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検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――

Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–

 


3.1825年夏、ノンフィクション版『シャファルニャ通信』――

  3. In summer, 1825, KURYER SZAFARSKI the nonfiction version.-

 

≪♪BGM付き作品解説 ショパン:ロンド ハ短調 作品1▼≫

 

 

オピエンスキー版とシドウ版の書簡集では、前回紹介した「ビアウォブウォツキ書簡」の次に、ショパンがコヴァレヴォからワルシャワの家族へ送った「家族書簡」が掲載されている。両書簡集では、その手紙の推定年を1825年]としているからなのだが、しかしそれは内容から考えても明らかに間違いで1827年」が正しい。したがってここでは紹介しない。

        バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカの著書(原著は1995年出版)でも、その手紙は1827年」のものとして引用されている。

 

時系列上、次に紹介されるべき手紙は、この1825年の夏休みにショパンがシャファルニャからワルシャワの家族へ送った「家族書簡」である。

実はこの手紙は、発見されたのが比較的遅かったため、オピエンスキー版(1931年初版)にもシドウ版(1981年初版)にも掲載されていない。

        もしも彼らの時代にこの手紙が発見されていれば、彼らはコヴァレヴォからの「家族書簡」を1825年]と誤って推定する事もなかったのだろうか…。

 

この手紙の典拠については、イワシュキェフィッチの著書に詳しい。

 

「ショパンがクヤフィア地方で過ごした休暇からワルシャワにどんな材料を持って帰ったか、また彼の農民との接触がどんなに密接なものであったか。それについての私たちの認識は、ゴドレフスキー僧正の家庭蒐集品の中にあるフレデリックの若いころの手紙によって明瞭になり、完全なものとなる。この手紙は今までに一回だけ、たしかに一九一七年、ペテルスブルグの雑誌『国民思想』の春季号に公表され、近ごろ忘却から救い出されたものである。この手紙は今日まで、いまだどこでも印刷されていないし、また、私の知る限りでは、どんなショパン伝にも利用されていないものである。ベラ・バルトークが当時この手紙を読んでいたならば、きっと、ショパンは純粋な民衆音楽を知らなかった、サロンで初めてそれを知ったのであるなどとあえて主張することはしなかったであろう。〔注一:そうこうする中に、この手紙は刊行された。クリスティナ・コビイラニスカが『ショパン、資料による生涯と作品』の中で公表したのである。また、この手紙は、『ショパンの手紙集』全二巻のポーランド版『ショパンの文通』に採用され、一九五五年、ワルシャワの国立出版社から刊行された。第一巻五三ページ参照。〕

この手紙の文章の型は、ショパンにしては実に個性的で、熱がこもり、詳細にわたっていて、疑いもなくショパンの手紙であることを保証している。私はこの手紙を読者にお伝えしよう。この手紙の原物がどうなのかは、当分の間わからない。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社/1968年)より  

 

        ここには、「クリスティナ・コビイラニスカが『ショパン、資料による生涯と作品』の中で公表した」とあるが、このコビランスカがそれとは別に編纂した写真資料集『故国におけるショパン』1954年刊行)には、この手紙は載っておらず、やはり原物を確認する事は出来なかった。

        このイワシュキェフィッチの原著となるポーランド語版は1938年出版。

 

 

内容の検証に入る前に、まず、この手紙の日付1825826日」について考察してみたい。

 

この年のシャファルニャ訪問は、前回紹介した「ビアウォブウォツキ書簡」の第2便に書かれていた予定通りだったとすれば、81日の「月曜日にここ(ワルシャワ)を発って」3日の「水曜日にシャファルニャに到着」した事が分かっている。

とすればこの手紙は、シャファルニャ到着から3週間以上が過ぎ去ったあとに書かれている事になる。

たとえば、昨年のシャファルニャ訪問では、その第1便と思われる「家族書簡」が10日」に書かれており、内容から昨年も8月の第1週にシャファルニャに到着していたらしい事が分かる。それと考え合わせると、今年のこの「家族書簡」が第1便だったとはちょっと考えにくい(※下図参照)。

 

「18248月」と「18258月」の「家族書簡」の比較―

1824年 8月

 

1825年 8月

1

2

3

4

5

6

7

到着?

 

1

「発」

2

3

「到着」

4

5

6

8

9

10

家族書

11

12

13

14

7

8

9

10

 

11

12

13

15

 

16

17

18

19

 

20

21

14

15

 

16

17

18

19

 

20

22

 

23

24

25

26

27

28

21

22

23

24

一昨日

25

昨日

26

家族書

27

29

 

30

31

 

 

 

 

28

29

30

31

 

 

 

        昨年の「家族書簡」では「土曜日」まで話が遡っていたので、シャファルニャ到着は少なくともそれ以前だった事が分かる。

        また、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』に掲載されている「ワルシャワ通信」の資料によれば、ショパンが通っていたワルシャワ高等中学校の1824年度」の試験は723日と24日」になっているので、夏休みに入ったのがそれ以降だった事も分かっている。

今年のこの「家族書簡」では、このあとショパンは「一昨日のこと、昨日のこと、今日のこと」と言う具合に、話が「一昨日」にまでしか遡っていないので、そうなると、「到着」してから3週間分の報告が飛んでしまっている事になり、したがってこの手紙が第1便であるはずがないのだが、しかしそれにしても、イワシュキェフィッチも指摘しているように、この手紙は「熱がこもり、詳細にわたっていて」、そして何よりも異様に長い。ショパンが今までに書いた手紙の中では最長である。

去年の同じ時期には、ショパンが普通の手紙を書く事に退屈し、『シャファルニャ通信』なる戯れに興じていた事を考えると、この時期にこの長い手紙は、何か不思議な感じがする。矛盾しているようだが、まるでこの夏には、これ1通しか家族宛に書いていないかのような印象すら受けてしまう(※現に、この年の「家族書簡」は、今のところこの1通しか知られていない)。

だが、その矛盾が、ちっとも矛盾でないとしたらどうだろうか?

実は、この夏のシャファルニャ訪問には、どうも姉のルドヴィカが帯同していたのではないか?と思われるような節が見受けられるのである。

たとえば去年は父ニコラが途中からシャファルニャに合流していたが、今年は最初からルドヴィカが帯同していたのではないだろうか? それを証明する決定的な記述はないため確信は持てないのだが、しかしそうとしか考えられないような、あるいはそのように考えると辻褄の合うような、そのような奇妙な記述がいくつか見られるのは事実なのである(※それは、この夏休み中に書かれた「ビアウォブウォツキ書簡・第3便」でもそうなのである)

仮にルドヴィカが帯同していたとすれば、シャファルニャ到着からしばらくは彼女がワルシャワの家族宛に手紙を書き、ショパンはそこに簡単な追伸の挨拶でも書き込んでいればそれで済んでしまうだろう。そのうち家族やルドヴィカから、「あなたもちゃんと手紙を書きなさい」と催促され、それでようやくこの頃になって、このような長い手紙をしたためるに至ったのだと考えれば、全てが納得できるような感じがするし、実際にそうとしか考えられない奇妙な記述が出て来るのである

 

 

 

それでは、その事も念頭に置きながら、手紙の内容を見ていく事にしよう。

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #1.■

(※原文はポーランド語)

「親愛なるご両親さま

一八二五年八月二六日

僕は元気です。丸薬は飲んでいますが、でももうたくさんではありません。家のことを思い出します。今度は、愛する皆さんに会うこともなく、休暇全部をここで過ごさなければならないことはとても残念です。でも僕がいつかは一ヶ月も、いやいやもっと長く家を離れることを考えますと、今度のこの時期は次に来るものの序曲だと思います。これは精神的な序曲です。なぜかと言いますと、出発の時は音楽の序曲を歌わなければならないからです。もちろんここシャファルニアでも、僕が村から出発する時は別れの歌を鳴り響かせるでしょう。というのは、僕は去年のように〔不明〕、希望を持っていないので、そう早くは村の人たちにまた会えることもないからです。僕はこんな感傷で一ページ全部をうずめることができそうですが、でもそんな感傷は追っ払ってしまって、一昨日のこと、昨日のこと、今日のことに関係しようと思います。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

この書き出し部分における、ショパンのこの感傷的な調子はどうだろうか? 今まで、このような事をショパンが手紙に書いた事は決してなかった。

たとえば、去年1824810日」に書かれた「家族書簡」でも、それに続く一連の『シャファルニャ通信』でも、終始ショパンは陽気と言うか、とにかく無邪気に振舞っていた。そして実際、彼はそうだったのである。それでは、今年のショパンにこのような「感傷」を抱かせたものとは、一体何だったのだろうか?

その要因はいくつか挙げられるが、敢えて一言で言うなら、彼ももう、「いつまでも無邪気な子供ではない」と言う事に尽きるだろう。

本稿では、ショパンの生年月日はあくまでも180931日」が決定事項である。つまりこの年ショパンは16歳、現在の日本で言えば高校一年、多感で繊細で、しかも早熟なこの天才芸術家が思春期を迎えるには、ちょっと遅すぎるとも言えるような年頃なのである。

そして、そんな年頃の彼の周りで、この一年半の間に何が起きていたかと言えば、

1.         昨年3月には、親友のヤン・ビアウォブウォツキが母を亡くし、ショパンもまた、その悲しみを共に分かち合っていた事。

2.         今年の5月中旬以降に、そのビアウォブウォツキが足の病気にかかり、ワルシャワを離れてしまった事。

3.         同年の6月に、ショパンが自らの意志で「作品番号1」を与えた記念すべき曲《ロンド ハ短調 作品1が出版されていた事。

4.         そしてこの夏、ショパンは昨年と同様にシャファルニャを訪れていながら、去年とは違ってビアウォブウォツキの実家のあるソコウォーヴォへは行けない事…。したがって、「僕は去年のように〔不明〕、希望を持っていないので、そう早くは村の人たちにまた会えることもないからです」と言うのは、正にこの事に関係しているはずで、つまりショパンにしてみれば、ソコウォーヴォに行けないのであれば、もう今後シャファルニャに行く意味もなく、その気も起こらないと言う事だ。だからこの〔不明〕部分とは、「僕は去年のように〔不明(※来年もまたシャファルニャに来たいという)、希望を持っていないので、そう早くは村の人たちにまた会えることもないからです」と言っているのである。そして実際にそうなる。ショパンは来年の夏はもうシャファルニャへは行かず、ライネルツへ転地療養に行く事になるのだ。

それに加えて、ショパンは将来、自分が音楽家として自立すれば、当然、「家」どころかポーランドそのものからも離れなければならなくなる事。つまりその自覚が年々強くなり始めていると言う事なのである。

この手紙の書き出し部分は、そう言う意味ではあまりにも暗示的で、実際ショパンはここに書かれている通り、この5年後には、音楽家として身を立てるべく祖国を発ち、その際、恩師エルスネルの指揮する「別れの歌」に見送られる事になるのである。しかもその後訪れたウィーンでは、期待に反して思うようにいかず、正に、この手紙に書かれているのと同じような「感傷」を家族に宛てて書き綴る事になる。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #2.■

(※原文はポーランド語)

「一昨日は大事件が二つありました。それはきっと、僕のシャファルニア滞在中の一番おもしろかったことでしょう。その第一は、ルドウィカ嬢(※ルイーズ・ジェヴァノフスカ)がテクラ・ポジェフスカ嬢と、ポジェフスカ奥さんのお供をしてオボルフから元気になって帰って来たことです。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

ここで興味深いのは、今回のシャファルニャ滞在では、去年ショパンの世話焼き係として付きっ切りだったルイーズ嬢が、今まで不在だったと言う事である。

彼女は、前回紹介した「ビアウォブウォツキ書簡」の第2便の中で、

「ルイーズ嬢が決めた通り、僕達は月曜日にここを発って、水曜日にシャファルニャに到着する。君が僕に会いたいなら、真っ先に来てくれたまえ。もう一人の賢者のせいで、僕の良き保護者女性は、僕が君の所へ行くのを許してくれないのだ」

と書かれており、彼女は今年もショパンの世話焼き係として万事を取り仕切っていた訳だが、どうやらその後、シャファルニャ訪問の前後のどこかで体調を崩したらしく、「オボルフ」と言う所へ療養に行っていたと言う事である。

その彼女は昨年、『シャファルニャ通信』「検閲官」としての任務も担っていた訳だが、要するにそれは、ショパンがワルシャワの家族への報告義務である手紙の執筆をサボらないように、ショパンの尻を叩く役目でもあった訳だ。と言う事は、その彼女が今まで不在だったとなると、この夏ショパンが手紙の執筆を怠っていたと仮定した場合、その要因の一つに「検閲官」の不在があったのだとも考えられる事になるのではないだろうか。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #3.■

(※原文はポーランド語)

「その第二は、同じ日にニカ村の輪唱が行なわれたことです。ちょうどその時は、僕たちは夕飯の食卓についていて、最後のご馳走を飲み下すところでした。すると、遠くの方から、ぜんぜん間違ったディスカントコーラス(即興的多声合唱)が聞こえて来るのです。奥さん連の歌った一回目は、どの音もこの音も鼻声〔不明〕で歌い、娘さんたちの歌って(※「歌った」の誤植?)二回目以下では、大口を開け、情ないことに半音高く、金切り声をあげているのです。伴奏は、たった三本の弦のヴァイオリソが一つあるだけですが、これが、一つ一つの節の後で、アルトの音域で、目立たぬように後の方で答えるのです。僕はドムシといっしょにテーブルを立ち、この会合から去りました。僕たちは農場の方へ駆け上がって行きました。そこでは、村の衆が大群をなして、ゆったりした足どりで家の方へ近づいて来るのです。髪を花環で見事にゆわえたアグニエシュカ・グゾフスカ嬢とアグニエシュカ・トゥロフスカ=ボンキエフナ嬢(原文通り)が草刈人たちを引き連れて来ました。全部の人たちの先頭には干束を腕にかかえた二人の奥さん、つまりヤシコファ奥さんとマチコファ奥さんがいました。こんな並び方でみんなは館の前にぴたりと立ち止まり、完全な節を歌いました。どの節にも何かが付け加えられるのですが、ある節の時には、みんなは僕の方に向いて、次のような二節を歌いかけました。

〔不明〕屋敷の前は緑のしげみ

わがワルシャワ人は、犬のようにやせっぽっち

物置にはのど柱

わがワルシャワ人はとてもはしっこい

初めの中は、これが僕をあてこすったものかどうかわかりませんでしたが、後にヤシコファ奥さんがこの歌の全部を口で言って僕に書かせ、この二節になった時、奥さんは「今のは若いあなたをあてこすったのですよ」と言いました。僕は、『物置には』以下の文句が、二時間ほど前に、干束をゆわえるわらで農場の方に追いかけて行った少女から出たのだなと思い当たりました。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

このようなエピソードは、いかにも『シャファルニャ通信』の記事になりそうな話である。去年の「ピション氏」なら、この話をどう言う筆致で記事にしただろうか?

これは、前章で『シャファルニャ通信』を検証した際にも書いた事だが、ショパンがこのように歌の歌詞を引用する場合、そこには引用するにたるだけの何らかの理由があり、それが「ピション氏」特有の感性によってオリジナルな文章として表現されていたのである。

この場合は言うまでもなく、この歌詞が「僕をあてこすったもの」だったからこそ、それを説明するためにここに引用したのだ。たとえば『シャファルニャ通信831日号』における「村のカタラーニ」の場合は、その歌詞が駄洒落に聞こえたからだった。一方、これら二つの実例に比べて、『シャファルニャ通信824日号』における「収穫祭」の記事には、そう言ったものが何もなかった。あの時私がそう書いた事の意味が、これでよくお分かり頂けたのではないだろうか。だからあの号は、もしもそれが贋作ではないとするならば、あの記事を引用した著者がそれを省いてしまった可能性が高いのである。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #4.■

(※原文はポーランド語)

〔不明〕さて、みんなが歌を歌い終わると、前にお話した花環を髪に付けた二人のお嬢さんが館の主人のところへ入って来ました。その間に、二人の下男が廊下を滑るようにしてドアの後に来て、そこでお嬢さんたちを待っていました。すると、汚い水の入ったバケツを持った下男たちは二人のアグニエシュカ(先ほどのお嬢さんたち)にドスンとぶつかりました。汚い水は下男の鼻にひっかかるし、廊下は水びたしで小川ができました。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

これも、そのまま『シャファルニャ通信』のネタとして使えそうなエピソードである。

それはそうと、今年ショパンが『シャファルニャ通信』を発行しなかったのは、

1.         さすがに2年目ともなれば、見るもの触るもの、やる事なす事が全て新鮮だった去年とは違い、そうそう面白いネタも収集できなかった。

2.         ショパンは、この一年ですっかり子供っぽさが抜けつつあった。

3.         何よりも「検閲官」の不在が大きかった。

と言ったところなのではないだろうか…。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #5.■

(※原文はポーランド語)

「花環や干束はわきに片付けられました。とたんに、フリイツが早速ヴォイオリンで《ドブジイネル》(ポーランド民族舞踏曲)をかき鳴らし始めました。みんなは庭で踊ってぐるぐる回りました。月や星の輝く美しい晩でした。でも二本のろうそくを持ち出さなければなりませんでした。お百姓さんたちにもフリイツにも、もちろんブランデーが出されました。フリイツは、ほかの者だったら四弦でも成功しそうもないことを三弦でたかだかと、おもしろおかしくやってのけました。それから列を作って、いくつかの跳びはねダンス、ワルツが一曲、オベレークが一曲始まりました。僕は最初のワルツ組としてテクラ嬢と組んで踊り、何もしないで突っ立っているお百姓さん、たえずそこら辺りをせわしげに飛び回っているお百姓さんを刺激してやりました。僕はまた、ジェファノフスカ奥さんとも踊りました。後になるとみんなは地面にぶっ倒れるまで踊りまくりました。それこそ本当に『ぶっ倒れるまで』でした。というのは、最初の素足組が石につまずいて倒れると、後に続いた幾組かが倒れたからです。フリイツがコントラバスを持ち出した時は、もう十一時近くでした。このコントラバスはヴァイオリンよりももっと悪いのです。だって弦が一本しかないのですもの。僕は待っていましたとばかりに埃だらけの弓に飛びつき、このコントラバスを弾き始めました。まったくのがむしゃら弾きです。だからみんなは、二人のフリツェークが楽器を引っかき鳴らすのを―― 一人はヴァイオリンを眠そうに鳴らし、もう一人が一本弦で一音という、埃だらけの〔不明〕コントラバスを引っかき鳴らすのを見ようとして集まって来るほどでした。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

ここには、田舎の村での夜の宴の様子が生き生きと描写されている。

ここに書かれている「フリイツ」が誰なのか分からないが、そのヴァイオリンの腕前はかなりのものだったようだ。興味深いのは、もう一人の「フリツェーク」(ショパンの愛称)がコントラバスを弾いていると言う事だ。ショパンは、たとえばあらゆる楽器に堪能だったベートーヴェンらとは違い、将来「ピアノの詩人」と謳われるようになるほどピアノに固執している印象が強いだけに、そのショパンがピアノ以外の楽器を弾いている姿と言うのは、それだけで興味深く、また、何か微笑ましくさえ感じられる。

逆に言うと、もしもショパンがモーツァルトやベートーヴェンなどのように音楽家の子として生まれ、英才教育を施されていたとしたなら、おそらく「ピアノの詩人」は存在しなかったとも言い得るのではないだろうか。

ショパンが「ピアノの詩人」たり得たのは、その生まれた時代背景もさる事ながら、音楽家とは縁もゆかりもない両親に育てられたからこそだとも言える。ピアノが新しい楽器として登場して間もなく、それが金持ちの令嬢や子息のたしなみとして普及し始め、教師であるニコラがそれを自分の寄宿学校に取り入れたからこそ、その息子ショパンはピアノと出会う事ができたのであり、同時に、それ以外の楽器を強制される事もなかったのだ。

そんなショパンがピアノ以外で唯一興味を抱いた楽器はチェロだった。

彼はチェロのための作品を3曲、チェロを含む作品を入れると計4曲も書いている。

 

1.         《チェロとピアノのための序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3

2.         《マイアベーアの歌劇「悪魔のロベール」の主題に基づくピアノとチェロのための協奏的大二重奏曲》

3.         《チェロとピアノのためのソナタ ト短調 作品65

4.         それから、《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8

 

…と、これはショパンにしては極めて異例の事である。

チェロとコントラバスは、基本的に低音部を受け持つ弦楽器と言う意味では、いくつか共通点がある。たとえばヴァイオリンやヴィオラが楽器を顎に挟んで演奏するのに対して、チェロとコントラバスは楽器を床に立てて背中から抱き込むような格好になる。もちろん全く同じと言う訳ではないが、少なくともチェロが弾ければコントラバスへの対応も早いだろう。

ショパンはこの手紙の中で、「僕は待っていましたとばかりに埃だらけの弓に飛びつき」と書いているところを見ると、「まったくのがむしゃら弾き」と言う割に、名手「フリイツ」に合わせられるほどの心得があった事が分かる。おそらくショパンは、この時すでにチェロに対する関心を持っていて、我々の全くあずかり知らぬところでこの楽器を弾いていたらしい事が、ここから想像されるのである。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #6.■

(※原文はポーランド語)

「するとルドウィカ嬢(※ルイーズ嬢)が突然「出ておいで!」と叫びました。こうして僕たちは帰り、お休みなさいを言い、眠りにつくことになりました。集まった連中はみんな散り散りになって館を立ち去り、居酒屋へおしゃべりをしに行きました。この後、連中がどれ位楽しんだのか、おもしろかったのか、つまらなかったのか、別に聞いても見なかったので僕にはわかりません。この晩はとても楽しかったし、二つのことですごく満足しました。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

ショパンの「良き保護者女性」ルイーズ嬢は、「元気になって帰って来た」とたん、早速その本領を発揮して場を取り仕切っている。

あの堅物のニコラが、自分の子供を安心してジェヴァノフスキ家に預けられるのも、他でもない、彼がこのルイーズ嬢に全幅の信頼を置いているからなのである。彼女は、それが神童だろうが有名人だろうが、決してショパンをちやほやしたり甘やかしたりはしない。実は私は、個人的にこのルイーズ嬢が、日本アニメの『アルプスの少女ハイジ』におけるロッテンマイヤー女史と重なってしまうのである。何と言うか、子供目線では口うるさくて煙たい大人に見えるが、実は愛すべきキャラクターであると言うような感じに…。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #7.■

(※原文はポーランド語)

「第四弦がなかったという話、あれはどうなったのでしょう。四弦はどこから持って来るのかしら? 僕は館へ行きました。すると、そこではレオンさんとフォイテークさんが平身低頭して弦を一本お願いしていました。僕はジェフ奥さんから九本の弦をもらい、二人に上げました。二人はその中から一本を取り出しました。しかし結局は、二人は三本弦のヴァイオリンで踊らなければならない運命でした。というのは、彼らが新しいものを巻き付けると同時に、今度はE線が切れて飛んでしまったので、そこへさっきの新しいのを入れなければならなかったからです。二番目に楽しかったことは、テクラ・ボジェフスカ嬢と二度踊ったことです。これはしごく当り前のことですが、僕は彼女の恋人で婚約者だと言われました。何とかいう奴が来て、やっとこの間違いを直してくれました。そして後には、僕はもうちゃんと名を呼ばれました。というのは、僕がジェファノフスカ奥さんと初めて踊りの組になることになった時、仕立屋の小女がうやうやしく「さあ、ショッペさまの番ですよ」と言ったからです。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

ここでまた話が、さっき「フリイツ」が弾いていた「三本弦のヴァイオリン」に戻る。せっかく弦を調達してあげたのに、また別の弦が切れてしまって、結局また「三本弦のヴァイオリン」になってしまったと言うオチだ。これも、そのまま『シャファルニャ通信』のネタになりそうなエピソードである。

 

そしてもう一つのエピソードだが、この「テクラ・ボジェフスカ嬢」と言うのは、この村ではマドンナ的な存在なのだろうか? ショパンはその彼女と「二度踊ったこと」「楽しかった」と書いている。それはいいのだが、彼は、自分が「彼女の恋人で婚約者」だと言われた事に対して「しごく当り前のこと」としているのは、これはどう言う意味なのだろうか? 彼女と釣り合うような年頃の独身男性が、この時この場にショパンぐらいしかいなかったと言う事なのだろうか? それとも、ショパンにはその気はないのに、彼女の方がショパンに対して好意を寄せていて、その事が公然となっていたために、それで皆から冷やかされたと言う事なのだろうか? ちょっと分からない。

このように、ショパンの手紙には、どうにも解釈のつかない意味不明な文章がしばしば出てくる。

ちなみに、ここで引用させて頂いているイワシュキェフィッチの著書は、原著はポーランド語版なのだが、この邦訳版自体はそれのドイツ語版からの重訳である。仮にこの邦訳が原文に忠実であるなら、ショパンの「手紙の文章」と言うものが、いかに分かりにくいものであるかがよく分かるだろう。だがそれは、我々が部外者だから分かりにくいのであって、予め周辺情報が全てインプットされている当事者達には、これで十分意味が通じてしまうのである。何度も言うが、それこそが「手紙の文章」なのだ。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #8.■

(※原文はポーランド語)

「僕はマリアンナ・クロパトフィアンカお嬢さんに、今日中に手紙をやる約束をしました。このお嬢さんは有名なフェロナ・クロバトフィアンカの妹ですが、昨日カシュビーナ奥さんと、頭に来て、ほっぺをふくらませるほど、乾草熊手で大戦争をしました。幸いなことにこの戦争は大損害を引き起こしませんでした。というのは、カフビーナ奥さん(ショパンはカシュとカフの二様に書いている)が頭痛で少々苦しんでいたし、シャコ嬢(註:クロパトフィアンカのこと)が心ならずも鼻に熊手の一撃を受けて怪我をしてしまったからです。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

このような女同士の喧嘩沙汰と言うのは、やはり去年の『シャファルニャ通信』でも報告されていた。その831日」号には、「農民の娘3名による乱闘事件」の記事があり、これも「戦争」に見立てて表現されていた。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #9.■

(※原文はポーランド語)

「このシャコ嬢のスケッチを皆さんに送りますが、これは希に見る傑作ですよ。今は絵を描くのは駄目ですが、でも似ている絵はまだ残っています。この似ているのは、僕が、自分の作品の偉大さに目がくらんでしまうような画家として描いたのではないおかげです。僕は最初から、この絵は似ていないなと思っていました。ところが、ヤシがだしぬけに部屋に入って来て僕の描いた絵を眺めて、「これはクロパトフィアンカにそっくりだ!」と叫びました。このような目利きの批評や、フラネツ力奥さんや女中の確認で、僕は、この絵がまったくよく似ていることを信じない訳にはゆきませんでした。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

さて、ここに出てくる「ヤシ」が問題なのである。

この「ヤシ」なのだが、私は最初、これはてっきりビアウォブウォツキの事なのだとばかり思っていた。ところが、このあとショパンは「僕はビアウォブウォツキーにもフィブランにも会いませんでした」と書いているのだ。そうするとこれはビアウォブウォツキではない事になる。

「ヤシ」と言う愛称で思い浮かぶのは、もちろんもう一人のヤンであるヤン・マトゥシンスキである。しかしマトゥシンスキがこの時シャファルニャにいた訳がない事は分かっている。ショパンはこの夏、そのマトゥシンスキに宛ててシャファルニャからワルシャワへ手紙を書いているからだ。その手紙は次回紹介するが、しかもその手紙には、マトゥシンスキがこの夏プワーヴィと言う町へ行っていた事が書かれており、そこはワルシャワから南東へ130`に位置する。一方のシャファルニャがワルシャワから北西へ198`であるから、つまりマトゥシンスキのいたプワーヴィは、ちょうどそれとは正反対の遥か彼方にあるからだ。

それでは、この「ヤシ」は一体誰なのだろうか? これは本当にビアウォブウォツキではないのだろうか?

そこで、この「ヤシ」が誰なのか調べるために、ポーランドのショパン研究所Narodowy Instytut Fryderyka Chopinaと言うサイトに掲載されているポーランド語原文を確認したところ、この箇所はJa?と綴られていた。普段ショパンは、手紙の中ではビアウォブウォツキの事を「ヤーシア(Jasiu)」と呼んでおり、他には、JankuJalkuJa?kuJaluと書いた事がそれぞれ一度あるだけで、Ja?とだけ書いた例はない。そうすると、この綴りから判断すると、前出の「ヤシコファ(Ja?kowa奥さん」の省略である可能性も考えられようか。

いずれにせよ、少なくともこれはビアウォブウォツキではないと、そうはっきり断定しておかないと、これ以降の話がややこしくなってしまう。そのため、本稿ではそのように解釈しておきたい。

 

さて、ここでショパンは「このシャコ嬢のスケッチを皆さんに送ります」と書いているが、残念ながらその「スケッチ」は現在確認されていない。そのままずっとワルシャワのショパン家に保管されていたのだとしたら、それはもはや戦火に紛れて永遠に失われてしまっているはずである。ショパンに絵の才能があった事はいくつかの資料によって知られているが、写実的なものはもとより、むしろそれ以上に、人物の特徴を誇張した漫画的描写には特筆すべきものがある。これは、彼のユーモアのセンスを物語るものでもあり、彼自身が「モノマネ」の才能で人気を博していた事ともつながっていると言えるだろう。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #10.■

(※原文はポーランド語)

「明日の朝早く僕たちはトゥールズノへ行き、第一水曜日に戻って来る予定です。水曜の郵便馬車までにこの手紙が書き上げられるかどうか、ルドウィカ姉さんが一週間の中に僕の手紙を期待できるかどうか、すこぶる怪しいものです。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

さて、ここに出てくる「ルドウィカ姉さん」がまた問題なのである。

これは何気なく読むと、ワルシャワにいるルドヴィカが、ショパンから手紙が来るのを「期待」して待ちわびているかのようにも読めてしまう。しかしそれは彼女に限らず、家の者みんなが同じ思いのはずである。したがって、それよりもむしろ、この時シャファルニャに帯同していた彼女が、ショパンに早く手紙を「書き上げ」るよう尻を叩いていたと解釈した方が自然なのではないだろうか。それに、仮にこの手紙だけでは判断がつきかねるにしても、ショパンがこの夏の終わりに書いた「ビアウォブウォツキ書簡」にも、やはり同じようにルドヴィカの帯同を匂わせるような記述が出てくるのである。このように、ショパンがこの夏に書いた手紙には、家族の中で唯一、ルドヴィカだけが、何故か不可思議な登場の仕方でその名が2度も出てくるのである。

仮にこれが、たとえば小説のような不特定多数の第三者に読ませる目的で書かれた文章なら、当然、姉の帯同は最初にはっきりと明記されなければならないだろう。ところが、これはあくまでも家族間でやり取りされている「手紙」なのである。つまり、これを書いている方もこれを詠む方も、仮にルドヴィカが帯同していたのなら、そんな事は書くまでもない大前提として双方が分かりきっている事なのだ。これら2通の手紙におけるルドヴィカの奇妙な書かれ方は、その大前提に則っていると考えるなら、極めて自然なものに映ってくるのである。

また、前回紹介した「ビアウォブウォツキ書簡」の第2便には、

「僕の首には新しいマフラーが――たぶん君はそれが何だか分からなくて、他の名前で呼ぶに違いない――ネクタイとかね。それを買うために一体何ズローチかかったか覚えてないんだ。僕は親愛なるルドヴィカ姉さんの手を借りてそのお金を払ったよ」

と書かれていたが、これは、ショパンとルドヴィカが一緒に買い物に行ったと言う事である。これは、たとえば2人がシャファルニャ訪問に備えて、新しい服とかその他色々と買いに行っていたのだとも解釈できるのではないだろうか? つまり、ルドヴィカもシャファルニャに行くと言う前提があればこその、2人での買い物と言う事である。

ルドヴィカはショパン同様、ビアウォブウォツキの姉と文通するほど仲が良かったのだから、ショパンがシャファルニャでビアウォブウォツキと会える事を期待していたように、ルドヴィカもまたシャファルニャでコンスタンスと会える事を期待して、今回は2人で一緒に行っていた可能性は大いに考えらるのではないだろうか?

ただし、これに関しては断定できるほどの確信は持てない。しかしながら、どうも私には、その可能性が捨て切れないのである。今回のシャファルニャ訪問ではニコラが合流しなかった事といい、世話焼き係のルイーズ嬢がこれまで不在だった事といい、ひょっとすると、その埋め合わせを今年はルドヴィカが担っていたのではないか?とも考えられるからである。

 

もう一つここで注目すべきは、「水曜の郵便馬車までにこの手紙が書き上げられるかどうか」と書いている事だ。

つまり、前にも書いたが、当時の手紙と言うのはこのように馬車で運ばれており、しかも毎日それがなされていた訳ではない。特にここシャファルニャと言う田舎の村では、郵便馬車は「水曜」にしか来ないのである。だからそれを逃すと、手紙は1週間も遅れてしまう事になるのだ。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #11.■

(※原文はポーランド語)

ワルツは送りません。その代り、ゴウーブのヒュイジュさんがユゼファートさんに宛てたユダヤ語の手紙を送ります。ヒュイジュさんは、僕にユダヤ語の知識のあることを知っているので、この手紙の下書きをくれたのです。彼は、僕が以前にフォイチツキーさんに書いたものよりもずっとうまく書いていますが、あまりよくわかりません。この手紙の追伸をはっきりわかっていただくために、ナッカシォンとはオッカシォンのことだということをお伝えします。いったい『ナッカシオン』とは何のことか、しまいには辞書を引いて語源学を追究し、それすなわちオッカシオン(チャンス)であることを知るまでには、ずいぶん長い間苦労しました。どうぞ僕のこの大切な宝を守って傷つけませんように。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

ここに書かれている「ワルツ」とは、ショパンが自分で作曲したものだと思われるが、それが何であるかは現在分かっていない。ショパンが1817年に《ポロネーズ 第11番 ト短調 作品番号なし 「ヴィクトリア・スカルベク伯爵令嬢に献呈」》を出版した時も、雑誌の書評に正体不明の「舞曲」(ワルツ)について言及されていた。現在知られているショパンのワルツでは、その推定作曲年の最も古いものでも1829年で、これは他のジャンルに比べて遅い方である。このように、ショパン作品には、現在失われてしまったと思われる作品がけっこう多い。彼の場合、たとえ生前に出版されなかった作品でも、その出来が必ずしも駄作だとは限らない事が非常に多いため(それどころか、公式の出版作品に引けを取らないほど人気の高い作品も数多い)、楽譜が失われてしまっているとすれば、それは返す返す残念としか言いようがない。

 

また、これによると、ショパンは「以前に」「フォイチツキーさん」と言う人に「ユダヤ語の手紙」を書いた事があるそうだが、現在のところその「手紙」は発見されていない。この「フォイチツキー(Woicicki)」と言う人物については、去年のソコウォーヴォからの「家族書簡」にも、「ジヴニーさん、シーベルトさん、ヴォイチツキ(Woicicki)さんには僕からの敬意を」と言う風に追伸されていたから、ワルシャワでショパン家の身近にいたらしい事は分かるが、それ以上の事はちょっと分からない。

       【追記】 実は、「ヴォイチツキ」はワルシャワ高等中学校の教授であった事が、1829103日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡」に書かれていた。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #12.■

(※原文はポーランド語)

「僕はビアウォブウォツキーにもフィブランにも会いませんでした。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

この「フィブラン」と言うのは、ポーランド語原文で確認するとWybranとなっているので、これはビアウォブウォツキの継父「ヴィブラニェツキ(Wybraniecki)」の事である。

そうなのである…ショパンはワルシャワを発つ前に、ビアウォブウォツキ宛ての第2便で、「君が僕に会いたいなら、真っ先に来てくれたまえ」と書き、さらに、「僕は、君がオクニエ村へ行く時のために本を持って行こう」とまで書いておいたのに、そのビアウォブウォツキはまだシャファルニャに来てくれていなかったのである。

去年は、ショパンがシャファルニャに到着したその最初の「土曜日」には、ビアウォブウォツキはヴィブラニェツキと共にショパンに会いに来て、さらにその3日後の「火曜日」には、今度はショパンが彼に会うためにソコウォーヴォを訪れ、そこでようやくショパンは、家族に宛てて手紙を書くべくペンを取るに至っていた。そう考えると、最初に書いたように、やはり今年のショパンは、今まではルドヴィカに手紙を書かせておいて、自分はその義務を怠っていたと言う可能性が極めて高いのではないだろうか? この手紙の書き出しにおける「感傷」のその最大の原因は、「僕はビアウォブウォツキーにもフィブランにも会いませんでした」、正にそれ以外には考えられない。

ショパンは、ワルシャワを発つ前は、「もう一人の賢者のせいで」自分はソコウォーヴォへは行けないが、逆にビアウォブウォツキがシャファルニャに来る事は問題ないはずだと考えていた。しかし、いざシャファルニャに来てみたら、それすらも裏切られてしまっていたのである。ショパンがビアウォブウォツキに会いたがっているように、彼もまたショパンに会いたがっているはずである。それなのに、その彼がシャファルニャへ来られないとしたら、そこには何か大人達の事情が錯綜しているとしか考えられないだろう。ビアウォブウォツキが足の病気だからその場を離れられないなどと言う事はない。何故なら彼はこのあとも、転地療養のためにいくつかの土地を訪れているからである。つまりショパンは、「もう一人の賢者」、すなわちシャファルニャの領主ジェヴァノフスキ氏に失望したのだ。だからこそ、もう来年からはシャファルニャに行く「希望を持っていない」とまで書き、そして実際にそうなったのである。

 

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1825年8月26日) #13.■

(※原文はポーランド語)

――昨日から僕は当地でクリュイスティアー二(註:建築家の名前)です。そしてもう橋を作り始めました。ほとんど毎日車で出かけます。天気が良いので本は眠っています。モーシェルは作曲しています(イグナーツ・モーシュレスの誤記。一七九四〜一八七〇。ドイツのピアニスト、作曲家、音楽教育家)。僕は八回入浴しました。しまいにはただもう煎じ汁につかっただけです。子どもたち皆さん(ショパンは姉妹のことを『子どもたち』と言っていた)をいつも心から思っています。ママやパパにもよろしく

心から愛着している息子 F.ショパン

フォイチツキーさんにデンマーク語を二つ三つ贈ります。kobler〔不明〕―肖像画。axbildinger―描写。Kiobenhavn―コペンハーゲン。

ジフニュ…さん、バ…・ルブ…・ユ…さん、ツォルブ…さん、マトゥシュ…さん、ノベルト奥さん、レシュチニスカ嬢、その他の皆さんにもよろしく。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

この最後の部分で言及しておきたいのは、子どもたち皆さんをいつも心から思っています。ママやパパにもよろしく」という記述における、ショパンが自分の姉妹を指して使う、この「子どもたち」という表現である。

これは、去年の夏にショパンがソコウォーヴォからワルシャワの家族に送った手紙にも、同様に、「お父さん、お母さん、そして子供達に挨拶を贈ります」という風に使われていた。そしてこのあとの手紙にも、この表現は幾度となく登場する。

これは、ショパン特有の表現としてよく知られているもので、この本の註釈にもあるように、(ショパンは姉妹のことを『子どもたち』といっていた)と言う風に、たいていの書簡集でも、あるいはショパン伝でも、必ずそのように説明されているものなのである。

ただし、この説明は、厳密に言えば間違いである。

と言うのも、実はショパンがこの表現を使う時、必ず二つの絶対必要条件があるからだ。その二つの絶対必要条件とは、

1.         手紙の追伸部分の挨拶でしか使われない事。

2.         その際、必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記される事。

これには、ただの一つも例外はない。

したがって、この条件を満たしていない限りショパンが自分の姉妹を「子供達」と表現しないのであれば、(ショパンは姉妹のことを『子どもたち』といっていた)と言うだけでは明らかに説明不足だろう。それだと、ショパンが普段の会話の中ですら、あるいは「両親」のいないところですら、常日頃そのように言っている事になってしまう。しかしそうではない。あくまでも、「パパとママ」とその「子供達」だからこそ、ショパンはこのような言い方をするのであって、彼が単独で姉妹を「子供達」と言っている訳ではない。これはそう言う意味ではないのだ。

なぜショパンが姉妹を「子供達」と呼ぶかと言えば、その中には、ショパン家の3姉妹だけではなく、一緒に同居しているいとこの「スーゾン(=ズザンナ・ビエルスカ)」が含まれているからなのである。つまり、その4人の総称が「子供達」なのであり、したがって「パパとママ」とその「子供達」なのだ。だからショパンは、スーゾンがショパン家からいなくなって以降は、もうこの表現を使わなくなるのである。

 

実を言えば、ショパンのこの表現に対してこのような間違った註釈を与えたのは、他でもない、ショパンの最初の書簡集の編者であるカラソフスキーなのである。彼は自著の中で次のように書いている。

 

「フレデリックの諧謔的な本性は、しばしば手紙の宛名にあらわれている。例えば「ワルソウの教授エヌ・ショパン氏へ、ドレスデンに滞在する息子の親愛な御両親様へ」という宛名で父に送った手紙がある。また姉妹を優しい心持から「私の子供達」(mojs kochane dzicci)と呼んで、それに少々ふざけた情愛の深い言葉を附加するのであった。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より  

 

だが実際は、ショパンが自分の姉妹を私の子供達」などと表現した事は一度もない。そんな言葉が書かれた「本物の手紙」は一つもないのである。

要するに、これ以降に出版された全てのショパン関連の書物において、ショパンの手紙が引用されるようになるにつれ、その文中にこの表現が出てきた時に必ずカラソフスキーのこの説明が流用され、そしてそのまま現在に至っているのである。

 

さて、そうすると、一体それがどのような事態を引き起こす事になるのか?

 

このショパン特有の表現が、カラソフスキーのこの間違った解釈を元にして、上記の二つの絶対必要条件を一つも満たす事なく、明らかに間違った使い方をされ、そのような「贋作書簡」が生み出される事になるのである。しかも、それを贋作したのも、他でもないカラソフスキー自身と言う顛末なのだ。要するに、それがウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」なのである。

しかし、その詳細については、もちろんその手紙を紹介する時にあらためてする事になるので、ここでは、取り敢えずこの表現の何たるかをしっかりと覚えておいて欲しいのである。もちろん、このあとの手紙にもこの表現は何度も出てくるので、その度にチェックを入れる事にはなるが…。

 

 [2010年8月25日初稿 トモロー]


【頁頭】

検証4-4.本物のマトゥシンスキ書簡に垣間見える友情のニュアンス

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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