるか、あるいは送ってくれるかしてくれる事になっている。

こう言った状況なので、この手紙の前の手紙でもう知っているだろうが、ワルシャワでは“理髪師”が劇場の至る所で称賛されている、また、 かなり前から期待されている“魔弾の射手”がもうじき上演されるそうだ。」

       “魔弾の射手”は、ソウタン版の註釈によると、「ウェーバーのオペラ“魔弾の射手”、ワルシャワでの最初の公演は182673日であった。」とある。

 

ショパンは前回の第5便でこう書いていた。

 

「“しかしどこへ?” ― “ビショフスヴェルダーへ。” その町の名前を、初めて人の口から聞いた。これが別の時だったら、そんな地名は僕を笑わせたのかも知れないが、君がその事を僕に知らせてくれなかったから、この時だけはそれを恨みに思ったよ。とにかく、君が僕に手紙を書くのが順序というものだ。それで、僕はすぐに手紙を書くのを止めた訳だ。何を書くべきか、あるいはどのように書くべきか、それにどこ宛に書くべきかが分からないので、それで手紙を郵便局に出すのが遅れたんだ。」

 

今回の第6便でも、これと全く同じ事を重複して書いている。

で、ショパンは、前回の第5便に関しては、取り敢えず手紙を書き上げはしたものの、結局「どう言う風に宛先を書いたらいいのか分からなかった」ので、そのまま書いたきりまだ出していなかった事が分かる。なので、ソウタンの言う「前回の手紙で、ショパンが初めてビスクピェツ町(ビショフスヴェルダー)宛に手紙を発送しと言うのは厳密には正しくない。まだ「発送」はしていなかったからこそ、「コストゥシャが親切にも、この手紙(※第6便)を前の(※第5便)と一緒に届けてくれる」運びになった訳だからだ。

したがってビアウォブウォツキの方では、これら2通の手紙を同時に受け取っており、そしてその2通を続けざまに読んでいる訳である。「こう言った状況なので」とはつまりその経緯の事を指しており、だから「前の手紙でもう知っているだろうが」と断りを入れている訳だ。

 

そしてその“理髪師”なのだが、ショパンは前回の第5便の中で、まるで学芸会レベルの演者達の様子について書いていた。しかしそのような事は当時の「ワルシャワでは」今に始まった事ではないので、彼らはそんな事は前提で、むしろ、その「ロッシーニの作品」そのものの質について「称賛」しているのである。それはもちろんショパン自身も同じで、だから彼は、次のように書いている。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#4.

僕は“理髪師”から(テーマを取って)新しいポロネーズを書きあげたよ。これは僕自身気に入っている。明日、これを石版印刷に出そうかと検討している。」

 

これは、ショパンがロッシーニの音楽を気に入ったと言う何よりの証拠である。

ただし、ここに書かれている「新しいポロネーズ」については、現在まだ楽譜が発見されておらず、「失われている作品」の一つとなっている。ショパン作品には、このように、文献資料の中で言及されていながらその楽譜が確認されていないものがけっこうある。しかも今回のように、ショパンが自分の作品に関して「気に入っている」などとコメントするのは珍しいだけに、それを聴く事ができないのは残念だ。

しかしながら、石版印刷に出そうかと検討している」と言うのは、おそらくただのジョークだろう。それを実行した形跡もない。したがってソウタン版でもオピエンスキー版でもシドウ版でも、この「新しいポロネーズ」には何の註釈も施されていない。

       ちなみに、シドウ版の英訳選集であるヘドレイ版では、この曲を「変ロ短調のポロネーズ」と註釈してしまっているが、それは間違い。「マトゥシンスキ書簡」の時にも書いたが、その「変ロ短調のポロネーズ」と言うのは、翌1826年にショパンがライネルツへ出発する際にコルベルクに個人献呈した作品であり、中間部にロッシーニのオペラ「泥棒かささぎ」のアリアを用いている。要するにヘドレイは、その「泥棒かささぎ」“セビリヤの理髪師”と混同しているのだ。“セビリヤの理髪師”1816年に作曲され、一方の「泥棒かささぎ」1817年に全曲が書き下ろされており、同じロッシーニのオペラでも両者は全く別の作品である。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#5.

ルドヴィカが、今までワルシャワでは踊られた事がないほどの、素敵なマズルカを作った。これは彼女のNon plus ultra(※ラテン語で「最上級」の作品である。これは間違いなく、この種のものではNon plus ultraの作品だ。弾むようで、チャーミングで、一言で言えばダンサブルで、誇張する訳ではないが、非常に素晴らしい。君が僕のところに来れば、君に弾いてあげよう。」

 

この「マズルカ」は、ショパン本人が書いたポーランド語原文では、厳密には「マズル」となっている。

ここでちょっと、「マズルカ」と言う音楽(舞踏)ジャンルについて、ほんの少しだけ勉強しておこう。

 

「マズルカが一般に盛んに踊られるようになったのは、ポーランドの首都がクラクフからワルシャワに移って来た1596年頃よりと考えられている。

さて、このマズルカだが、驚くことに、厳密に言うとマズルカ(マズレク)という踊りそのものは、ポーランドに存在しない…。

マズルカとは、ポーランド中部の農民を中心に踊り継がれてきた三拍子の舞踏の総称である。それは、大きく、マズル、クヤヴィアク、オベレクの三つに分類するのが一般的だ。

…(中略)…

マズルは、ワルシャワを含むポーランド中部のマゾフシェ地方が源と考えられている活発なテンポの楽しい舞曲である。三舞曲の中では最も勇壮な感じがする。…(後略)…

下田幸二著

『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』(潟Vョパン)より

 

…そうすると、ショパンが手紙の中で書いている、「弾むようで、チャーミングで、一言で言えばダンサブルで、」と言う表現は、そのまま、「マズル」そのものの特徴をもよく表していると言えよう。

たとえば、ショパン作品で言うと、以下のマズルカが典型的な「マズル」である。

 

BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第10番 変イ長調 作品17-1 by Tomoro

[VOON] Chopin:Mazurka 10 Op.17-1 /Tomoro

 

ただし、ショパンが生涯に渡って書き残した60曲近くのマズルカのほとんどが、「マズル、クヤヴィアク、オベレク」の三つの要素が巧みに融合されたものなので、ショパンはこれらを出版する際にも、敢えてそのそれぞれを区別して命名するような事はせず、全て「マズルカ」としている。

 

さて、ショパンの姉ルドヴィカは、ピアノを上手に弾いただけでなく、作曲もしたらしい。ショパンのこの書き方からすると、すでに何曲か書いていたようだが、おそらく彼女は、特にそれらを採譜してはいなかったのではないだろうか。今まで一つも楽譜が確認された事はないし、ルドヴィカの作品について言及されている文献もこれぐらいしか見当たらない。ショパンは姉の「マズルカ」を絶賛しているが、そこには、どうも多分に身贔屓が入っているような気がしないでもない。

と言うのも、ショパンはそのすぐあとで、君が僕のところに来れば、君に弾いてあげよう」と書いているからだ。

これは逆に言うと、つまりショパンは、「もう僕が君のところに行く事はない」と思っていると言う事なのである。要するにそれは、826日」付の「家族書簡」で「僕は去年のように〔不明(※来年もまたシャファルニャに来たいという)、希望を持っていない」と書いていた通り、もう来年以降は、夏休みにシャファルニャへ行くつもりはないと言う事である。だからもうソコウォーヴォへも行けないのだと。

だからショパンは、この「マズルカ」を殊更Non plus ultraの作品」と吹聴する事で、ビアウォブウォツキがワルシャワへ来たがるように仕向けたかったのではないだろうか。そしてその際には、彼の足の具合も良くなって、みんなと一緒に「マズル」を踊れるようになったらいいな…と。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#6.

高等中学校のオルガン奏者になった。だから、僕の妻と子供達は全員、二つの理由から僕に敬意を払わねばなるまい。ハッ、慈悲深き神様、僕は何という地位に就いたものやら! 教会の神父に続いて、僕は高等中学校の第一人者だ。

週に一度、日曜日に、ヴィジットゥキ尼僧教会のオルガンを僕が弾き、その他のみんなが歌う。」

 

ショパンはもちろんまだ結婚していないので、「僕の妻と子供達」と言うのはあくまでも将来の話である。単に軽口を叩いているだけなので別に深い意味はないだろうが、この頃のショパンは、自分も両親と同じように普通に結婚して普通に子供を生み、普通に家庭を築くものと考えていたようだ。

ショパンがオルガンを弾くと言うのも、少し興味深い話だ。

当時のショパンは、ジヴニー先生の後任として、ヴェルフェルと言う一流のコンサート・ピアニストからピアノのレッスンを受けていたそうで、それは不定期なものではあったが、ショパンは彼から、オルガンについても手ほどきを受けていたらしい。

たとえばショパンのピアノ作品には、敢えてペダルを使わず指で鍵盤を押し続ける事で特定の音だけを持続させ、それによって細かい和音の響きを巧みに操作している箇所が多々見られる。これはおそらく、オルガンを弾いた経験からヒントを得たものではないかと思われる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#7.

さて、もうこれ以上何かを書くのが難しくなってきた。チェトゥヴェルティンスキ家へ急いで行かなければならないんだ。その上、コストゥシャが帰ってしまうからね。詳細は郵便で書くよ。今は君が健康である事を祈り、君を強く抱きしめたい。特に、僕は君の最も親身な友人だよ。

FF.ショパン

 

デケルト夫人、ジヴニー氏、バルジ(※バルチンスキ)氏、レシチンスキ氏、みんなが君にキスを送る。

[最後の言葉は読み難い]。」

       「チェトゥヴェルティンスキ家」と言うのは、ソウタンの註釈によると、「想像によれば、ルドヴィカ・チェトゥヴェルティンスカ伯爵夫人(Ludwika Czetwertyńska)の家族のこと。作曲家との友情をもとに、彼女が“ショパンの第二の母親”であったと言われている。」とある。

 

この辺は、ショパンが手紙を結びに持っていく時のいつものパターンであり、追伸の挨拶もいつもの面々である。

そして、今回の手紙で最も注目されるのは、以下の部分だ。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第6便#8.

[ページの裏側に、ジヴニーからの追伸がドイツ語で書かれている](以下ドイツ語)

「閣下どの!

新年の8日後に大いに期待しております

敬意を込めて

友であり、下僕である

アダルベルト・ジヴニー

 

ムッシュ、ムッシュ、ヤン・ビアウォブウォツキ殿へ」

       オピエンスキー版では、このジヴニーの[追伸]は省略されている。元々オピエンスキー版は、ショパンが書いたものしか掲載していないからだ。それでも一応、 [この手紙の裏に、ジヴニーからの追伸がドイツ語で書かれている。]と言う註釈だけはちゃんと施されている。

       シドウ版では、この[追伸]はフランス語に訳されて掲載されている。シドウ版は、ショパンが書いた以外のものも掲載しているからだ。

       ところが、そのシドウ版を英訳撰集したヘドレイ版では、この手紙に関しては、ショパンが書いた部分は全て掲載されているにも関わらず、ジヴニーの[追伸]部分だけ省略されてしまっており、しかもそれに関して何の註釈も施されていないのだ。

       クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』では、ジヴニーの[追伸]部分のみ、その原物を写真コピーで確認する事が出来る。

       ちなみにジヴニーは、ビアウォブウォツキのファーストネームを、ポーランド名の「ヤン(Jan)」ではなく、フランス名の「ジャン(Jean)」と書いている。これは、ショパンが郵便で宛名を書く時もそうなっているのだが、どう言う訳か、どうもポーランドの郵便は、宛名(宛先の文章も含めて)をフランス語で書く習慣らしいのである。

 

おそらく、ショパンは手紙を書き終えたあと、これを封する事なしにコンスタンチア嬢に託して、そのまま「チェトゥヴェルティンスキ家」へと出かけて行ったのだろう。そしてショパンが出て行ったあとに、おそらくジヴニーがコンスタンチア嬢と申し合わせでもして、手紙の[裏側]にこれを書き込んだに違いない。

 

それにしても、ジヴニーのこの文章は一体どういう意味なのだろうか?

ちなみにシドウ版では、この箇所は以下のようなニュアンスで仏訳されている。

 

「ムッシュ、

貴君との約束に従い、元旦から8日後まで、貴君をお待ちしています。深い敬意と共に、貴君の友にして下部なる、

アダルベルト・ジヴニー

ムッシュ、ムッシュ、ジャン・ビアウォブウォツキへ」

 

まさかビアウォブウォツキが年明けにワルシャワのジヴニーを訪れる約束をしているとは考えにくいので、これはあくまでも手紙のやり取りについて言っているはずである。

この手紙が書かれたのは182511月]の上旬頃である。が、次の第7便はクリスマス・イヴになるので約一ヵ月半後になる。ただし、その間の事については、ショパンがビアウォブウォツキから少なくとも手紙を1通は受け取っていた事が分かっている。

ところが、その次の第8便となると、日付が1826212日」と記されているので、それから約一ヵ月半以上もの空白が生じており、しかもその間、ショパンはビアウォブウォツキに手紙を書いてはおらず、逆にビアウォブウォツキからの手紙も1通ももらっていないのである。その事は、ショパン自身が第8便の中ではっきりとそう書いているのだ。

つまり、ジヴニーがここで書いている新年の8日後(元旦から8日後まで)」と言うのは、まさにその空白期間の最初の頃に該当していた訳だ(※下図参照)。

 

1825

 

1826

11

 

12

 

1

 

2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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と言う事は、ビアウォブウォツキはおそらく年内のうちに、治療のために何かをする予定だったか、あるいはどこかへ行く予定だったかして、それに関する結果報告を新年の8日後(元旦から8日後まで)」にジヴニーにする「約束」をしていたのではないか?と想像されるのである。

しかし、なぜそれをショパンに内緒にしなければならなかったのか?と言うと、それが、おそらく足の病気の「外科的な治療」に関する話だったからだろうと想像されるからなのだ。

実はこの「外科的な治療」と言うのは、他でもないビアウォブウォツキ本人が、彼の家族に宛てた手紙の中で言及している事なのである。ただし、彼がその手紙を書くのはまだ先の話なのでここでは詳述しないが、おそらくこの時点で、まずその治療法が必要かどうか、あるいはその具体的な方法とはどう言うものか…等、一度その辺の事を診てもらうために、彼はそれを請け負ってくれる外科医のところへ行く予定があったはずなのは間違いないのだ。

そして、その外科医から聞かされた話如何によっては、ビアウォブウォツキがショックのあまり長い沈黙に陥ってしまうような事も、十分にありうると容易に想像できてしまうのである…。

 

[2010年11月14日初稿 トモロー]


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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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