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検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――

Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–

 


5.会えなかった二人――

  5. In 1825, Chopin was not able to meet Bialoblocki.-

 

BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第12番 変イ長調 作品17-3 by Tomoro

[VOON] Chopin:Mazurka 12 Op.17-3 /Tomoro

 

 

今回の本題に入る前に、ここでちょっと、これまで遅筆で稚拙な本稿に根気強くお付き合い下さっている読者の方(※そのような奇特な方がおられればの話ですが…)にご報告したい事があります。

 

すでに述べたように、「ビアウォブウォツキ書簡」が発見された時、それを最初に出版したのはスタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタンStanisław Pereświet-Sołtan)」だった。

        ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳『ショパン』(音楽之友社)では、「スタニスワフ・ペレシフィエート=ゾウタン」と表記されていたが、本稿では以下この表記に改める。

実は私は、この度、この貴重な本を入手する事ができ、そしてそれを読む事ができたのである(※今回の更新が遅れたのはそのせいである)。

 

それは、『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙(Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego)』と言うタイトルで1926年にワルシャワの「ポーランド国立青年学術協会(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)」から出版されたもので、「序文」や巻末の「索引」を合わせてもせいぜい90ページほどの本である。

しかしながら、この本の編者であるソウタンは、この『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』13通に対し、可能な限り詳細な註釈と解説を加えている。その仕事振りには非の打ち所がなく、それどころかそれ以上とも言えるほどで、「書簡集の編者はかくあるべし」と、文字通り溜飲の下がるものだ。そして、このような素晴らしい本がポーランド語版とドイツ語版の初版を最後に絶版となり、一般には全く知られる事なく歴史の中に埋もれてしまっていると言う事実にも驚くばかりだ。しかしその現実こそが、正に、ショパンとビアウォブウォツキの「真実の友情物語」が看過されている現状そのものだと言えよう。

 

この本の「序文」22ページにも渡る極めて詳細なもので、その書き出しは次のようになっている。

 

序文

天才ショパンを愛好する多くの人々なら、私の喜びを容易に理解していただける事と思う。それは、ワルシャワ古記録文庫館において、ロシアから返還された古文書を整理していた際に、その中にF.F.ショパンの明瞭なサインのある文書を見つけた事である――それは、各種の雑多な紙に記載された雑文書、たとえば、下着のリスト、紺色の燕尾服を縫った(言葉通り!)仕立屋からの請求書などが雑然としている中に紛れていた。それを、筆者に可能な範囲で註釈や索引を施し、一般に公開できると言うのは願ってもない光栄である。

下記に述べる、フリデリック・ショパンが18241827年の間に書いた手紙は、数にして13通あり、うち2通の例外(1通がソコウォーヴォ、1通がジェラゾヴァ・ヴォラで書かれた)以外は全てワルシャワで書かれ、全てがヤン・ビアウォブウォツキ宛に書かれたものである。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana BiałobłockiegoZwiązku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiejより

 

ソウタンの言うところの「私の喜び」は、そのまま本稿の筆者である私の喜びでもあった。さらに私は、その喜びを広く一般の人々にも享受して頂きたいと、そう願わずにはいられない。この本にはそれだけの価値がある。

さて、その前にここでお断りしておきたいのは、今回この本を読んだ事によって、そこからもたらされた情報や資料によって、私が以前に「ビアウォブウォツキ書簡」の第1便と第2便で検証してきた事柄に対し、若干の見直しを迫られる事になった…と言う事である。

取り急ぎ、この場を借りて訂正しておきたい点は3つある。

 

1.ビアウォブウォツキの両親について

この項目に関しては、私はポーランドのショパン研究家が運営するサイト『ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)の記事を参考にしてきた。しかしながら、その記事は文章の書き方が非常にあいまいで混沌としていたため、私は、ビアウォブウォツキの母カタジナが3回結婚していたのではないか?と考えたのだが、そうではなかった事が判明した。

これについて、ソウタンの「序文」には、上記に引き続いてこう書かれている。

 

さて、愛情溢れるこれらの手紙の受取人は誰であったか? ショパンの最大の伝記作家であるへシックは、彼を作曲家の父ミコワイ・ショパンの家に寄宿していた生徒の一人として記載しているのみで、我々の偉大な芸術家との関係については何も言及していない。ここで、彼に関する情報を少し述べておきたい。

ヤン・ビアウォブウォツキは、ヤンを父とし、ズビイェフスキ家の出であるカタジナ・モニカを母として、1805年に生まれた。彼は、昔からクヤーヴィ地方とヘウムノ地方に定住していた富豪ビアウォブウォツキ家(家紋オゴインチック)の出である。彼の母は、最初の結婚相手の死後、デゥルヴェンツァ河畔のドブジンとソコウォーヴォの地所の継承者(地主)であったアントニ・ヴィブラニェツキと再婚した。ソコウォーヴォはビアウォブウォツキ家が定住していた村で、ビアウォブウォツキは、義父の下で養育を受けていた時期にショパンからの手紙を受け取っていた。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

つまり、ヤン・ビアウォブウォツキの父は、息子と同姓同名のヤン・ビアウォブウォツキであり、一方の「ズビイェフスキ」と言う姓は母カタジナの出身姓だった。彼女は最初の結婚で子供を授かり、夫の死後、2度目の結婚でヴィブラニェツキ家に嫁いだのである。

 

2.手紙の日付について

ショパンが日付を記してある手紙については問題ない。しかしそれ以外のものについては、私は今まで、オピエンスキー版とシドウ版の推定年月日は彼らが導き出したものと考えて論じてきた。しかし、実際はそうではなく、これらはみな、ソウタンが最初に導き出したものを流用していただけだった事が判明した。

ソウタンは手紙の日付に関して、「序文」で次のように書いている。

 

2便(※実際は第1便)、第5便、第7便の3通の手紙については、日付が不完全であるか、もしくは日付が記されていない。これらのケースでは、手紙の様々な内容をもとに、当筆者が日付を特定する事に努めた。この様なケースはその都度、注釈を付けた。手紙の掲載順序は、その日付の順序に従って決めた。

        ここでは3通」しか例を挙げていないが、「第1便」(※実際は第3便)にも日付がない。ソウタンはその手紙だけ「日付を特定」できなかったので、ここでは言及しなかったのかもしれない。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

1.         オピエンスキー版の推定年月日は、全てソウタン版のものをそのまま流用していただけだった。

2.         シドウ版もそうだ。ただしこちらはその上で、ソウタンが可能性として留保しておいた二つ推定年月日から、シドウの解釈で正しい方に限定してあったり、逆に間違った方に限定してあったりしていただけだった。

3.         「手紙の掲載順序」についても同様で、オピエンスキー版もシドウ版も、ソウタン版の順序をそのまま踏襲していたに過ぎなかった。

ソウタンの頃は、まだショパンに関する資料や情報が限られていたから、ソウタンはその中で出来る最大限の仕事をしたと評価できる。しかし、のちのオピエンスキーやシドウ、あるいはヘドレイらを始めとする書簡集の編者達が、単にそれに寄りかかるだけで一歩も出ていないのは、研究者として極めて怠慢だと言わざるを得ないのではないだろうか。

 

3.ショパンが文中に混在させたフランス語について

ショパンはポーランド語で手紙を書いていたが、時々その中にフランス語を混在させていた。しかしこのフランス語と言うのは、厳密に言うと「ポーランド語音声によるフランス語」で、分かりやすく言うと、たとえば我々日本人が英語をカタカナ表記するようなものなのだそうだ。ソウタンの解説によると、、「ショパンが冗談を表現するために使用したのだろう」との事である。

 

        これら3つの項目については、取り急ぎ該当ページの本文中でも簡単に訂正しておきました。また、折を見て全文に渡って改訂を施すつもりですが、しばらくはこの先の検証を進めたいと考えております。

 

ソウタンの、「書簡集の編者はかくあるべし」と言う仕事振りについては、上記に引き続く「序文」の凡例部分によく表われている。

 

手紙は比較的良好な状態で保存されている。例外は第3便(※実際は第2便)と第9便で、これらの用紙の上部は、文書保管用の縫込みの技術が悪いため破損している。

全ての手紙はポーランド語で書かれており、手紙の筆者の年齢にしては明瞭に読み取る文字で記載されている。その文章は文法的にも非常に正しい。現在の高校生(ショペネックは1417歳だった)の中で、これほど正しい文章を書ける若者はそう多くないと筆者は断言できる。尚、スペリング及び文字の記号の記入方法は1918年制定のポーランド学術議会協会の基準に従って、筆者が修正を加えた。ただし、すでに現在使用されていない個人名のスペル、古語、方言的な用語、及び手紙の筆者の考えを表す表現となっているものには修正を入れなかった。同じ理由で、ショパンが冗談を表現するために使用したのだろうと思われるフランス語の語句とか、彼が文節などに使ったポーランド語音声によるフランス語単語の表記にも修正を加えなかった。が、その正しい表記に関する注釈は付けておいた。文節の切り方、特に手紙の筆者の考えを表す箇所にも修正を入れなかった。手紙の筆者自身が線で消した語句は削除した。

手紙の筆者自身が欄外に書き入れたものは、全てそのままにしておいた。ただし、「 」を導入する事で、その事を示した。

上記基本は、当筆者の注釈にも同様に適用した。

注釈には、手紙に使用された紙の特性(※紙の色、枚数、サイズ、状態、さらには透かし模様の有無とその形状まで記録してある)を記載し、手紙の中に登場する個人名、用語、及び事件に関する説明を付けた。人物の役名については、手紙の日付と同時代のものを記入した。手紙第8便の注釈には、ブルンネルとヴィブラニェツキとの間で交わされた契約書の内容の一部を掲載した。その理由は、ショパンが手紙で度々言及しているように、それが、我々にはよく知られていないコラレオン(※特殊な鍵盤楽器)の構造に関する詳細なものだからである。“序文”の注釈4、及び手紙第11便の注釈12には、我々にとって重要であるため、ミコワイ・ショパン及び息子の外国旅行に対する公的援助を依頼した申請書(1829年)に関する、あまり知られていない公文書の内容を掲載した。

ショパン自身が書いた彼のプロフィール、及び作曲作品に関する資料を評価する事は避けた。これは、このような事情に詳しい誰かに任せるのが適切であると判断したからであるが、当筆者の意図が、手紙の内容を理解するために必要と思われる点に注意を喚起したいと願うのみだからである。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

曲がりなりにも書簡資料を扱う編者であれば、これくらいの「前置き」はむしろ当然の義務と言えよう。

このようにきちんとした仕事をしておけば、この本が提供してくれる資料的価値は完璧と言ってよく、不幸にも手紙の原物が失われてしまった現在においてさえ、その資料の信憑性を誰の目にも疑う余地のないものにしてくれる(※本の口絵には、原物の写真が1通分だけ掲載されてもいる)。

翻って、ショパンの書簡資料を最初に取り扱った編者であるカラソフスキーはどうだったか?

ソウタンと比較して見る時、カラソフスキーの仕事振りがいかにずさんでいい加減だったかもよく分かると言うものである。なぜなら、カラソフスキーの序文にも、また本文中にも、彼の扱った資料の信憑性を保障してくれるような説明はどこにも見られないからだ。彼の伝記は書簡資料を売り物にしていながら、このような凡例を全く書き記していない。それどころか、逆に疑問を増幅させるような説明だらけなのだ。そんな事だから、カラソフスキーの「子供じみた嘘」も穴だらけであり、彼がやった「有名な改ざん」は言うに及ばず、彼の創作した「知られざる贋作書簡」も、いとも簡単に暴けてしまう訳なのである。

 

 

また、ソウタンの「序文」には、「ビアウォブウォツキ書簡」が発見されるに至るまでの経緯が、それこそ事細かに説明されている。これは、当時のポーランドの「知られざる歴史的事実」を、一般の人の目線で追体験するかのごとき価値がある。

その書き出しはこうだ。

 

ワルシャワからソコウォーヴォへ、あるいはビスクピエッツ町(※ビショフスヴェルダー)へ発送されたはずの手紙が、どのような道を辿って、ワルシャワ古記録文庫館で眠っていたのであろうか?

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

そして長々とその事実が記述された後、こう結んである。

 

ショパンの手紙の旅は、かくのごとく、長く、特異なものであったが、我々ポーランドの受難の歴史の、多くの重要な記録と同じような道のりであった。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

その内容については、あまりにも長く複雑すぎるので、本稿の趣旨に沿うよう、ソウタンの「序文」を簡単に要約してお伝えする事にしよう…

 

1833年の春、ルブリン市内で、ロシアの統治者に対する反乱が起き、それをきっかけにビアウォブウォツキの継父アントニ・ヴィブラニェツキが政治犯として疑われ、明確な証拠もないのにロシア当局に逮捕されてしまう。その時の逮捕者の中には、シャファルニャの領主ユリウシ・ジェヴァノフスキも含まれていた。

当局が彼らの館を家宅捜索した際、そこで押収した文書の中に「ショパンの手紙」が含まれていたと言う訳である。したがって、その文書の中には、「ショパンの手紙」だけでなく、「ヴィブラニェツキ本人の手紙」はもちろんの事、さらには、「故ビアウォブウォツキが継父や姉宛に書いた手紙」までもが含まれていた。が、これら押収した文書の中からは、ヴィブラニェツキの犯行を証拠立てるものは何も発見されなかった。

ヴィブラニェツキは完全に容疑を否認し、全てを否定していたが、ほどなく彼は結核に犯され、捜査の終了を待たずして翌1834年の7月に亡くなってしまう。そのため、押収した文書は帰る所を失くし、1922年になるまで、ずっとロシア当局の管理下に置かれていたのである。」

 

…そうなのである。私は最初それを見た時、思わず我が目を疑ったほどだったが、実はこの本には、なんと、「ビアウォブウォツキ本人が書いた手紙」までもが引用されていたのである。ソウタンはそれらの手紙の中から、ほんの少しではあるが、いくつか抜粋して紹介してくれており、それによって我々は、当時のビアウォブウォツキの心の中を、それこそ十二分に窺い知る事ができるのだ。

ショパンの親友の言葉、しかも、予め公に向けられた社交辞令のようなものではない、紛れもない「真実の言葉」を聞く事ができるなど他に例がないだけに、これはすこぶる貴重である。私は今まで、自分で入手し得るあらゆるショパン関連の書物や資料に目を通してきたが、この本にそんな貴重な資料が掲載されているなんて事について、今まで誰一人として言及していなかった。私はその事実に対して愕然としてもいる(おそらくヘドレイなどは、この本の存在そのものをこの世から抹殺したい事だろう…)。

 

もちろん本稿においては、それら「ビアウォブウォツキの言葉」は漏れなく、それを引用するに相応しい時に追って紹介するつもりであるが、今回はここでその中から、「ビアウォブウォツキ書簡」の第3便以前の事に言及されている箇所を紹介したい。その中にも、今まで知らなかった彼の素顔が見られる。

        文中“下線”で括った箇所が、「ビアウォブウォツキ本人が書いた手紙」からの引用部分である。

 

1815年に、彼はワルシャワ高等中学校に入学した。その際、ショパン家に寄宿していた事は間違いないだろう。ショパン家での寄宿生活は規律が良く、学業がし易いように配慮されていて、しかも衛生面での条件が高い事で有名だった。このため、ショパン家に寄宿する事は、貴族社会及び富豪たちの間で評判が良かった。ショパン家に寄宿した若者たちは、ショパン家の子供たちと同じ扱いを受け、一緒に食事をし、一緒に勉強していた。したがってビアウォブウォツキは、1815年には、当時5歳になる小さなフリッツと知り合っていたはずである。じきに二人の間に友情が芽生え、それは、ビアウォブウォツキが亡くなるまで薄れる事なく続いた。この両者の友情は、ショパンが1826年に11年間続いた」と書き記す程のものだったのである。

18237月に、ビアウォブウォツキは高等中学校を卒業した。いわゆる修業試験に合格したからである。その年の9月に、やっとショパンがこの高等中学校の第4級に入学している。翌年、ビアウォブウォツキはワルシャワ大学に入学し、アントニ・ブランク教授の下で美術理論の講義を受け、さらにこの教授の弟子から“絵描きレッスン”を受け、その“先生”の指導のもとに絵を描く事を熱心に学んでいた。それも、毎日4時間にも及んで、主にイタリア画家の作品を模写していた。彼がこの“先生”にどれほど入れ込んでいたかは、彼がヴィブラニェツキに願い入れて、“先生”を家に呼ぶ許可を取った事から明らかである。それも、“先生から多くを学ぶ事ができる”と言う理由であった。

1824年と1825年の夏休みを、この若い友人たちはそれぞれ非常に近い処にある館で過ごしていた。と言うのも、ショパンは、ドミニク・ジェヴァノフスキと言う別の友人(同じ学校の生徒で、ショパン家の寄宿生でもあった)からの招待を受けて、ユリウシ・ジェヴァノフスキ家の地所であるシャファルニャの館で夏休みを過ごしており、そこはビアウォブウォツキのいるソコウォーヴォからたった5`しか離れていないからである。当然、少年ショピネック(ショパン名の愛称)は頻繁に、このソコウォーヴォの家族を訪問していた。この事は手紙にも書かれている。

1824325日に、ビアウォブウォツキの母親が亡くなった。これは、感受性の強かった「ヤレック(ヤンの愛称)に打撃を与え、苦しめた。その事は、彼が義父に宛てた手紙に書かれている。それ以降、彼は、自分の家族に対する愛情を強く姉に向けるようになり、コトゥシャと言う呼び名で彼女に手紙を書き送っている。と言うのも、“彼女が僕の最愛の母の死水を取った”からである。しかし、彼自身の死が近付いていた。

彼は、高等中学校ではすでに“体の弱い”生徒であると格付けられていた。時間が経つにつれて、頻繁に体調を壊す日が多くなり、色々な病に見舞われている事を手紙で嘆いていた。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

この本には、ビアウォブウォツキの生年没年だけでなく、彼の母親の命日についても言及されていた。要するに、以前私が引用した『ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)に掲載されていたビアウォブウォツキ関連の記事も、ソウタンの「序文」から部分的に引用していたに過ぎなかった訳だ。

また、ビアウォブウォツキがピアノを弾く事についてはショパンの手紙の中で言及されていたから知っていたが、彼が「絵を描く事を熱心に学んでいた」事については全く知らなかった。今までどの著書でも言及されていなかったからである。

ここから分かる事は、ビアウォブウォツキが、心底芸術と言うものに対して深い関心を持っていたと言う、紛れもない事実である。これによって、ショパンとビアウォブウォツキがなぜこれ程までに惹かれ合っていたか、その理由がまた一つ見えてきたのではないだろうか。

と言うのも、ショパン家の寄宿学校では、裕福な家系の子息の嗜みの一つとしてピアノのレッスンが取り入れられていた訳だが、しかしそれは、寄宿生にとっては、言わば上から強制された「習い事」に過ぎないと言う点を見落としてはならないからだ。つまり、寄宿学校のショパンの友人達がみなピアノを弾けたからと言って、その彼らが心底芸術を愛していたかと言えば、それとこれとは全く話が別だと言う事だ。

さあ、そこで、非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。

実は、今までショパンが手紙を書いた友人は4人いるが…、

1.         ユウスタヒ・マリルスキ

2.         ヴィルヘルム・コルベルク

3.         ヤン・ビアウォブウォツキ

4.         ヤン・マトゥシンスキ

…この4人のうち、一番最初のマリルスキに関しては、ショパンが学校関連の用件でたった一度だけ、しかも一方的に伝言をしたためたに過ぎないが、しかしあとの3人は、それぞれがショパンと相互に手紙のやり取りをするほど特に親密だった。そしてそんな彼ら3人に関しては、みな芸術に対して深い関心を抱いていた事が、確かな資料によって証明できるのである。

 

コルベルクは、ショパンから自作のポロネーズを個人献呈されている。それは、現在《ポロネーズ 第15番 変ロ短調 遺作 「別れ」》として知られている曲だが、しかし単に作品を個人献呈されるだけなら、何も彼だけが特別な訳ではない。ここで着目すべきはその曲の内容である。

 

1826年、ショパンは母、ルイーズ(※姉ルドヴィカ)、妹エミリアとともにライネルツの鉱泉に出掛けたが、出発の際、友人のコールベルグのために、彼のお気にいりの歌劇「泥棒かささぎ」のアリアの旋律を中間部に使用して、このポロネーズを作曲した。草稿の冒頭にはショパンの手で、「ポロネーズ、F.F.ショパン」、トリオの冒頭には「さようなら」と書かれ、別の手で(おそらくコールベルグによる)「コールベルグさようなら(ライネルツへの出発に際して)1826」と書かれている。又トリオの冒頭には、「ロッシーニの歌劇(泥棒かささぎ)のアリアによるトリオ」という自筆がある。

ドレミ楽譜出版社編

『ショパン・ピアノ名曲辞典』より  

ショパンがドゥシニキ(当時ライネルツ)へ療養に出発するに際して、友人コルベルグに贈った曲でAdieu”(アデュー)(※フランス語で「さようなら」の名がある。中間部トリオは、当時ショパン達が心酔していたロッシーニのオペラ「泥棒かささぎ」のアリア(カヴァティーナ)に基づいている。

下田幸二著

『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』(潟Vョパン)より  

 

つまりこの作品の献呈は、贈り手と受け手が、日常生活における娯楽やプライベートを共有し合っていたからこそのものであり、楽譜の書き込みと曲の内容が正にそれを物語っている。その点が重要なのである。

ショパンは「ビアウォブウォツキ書簡」の第2便で、過去にビアウォブウォツキと一緒に芝居を観に行っていた事が分かっている。したがって本来であれば、このようなオペラ鑑賞はビアウォブウォツキと一緒に行っていたはずであるが、1826年当時はその彼が足の病気のためワルシャワにいなかった。なのでショパンは、こう言った楽しみは、もっぱら近隣のコルベルクと分かち合っていたのだ。つまり、その結果がこのポロネーズの個人献呈になる訳である。

コルベルクは、彼の弟(次男)が将来民族音楽の研究家となり、その弟(三男)が画家となる訳だが、コルベルク自身は芸術関係の仕事を目指さなかった。しかしながら、その芸術に対する深い関心は、決して他の兄弟達に劣るものではなかったのだ。

 

マトゥシンスキについては、以下のような事実が報告されている。

 

高等中学校に通っていた頃、フレデリック・ショパンの親密な友人であった。自分でもフルートを吹いていた。1823年、ワルシャワにあるベルナルディン修道会の教会(現在、聖アンナ教会)で、ミサ礼拝が行われている際にソロ演奏をした事が記録されている。

アンヂェジェイ・シコルスキによる、「ヤン・マトゥシンスキ」に関する記事

Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

また、彼は、ショパンの作曲した「変奏曲」の楽譜をショパンから借りていた事が、1827年に書かれた「本物のマトゥシンスキ書簡」で言及されている。

彼は町民の出身でショパン家の寄宿生ではなかったから、上からの強制で「習い事」として音楽を始めるような身分ではなかった。したがって、彼の音楽に対する深い関心は疑う余地がない。

 

このように、ショパンと相互に手紙をやり取りするほど特に親しくなるような友人達は、みな音楽や芸術に対する深い関心を持っており、それを日常的にショパンと分かち合っていた事が分かる。そしてそれが確実な資料によって確認され得るのである。

さて、そうすると、現時点でここにティトゥス・ヴォイチェホフスキの姿が全く見られないのは、何か不思議な感じがしてこないだろうか?

そのヴォイチェホフスキは、ショパン家の寄宿学校でショパンらと寝食を共にしていながら、彼ら友人達に遅れること数年、18289月になって突如ショパン史の表舞台に急浮上し、《作品2の変奏曲を公式に献呈され、ショパンの愛情と信頼をほぼ一人で、しかも一方的かつドラマチックに独占した後、ショパンがパリに移住してしばらくすると、またその姿がほとんど見えなくなる……こんな奇妙な「唯一無二の親友」があるだろうか? 彼の挙動不審については、具体的に数え上げたらキリがないが、しかしそれについては、その時が来たら存分に説明しよう。

 

 

 

さあ、前置きが長くなったが、今回の本題に入るとしよう。

今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡」の第3便である。その手紙を読む前に、もう一度、ここに至るまでの流れを簡単に整理しておこう。

 

1.        182578日」 「ビアウォブウォツキ書簡」第1便

        ビアウォブウォツキが足の病気にかかり、療養のためワルシャワを離れる。その転地先から、彼が姉を通じてメッセージを送って来る。この第1便は、ショパンがそれに対して返事したもの。この時ショパンは「試験」を控えた時期で、それが終われば今年の夏もまたシャファルニャへ行く事になっていたので、「その頃には僕らは会えるだろう」と書く。

2.        1825727日] 「ビアウォブウォツキ書簡」第2便

        ビアウォブウォツキから返事が届いたので、ショパンが「試験」期間中にも関わらず返事を書いたもの。「僕達は月曜日にここを発って、水曜日にシャファルニャに到着する。君が僕に会いたいなら、真っ先に来てくれたまえ。もう一人の賢者のせいで、僕の良き保護者女性は、僕が君の所へ行くのを許してくれないのだ」と書く。

3.        1825826日」 シャファルニャからワルシャワへの「家族書簡」

        ところが、シャファルニャに着いてから20日以上も経ったと言うのに、いまだ「僕はビアウォブウォツキーにもフィブラン(※彼の継父)にも会いませんでした」と言う日々が続く。これではシャファルニャへ来た意味がなく、ついにショパンは家族に宛てて、「僕は去年のように〔不明(※来年もまたシャファルニャに来たいという)、希望を持っていないので、そう早くは村の人たちにまた会えることもないからです。僕はこんな感傷で一ページ全部をうずめることができそうですが」云々と書くに至る。

4.        182598日頃」 シャファルニャからの「マトゥシンスキ書簡」

        そんな頃、シャファルニャ滞在中のショパン宛に、学校で知り合ってまだ一年半以内の友人、ヤン・マトゥシンスキから手紙が届く。その手紙は、ショパンがトルンまで小旅行している間に届いていた。それは、落ち込んでいたショパンにとって、「ああ、君から手紙をもらうなんて、この僕の歓喜は、あのセヴィニエ夫人ですら表現できないだろう、それほど意外だったよ。こんな驚きを探すくらいなら、自分の死を探した方がよっぽど早く見つかるだろう」と言うほどの、いい慰め、もしくはいい気分転換になった。

 

そして、1825年の夏休みも残り僅かとなり、いよいよショパンがシャファルニャを後にしようと言う時が訪れる。そんな頃に書かれたのが、今回の「ビアウォブウォツキ書簡」第3便となる。

それでは、その手紙を見てみよう。まずは註釈なしに読んでいただきたい。

 

■ソコウォーヴォのフレデリック・ショパンから、

ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第3便)■

(※原文はポーランド語)

「親愛なる、最愛のヤレック!

我々は明日、非常に朝早く出発する。僕は昨日中に君の所へ行くと約束したのに、今日になるまでソコウォーヴォに着く事が出来なかった。この休暇中にこれ以上君に会えないのは非常に残念だ。僕はこの紙切れの上で君に別れの挨拶をするしか方法がない。コンスタンチア嬢宛の手紙は、ルドヴィカが郵便で送った。僕は、君がもっと健康であって欲しいと思う、まったく、君の足は完全に良くならなければいけないよ。僕の代わりに君のパパにキスしてくれたまえ、そして彼に、あの煎じ薬には非常に恩恵を受けていると感謝の意を伝えてくれたまえ。僕がそれを決して忘れない事を彼に話してくれたまえ。そんな訳だから、親愛なるヤーシア、僕らは実際には直接さよならも言えずに別れなければならない。僕は心から君にキスする。僕が君を忘れないように、君も僕を忘れないでくれたまえ。

F.F.ショパン

 

[手紙の裏面に]

フロレンティナ嬢によろしく。

僕はラドミンまで君の後を追い駆けて行きたい。しかし、僕にはそうする事が出来ない。それならここで君が来るのを待ちたい。でもそれも出来ない。なぜってルイーズ嬢が――ああ、あのルイーズ嬢が!――僕の出発を待っている。僕は急いで旅の支度をしなければならないので、早く戻らないと。キスしてくれたまえ! 僕がどれくらい残念に思っているか、君は信じられないだろう!――帰宅の途に着くのが嫌になるほどだよ。何のために馬車で苦労してここまで来なきゃならなかったのか、館で誰にも会えなかったのに! しかし少なくとも、君は僕が来た事は分かってくれるだろう。これでは、君と君のパパに愛情のこもったさよならを言うだけのために来たようなものだ。

何を書いたらいいのか分からない。僕は今まで経験しなかった程の状況に置かされている。

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より 

並びに、ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

及び、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

        ソウタンの註釈には、使用された用紙は白、2枚、各用紙のサイズ:35.5 x 21.5cm。最初のページに使用された用紙には透かし模様:長い線と星。とある。

 

この手紙は、今までどのショパン伝でも紹介された事はなく、まして、たとえその一文ですら抜粋引用された事もない。したがって、我々日本の一般のショパン・ファン、つまり、普段日本語の書籍しか目にする事のないショパン・ファンは、このような手紙が実在していた事すら知らなかったはずである。

 

それでは、手紙の内容を全て、順に見ていこう。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#1.

「親愛なる、最愛のヤレック!

僕達は明日、非常に朝早く出発する。」

 

この冒頭の一言で、この手紙がいつ書かれたものなのか、その具体的な日付までかなり正確に特定する事ができる。

ちなみにソウタン版では、この手紙は「ビアウォブウォツキ書簡」の第1便として本文の最初に掲載されており、日付については次のように註釈されていた。

 

手紙の原本には日付はない。1824年か1825年の夏の終わりに書かれた可能性がある。なぜなら、その2年の夏のみ、ショパンは夏休みをシャファルニャのジェヴァノフスキ家の館で過ごしたからである。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

ソウタンの時代にはショパンに関する資料が限られていたから、この手紙の日付をこれ以上特定する事はできなかった。しかしながら、ビアウォブウォツキの足が悪化したのは明らかに今年の夏前であり、そのせいで彼は夏休みを待たずしてワルシャワを離れ、そしてそれが文通のきっかけとなったのだから、この手紙が去年の1824年」に書かれたものであるはずがない。ビアウォブウォツキの足は、去年の夏の時点では、仮に患っていたとしてもまだそんな深刻な状態ではなかったのだから。となれば、この手紙は1825年の夏の終わり」に書かれたとしか考えられないのであり、あとはその日付である。

 

ショパンは前回の「マトゥシンスキ書簡」の中で、ワルシャワへ帰るのは922日」だと書いていた。

すると自動的に、今回の手紙で「我々は明日、非常に朝早く出発する」と言っているのは、その922日」へ向けての「出発」「明日」なのだと言う事になる。

ショパンは夏休み直前の「ビアウォブウォツキ書簡」第2便の中で、「僕達は月曜日にここを発って、水曜日にシャファルニャに到着する」と書いていた。ここから、ワルシャワからシャファルニャに着くまで「丸3日」を要している事が分かる。そこで、逆にシャファルニャからワルシャワへの帰りのルートもそれと同じ旅程を辿ったと仮定した場合、922日」まで「丸3日」を要するのだから、そこから逆算して、ショパンがシャファルニャを出発する「明日」と言うのは「920日」だと言う事になる。

そうすると、この手紙はその前日、つまり919日」に書かれたものだと特定できる事になる。仮に多少のズレがあったにしても、その誤差はほんの数日程度のはずである(※下図参照)。

 

1825年における、ショパンの夏休みのスケジュール―

1825年 8月

 

1825年 9月

 

1

「発」

2

3

「到着」

4

5

6

 

 

 

 

1

小旅行

2

小旅行

3

小旅行

7

8

9

10

 

11

12

13

4

小旅行

5

小旅行

6

小旅行

7

1

8

マトゥシ

9

10

 

14

15

 

16

17

18

19

 

20

11

12

13

14

15

 

16

17

21

22

23

24

 

25

 

26

家族書

27

小旅行

18

「昨日」

19

3便

20

「出発」

21

22

帰宅

23

24

 

28

小旅行

29

小旅行

30

小旅行

31

小旅行

 

 

 

25

 

26

 

27

28

29

30

 

 

        オピエンスキー版では、ソウタン版の日付と掲載順序をそのまま流用し、1824、または1825年の夏の終わり]としている(※ちなみにポーランドのショパン研究家が運営するサイト「ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」でもそうなっている)。一方、シドウ版では完全に第1便と考えて1824年]に限定し、1824年の夏の終わり]としている。しかしいずれにせよ、この手紙は断じて1824年]に書かれたのではない。きっぱり1825919日」頃に書かれたのだ。したがってこれは第3便なのである。前後の手紙の内容の流れから考えても間違いはない。

 

もう一つ、ショパンはここで「我々は」と複数形で書いている点に着目したい。

        実は、ポーランド語の原文には、元々この「我々は」と言う主語が書かれていない。これはポーランド語に特有の表現で、ポーランド語の動詞の変化には、一人称、二人称、三人称のそれぞれに違う単数形と複数形があり、ここでは「出発する」の動詞が「一人称の複数形」で書かれている。このような動詞の変化がある事によって、ヨーロッパの言語には珍しく主語の省略が全く問題とならないのだ。そのため英訳版でも仏訳版でも、それぞれWeNousと言う風に「我々は」に相当する主語をあてがって訳してある。この、ポーランド語に特有の「一人称の複数形」を日本語に置き換える事はもちろん不可能なので、本稿でも英仏版に倣って、主語が省略されているものとしてこれを補い、それを前提に話を進めている。

ショパンが夏休みに向けてワルシャワを発った時にも、「僕達は(=我々は)」と、やはり複数形で書かれていた(※ここも同様で、「出発する」の動詞が「一人称の複数形」である)。したがってショパンは、もちろん「ワルシャワ⇔シャファルニャ間」をたった一人で旅していたのではない。その旅程にはちゃんと連れがいたのである。その連れとして間違いなく同行していたと言えるのは、まず、シャファルニャの領主の息子である友人ドミニク・ジェヴァノフスキであり、その保護者である叔母の「ルイーズ嬢」である。この2人はおそらく、学校のある期間中はワルシャワで一緒に暮らしていたと考えられる。だからショパンは、彼らの馬車に乗せてもらってシャファルニャを行き来していたのだ。それゆえシャファルニャでのショパンは、言わばジェヴァノフスキ家の居候のような立場で、完全に彼ら一家の管理下に置かれていた訳なのである。

そしてもう一人、今回はここに、ショパンの姉のルドヴィカも一緒にいたのではないか?と考えられるのだが、それについては後述する。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#2.

「僕は昨日中に君の所へ行くと約束したのに、今日になるまでソコウォーヴォに着く事が出来なかった。この休暇中にこれ以上君に会えないのは非常に残念だ。僕はこの紙切れの上で君に別れの挨拶をするしか方法がない。」

 

この箇所はちょっと謎が多い。

まず、「僕は昨日中に君の所へ行くと約束した」とあるが、ショパンはその「約束」をいつどのような方法でしたのか?…それが分からない。可能性として考えられるのは、

1.       1週間近く前から、郵便による手紙で知らせていた。

2.       数日前から、人づてに口頭かメッセージで知らせていた。

3.       数日前に、ビアウォブウォツキがショパンに会いにシャファルニャに来ていて、その時に彼と約束していた。

 

同様に、「この休暇中にこれ以上君に会えないのは非常に残念」と言うのも、その「これ以上」と言うが今年の話なのか、それとも去年からの話なのか?…それが分からない。

1.       去年から引き続いている話なら、結局彼らは今年は会えずじまいだった事になるし、

2.       今年に限った話なら、彼らは最後の方で少なくとも一度は会えていた事になる。

 

いずれにせよ、そういった細かい状況背景がどうであれ、確かなのは、この夏ショパンが、ついにソコウォーヴォ訪問を果たすに至ったと言う事だ。

そうなのである…この夏ショパンは、「もう一人の賢者のせいで、僕の良き保護者女性は、僕が君の所へ行くのを許してくれないのだ」と、ソコウォーヴォへ行く事を禁じられていたのに、それでも彼は、シャファルニャ滞在の最後の最後になって、ようやくソコウォーヴォへ行く事を許されたらしいのである

 

しかし、それなのに、二人は会えなかったのだ。

 

つまり、今ショパンが書いているこの「紙切れ」と言うのは、厳密に言えば、両者がソコウォーヴォで行き違いになってしまったがために書かざるを得なくなった「置手紙」と言う事になる。ショパンは、「僕が来た事」「君」「分かって」もらうため、この「置手紙」をその証拠として残して行きたかったのだ。

ここに書かれているショパンの落胆振りから察すると、やはり、二人は結局、今年は一度も会えずじまいに終わってしまった可能性が高いのかもしれない。しかしそれについては何とも言えない。と言うのも、ショパンにとっては、ビアウォブウォツキと会う場所がシャファルニャかソコウォーヴォかと言うのはそれこそ大問題で、そこには大きな違いがある事が容易に想像されるからだ。

1.       シャファルニャのジェヴァノフスキ邸では、当然、領主の息子である友人ドミニクもいるし、それ以外の来客もかなり頻繁だったようだし、それに日々の生活スケジュールも厳しく管理されていた様子が窺える。仮にそんな状況でショパンとビアウォブウォツキが会っても、二人にできる事はたかが知れているだろう。

2.       一方、それに対してソコウォーヴォのヴィブラニェツキ邸では、何よりもショパンはビアウォブウォツキと水入らずになれるし、「あのルイーズ嬢」の監視の目も光っていないので、おそらくショパンは我が家のようにのびのびと過ごせたのではないだろうか?

だから、仮にビアウォブウォツキがシャファルニャに来て二人が会えていたとしても、それでは顔見せ程度のものにしかならず、やはりソコウォーヴォで会わなければ、ショパンは彼と満足に会った気がしないのではないだろうか? したがって、「この休暇中にこれ以上君に会えないのは非常に残念」と言うのが今年の話だとすれば、二人は、少なくとも一度はシャファルニャで顔を合わせていたのかもしれない。

もしかするとその辺りにも、ジェヴァノフスキ側がヴィブラニェツキ側にショパンを渡したくないと考える理由が潜んでいるのかもしれない…。なぜなら、ジェヴァノフスキ側がたとえ最後の最後になってショパンにソコウォーヴォ訪問を許したにしても、結局たった1日しか滞在期間を与えていないと言うのが、私にはどうにも気にかかるからだ…。おそらく、この両家の力関係、もしくはショパン家との関係から、ヴィブラニェツキ家がジェヴァノフスキ家を差し置いてフレデリックを独占するのは、非常に気まずい事になるのだろう。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#3.

「コンスタンチア嬢[ビアウォブウォツキの姉]宛の手紙は、ルドヴィカ[ショパンの姉]が郵便で送った。」

 

実はこの箇所もよく分からない。本稿では便宜上、オピエンスキーの英訳版を簡略化してこのように訳しておいたのだが、実のところ、ショパンがここで何を言おうとしているのかよく意味が分からず、どうにも正確に訳せないのだ。ソウタン版のポーランド語原文では、この一文をそのまま訳すと以下のようになるようなのだが…

この手紙は君の手許にコンスタンチア嬢に届けてもらう、この僕の手紙はルドヴィカからコンスタンチア嬢への手紙に入れて、ルドヴィカが郵便局へ持って行く。

…これでは意味が全く分からない…。

これをそのまま言葉通りに受け取ると、一番目の「この手紙」「コンスタンチア嬢に届けて」もらい、二番目の「この僕の手紙」ルドヴィカが郵便局へ持って行くと、それぞれ2通の違う手紙について言及しているようにも見える。しかしだとしたら、おそらくショパンが今ここで書いている「紙切れ」が一番目の「この手紙」の事だと思われるが、それでは、二番目の「この僕の手紙」とは何なのか? ショパンは今まさにソコウォーヴォにいるのだから、それなら「この僕の手紙」も一緒に「コンスタンチア嬢に届けて」もらえばいいのに、なぜわざわざ一旦持ち帰ってルドヴィカが郵便局へ持って行く必要があるのか?…全く分からない…。

オピエンスキーの英訳版では、前後の意味不明部分を取り除くと、「コンスタンチア嬢宛の手紙は、ルドヴィカが郵便で送った」と過去形(厳密には現在過去)で英訳されている。私にはどうもこっちの方がしっくり来るような気がするので、本稿では敢えてこの解釈を採用しておいたのだが…。

 

私は前々回、826日」付の「家族書簡」を検証した際に、「この夏ショパンがシャファルニャ滞在中に書いた手紙の中で、なぜか姉のルドヴィカだけが、ショパンの家族でただ一人、奇妙な登場の仕方を二度している」と書いたが、これがその二度目なのである。つまり、この意味不明な文章に辻褄を合わせるとしたら、「この夏、ルドヴィカはショパンと共にシャファルニャに来ていた」と、そう考えない事には、どうにも釈然としないのだ

なぜなら、もしもルドヴィカがワルシャワにいるのであれば、仮に「この僕の手紙」郵便局へ持って行くとなると、ショパンがシャファルニャから帰宅するまで待たねばならず、それでは手紙を発送するまでに間が空きすぎる。逆に、もうすでに「ルドヴィカが郵便で送った」となると、その情報は当然ワルシャワの家族からシャファルニャのショパンに手紙でもたらされるのだから、それだと、ショパンがソコウォーヴォに到着する前に、とっくに「この僕の手紙」の方が先に「コンスタンチア嬢へ」届いてしまっている。そんな話を、こんな「置手紙」の中でリアルタイムに報告するのはどう考えても不自然だろう。しかし仮にルドヴィカがショパンと一緒にシャファルニャに来ているのであれば、そのような疑問は一切生じないのである。

したがって私は、「この夏、ルドヴィカはショパンと共にシャファルニャに来ていた」と、そのように思えて仕方がない訳なのである。ルドヴィカは来年も、ショパンと妹のエミリアが転地療養のためにライネルツを訪れた際、母の手助けをするために一緒に付き添っているからだ。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#4.

「僕は、君がもっと健康であって欲しいと思う、まったく、君の足は完全に良くならなければいけないよ。」

 

これは言うまでもなく、ショパンとビアウォブウォツキがここで行き違いになってしまった原因が、まさにその「君の足」の病気のせいだからで、つまり、ビアウォブウォツキがショパンの到着を待てずに「ラドミン」へ行かざるを得なかったその理由が、「足の治療のため」だからに他ならない。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#5.

「僕の代わりに君のパパにキスしてくれたまえ、そして彼に、あの煎じ薬には非常に恩恵を受けていると感謝の意を伝えてくれたまえ。僕がそれを決して忘れない事を彼に話してくれたまえ。そんな訳だから、親愛なるヤーシア、僕らは実際には直接さよならも言えずに別れなければならない。僕は心から君にキスする。僕が君を忘れないように、君も僕を忘れないでくれたまえ。

F.F.ショパン」

 

        「あの煎じ薬」と言うのは、ソウタンの註釈によると、焼いたどんぐりから作った湯薬。医者がショパンに奨励していたとある。つまりこれは、昨年『シャファルニャ通信』の中で言及されていた「どんぐりコーヒー」の事で、ショパンが一日に何杯も飲んでいたものだ。実はそれは、ヴィブラニェツキ氏がショパンのために調達してくれていたものだったのだ。

 

「君のパパ」と言うのは、ビアウォブウォツキの継父ヴィブラニェツキ氏の事だが、ショパンは昨年も、シャファルニャからの「家族書簡」の中で、ビアウォブウォツキと共に彼の名も書き添えていたし、今年のシャファルニャからの「家族書簡」の中でも同様だった。そしてもちろん、こうしてビアウォブウォツキに宛てた手紙の中でも、彼に対する挨拶を決して忘れない。その理由が、ここでよく分かった気がする。

と言うのも、ビアウォブウォツキの母は2度結婚していて、最初の夫との間にできた子供がビアウォブウォツキ姉弟である。つまりビアウォブウォツキにとって、このヴィブラニェツキ氏と言うのは2人目の父親、つまり義理の父になる訳だ。それにも関わらず、どうしてショパンまでもがこのヴィブラニェツキ氏をこれほど慕っているのか、そして、ショパンがこれほど慕っていると言う事は、もちろんビアウォブウォツキ本人も同様だと言う事であり、つまりここから我々は、このヴィブラニェツキ氏と言う人物の「良き人間性」を窺い知る事ができるのではないだろうか。ここに書かれている「あの煎じ薬」と言うのは、何かそう言ったものを象徴しているように思われる。

ヴィブラニェツキ氏は、去年の6月に亡くなった妻カタジナの連れ子であるビアウォブウォツキが足の病気になってからと言うもの、おそらく、その治療のためにいい医者がいないかとか、その病気によく効く温泉がないかとか、あらゆる情報を調べては、「ソハチェフ」「オクニエ村」「ラドミン」等へ彼を連れて行くのに労を惜しんでいない。ヴィブラニェツキ氏にとってビアウォブウォツキは義理の息子なのに、それこそ我が子同然の愛情でもって接している様子が、そこから想像されるのである。ショパンがそのヴィブラニェツキ氏を指して、さも当たり前のように「君のパパ」と呼んでいるのは、他ならぬビアウォブウォツキ本人が、普段から彼の事を自分の本当の父親のように「僕のパパ」と呼んでいる事を物語っているのではないだろうか。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#6.

[手紙の裏面に]

フロレンティナ嬢によろしく。」

 

この追伸部分は、2枚目の便箋の裏面に書かれている。

「フロレンティナ嬢」とは、ソウタンの註釈によれば、フロレンティナ・ヴィブラニェツカ。アントニ・ヴィブラニェツキの従姉妹。」とある。

ショパンは、一旦手紙を書き終えてサインしたのに、急に何か思い出したかのように[手紙の裏面に]彼女への追伸を書き込んでいる。この「フロレンティナ嬢」の名は、過去の第1便、第2便には出てきていなかったので、いつもソコウォーヴォにいる訳ではないのかもしれない。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#7.

僕はラドミンまで君の後を追い駆けて行きたい。しかし、僕にはそうする事が出来ない。それならここで君が来るのを待ちたい。でもそれも出来ない。なぜってルイーズ嬢が――ああ、あのルイーズ嬢が!――僕の出発を待っている。僕は急いで旅の支度をしなければならないので、早く戻らないと。」

 

        「ラドミン」は、ソウタンの註釈によると、「ソコウォーヴォ近郊」にある村で、「ビアウォブウォツキの従兄弟」「賃借人」として住んでいたとの事である。

 

追伸をきっかけに、再び堰を切ったようにその無念さが切々と書き連ねられている。

そして、ここで「あのルイーズ嬢」の登場である。

ショパンは、本当は「昨日中に」ソコウォーヴォに来る「約束」だったのに、どんな事情があったのか「今日になるまで」来られなくなってしまっていた。その結果、仮に「今日」ビアウォブウォツキに会えたとしても長居はできず、その日のうちにすぐシャファルニャへトンボ返りしなければならなかったのである。

ショパンのこの書き方からして、彼はその事を「ルイーズ嬢」から相当きつく釘を刺された上でやって来たらしい事が察せられる。しかも「あのルイーズ嬢」と言う書き方からして、ショパンにとって彼女がどれほど「怖い」存在で、そしてその事をビアウォブウォツキも重々承知済みなのだと、そう言った様子が、それこそ手に取るように分かる。

 

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第3便#8.

「キスしてくれたまえ! 僕がどれくらい残念に思っているか、君は信じられないだろう!――帰宅の途に着くのが嫌になるほどだよ。何のために馬車で苦労してここまで来なきゃならなかったのか、館で誰にも会えなかったのに! しかし少なくとも、君は僕が来た事は分かってくれるだろう。これでは、君と君のパパに愛情のこもったさよならを言うだけのために来たようなものだ。

何を書いたらいいのか分からない。僕は今まで経験しなかった程の状況に置かされている。

 

ジェヴァノフスキ邸のあるシャファルニャは、「ソコウォーヴォからたった5`しか離れていない」とは言え、もちろんそれはショパンが一人で歩いて行き来できるような距離ではない。

 

さて、この部分を読んで、本稿の読者の中には、ショパンに対して、何か女性的な傾向、もしくは同性愛的な傾向を感じる人もいるかもしれない。

実はそのような事は、ショパンについてはよく言われる事なのだが、それに関しては、おおむね以下のような意見に落ち着いている。

 

「さて、ここでショパンの初恋(※コンスタンツィヤ・グワトコフスカとの)についてふれたが、実は彼には同性愛の傾向があったのではないか、と言われることがあった。それは、親友ティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた夥しい数の手紙とその内容に原因がある。

ショパンがティトゥスに宛てた手紙を読んでみると、どうも女性的で、彼が手紙をあまり書いてくれないことについてすねてみせたり、「君に会いたくてたまらない」とか、「君をどんなにか愛している」「僕のことを愛してほしい」、さらには「キスさせておくれ」といった表現が頻繁に出てくるのだ。残念ながら、ティトゥスがショパンに送った手紙は1通も残っていないので、これに対して彼がどんな反応を示していたのか詳しいことはわかっていない。

ティトゥスはショパンのように線の細いタイプではなく、骨太で男性的な、力強い性質の人物であったと伝えられている。音楽を専攻していたわけではないが、ピアノを巧みに弾きこなし、音楽的センスにも恵まれていたという。とにかくショパンが2歳年上のティトゥスの存在を、とても頼りにしていたことは確かだ。

だが、ポーランドをはじめスラヴ民族系の国では男性同志がキスすることも稀ではなかったようで、しかも19世紀にはこうした表現が手紙上で使われることも多かったという。したがって、現在ではショパンに同性愛的傾向があったという見方は、ほぼ否定されている。」

吉成 順著

『ショパンの「正しい」聴き方』(青春出版社/2000年)より 

 

ここではヴォイチェホフスキ宛の手紙についてしか触れていないが、ショパンが「キスさせておくれ」とか書いている相手は何もヴォイチェホフスキ1人だけではない。今回のビアウォブウォツキはもちろんの事、昨年1824年にシャファルニャからコルベルク宛に書いた手紙にも「僕に接吻してくれたまえ」とあったし、今年1825年に同じくシャファルニャからマトゥシンスキ宛に書いた手紙にも「僕の唇を君に押し付け」とあった。それどころか、老ジヴニーが翌1826年にショパン宛に書いた手紙にすら同様の表現が使われている。このような例を挙げたらキリがない。

それに、現にショパンは、パリ移住後には、幼なじみでもあるマリア・ヴォジンスカと言う女性と、至ってノーマルに恋愛をし、婚約までしている。それはちょうど、ショパンが音楽家として自立し始めた時期でもあり、そしてそれと時を同じくして、ヴォイチェホフスキ宛の手紙もぷっつりと途絶え、そして、彼宛に書くような「女性的」な態度も消え去っているのである。これらは全て偶然ではない。

 

ただ、そのような事情を差し引いても、今回のこの手紙におけるショパンのビアウォブウォツキへの感情は、ショパン本人も「今まで経験しなかった程の状況」と認めているように、やはり「尋常ではない」…と言えるだろう。

 

こう言った問題に関して、イワシュキェフィッチは次のように考察している。

 

「ショパンとウォイチエホフスキーとの間柄は、青年の惚れ込む気持といったもので定義される。ショパンのこの惚れ込む気持は、少年フリツェークが踏み込んだばかりの年輩としては特異のものである。この気持は彼の生活から、彼の手紙から知ることができる。このような友情の姿をトルストイほど上手に描いた人はほかにいない。トルストイは小説『青春時代』で、主人公がネフリュードフと会った時、突然めまいに襲われたことを描いているのである(トルストイの自叙伝的小説『少年時代』、『少年時代』、『青春時代』)。ある不安定な感情は、はけ口を捜し求めるものである。この青春の嵐を通って蓄積されたすべてのものは強大な感情にまで作り上げられる。それは自分自身に、自分の才能に、自分の生命力に惚れ込むことであり、偶然自分の視野に入って来る人間に転化されるものである。惚れ込むことが友人に転化されることは自分の可能性の投影であり、理想的な友人の姿に結晶するあらゆる未来感情の予感である。私たちは恋人に熱中し始める前に、友人に熱中するものである。友人は信頼されるべき者であるべきだし、愛情の対象でにない手でなければならない。

…(中略)…

一方ティトゥスの方を見ると、彼は、友人ショパンの、何か女性的に発散するものをいやいやながら我慢していたが、早くからショパンの偉大さを正しく評価し、いつも実用的な指示をショパンに与え、また、今日で言えば誇大宣伝と言われるようなやり方で、友人の偉大さを強調していたのであった。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より 

 

ちょっと抽象的すぎて分かりにくいかもしれない。

要するにこう言った事は、「思春期」や「思春期の入り口」に特有のものなのである。たとえばそれが異性への恋愛であれ、同性への友情であれ、あるいはその両者の境界があいまいなような例であれ、いずれにせよ、他者を通して自分を鏡に映すという、つまりこれは、自我や自意識の目覚めを意味しているのだ。

 

ところが、ショパン関連の著者の誰もが、ショパンの思春期は彼が1920歳になった頃に、ティトゥス・ヴォイチェホフスキとコンスタンツィヤ・グワトコフスカを通して芽生えたと論じている(※上記のイワシュキェフィッチも同様である)。だが、そんな馬鹿な話がある訳がない。この、誰よりも感受性が強く早熟な天才芸術家の思春期が、どうして、「そんな遅い時期になってやっと訪れた」なんて考えられるだろうか? 実際には、それは、とうにこのヤン・ビアウォブウォツキを通して、この時期に、つまり「至って普通の人並みに」芽生えていたのである。

私が、ショパンとビアウォブウォツキの友情を看過してはならないと主張する最大の理由がこれなのだ。

ただし、イワシュキェフィッチの言う「私たちは恋人に熱中し始める前に、友人に熱中するもの」を一般論とするなら、ショパンの場合は、ある事情によって「友人に熱中する」期間が長引いてしまったたために、「恋人に熱中し始める」のが少し遅くなったのだと言える。その「ある事情」とは、ビアウォブウォツキの夭折である。しかしそれについては、その時が来たらもちろん詳しく説明するつもりである。今は、「生きているビアウォブウォツキ」にこそ、彼が享受するに相応しい光をきちんと当ててあげたい…。

 

 

 

今回紹介した「ビアウォブウォツキ書簡」の第3便は、ショパンがこの夏の休暇先で書いた最後の手紙である。

この中に、1825年のショパンのシャファルニャ滞在における、彼の感情の全てが凝縮されていると言っても過言ではないだろう。この年のショパンは、去年のように『シャファルニャ通信』なんておふざけをするような心境じゃなかったのである。だからこそ、家族宛にも、もう来年からはシャファルニャに行く「希望を持っていない」とまで書き、そして実際にそうなるのだ。

それでもまだ、ショパンにとってこの夏が、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカの言うように「フレデリックがシャファルニャで過ごした一八二五年の素晴らしい夏」だったなどと思えるだろうか? 病気で苦しんでいる親友を尻目に、「かのポーランド人天文学者が生まれた家を見学して大いに興奮した」などと思えるだろうか?

数多のポーランド人作家達による、「ポーランド、我が祖国」を基調としたこのような上辺の解釈こそが、彼らのメガネを常に一方方向に曇らせ、その結果、ショパンとビアウォブウォツキの友情をこうまで軽んじる事にもつながっていくのである。

 

 [2010年10月28日初稿 トモロー]


 【頁頭】 

検証4-6.そして本当の文通が始まった

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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